総務部の丸山さん、イケメン社長に溺愛される

有允ひろみ

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1巻

1-3

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 地下倉庫の鍵は、大本の電源と連動している。ドアの開閉は里美が持っているマスターキーで可能だが、鍵穴はドアの外側にしかついていない。
 いつもなら、倉庫で作業をするときはドアを開けっぱなしにしておくのだが、今回に限って、かけておいたはずのストッパーが外れてしまったらしい。

「や……やだ、これってかなりまずい状況だよね……」

 ドアを前に、一度大きく深呼吸をしてみた。だけど、そこから導き出された答えは「倉庫に閉じ込められた」という非情なもの――
 頭が今の状況を理解した途端、背筋を冷たい汗が伝い下りる。ドアには鍵がかかっており、社内にはもう誰もいない。マスターキーはここにあるけれど、ドアの内側にいる里美が持っていても、なんの役にも立たないのだ。

「そうだ、スマホ――」

 スマートフォンは通常、勤務時間内であれば、電源を切ってバッグのなかにしまい込んでいる。だけど、今日のように離席することが多いときは、マナーモードにした上で緊急連絡用ということで携帯しているのだ。ボタンを押し、ディスプレイを表示させた。時間は、午後九時二十五分。
 思ったよりも長く社内報に見入っていたみたいだ。

「わっ、あと五パーセントしかバッテリーがない――」

 右上にある電池マークが、赤く表示されている。電源が落ちてしまう前に、助けを呼ばなければ。ビル管理を頼んでいる会社はあるけれど、時間外対応用の番号は登録していない。田中部長にかけようとも思ったが、今夜は家族で外食すると楽しそうに話していたことを思い出した。

「警察? いや、それはさすがに……」

 できれば、大ごとにしたくない。迷った挙句、何人かの同僚に電話をかけてみた。だけど、金曜の夜だからか、誰ひとりつながらない。
 バッテリーはいよいよ残り少なくなり、あと二パーセント。画面を明るくしている今、いつ電源が切れてもおかしくない状態になってしまった。

「ど……どうしよう……」

 広い倉庫だから酸欠になることはないだろう。だけど、日の当たらない地下倉庫だからか、夜になってだいぶ室内の温度が下がってきたみたいだ。普段割とあっけらかんと過ごしている里美だけど、さすがに今は相当のストレスを感じている。いくらなんでも、このままここで朝になるのを待ちたくはない。ペンライトだって、朝までは持たないだろうし、もしかしてオバケが出ないとも限らないし――
 そんなことを考えた途端、急に暗闇が怖くなってきた。どこかから誰かに見られているような、今にも背後から肩をポンと叩かれるような――。それに、今日は金曜日だ。明日明後日あさってと休日出勤する者がなければ、里美は月曜日までここに閉じ込められたままで過ごすことになるのだ。

「おっ……落ち着いて、里美……。平気……きっと、大丈夫だから……」

 ゆっくりと息を吸い込み、一呼吸おいて吐き出す。
 とにかく冷静にならなければ――。そうは思うものの、気がつけば身体中ガタガタと震えている。
 今からでも警察に電話しようか。だけど、事情を説明しているうちにバッテリー切れになってしまうだろう。それに、結局は鍵がなければ、扉は開かないのだ。

(そうだ、社長――!)

 里美は、急いで健吾のプライベート番号を画面に表示した。もうあれこれと考えている余地はない。里美は、最後の望みをかけて健吾に電話をかけた。

『はい、もしもし?』

 予想外にすぐに応答があり、ややエコーがかかったような健吾の声が聞こえてくる。

「社長、助けてください! 私、地下倉庫に閉じ込められちゃって――」

 そこまで言ったとき、通話が切れた。とうとう、バッテリーの残量がゼロになったようだ。画面が暗くなり、いくら電源ボタンを押しても、なんの反応もない。

「あ……」

 これでスマートフォンを使っての救助依頼はできなくなった。残った光源は、ペンライトのみだ。思わずその場に座り込んだ里美は、やがて身体を近くの壁に押しつけて丸くなった。

(でてくれたのは、確かに社長だった。今のでちゃんと伝わったかな? 倉庫だって聞き取れたかな。あ、でも……)

 考えてみれば、健吾は里美の番号を知らない。あわてるあまり、名乗るのを忘れてしまった。健吾は履歴を見ても、誰がかけてきたのかわからないのだ。仮にかけ直してくれていても、もはや電話にでることはできない。

