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1巻

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 言ってしまってから、ハッとして口をつぐむ。普段冷凍うどんなど食べないようなエリートに向かって、スーパーのおつまみコーナーの話をしてしまうとは……
 風花は自分の庶民的すぎる発言を後悔しつつ、どんぶりの中身だけに視線を置いて一心にうどんを食べ進めた。

美味うまかった……。こんなに美味おいしいうどんは、はじめて食べたよ」

 先に食べ終えた男性が、はしを置いて満足そうな声を上げる。

大袈裟おおげさね。普段から外食してるなら、美味おいしいうどん屋さんだって知ってるでしょ」
「確かに知ってるが、これは別物というか別格だ」

 そう言う男性の顔は、間違いなく名店の味を知り尽くしているように見える。けれど、今食べているうどんを本気で「美味うまい」と言ってくれているのが伝わってきた。

「これは、癖になる味だ。中毒性があるというか、とにかく美味おいしかったよ」

「ごちそうさま」と言って手を合わせるしぐさが、とても美しい。
 育ちのよさが表れているというか、生まれながらに持っている品のようなものを感じた。圧倒的なオーラがあり、油断していると彼の一挙手一投足に視線を奪われて目が離せなくなってしまう。
 風花に言わせれば、癖になる中毒性があるのは彼のほうだ。
 風花が心底感心していると、男性が食べ終えたどんぶりをトレイに載せて立ち上がった。

「あ。私が運ぶよ」
「いや、作ってもらったんだから、これくらいはやらせてくれ」

 腰を浮かせる風花を笑顔で押し留めると、男性がトレイを持ってキッチンに歩いていく。
 風花はソファに腰を下ろすと、背を向ける彼のうしろ姿に視線を置く。
 改めて見ると、スウェットは上下とも寸法が足りておらず、すそはふくらはぎの途中までしかない。
 それなのに、妙に着こなしている感があり、なんなら似合っていると言ってもいいくらいだ。さすがにひいき目が過ぎると思うものの、そう思ってしまうのだから仕方がない。
 流し台の前に立つ男性は、背が高く腰を曲げるようにして洗い物をしている。きっと慣れていないのだろう。どんぶりを洗うだけなのに今ひとつ手際が悪く、見ているだけでハラハラしてしまう。
 しかし、一生懸命丁寧にやろうとしてくれているのはわかるし、その様子がなんだか微笑ましくて、いつの間にかまた男性に見入ってしまっていた。
 思えば、彼氏でもない男性と夜をともにするのは、はじめてだ。もっとソワソワしてもいいはずなのに、なぜか彼がここにいてくれるだけで安心する。勘違いで唇を奪われそうになったけれど、セクハラ社長を撃退してくれた功績に比べたら騒ぐような事でもなかったかもしれない。
 男性を眺めながらつらつらと考え事をしていると、立て続けに欠伸あくびが出た。まだ彼を寝かせる場所を決めていないし、準備もできていない。
 皿を洗い終えてこちらに戻ってきたら、その相談をしなければ――
 そう思いながら待ち構えているのに、男性はなかなか帰ってこない。何度目かの欠伸あくびが出たあと、ふいに目蓋まぶたが重くなる。うっかりうとうとしてしまいハッとして目を開けると、いつの間にか男性の顔が目の前に迫っていた。

「わっ……びっくりした!」
「だいぶ疲れているみたいだな。もう寝たらどうだ?」
「わ、私はいいから、あなたこそ寝てちょうだい。ほら、あそこのベッドを使って。外国製だから割とゆとりがあるし」

 それは都内のアウトレットショップで買ったもので、横幅が百三十五センチある。
 風花が窓際に置かれたベッドを示すと、男性が緩く首を横に振った。

「それはできない」
「どうして? あ、お風呂? シャワーだけならすぐにでも貸せるけど――」
「そうじゃなくて、ベッドは君が使うべきだ。遅くまで仕事をして、その上なんだかんだあって疲れてるだろうし」
「私なら大丈夫。たまにラグの上で寝ちゃう事もあるし、ここで平気だから。寒空の下で遭難しかけてたんだし、今夜はあったかくして寝なきゃダメよ。それに、まだちょっとやる事があるから、遠慮せずに寝てちょうだい」

