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1巻
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「えらい事になった!」
佐藤芽衣は、社長室のドアを閉めるなりそう呟いた。
廊下を足早に歩き、非常扉を開けて外階段の踊り場に立つ。
「私みたいな平社員にできるかな? いや、できなくてもやらなきゃだよ!」
そう口にする芽衣の身体が、ぶるりと震える。
「うわっ……これって、武者震いってやつ? ちょっと、落ち着かないと……。今は階段を転げ落ちて怪我なんてしてる場合じゃないんだから」
芽衣は非常階段の手すりをしっかりと持ちながら、慎重に階段を下り始めた。
佐藤芽衣、二十五歳。
大学卒業後、都内にある大手化粧品メーカー「エゴイスタ」に入社し、すぐに広報部に配属された。
広報部は部長をトップに七人の社員がおり、芽衣はその中で一番の年下であり下っ端だ。
それゆえに、回ってくる業務は主に雑用で、自分が主体となってする仕事は、まだ一度もした事がない。
そんな芽衣が、五月の連休明け早々に社長室に呼び出され、井川優子社長直々に特別な業務を仰せつかった。
曰く――
『我が社の常務取締役副社長である、塩谷斗真の密着取材をしてちょうだい』
塩谷斗真とは、井川社長の一人息子だ。苗字が違うのは、両親が離婚して父方の姓を名乗っているからであるらしい。
今年三十五歳になる彼は、ビジネスにおいては他の追随を許さないほど優秀であり、将来は会社のトップに就くと目されている。
いわば、斗真は「エゴイスタ」の未来を担う人物であり、社長とともに八千人ほどいる社員すべての期待を背負う方なのだ。
『これは、私からの特命――いわばあなたに課せられた一大プロジェクトよ』
『どうせなら、仕事面だけでなく、プライベートも掘り下げてみるといいわね』
『取材に協力するよう、私から副社長に言っておくわ。とりあえず、どんなふうにプロジェクトを進めるか、できるだけ早く計画書を出してちょうだい』
優子は微笑んでそう言い、激励の言葉をかけてくれた。
つまり、副社長を公私にわたり取材して、それを広報誌に載せろ、という指令だった。
提示された取材期間は一カ月。
つい一時間前までは、こんな大役を任されるなんて夢にも思わなかった。
けれど、指名されたからには必ずやり遂げようと思うし、期待に応えたいと思う。
(憧れの社長から、直々に依頼されるなんて嬉しい~!)
「エゴイスタ」は日本を代表する化粧品メーカーであり、創業二十一年と社歴は浅いものの、すでにその名は広く知られ世界中に愛用者がいる。
思い起こせば三年前の春――
本社にいる新入社員全員が一人ずつ社長室に呼ばれた。
待っていたのは、優しい微笑みを浮かべる優子その人で、彼女は大きく両手を広げて新入社員を歓待し、手を握り目を見つめながら「これから一緒に頑張っていきましょうね」と語りかけてくれたのだ。
優子は「エゴイスタ」の創業者であり、現在五十八歳。品があり凜として美しい彼女は、日本を代表する女性経営者として以前からメディアによく顔を出していた。
もともと入社前から優子に憧れていた芽衣は、それを機にいっそう彼女のファンになり、尊敬の念を抱き続けているのだ。
(井川社長からの特命だなんて……。きっとこれは一生に一度あるかないかの大チャンスだよね。だけど……)
芽衣の実家はよくあるサラリーマン家庭で、自身もごく普通の庶民だ。
そんな自分が、いきなり雲の上の人の取材をするなんて、それだけでも腰が引けてしまう。
それに加えて、塩谷斗真は次期経営者として有能であるのはもちろんの事、頭脳明晰で化粧品の開発者としても超一流であるエリート中のエリートだ。
彼が「エゴイスタ」に入社して以来、業績は右肩上がり。手掛けた商品は、すべて某コスメティックサイトで上位を獲得し、消費者の信頼も厚い。
おまけに、超がつくほどの美男で、そこにいるだけで周りがたじろぐほど強いオーラを纏っている。
それだけでも近寄りがたいのに、性格は冷淡で毒舌だという噂だ。
気軽に近づけるような相手ではないし、ましてやプライベートまで掘り下げた取材を本当にさせてもらえるかどうか……
考えれば考えるほど、不安になってくる。
果たして彼は、自分のような平社員を相手に、まともに受け答えをしてくれるだろうか?