「ど……うしよ……」

 こんなときこそ、落ち着かなければ。里美は、以前受けた企業防災セミナーの内容を必死に思いだそうとした。けれど、まったく頭が働かない。
 とりあえず落ち着こうと、ゆっくりと数を数えてみる。ペンライトの消耗を減らすために、目を閉じてスイッチを切ることにした。

(大丈夫。社長は、きっと来てくれる。だって、オタスケレンジャーだもの。『必ず君をオタスケレンジャー!』って言ってくれたんだから――)

 頭のなかに、ポーズを決めた健吾の姿が思い浮かぶ。

(でも、私だってわかってなかったら?)
(大丈夫、わかってくれてるって!)
(だけど、金曜の夜だよ? 十中八九デート中だし、彼女をほっといてまで、助けにくると思う?)

 頭のなかで、楽天的な自分と悲観的な自分が舌戦を繰り広げる。
 電話ではなく、SNSを使ったほうがよかったかも――。今になって、もっと効果的な助けの求め方が思い浮かんだ。暗闇のなかで目を閉じていると、周りの空気がずっしりと重くなったように感じる。
 そんなはずはないのに、わけのわからない圧迫感まで感じ始めた。
 やけに心臓の音が大きく聞こえる。
 どのくらいそうしていただろうか。突然、閉じた目蓋まぶたの先に、オレンジ色の明るさを感じた。目を開け、天井を見上げる。

「あっ、電気がついた!」

 あわてて立ち上がろうとして、じたばたと足がもつれてしまう。それでも必死になって身を起こし、壁伝いに出口を目指す。しっかり歩きたいと思っているのに、気が焦るばかりで、足に力が入らない。
 非常階段のドアが開く音がかすかに聞こえてきて、誰かがなにか言う声が続いた。鍵を回す金属音がした後、ドアが開き、白いTシャツ姿の健吾が飛び込んでくる。

「うわっ!」

 ドアの前に立っていた里美に、健吾がぶつかりそうになった。

「丸山さん! 大丈夫か?」

 そのまま両方の腕を掴まれ、下から顔を覗き込まれる。

「まさか本当に救助要請がくるとは思わなかった。平気か? もう大丈夫だからな」
「し、しゃちょ――、ありがとうございま――っくしゅん! っくしゅん!」

 お礼を言う途中で、くしゃみが連続で二回でてしまった。背中に回ってきた健吾の腕が、里美の身体をすっぽりと包み込む。

「お礼は後でいい。寒かったんだろ? 身体、冷え切ってるぞ。どこか痛むところとかないか?」

 首を横に振ると、温かなてのひらが里美の強ばった肩をごしごしとさする。抱きしめてくる胸元から漂ってくるのは、柔らかな石鹸せっけんの香りだ。

「とにかく早くここをでよう。ぐずぐずしていたら風邪をひく」

 健吾に寄りかかるようにしてゆっくりと歩く。肩を抱かれたまま、一階の駐車場まで連れていかれる。車の前に着くと、健吾が助手席のドアを開けてくれた。シートに座らされ、すぐさま出発する。足元から流れてくる温風が、じんわりと身体を温めていく。

「無事でよかった――」

 車を走らせながら、健吾がほっとしたようにそう呟く。カーオーディオから聞こえてくる音楽が、耳に心地いい。

「寒くないか?」
「大丈夫です。あの……、社長、本当にありがとうございました。それに、申し訳ありませんでした。私ったら、ほんとどうしようもないおっちょこちょいで――くしゅん!」
「気にしなくていいよ。言ったろ? 電話してくれれば『必ず君をオタスケレンジャー!』――するって」

 運転中だからさすがにジェスチャーはなかったけれど、健吾はおどけたように声を上げて、アニメヒーローを気取る。

「本当に助かりました。いくら電源を落とされるのには慣れているからって、倉庫はきつかっ――はっくゅん!」

 信号が赤になり、交差点の前で車が停止する。

「くしゃみが止まらないな。丸山さん、自宅はどこだ?」
「みなみ駅から徒歩十分のアパートです」
「そうか。じゃあ、とりあえず俺のマンションに向かうぞ。ここからすぐだから。本格的に風邪をひいてはまずいだろう」
「い、いいえっ! そんなご迷惑をかけられません! 私なら大丈夫です。このあたりで降ろしていただければ、電車で帰れますから――」