 話しているうちに、だんだん表情が強張こわばり目が泳ぎ始めた。
 距離が近すぎる!
 風花は、それとなく横にズレて男性から離れた。

「ああ、もしかして寝ている間に俺に襲われるかもしれないって思ってるのか? それなら心配いらないよ――と言っても、信じてもらえないかな」

 そう言って、男性が意味ありげに風花の口元を見た。その視線を感じて、唇に緊張が走る。
 勘違いした上に、自意識過剰な女だと思われたくない!
 風花は、あわてて口元に笑みを浮かべた。

「お、襲われるとか、ぜんぜん心配してないわよ。あの時は状況的に誤解されても仕方がない感じだったし、もういろいろと話したりして、あなたが信用できる人だってわかったから」
「そうか。だが、さすがにベッドを使うのは彼氏に悪いだろう? もし下の階を使わせてもらえるなら、俺はそこでもまったく構わないし――」
「その点なら心配いらないわ。私、彼氏いないもの」
「でも、好きな人はいるんじゃないのか?」
「残念ながら、そういう人もいないわ。というか、いろいろあってもう恋愛はいいかなって思ってるから」
「それはまた、どうして?」

 話の流れで、風花はこれまでの恋愛についてポツポツと話し始める。
 風花が過去付き合った男性は、三人いた。一人は同じ大学の先輩だったが、彼の事を好きになった友達に略奪されて破局。社会人になってからできた彼氏は、向こうから付き合おうと言ってきたのに別の女性から告白された結果、風花を捨ててその人を選んだ。残りの一人も同じ感じだった。
 そのほかにも、ちょっといい感じになっていたところに横槍を入れられて恋愛に至らなかった事は何度もあった。
 友達から『結構モテるね』などと言われた事もあったが、決してそうではない。
 二番目の元カレいわく、『手頃な感じだったし、申し込めば受け入れてくれそうだったから声を掛けた』らしい。今となっては、ほかの人達もそうだったのではないかと思っている。

「私って、いつもそう。ほかの女性と比べられて、結局は選ばれずに捨てられるの。友達からは『どうしてそこで粘らないの』とか『黙って引き下がるなんて、お人しすぎる』って言われたけど、選ばれなかった時点で、もう私から気持ちが離れてるって事でしょ?」

 風花がたずねると、男性は少しの間考え込み、ゆっくりと頷きながら風花に同意する。

「そうだな」
「だったら何をしても無理よね。さっさと別れたほうが、お互いのためだし、これ以上嫌な思いをせずに済む……そんなふうに考えて、いつも別れを受け入れてきたの」
「もしかして、彼の事をそれほど好きじゃなかったとか?」
「いいえ。ちゃんと好きだったし、浮気されたりフラれたりした時は、心底悲しかった。だけど、向こうが本当に想い合っているなら、私は引き下がるしかないじゃない」

 ひととおり過去の恋愛話をし終えて、男性のほうを振り返る。彼はじっと風花の話を聞いてくれていた様子で、何も言わずただ頷いてくれた。

「もちろん、寂しくないと言えば嘘になるし、いつか心から愛し合える人に出会って結ばれたいって思ってる。でも、今の経営状態じゃデートやプレゼントにかける費用の余裕なんかないし、恋愛にかまけてる時間もないんだけど」

 風花が自虐的じぎゃくてきに笑うと、男性が眉尻を下げて顔をじっと見つめてくる。やけに神妙な表情を向けられて、たじろいでしまう。

「やれやれ……君って人は、このに及んでもデートやプレゼントの費用の事を気にするんだな」
「だって、付き合うならそれなりにお金がかかるでしょ」
「その様子じゃ男に出させようとか、適当に付き合っていろいろと買ってもらおうとかっていう発想はないんだろうな。それ以前に、金づるになりそうな男を狙うなんて考えも持ち合わせてなさそうだ」
「当たり前でしょ。恋愛はお互いに想い合って信頼し合ってこそのものだもの。あなたはそう思わないの?」

 風花がたずねると、男性は呆れたような表情を浮かべながら首を横に振った。

「まったく思わないね。君が言うのは理想論であって、現実はそんなに甘くない。恋愛なんて所詮しょせん欲と打算だ。奪い奪われ互いに消耗し合うだけで、本当の愛なんて絵空事にすぎない」
「え、絵空事……」
「少なくとも、俺はそう思っている」