だいぶ前になるが、芽衣は社内のエレベーターで一度だけ斗真と乗り合わせた事があった。挨拶したが、返された言葉は芽衣一人に向けたものではなかった。
高身長の斗真に対して、芽衣の身長は一六〇センチに満たない。周りには何人もの社員がいたし、存在に気づいてもらえる可能性はゼロに等しかった。
けれど、エレベーターを降りる間際に、彼が何気なく芽衣のほうを見た。
時間にして一秒にも満たなかったように思うが、芽衣はその美形ぶりに目を丸くした覚えがある。
おそらく、向こうは覚えてすらいないだろう。しかし、芽衣にとってはかなりインパクトのある出来事だったし、今もなお記憶の中にはっきりと残っている。
あれほど美男でハイスペックな斗真だ。
当然恋人になりたがる女性は引きも切らないし、噂では世界を股にかけて活躍するトップモデルや女優もその中にいるとか。
(だけど、それもこれも噂の域を出ないし、副社長って、いろいろとミステリアスだよね)
社内でも特に女性から注目を浴びている彼だが、直接仕事で関わる者は役職者に限られているし、プライベートについては謎に包まれている。
しかし、斗真が稀に見る優秀なビジネスパーソンであるのは間違いなく、だからこそ多くの社員が彼に興味を持ち、実際はどんな人物なのか知りたいと思っているのだ。
かくいう芽衣もそのうちの一人だし、今や広報部員としての使命もある。
階段を下りる足を止め、芽衣は拳を硬く握りしめた。そして、空を仰いで力強く宣言する。
「この仕事を見事やり遂げて、万年雑用係から脱出するぞ!」
突き上げた拳が陽光を浴びて、きらきらと輝いて見える。
芽衣は大きく深呼吸をしたあと、意気揚々と自席に戻るべく階段を駆け下りるのだった。
「エゴイスタ」が入っているビルは、日本有数の繁華街の中心から少し離れた位置に建っている。
七階建ての建物の一階は自社製品を扱うブティックになっており、社員は日々消費者を身近に感じながら業務に励む事ができる仕組みだ。
ビルは外壁内装ともに会社のイメージカラーである白をメインとした色使いが施され、化粧品メーカーにふさわしい清潔感のある外観になっている。
街中を探しても、これほどスタイリッシュな建造物は他にない。
中でも芽衣のお気に入りは、ビルの裏手にある鉄製の外階段だ。普段めったに使われる事はないものの、まるでアメリカのソーホー街にある建物のような独特の趣がある。
『佐藤さん、一階搬入口に荷物が届いてます』
二階受付から内線が入り、芽衣は急いで四階にある広報部からエレベーターで建物の裏手にある荷物搬入口に向かった。
業者から荷物を受け取り、台車を押しながら四階に戻る。
届いたのは、今月分の社内報だ。
広報部では、毎月十日頃に社内報を発行している。
主な目的は、社員に対して会社の経営理念や事業戦略を的確に伝える事。それと同時に、経営者を含めた社内のコミュニケーションを活性化させるという役割も担っている。
聞くところによると、もとは井川優子社長が個人で発行していた、いわば私信のようなものだったようだ。しかし、会社の規模が大きくなるにつれて「広報部」の設立が決まり、それと同時に正式に社内報の発行が決定していた。
以来、十五年にわたって社内の情報ツールのひとつとして、発行され続けているのだ。
芽衣は、広報部の隣に位置する総務部横の社内向け郵便ボックスの前で台車を停め、部署ごとに冊数を確認しながら社内報を仕分けていく。いささかアナログなやり方ではあるが、毎回楽しく読んでもらえる事を願いながら配っていた。
(これで、今月分の社内報の配布は終わりっと)
とはいえ、社内報を手にした全員が内容をくまなくチェックしているというわけではないし、八年前から同時配信しているウェブ版社内報の閲覧数も伸び悩んでいる。
つい最近取ったアンケートでは、最大の理由は記事に面白みがなく、知りたいと思う情報と掲載内容に大きなズレがあるという結果が出た。
これについては、早急に改善策を講じようと話し合っていたところに、今回の「副社長密着取材」の話が持ち込まれたのだ。
部内は大いに盛り上がり、芽衣は皆に〝広報部の期待の星〟と呼ばれるようになった。
皆の期待に後押しされ、芽衣はますますやる気をアップさせている。
(きっと一筋縄ではいかないだろうけど、ぜったいにやり遂げる!)