 あたふたと乗りだした身体を、健吾の腕がそっと押しとどめる。

「なにを言ってるんだ。社長の俺が、大切な社員を中途半端に放り出せると思うか?」
「でも、社長――」
「いいからここは俺の言うことを聞いとけ。今の時間、電車は結構混んでるぞ」

 時計を見ると、午後九時五十二分だ。ということは、真っ暗な倉庫にいたのは三十分ほどだったということになる。体感的には、もっと長い時間だったような気がしていた。

(社長、すぐ来てくれたんだ……)

 運転席では、健吾がフロントガラス越しに空を見上げている。

「それに雲行きもあやしい。気温も低くなってるし、今外をうろついたら、確実に風邪をひく」

 穏やかだけど有無を言わさない健吾のもの言いに、里美はとりあえずシートに身体を戻した。

「なにより、今君をひとりにしたくない。きっと、自分が思っている以上にショックを受けているはずだ。とにかく、とりあえずぜんぶ俺に任せろ。いいな?」

 健吾は、念を押すように里美のほうに顔を向けた。

「はい」

 強引さのなかに、優しさがある。健吾の言葉に、里美は不思議な心地よさを感じた。

「あと十五分くらいで着くから、その間ちょっと寝ててもいい。ゆっくりしてろ」
「はい。ありがとうございます」

 里美は、身体をゆったりとシートに預け、目蓋まぶたを下ろした。さっきとは違って、目を閉じていても街の明かりがかすかに感じられる。暖かいし、とても快適だ。なにも考えず、ただぼんやりと座っているだけで、安全と安心をもらえる。身体中の筋肉も、徐々にほぐれていくような気がした。

「着いたぞ」

 ごく近い位置で声が聞こえた。はっとして目を開けると、健吾の身体が里美の上に覆いかぶさるように迫っている。

「えっ、えっ?」

 至近距離で目が合い、驚きのあまり全身がガチガチに固まった。カチリと音がして、シートベルトが外れる。

「よし。自分で降りられるか?」
「あ――、はいっ!」

 あわてて起き上がり、助手席のドアを開けた。もう足元もふらついていないし、寒さも感じない。

「じゃ、行こうか」

 頷いて、歩きだす健吾の後に続く。

(びっくりした……)

 健吾は、シートベルトを外してくれただけだ。それに、思い返してみれば、倉庫をでたときのほうがずっと距離が近い――というより、密着していた。
 今さらながら頬が熱くなり、胸がドキドキしてくる。地下駐車場からエレベーターに乗り込み、最上階を目指す。一階で一度ドアが開き、上品そうな初老の男性が乗り込んできた。垣間見えたロビーは、床面が大理石で、まるで高級ホテルのようなたたずまいだ。十五階で降りて、廊下の一番先まで進んでいく。

「はい、着いた。入って」

 前を歩いていた健吾が、立ちどまってドアを開ける。

「は、はいっ……」

 ここまで来て、急に落ち着かない気分になる。思えば、男性の自宅に招かれるなんて、これが初めてのことだ。
 ガラス張りのドアを通り抜けると、その先は広々としたリビングだった。

「わっ……、すごいっ……」

 里美は、思わず目を丸くして声を上げてしまう。

「適当にくつろいでて。今なにか飲み物を持ってくるから」

 健吾がキッチンに向かうと、里美は窓際に寄って、外を眺めた。
 窓の外は、ゆったりとしたバルコニーになっており、置かれている観葉植物はどれもみな手入れが行き届いている。眼下には閑静な住宅街と、その向こうに広がる都会の夜景。

(すごっ。さすが大企業の社長って感じ)