 自分の恋愛観をきっぱりと否定され、夢も希望もない事を言われた。
 考え方は人それぞれだし、彼が言う事を否定するつもりはない。だが、恋愛を絵空事だと断じてしまうのは、あまりにも寂しく夢がなさすぎるではないか。

「確かに、そういう恋愛もあるかもしれない。相手があっての話だし、こっちが愛してても向こうがそうじゃなきゃ成立しないわよね。でも、すべての恋愛がそうとは限らないんじゃないかしら。うちの両親って、ものすごく仲がよかったの。祖父母達もそう」

 両親の事はほとんど覚えていない風花だが、二人がいつも微笑み合っていた事だけはよく覚えている。田舎いなかの祖父母とは今は離れてしまっているが、電話をして話すたびに夫婦が心から想い合っている事が伝わってきた。

「二人は未だに手を繋いで散歩してるのよ。毎日がすごく幸せそうで、私も将来は祖父母みたいになれたらいいなって思うの。今のところそんな未来はまったく見えてこないけど、そう願う気持ちは捨てたくなくって」

 風花がそう言うと、男性は小さく鼻で笑うようなしぐさをする。

「君は、つくづく幸せな人だな」

 呟くようにそう言った男性の顔に、ふと影が差したように見えた。
 もしかして、過去に恋愛で辛い思いをしたのかも……
 人にはそれぞれ過去があるし、安易に立ち入るのはよくない。
 風花はそう考えて、この話はもう終わらせる事にした。

「って事で、ベッドは遠慮なく使ってくれていいわ」
「……そうか。じゃあ、遠慮なく使わせてもらうよ。だが、せっかくゆとりがあるんだし、襲われる心配もしていないなら、一緒に寝てもいいんじゃないか?」
「え? で、でもそれじゃ、ゆっくり寝られないでしょ?」

 まさかの提案をされて、声が上ずってしまった。それを誤魔化すように、口元にぎこちない笑みを浮かべる。

「俺は平気だ。それに、家主を差し置いてベッドを独り占めするのは気が引ける」
「そんなの、気にする事ないのに」
「いや、気にするよ。それに、まだちょっとやる事があるって言ってただろう? 君がまだ起きてるのに、俺だけ寝るわけにはいかない」

 男性は、そう言い張ってがんとして譲らなかった。これ以上押し問答をしていてもらちが明かなそうだ。風花は困り果て、結局彼の提案を受け入れる事にする。

「わかった、一緒にベッドを使いましょう。あと、やろうと思ってた事は明日にする。それでいい?」

 風花がベッドを指すと、男性が納得した顔で頷く。

「じゃあ、あなたは右側。少し開けて私は左側に寝るわ。って事で、私は先に寝るわね。よかったらシャワーを使って。バスタオルとか、脱衣所にあるのを適当に使ってくれて構わないから」

 いろいろと想定外で、自然と早口になる。そんな風花をよそに、男性は納得した様子で、おもむろに立ち上がった。

「ありがとう。それじゃあ、そうさせてもらうよ」

 男性がゆうゆうとバスルームに向かって歩いていく。
 彼がドアの向こうに消えてすぐに、風花は声のない叫び声を上げて自分の胸元を掻きむしった。

(私ったら、なんで了承しちゃったのよ。名前も知らない男性と同じベッドで眠るなんて、さすがにあり得ないでしょ~!)

 ソファ前にはラグが敷いてあるし、ほかにも寝るスペースはたくさんある。それなのに、いったいなぜ、彼の提案を受け入れてしまったのか――
 今からでも、前言撤回すべきだ。そう思い、バスルームに行こうとしたが、男性はすでに洗面台の前でスウェットの上下を脱いでいるはずだ。
 彼が出てくるのを待って、やっぱり別々に寝ようと提案する?
 けれど、今更前言撤回するなんて、いかにも男慣れしてなさそうで言うのはなんとなくためらわれた。

(ああもう、どうしよう……! 私、テンパってるよね。そうでなきゃ、この状況でシャワーを勧めたりひとつのベッドをシェアしようなんて思うわけないもの)