もともと、簡単にへこたれる自分ではない。
全力を尽くし、必ずや結果を出してみせる――芽衣は、そう固く決心していた。
「部長、これから社長のところに行ってまいります!」
社長から特命を受けた週末を挟んだ月曜日、芽衣は彼女に言われた取材計画書を作成した。
作るにあたり、アンケートの内容を十分に加味したし、この取材が成功すれば広報誌の閲覧数がアップする事間違いなしだ。
広報部のアンケートでは、社内報の感想や要望はもちろん、会社に関するちょっとした疑問や質問なども受け付けている。
とはいえ、社内報への期待が下がっている中、アンケートの数もかなり少ない。
そんな中、少し前に「井川社長に聞く」と銘打って優子の特集記事を組んだところ、それまでにないほど多くの反響があった。
「社長の事がよくわかった」「また社長の特集を組んでほしい」など、送られてきたアンケート数も多く、今でもウェブ版で歴代一位の閲覧数を誇っている。
もともと美意識の高い社員が多い「エゴイスタ」だ。
美しく年を重ねる優子に対する関心は高く、第二弾の特集記事の企画も進んでいる。
そしてもうひとつ。その記事の中に、一枚だけ副社長である斗真が写っている写真が交じっていた。
それに、驚くほどの反響があったのだ。
「副社長、さすがのかっこよさですね!」「血は争えないという感じ」「副社長の写真、引き伸ばしてパソコンの背景にしたい」「他にも副社長の画像、ないんですか?」
などなど、以後のアンケートの中には、斗真の写真への感想の他、「今度は副社長の特集記事を組んでほしい」という要望が多数届いた。
広報部としては社員の声を無視できず、一度副社長秘書の黒川を通して斗真にお伺いを立ててみた。しかし、斗真は秒で企画を却下し、せっかく集まった要望は企画会議にかける前に見送られた。けれど、それからも斗真に関する要望は、アンケートを通して十分すぎるほど集まっていた。
(アンケートの中で誰かが言ってたっけ。「副社長は自社の枠を遥かに超えたワールドクラス級のイケメンです!」「副社長ならハリウッドデビューも難しくないでしょう」って)
身につけているものはどれをとってもゴージャスかつシック。女性のみならず、男性社員も斗真に興味を持つのは、そんな彼のインフルエンサー的吸引力もあってだと思われる。
あれこれと考えつつ七階の役員用のフロアに下り立ち、社長室のドアをノックした。
許可を得て中に入ると、優子が微笑みを浮かべながら芽衣を迎え入れてくれる。
「思ったよりも早かったわね。やる気があって結構よ」
「はいっ、社長のご下命ですから、張り切って準備させていただきました!」
応接セットのソファに導かれ、彼女と向かい合わせに座る。
憧れの優子を前に、芽衣は緊張の面持ちで企画書を提出した。
彼女はそれを受け取り、時折頷きながら読み進めている。
表紙にデカデカと「塩谷斗真副社長密着取材企画案詳細」と印字された企画書には、大きく分けて三つの項目が書かれている。
・その一、副社長って、どんな生活をしているの?
ミステリアスなイメージがある副社長の私生活を可能な範囲でつまびらかにし、質問を交えながら社員の知りたいポイントを深堀りする。
・その二、副社長のワードローブを拝見!