「っくしゅん!」

 大きくひとつくしゃみをしたとき、健吾がトレイを持ってやってきた。

「ほら、これを飲んで。温まるから」

 手招きされるまま足を進め、L字形のソファの、短いほうに座る。差し出されたカップを受け取ると、温かな湯気から、レモンの香りがした。
 ゆっくり、ひと口飲む。

「おいしい……」
「ジンジャー入りホットレモネードだよ。少しブランデーを垂らしてある。風邪のひきはじめにいいんだ」

 里美の斜め前に、同じカップを持った健吾が腰をかける。

「災難だったな。だけど、あんなところでいったいなにをしていたんだ?」
「社内報を捜してたんです。新しいものは割とすぐに見つかったんですけど、創立からのものがなかなか見つからなくて」
「社内報を?」
「はい。社史編纂へんさんをするのに、必要だって言われて」
「あぁ、二年後にでるやつか。で? 結局見つかったのか?」
「はい、ありました。それ、今朝社長室で見たのと同じタイプのつづらに入っていたんです。あれも会長の私物なんでしょうか?」
「ふぅん? そうかもしれないな。だけど、倉庫にあったってことは、会社のもの扱いでもいいんじゃないかな。今度祖父に聞いておくよ」
「お願いします。倉庫のなか、整理されているようで実は結構散らかっているんです。だけど、そのつづらのなかはちゃんと年代別にそろっていて、創立から一九九四年のものまでが入っていました。インタビュー記事や、当時の写真がいっぱい載ってましたよ。ついそれに見入っちゃって、あの始末です」

 健吾が、軽く笑い声を上げた。そして、その後でちょっと考えるようなしぐさをする。

「そうか、一九九四年……。その年って、祖母が亡くなった年だな」
「そうなんですか――。載っていた写真のなかに、会長の奥様のものもいくつかありました。奥様、コラムのような記事も書かれていました」

 健吾は飲み終えたカップをテーブルの上に置くと、ソファの背もたれにゆったりともたれかかった。

「祖母が亡くなったのは、俺が七歳のときだ。当時俺はもうロンドンに住んでいたけど、祖母は祖父の出張に合わせたりして、遊びに来てくれたよ。祖父と祖母は、ものすごく仲がよくてね。小さかったけど、そのことはよく憶えてる。たぶん祖父は、祖母の写真や書いた記事が載った社内報を大切に思って、別に保管していたんだろうな」
「そうですか。だとしたら、尚更大切に扱わないといけませんね。あれだけ捜して他にないってことは、保管してある社内報はあれだけってことでしょうから」

 今でこそ国内最大級のアパレル企業である「ブラン・ヴェリテ」だが、設立当初は何度も倒産の危機を迎えていた。

「祖父にとって、祖母は妻であると同時に、ともに苦難を乗り越えてきた戦友でもあるんだ」

 そう言うと、健吾は感慨深そうに頷いた。

「会社経営の厳しさは、俺も祖父や父から嫌というほど聞かされてきたよ。――俺が五歳のとき、父がロンドンの支社長になって、家族そろってイギリスに行ったんだ。そして帰国すると同時に、父は副社長に就任した。その二年後には社長になって、祖父は会長職に退しりぞいた。そのときも、ちょうど会社は傾きかけていてね」
「そうなんですか?」
「対外的には体裁を整えていたけれど、内情は火の車ってやつだったそうだ。父は立て直しに必死になり、結果会社は再建して、今まで以上に成長した。だけど、そうするなか、父は祖父と対立し、そのうえ夫婦仲まで悪くなった。両親は、俺が十六のときに離婚して、母はその後イタリアに行って再婚した」

 さらりと言ってのける割には、内容がかなり重い話だ。


 創業当初の「ブラン・ヴェリテ」は、主に綿素材を使った、素材重視のホームウェアを中心に展開していた。生地と製造過程にこだわりがある分、価格はやや高めではあったが、それなりに固定客がついていた。しかし、景気や流行のせいもあってか、その後経営状態が悪くなってしまう。そんな創業以来最大の危機を回避できたのは、正一が打ち出した大胆な社内改革のおかげだった。彼は、それまで主力ブランドだったホームウェアを切り捨て、時代に沿った斬新ざんしんかつ売れるものを作り出すことに全精力を注いだのだ。
 その改革は、幸太郎と正一の間に修復不可能な深い溝を生んだ。だが、結果的に正一の改革は大成功を収め、「ブラン・ヴェリテ」は企業として飛躍的に成長し、今に至る。


 健吾は、その後もぽつぽつと自分と両親との関係について話し続けた。それによると、夫婦仲が悪くなったころから、健吾自身も両親とあまり口をきかなくなったようだ。幸太郎は、そんな健吾をよく自宅に招き、夏休みなどはふたりで旅行にでかけたりしていたという。

「両親に関しては、どっちか片方が悪いってわけでもない。父は仕事人間だったし、母はそんな父に我慢できなかった。どんどんすれ違っていった結果、お互い他に目がいくようになったりしてね」
「……いろいろと、たいへんだったんですね」
「まぁ、ぜんぶ過ぎた話だ。――っと、これは、オフレコで頼む。社史には載せないでくれよ」