 短時間の間に、いろいろな事が起こりすぎて、きっと脳のキャパシティーを超えてしまったのだ。そのせいで、まともに考えられなくなり、相手の要望を受け入れてしまったに違いない。
 この、お人し!
 バスルームから、お湯が流れる音が聞こえてくる。
 それを耳にした途端、シャツから垣間見えた男性の見事な腹筋が頭の中に思い浮かんだ。
 大急ぎでそれを掻き消すと、風花はクローゼットの奥からブランケットを出し、丸いクッションと一緒にベッドの右端に置いた。
 それからすぐに上掛けをめくり、あたふたとベッドの左側にもぐり込む。部屋の天井てんじょうは高く、目の前のカーテンの隙間から外の景色が見える。小降りになっていた雪は、いつの間にかやんでいた。
 ベッドに横になっているうちに、徐々に気持ちが落ち着いてきた。今夜はもうこれ以上の事が起こるはずはないし、男性もそう思っているからこそベッドを共有しようと言ったのだろう。それに、もしかしたら彼にとっては添い寝なんて日常茶飯事なのかもしれない。
 そう考えると、ふいに気が楽になり、自分一人が余計な気を回しすぎているように思えてくる。

(なぁんだ、そうか……)

 ベッドの中の温もりが、再び眠気を誘ってきた。
 明日の朝は、トーストとオムレツのほかにサラダとヨーグルトをつけよう――
 そんな事を考えているうちに、風花はいつの間にかスヤスヤと寝息を立てていた。


     ◇ ◇ ◇


 雪が降りしきる一月の深夜に、加賀谷仁かがやじんは見知らぬ公園の前で行き倒れ、まったく面識のない若い女性に拾われて命を助けられた。気温は零度に近かっただろうし、あのまま放置されていたら確実に命の危険にさらされていただろう。
 救ってくれたのは「野元風花」という名のインテリアコーディネーターで、仁はつい今しがた彼女の家から帰宅したばかりだ。
 手にした彼女の名刺は、帰り際に一階の事務所を一回りした時に見つけて持ち帰った。

(見ず知らずの男を助けて介抱するなんて、よっぽどのお人しなんだろうな)

 それは、彼女の話を聞いていてはっきりとわかったし、そのせいで仕事ばかりか恋愛面でも報われず貧乏くじばかり引いているらしい。
 話を聞いているだけでも心配になるレベルだったし、あんな状態で生活は大丈夫なのだろうかと心配になった。

(いや、ぜったいに大丈夫じゃないだろう)

 現に、たった数時間の間に行き倒れの男に遭遇し、自宅にストーカーまがいの男が押しかけてきたのだ。入り口ドアの施錠せじょうを忘れたのはともかく、あんなセクハラ社長につきまとわれるなんて、日常的に隙がありすぎるのではないだろうか?
 お人しは自覚しているようだが、あれはさすがに度を越している。自覚していても同じ事を繰り返していては、わかっていないのと同じだ。それで自分の首を絞め続けているのだから、どうしようもない。
 今回は難を逃れたが、もしかすると以前にも危ない目に遭っているかもしれない。それに、いつまた下半身に脳味噌があるような男に過剰な興味を持たれないとも限らない。
 そう考えると、やけにソワソワしていても立ってもいられない気分になる。今まで女性に対してこんな感情を持った事はなかったのに、帰宅してなお彼女の事が気になって仕方がなかった。
 話す話題も興味深く、くるくると変わる表情を見ているだけでも面白い。
 もしかすると彼女は、仁が知っているどの女性とも違う希少種なのかもしれなかった。

(何より俺からのキスをこばむとは、それだけでもレア中のレアだ)

 生まれ持った容姿は、昔から仁が好むと好まざるに関係なく女性を引きつける傾向にあった。
 やたらと好意を持たれ、びを売られた上に意図的に接触してきて、望んでもいないのに身体を提供しようとする。そういう女性は漏れなくこちらの外見とスペックを目当てにしており、隙あらば恋人や妻の座を狙おうとするのだ。

(女性なんて信用ならない。信じてもバカを見るだけだ)