副社長のファッションに対する考え方やポリシーを伺い、クローゼットのラインナップと、特にお気に入りのものを紹介する。
・その三、副社長のプライベート、ここが知りたい!
お気に入りの場所や店など、副社長のとっておきを紹介。実際に現地を取材し、副社長の人となりを徹底調査する!
若干ノリが軽すぎると思わなくもないが、アンケートの内容を反映させた結果、こうなった。
それに、せっかく任されたのだから、多少なりとも自分のカラーを出したいという思いもある。
「いいわね。とても面白いと思うし、私自身も、これが記事になるのが楽しみだわ」
「ありがとうございます!」
優子のお墨付きをもらい、芽衣は満面の笑みを浮かべた。
「副社長は、『冷淡』で『毒舌家』で『気難しい』――そんな話を、佐藤さんも聞いた事があるでしょう?」
優子が指折り数えながら、そう訊ねてくる。
「は……はい。ですが、私は直接お話をした事がありませんし、本当のところはどうなのかわかりません」
実際そうだし、芽衣は昔から人を見かけや噂だけで判断しない主義だ。
「その考え方、とても素晴らしいわ。是非、佐藤さん自身の感性で副社長がどういう人間なのか判断してちょうだい。きっとそれが、いい記事を完成させる事に繋がると思うわ」
優子が、ふんわりと笑った。
その笑顔につられるようにして、芽衣もにっこりする。
「彼には、確かにそういう傾向があるし、扱いづらいところもあるわ。辛辣な言い方をするし、物事を斜めに見ていたりする。ビジネスにおいては鬼のように厳しいし、研究に関しては完璧を求めるあまり寝食を忘れがちね。でも、本当はとても優しい子なの」
最後の言葉を発した時、優子が目尻を下げて微笑んだ。
「この件については、私が全面的にバックアップするし、ここに書かれているものはすべてやってもらって構わないわ。たぶん、彼から多少の不満は上がると思うけど、ぜんぶ社長命令という事で片づけてちょうだい。――黒川室長、ちょっといいかしら?」
優子が秘書室に内線で連絡し、副社長秘書の黒川富夫を呼んだ。
ほどなくしてやって来た黒川が、芽衣を見て軽く頷いた。そして、優子に促されて彼女の隣に腰を下ろす。
「副社長への取材については、黒川室長にもすべて把握しておいてもらうわ。もちろん、私同様取材には全面的に協力するから、何かあれば必要に応じて彼に相談してね」
優子より三つ年下の黒川は秘書室長を務めており、彼女の信頼が厚い存在のようだ。
「わかりました」
芽衣が頷くと、優子もまた満足そうに頷いた。
「いろいろ大変だと思うけど、頑張ってね。佐藤さん、あなたには期待してるわ。是非、ここに書かれているとおり、副社長をとことん深掘りして」
握手を求められ、芽衣は前のめりになってそれに応じた。
握った優子の手は思いのほか小さい。しかし、掌からは並々ならぬ熱量が伝わってくる。
「はい、承知いたしました! 佐藤芽衣、心して社長の特命を実行させていただきます!」
社長室を辞したあと、黒川に相談して、取材は明後日からスタートさせる事になった。
優子から、とても面白い企画だと褒められ、取材中の不満はぜんぶ社長命令で片づけていいという言葉をもらった。
これ以上力強い後押しはない。事実上、芽衣は「社長命令」という免罪符を手に入れたのだ。
(それにしても、さっきの笑顔は素敵だったなぁ)
優子はビジネスにおいて、他の追随を許さないほどの辣腕を振るう。しかし、物腰や口調は柔らかで、常に微笑んでいるイメージがあった。
けれどさっき、彼女が自分の息子について語った時の微笑みは、今まで見た中で一番柔らかで優しかったように思う。
優子の期待に応えるためにも、彼女が優しいと言った〝塩谷斗真〟という人の本質をしっかり見極め、記事に反映させてみせる。
(よし、やるぞ~! 塩谷斗真副社長、待っててくださいね!)