 健吾は、軽く笑って唇の前に人差し指を立てた。

「はいっ、もちろんです! 私、口は固いですから」
「結構。さてと……もう寒くないか?」

 気遣わしそうな健吾の声が、里美の耳に心地よく響く。

「はい、おかげさまで、もう平気です。それに、すっかり気持ちも落ち着きました。社長が、いろいろとお話を聞かせてくださったおかげです」
「そうか、よかった。やっぱりこういうときは、ひとりより、ふたりでいるほうがいいだろ? 気がついてなかっただろうけど、倉庫をでたときの丸山さんの顔、真っ青だったからな」

 立ち上がった健吾は、里美のためにレモネードのお代わりを持ってきてくれた。

「そういえば社内報で、小さいころの社長の写真を見つけました。赤ちゃんのときや、ロンドン時代のものとか。すっごく可愛かったですよ」
「そんなのまであったのか」
「ご覧になったこと、なかったですか?」
「ない。今度、俺も倉庫に行ってみようかな」
「是非。でも、うっかり夢中になりすぎて――って、社長は私みたいなヘマはしませんよね」

 二杯目のレモネードを飲みながら、そのまま話し続ける。ふと気づけば、もう電車が終わりそうな時間になっていた。

「私、そろそろ帰りますね。社長、先ほどは、助けていただいて本当にありがとうございました」

 ソファから立ち上がろうとして、一瞬身体がふらつく。咄嗟とっさに伸びてきた腕に助けられ、またソファの上に腰を下ろした。

「す、すみません」
「ふらついてるじゃないか。熱がでてきたんじゃないのか? 今夜はここに泊まったほうがいいな」
「は……っ? いえっ――、熱なんかありません。今のはちょっとバランスを崩しただけです」
「そうか? だけど、明日は休みだし、ゆっくりできるだろう? 着替えは大丈夫だ。いくつかうちの商品のサンプル品が置いてあるし、必要ならクリーニングも頼める」
「あ、でもっ……。それはさすがに――」

 いくら会社の社長と存在感のない総務部員という、真逆なふたりとはいえ、一応は大人の男女なわけで――

「なんで? 明日朝一で用事でもあるのか?」
「いいえ、別になにもありませんけど――」
「だったら、なにも問題ないな」
「も、問題ないって――」

 まさかのお泊まりの誘いに、里美はしどろもどろになってしまう。一方の健吾は「泊まるべきだ」と一貫して主張する。

「君は、明らかに風邪をひきかけている。そんな君を、こんな遅い時間に帰すわけにはいかない。いいから、泊まっていけ。大丈夫だ。――俺を誰だと思ってる? 君が勤務する会社の最高責任者にして、君の『オタスケレンジャー』だぞ」
「……は、はぁ――」

 泊まることが当然だと言わんばかりの健吾の態度に、里美は、もしかして自分が自意識過剰なのかと心配になってしまった。

「そ、そういえば社長、デート中じゃなかったんですか?」
「いや、電話を受けたときは、帰宅してシャワーを浴びてたところだ」

 あぁ、だからエコーがかかったような声だったのか。

「だけど、いくら社員でも女性を泊めるなんて、彼女さんに叱られちゃいますよ」
「そんなことを心配してたのか? 大丈夫だ。彼女なんかいないから、安心して泊まるといい」
「……え、まぁ……」
「ほら――はぁ、だの、まぁ、だの言ってる間に、終電終わっちゃったぞ。雨も降ってきたし、この辺はタクシーも通らない」

 里美がどれだけ粘っても、健吾は一歩も引かない。せっかく泊まるように言ってくれているのに、これ以上辞退するのも、なんだか失礼な気もしてきた。

(そもそも、私がここに泊まったからって、社長にとっては別にどうってことないんだろうし――)

 彼にとって、里美は女性の内に入らないのかもしれない。それに、健吾がせっかく里美の体調を気にしてくれているなら、その気持ちはありがたく受けるべきだとも思う。
 結局彼に説き伏せられる形で、里美はこのまま健吾宅に泊まることになった。

(それにしても、着替えの準備までしてるとか、どんだけ用意ようい周到しゅうとうなの――)

 きっと、いつ女性が泊まりに来てもいいようにとの配慮なのだろう。だいたい健吾ほどの男性が、毎週末をひとりで過ごしているとは思えない。彼女ではなくても、彼女候補ならいくらでもいるのではないか。そんな女性たちのなかで、里美は明らかにイレギュラーな宿泊客だ。

「そうと決まれば、もっと遠慮なくくつろいでくれ。そうだ、お腹減ったろ? 今なにか持ってきてやるから待ってろ」

 ソファから立ち上がった健吾は、大股で部屋をでていく。なんだか、口調がどんどんフランクになっているような気がする。

(もしかして、社長なりにいろいろと気を使ってくれてるのかな?)