 仁の実家は代々続く名家で、一族には政治家や会社社長が大勢いる。
 仁自身も「加賀谷コーポレーション」という高額不動産売買及びコンサルティング会社をおこし、経営者として成功を収めていた。個人の総資産額は数千億円を超えており、世界各国に別荘を所有している。公私にかかわらず、国をまたいで移動する時は基本的に自家用ジェット機を使う。
 住まいは気分によって頻繁ひんぱんに変えており、現在は都心の文化施設が集中する地区に所有していた土地に家を建てて住んでいる。正直、もう一生遊んで暮らせるほど稼いでいた。
 しかし、隠居するにはまだ若すぎるし、放蕩ほうとう生活にも興味がない。
 かといって家庭を持って落ち着く気にもなれないし、そもそも結婚したいと思うような女性に出会った試しがなかった。
 だいたい、結婚なんてものには嫌悪しか感じない。そう思うのは、自分の両親を見て育ったせいだ。父母はそれぞれ会社を経営しているが、とうの昔に離婚して今は双方とも海外で暮らしており、もう十数年会っていない。
 二人とも仁が子供の頃から愛人が複数おり、子供の目を気にする事もなく、好き勝手に生きていた。そんな両親が家庭をかえりみるはずもなく、我が子の養育もナニーと専門の家庭教師に任せきり。幸いにも両親が選んだ彼等はすこぶる優秀で、仁を一人前の人間に育て上げてくれた。
 しかし、所詮しょせん彼等にとって仁の養育は仕事であり、優しく熱心ではあったけれど常に一定の距離があって、心の底から慣れ親しんだ記憶は欠片かけらもない。
 愛情など見返りがあってのものだし、恋愛に至っては打算と駆け引きに終始して互いに消耗するだけだ。
 実際にそうだったし、だからこそもう何年も必要以上に女性と関わらない生活を送ってきた。
 そのおかげで余計な事に頭を使わずに済んでいるし、暮らしは快適そのもの。その代わりというわけではないが、プライベートでは面白い事ひとつ起きない。
 日々億単位の仕事をこなし、ビジネスでヒリヒリするような高揚感を味わえても、私生活は常にフラットで感情が揺れ動くような時間は皆無かいむだ。
 そんな毎日を送る中、ずいぶんと興味深い女性に会った。

「野元風花、か……」

 とびきりの美人ではないが、表情豊かでちょこまかとよく動く。

『あり得ないわよ!』
『ほんっと失礼しちゃう!』
『言っとくけど、拾い食いするほどえてないから!』

 思えば、あんなふうに面と向かって人に怒られたのは、いつぶりだろう。
 あれは実に新鮮で面白かったし、なんならもっと怒らせてみたいと思ったくらいだ。

『恋愛はお互いに想い合って信頼し合ってこそのものだもの。あなたはそう思わないの?』

 いい大人が、そんな幼稚な事を本気で信じているのか、はなはだ疑問だ。けれど、そう言った時の彼女は、そうあるべきだと心から思っているように見えた。カマトトぶっているわけでもなさそうだし、そうだとすれば彼女は天然記念物並みの理想主義者だ。

(少なくとも、俺の周りにはいないタイプだな)

 昨夜、シャワーを浴びて部屋に戻ると、風花はすでにベッドの端で横向きになって寝ていた。
 平静をよそおっていたが、彼女は明らかに男慣れしておらず、ベッドで一緒に寝ようと言ってみたら、精一杯平気なふりをしていたが、赤くなって視線を泳がせていた。
 昨夜は遅くまで仕事をしていたようだし、よほど疲れていたのだろう。そんな中でも、ほとんど壁にくっつくようにして、右側のスペースを大きくけてくれていた。

「あんなに隅っこで寝るなんて、どこまで人がいいんだか……」

 起こさないよう注意しながら身体を引き寄せると、むにゃむにゃと言いながら右方向に寝返りを打った。
 せっかくなので、彼女の寝顔をじっくりと観察し、そのまま三時間ほど添い寝させてもらった。
 風花の顔は、各パーツが程よく整っている。アーチ形の眉は彼女の人のさを表しており、うっすらと開いたままの唇はつい触れたくなってしまうほど柔らかそうに見えた。
 ベッドで一緒に寝ようと言ったのは、半分は冗談だったが、本来仁は女性に対してそういう事を言う人間ではない。
 そんな自分が、どうしてあんな軽口を叩いてしまったのか……
 我ながら理解不能だ。そもそも自分から異性と同じベッドで寝ようとするなんて、驚かざるを得ない。物心ついた時から寝る時はいつも一人だったし、過去一度たりとも女性がいるベッドで朝を迎えた事はなかった。
 別にポリシーがあって無理にそうしているわけではなく、誰かがそばにいると眠れないからだ。それなのに、風花の寝顔を見ているうちに自然と眠くなり、気がつけば朝を迎えていた。
 目が覚めても彼女はまだぐっすりと寝ており、それから一時間彼女の寝顔を見続けたあと、タクシーを呼んで帰途についた。
 その際、未だかつてないほどうしろ髪を引かれたのも新鮮な驚きだった。