イケメン副社長だからといって、容赦なんかしない。
芽衣は、非常階段で己の士気を上げてから自席に戻り、企画がすべて通った事を上司に報告した。
いよいよ、明後日から密着取材がスタートする。
芽衣はウキウキした気分で、やりかけていたファイリングの仕事に取り掛かるのだった。
その二日後、芽衣は意気揚々と出社して、早々に斗真の秘書である黒川に内線電話をかけた。
優子に言われたとおり黒川は非常に協力的で、芽衣が訊ねる前に斗真のここ一週間のスケジュールを教えてくれた。
それによると、斗真は今日、午前中いっぱい会議に出席し、午後は取引先などを訪問するために外出する予定らしい。
芽衣は黒川と相談の上、会議終了後に今回の企画の顔合わせを兼ねた打ち合わせの時間を設けてもらう事にした。
時計を見ると、あと十分で会議が終わろうとしている。
芽衣は席を立ち、広報部部長の相田のデスクに向かった。
「佐藤芽衣、副社長の密着取材に行ってまいります!」
芽衣が小さく敬礼をすると、相田もそれに応えて同じポーズを取る。
「よろしく頼むよ。社長直々の依頼だ。これが成功すれば、広報部の未来は限りなく明るくなる」
現在五十八歳の相田は、優子が「エゴイスタ」を立ち上げた頃からの古参社員だ。芽衣と同じで明るく前向きな彼は、今回の大抜擢を自分の事のように喜び、応援してくれている。
「任せてください!」
芽衣は、にっこりと微笑み、くるりとうしろを振り返った。見ると、部内の同僚達が、残らず芽衣を見て頷いてくれている。
「頑張れよ」
「期待してるぞ~」
課長の武田が声を上げ、主任の西と佐川がそれに続く。
広報部のメンバーは、ぜんぶで六名おり、芽衣以外の全員が男性で、主任以上の役職者だ。
「京本くんには、連絡をしたか?」
「はい、昨日メールを送って、返事がきています」
京本という男性主任は、一昨日から妻の親族の祭事に出るため有休を取っており、明日出社する予定だ。彼は部内でカメラマンを担当していて、今回もそうだが撮影を伴う取材に行く時は、必要に応じて同行してくれる。
「では、ご挨拶に行ってまいります!」
芽衣はそれぞれの視線に応えながら広報部をあとにする。途中、更衣室に立ち寄り、ロッカーから外出用のバッグを取り出した。鏡の前に立ち、そこに映っている自分を隅々までチェックする。
「エゴイスタ」には制服がなく、優子の方針により社員達は常識の範囲であれば比較的自由にファッションを楽しむ事ができる。
芽衣も化粧品メーカーの社員らしく、トレンドから外れない恰好をするよう心掛けていた。
ただ、もともとの感性に難があるのか、好みの着こなしをすると、なぜかアンバランスになる傾向にある。
何事も最初が大事だ。
今回の企画が無事に終わるまでは、我流のファッションは封印しようと決めた。
急な事で洋服を新調する暇はなかったが、手持ちの中から一番フェミニンなクリーム色のワンピースを選んだ。メイクも普段より念入りにし、髪の毛も整えてきた。
(これで少しは女らしく見えるかな?)
しかし、服装はともかく、顔立ちは大きく変えられない。
芽衣は目と鼻が丸っこく、どちらかといえば童顔だった。そのせいもあり、あまり派手なメイクは似合わない。だが、色白なのでルージュを引くだけで十分と言えなくもなかった。
肩までの緩いウェービーヘアを指で梳き、眉の位置で綺麗に切り揃えた前髪を整える。
(メイクよし、服装よし。準備オッケー!)