 そうであれば、うじうじと遠慮なんかしていないで、さっくりとお言葉に甘えてしまおう。
 ものの十分と経たないうちに、健吾はちょっとした軽食が載った大皿を持って戻ってきた。くるくると巻かれたパスタに、グリーンサラダ。生ハムとカラフルな野菜のテリーヌ。

「わぁ、おいしそう! これ、ぜんぶ社長が作ったんですか?」
「ああ、ぜんぶ作り置きの残りものだけどな。ロンドンに赴任中は結構自炊してたから、だいたいのものは作れる」

 差し出されたワイングラスからは、フルーティな香りが立っている。グラス自体もとてもおしゃれだ。
 食べて、飲んで、他愛ないおしゃべりをする。気配は薄いが、里美はもともと話好きだ。水を向けられれば、いくらでもしゃべる。しかも健吾の話は、どれをとっても興味深い。

(あれっ? なんだか私、くつろいじゃってる……)

 ふと壁にかかっている時計を見ると、もう午前一時をさしていた。生まれてこの方、こんな風に男性とふたりきりでお酒を飲んだことなどない。不思議な感じを抱きながら、改めて部屋のなかを見回してみる。

「このお部屋、素敵ですね。天井も窓も高くて、置いてあるインテリアはぜんぶおしゃれだし。それに、すごく片付いていますね」
「そうか? うん――天井が高いのは気に入ってる。インテリアは、デザイナーの友人に選んでもらったんだ。片付いて見えるのも、友だちのおかげだ。ごちゃごちゃしているものは、ぜんぶ壁に見える扉の向こうに隠れてるよ」

 よく見ると、リビング左手は全面収納型の壁になっている。

「すごい。いいですねぇ。これなら、いろんなものがすっきり隠れちゃいますね」
「そうだな。人ひとりくらい隠れててもわからないかもな」
「えっ!?」
「冗談。誰もいないよ。今夜の俺は、丸山さんの貸し切りだから」

 さらりとそんなことを言われて、悪い気はしなかった。二十五年、頑張って生きてきたのだから、たまにはこんなイケメンとふたりきりで話す機会があってもいいような気がしてくる。むろん、もし仮に健吾に恋人がいたなら話は別だ。そう考えると、健吾が彼女なしであることが、なんだかありがたく思えてくる。

「あの、社長。改めてお礼を言わせてください」

 里美は、ぴょこりと腰を浮かせると、健吾のほうに向き直った。

「今日は、わざわざ助けに来てくださってありがとうございました。社長が来てくださらなかったら、私、今もまだ倉庫のなかで震えていました。それに、ここに連れてきてもらってよかったです。やはり、こういうときはひとりよりもふたりでいたほうがいいみたいです」

 里美は、倉庫のなかで過ごしているとき、自分がいかに心細かったかを話した。誰とも連絡がとれなかったこと、スマートフォンのバッテリーがピンチだったこと、ペンライトを消してじっとしていたとき、暗闇の圧迫感に押しつぶされそうになっていたこと――
 話しているうちに、いつのまにか肩が小刻みに震えていたみたいだ。健吾が、おもむろに立ち上がって、里美のすぐそばに腰を下ろした。

「あれほど冷静に対処できたんだから、たいしたものだ――」

 健吾が里美の顔を見て微笑む。

「いいえ、私、結構パニクってたんです。だって、金曜日の夜だったし、土日誰も出社してこなければ、月曜の朝まで出られないってことですよね。まるまる二日間飲まず食わずだと、人ってどうなるんでしょうね。周りは真っ暗だし、もしかして精神的に参っちゃって、助け出されたときには、すっかり白髪頭のおばあちゃんになってたりとか――」
「もういいよ――。大丈夫、もう大丈夫だから」

 急にガタガタと震えだした身体を、健吾の腕が抱きしめてくる。背中をゆっくりとさすられ、もう片方の手で頭を撫でられた。


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