(野元風花――いろいろと興味深い女性だな)

 風花は命の恩人であり、仁は彼女に大きな借りができた。受けた恩はなんとしてでも返さねばならない。帰る際テーブルの上に連絡先を書いたメモを残したのは、そのためだ。
 それに、個人的に強く興味を引かれている。
 メモに書いたのは、スマートフォンの電話番号のみで住所も名前も書いていない。
 これは、一種の賭けだ。
 電話をかけてくるかどうかもわからないし、こちらの正体を知って彼女がどう変わるかもわからない。
 どこの誰かわかってしまえば、彼女もほかの女性と同じような反応を示すはずだ。けれどそう思う反面、彼女は違うのではないかと思う自分もいた。
 むしろ、そうであればいいと期待している部分もあり、仁はそんなふうに考える自分を面白いと感じている。

(まずは、彼女から連絡が来るかどうかだな)

 もし来なければ、また別のアプローチを考えればいいだけの事だし、自分にはそうしなければならない理由がある。
 風花には必ず恩を返さねばならない。
 仁はこれからの計画を頭に思い描きながら、我知らず口元に笑みを浮かべるのだった。


     ◇ ◇ ◇


 朝目覚めたら、道端で拾ったイケメンは忽然こつぜんと消えていた。
 起きてしばらくは、あれは夢だったのではないかと思ったりもしたけれど、ベッドの右側には彼が横になっていた形跡がある。それに、テーブルの上に残されていたメモが一連の出来事が現実であると教えてくれていた。
 メモには十一桁の電話番号が記されている。どうせなら名前くらい書けばいいのにと思わなくもないが、そもそも明かさなくていいと言ったのは自分だった。
 何もなかったとはいえ、素性も知らない男性と同じベッドで熟睡するなんて――
 我ながら呆れるが、あの時はあれが一番自然な流れだと思った。
 昨夜はすべてが非日常で、冷静に考えられるようになった今、よくもまああんな行動が取れたものだと思う。
 行き倒れていた男性を助けるのは当然の事だし、それから先は完全に予想外の展開ばかりだった。

(何より、あの人がいてくれたから、脇本社長を撃退できたわけだし)

 あれについては感謝しかない。きっと脇本はもう、二度と自分につきまとったりしないはずだ。

「それにしても、かっこよかったな」

 男性の事を思い出していると、自然と心の声が口をついて出ていた。
 彼が破格のイケメンだった事は、疑う余地のない事実だ。何をするにしても所作が綺麗だったし、相当育ちがいいに違いない。一人になってじっくりと思い返してみるほど、男性がいかに印象深い人だったかを思い知らされた感じだ。

(なんにせよ、もう会う事はないだろうな)

 電話番号を残されたものの、男性はたまたま通りすがって一夜限りの縁ができた人にすぎない。
 彼との関係をなんらかの形で継続させる理由はないし、そのつもりで互いの素性を知らせないままにしたのだ。

(どうせ二度と会わないんだから、キスくらいしておけばよかったかな)

 そんなふうに考えた自分に驚き、風花はメモを持たないほうの手で唇を押さえた。

『言っとくけど、拾い食いするほどえてないから!』

 そう啖呵たんかを切ったくせに、たまたま拾った男性とのキスを望むなんて、どうかしている。
 しかし、今後どれだけ長く生きても彼のように完璧な容姿の男性には会えないだろうし、あれほど有意義な時間を過ごす事もないだろう。
 だからこそ、キスくらいと思ってしまった。それに、もしかするとあれが人生最後の「男性からキスを迫られる」経験だったかもしれない。
 なんだかもったいない事をしたような気がしてきたが、もう終わった事だ。
 風花は今一度メモに視線を落とし、本棚の引き出しの中にしまった。別に番号をとっておきたいとかじゃなく、一応そうするだけだ。
 風花は自分自身に念を押すと、尖る唇を指先でキュッとつまみ上げるのだった。


 それから二週間後、風花は親友の井上里穂いのうえりほから派遣の仕事の件で連絡をもらった。
 彼女は風花と同郷の幼馴染おさななじみで、高校卒業を機に一足先に上京し、今は結婚して夫とともに派遣会社「井上キャリアサービス」を営んでいる。


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