芽衣は襟元のフリルを摘まんで形を整え、鏡の中の自分に向かってコクリと頷いた。
社長室に呼ばれた時もそうだったが、平社員の芽衣は役員クラスの部屋に行くと思うだけで緊張してしまう。
「社長命令」という免罪符を持っているとはいえ、雲の上の存在である斗真を相手にするのだ。そう思うと、いやが上にも緊張する。
(もう少し、副社長の人となりが事前にわかっていればなぁ……)
取材に先駆けて、秘書の黒川から斗真の簡単な経歴を教えられていた。
それによると、斗真は幼少期より優秀で、中学三年に進級するタイミングで渡米。同国のセカンダリースクールに入学し、卒業後は帰国して国内最難関の大学に入学したそうだ。六年間、化学とバイオテクノロジーについて探求し、卒業後は再度渡米して世界的に有名な製薬会社に入社。そこで二年間さまざまな研究成果を上げたのちに退社し、「エゴイスタ」に入社した。
しかし、芽衣が知りたかった斗真の内面については、やんわりとはぐらかされ、なんの情報も得られずじまいだった。
『私は佐藤さんのサポートをする立場ですが、これ以上の情報は、かえって取材の邪魔になりますので』
なるほど、それも一理あると納得した。
今回の案件は、社長自ら斗真に伝えているそうなので、安心して取材をスタートできるし、過剰に心配するのもよくないだろう。
(せっかくの、キャリアアップのチャンスだもの。ぜったいにいいものにしてみせる!)
自分に気合を入れ直すと芽衣はおもむろに両肩の上下運動をして、目や口を大きく開けたり閉じたりし始める。
社長室を訪ねた時もそうだったが、大事な局面の前には、芽衣は必ず顔中の筋肉を動かして心の緊張を緩めるのだ。
たまたまそうしている時の顔を見た人は、もれなく「変顔」と言って笑うが、芽衣は至極真面目に取り組んでいる。
「あ、え、い、う、え、お、あ、お。ぱ、ぺ、ぴ、ぷ、ぺ、ぽ、ぱ、ぽ――」
小さく呟きながら表情筋を動かし、それが済むと足早に更衣室を出て廊下を歩く。
目指す副社長室は七階にあった。
芽衣は誰もいないエレベーターに乗り込み、目当てのフロアに下り立つ。一歩進むごとに、緩んだはずの緊張が再びジワジワと高まってくる。
緊張の度合いは、社長室に向かう時よりも格段に高い。
芽衣は無意識に表情筋をほぐしながら、副社長室のドアの前に立った。そして、ノックしようと拳を前に振り下ろした途端、ドアが開いて握った手が何か柔らかなものに当たる。
「え?」
目の前にあるダークグレーの壁を見つめながら、芽衣はパチパチと目を瞬かせた。よく見ると、自分の手が触れているのはスーツを着た男性の胸元だ。
芽衣はあわててうしろに下がりながら男性の顔を見上げた。
「ふ、副社長っ!」
「部屋の外でおかしな呻き声がしたから何事かと思えば……人の執務室の前で百面相か」
不機嫌そうに顰めた眉と、射るような目つき。
それでいて、正面から見た斗真の顔は、一言では言い表せないほど魅力的だった。
図らずも胸がときめいてしまい、芽衣は咄嗟に頭を下げて挨拶をした。
「お、お初にお目にかかります! 広報部の佐藤芽衣です! 社長直々の命を受けて、副社長の密着取材をさせていただく事になりました!」
「ああ、その話か」
斗真が眉間に縦皺を寄せながら、そう言った。
「とりあえず、中に入れ。話はそれからだ」
彼は、いかにも面倒そうな表情を浮かべて芽衣を部屋の中に招き入れる。
「失礼します」
芽衣は一礼して中に入り、促されるまま黒革の応接セットのソファに腰を下ろした。
斗真がテーブルを挟んで、芽衣の正面に座る。これほどの美男と接した経験がない芽衣は、瞬きをするのも忘れて彼の顔に見入った。
「君もとんだ災難だったな。芸能人じゃあるまいし、僕のプライベートなんか誰が興味を持つというんだ? 記事を書いても、骨折り損のくたびれ儲けになるのが関の山だ」
斗真に企画をバッサリと切り捨てられるなり、芽衣は思わず立ち上がって大きく頭を振る。
「そんな事はありません! 社内報のアンケートでは副社長に関する要望がどっさり届いているんですよ」
芽衣は両手を大きく広げて、量の多さを示した。
「僕に関する要望とは?」
斗真が指でソファを指して、立ち上がった芽衣に座るよう指示する。
佐藤芽衣は、社長室のドアを閉めるなりそう呟いた。
廊下を足早に歩き、非常扉を開けて外階段の踊り場に立つ。
「私みたいな平社員にできるかな? いや、できなくてもやらなきゃだよ!」
そう口にする芽衣の身体が、ぶるりと震える。
「うわっ……これって、武者震いってやつ? ちょっと、落ち着かないと……。今は階段を転げ落ちて怪我なんてしてる場合じゃないんだから」
芽衣は非常階段の手すりをしっかりと持ちながら、慎重に階段を下り始めた。
佐藤芽衣、二十五歳。
大学卒業後、都内にある大手化粧品メーカー「エゴイスタ」に入社し、すぐに広報部に配属された。
広報部は部長をトップに七人の社員がおり、芽衣はその中で一番の年下であり下っ端だ。
それゆえに、回ってくる業務は主に雑用で、自分が主体となってする仕事は、まだ一度もした事がない。
そんな芽衣が、五月の連休明け早々に社長室に呼び出され、井川優子社長直々に特別な業務を仰せつかった。
曰く――
『我が社の常務取締役副社長である、塩谷斗真の密着取材をしてちょうだい』
塩谷斗真とは、井川社長の一人息子だ。苗字が違うのは、両親が離婚して父方の姓を名乗っているからであるらしい。
今年三十五歳になる彼は、ビジネスにおいては他の追随を許さないほど優秀であり、将来は会社のトップに就くと目されている。
いわば、斗真は「エゴイスタ」の未来を担う人物であり、社長とともに八千人ほどいる社員すべての期待を背負う方なのだ。
『これは、私からの特命――いわばあなたに課せられた一大プロジェクトよ』
『どうせなら、仕事面だけでなく、プライベートも掘り下げてみるといいわね』
『取材に協力するよう、私から副社長に言っておくわ。とりあえず、どんなふうにプロジェクトを進めるか、できるだけ早く計画書を出してちょうだい』
優子は微笑んでそう言い、激励の言葉をかけてくれた。
つまり、副社長を公私にわたり取材して、それを広報誌に載せろ、という指令だった。
提示された取材期間は一カ月。
つい一時間前までは、こんな大役を任されるなんて夢にも思わなかった。
けれど、指名されたからには必ずやり遂げようと思うし、期待に応えたいと思う。
(憧れの社長から、直々に依頼されるなんて嬉しい~!)
「エゴイスタ」は日本を代表する化粧品メーカーであり、創業二十一年と社歴は浅いものの、すでにその名は広く知られ世界中に愛用者がいる。
思い起こせば三年前の春――
本社にいる新入社員全員が一人ずつ社長室に呼ばれた。
待っていたのは、優しい微笑みを浮かべる優子その人で、彼女は大きく両手を広げて新入社員を歓待し、手を握り目を見つめながら「これから一緒に頑張っていきましょうね」と語りかけてくれたのだ。
優子は「エゴイスタ」の創業者であり、現在五十八歳。品があり凜として美しい彼女は、日本を代表する女性経営者として以前からメディアによく顔を出していた。
もともと入社前から優子に憧れていた芽衣は、それを機にいっそう彼女のファンになり、尊敬の念を抱き続けているのだ。
(井川社長からの特命だなんて……。きっとこれは一生に一度あるかないかの大チャンスだよね。だけど……)
芽衣の実家はよくあるサラリーマン家庭で、自身もごく普通の庶民だ。
そんな自分が、いきなり雲の上の人の取材をするなんて、それだけでも腰が引けてしまう。
それに加えて、塩谷斗真は次期経営者として有能であるのはもちろんの事、頭脳明晰で化粧品の開発者としても超一流であるエリート中のエリートだ。
彼が「エゴイスタ」に入社して以来、業績は右肩上がり。手掛けた商品は、すべて某コスメティックサイトで上位を獲得し、消費者の信頼も厚い。
おまけに、超がつくほどの美男で、そこにいるだけで周りがたじろぐほど強いオーラを纏っている。
それだけでも近寄りがたいのに、性格は冷淡で毒舌だという噂だ。
気軽に近づけるような相手ではないし、ましてやプライベートまで掘り下げた取材を本当にさせてもらえるかどうか……
考えれば考えるほど、不安になってくる。
果たして彼は、自分のような平社員を相手に、まともに受け答えをしてくれるだろうか?
だいぶ前になるが、芽衣は社内のエレベーターで一度だけ斗真と乗り合わせた事があった。挨拶したが、返された言葉は芽衣一人に向けたものではなかった。
高身長の斗真に対して、芽衣の身長は一六〇センチに満たない。周りには何人もの社員がいたし、存在に気づいてもらえる可能性はゼロに等しかった。
けれど、エレベーターを降りる間際に、彼が何気なく芽衣のほうを見た。
時間にして一秒にも満たなかったように思うが、芽衣はその美形ぶりに目を丸くした覚えがある。
おそらく、向こうは覚えてすらいないだろう。しかし、芽衣にとってはかなりインパクトのある出来事だったし、今もなお記憶の中にはっきりと残っている。
あれほど美男でハイスペックな斗真だ。
当然恋人になりたがる女性は引きも切らないし、噂では世界を股にかけて活躍するトップモデルや女優もその中にいるとか。
(だけど、それもこれも噂の域を出ないし、副社長って、いろいろとミステリアスだよね)
社内でも特に女性から注目を浴びている彼だが、直接仕事で関わる者は役職者に限られているし、プライベートについては謎に包まれている。
しかし、斗真が稀に見る優秀なビジネスパーソンであるのは間違いなく、だからこそ多くの社員が彼に興味を持ち、実際はどんな人物なのか知りたいと思っているのだ。
かくいう芽衣もそのうちの一人だし、今や広報部員としての使命もある。
階段を下りる足を止め、芽衣は拳を硬く握りしめた。そして、空を仰いで力強く宣言する。
「この仕事を見事やり遂げて、万年雑用係から脱出するぞ!」
突き上げた拳が陽光を浴びて、きらきらと輝いて見える。
芽衣は大きく深呼吸をしたあと、意気揚々と自席に戻るべく階段を駆け下りるのだった。
「エゴイスタ」が入っているビルは、日本有数の繁華街の中心から少し離れた位置に建っている。
七階建ての建物の一階は自社製品を扱うブティックになっており、社員は日々消費者を身近に感じながら業務に励む事ができる仕組みだ。
ビルは外壁内装ともに会社のイメージカラーである白をメインとした色使いが施され、化粧品メーカーにふさわしい清潔感のある外観になっている。
街中を探しても、これほどスタイリッシュな建造物は他にない。
中でも芽衣のお気に入りは、ビルの裏手にある鉄製の外階段だ。普段めったに使われる事はないものの、まるでアメリカのソーホー街にある建物のような独特の趣がある。
『佐藤さん、一階搬入口に荷物が届いてます』
二階受付から内線が入り、芽衣は急いで四階にある広報部からエレベーターで建物の裏手にある荷物搬入口に向かった。
業者から荷物を受け取り、台車を押しながら四階に戻る。
届いたのは、今月分の社内報だ。
広報部では、毎月十日頃に社内報を発行している。
主な目的は、社員に対して会社の経営理念や事業戦略を的確に伝える事。それと同時に、経営者を含めた社内のコミュニケーションを活性化させるという役割も担っている。
聞くところによると、もとは井川優子社長が個人で発行していた、いわば私信のようなものだったようだ。しかし、会社の規模が大きくなるにつれて「広報部」の設立が決まり、それと同時に正式に社内報の発行が決定していた。
以来、十五年にわたって社内の情報ツールのひとつとして、発行され続けているのだ。
芽衣は、広報部の隣に位置する総務部横の社内向け郵便ボックスの前で台車を停め、部署ごとに冊数を確認しながら社内報を仕分けていく。いささかアナログなやり方ではあるが、毎回楽しく読んでもらえる事を願いながら配っていた。
(これで、今月分の社内報の配布は終わりっと)
とはいえ、社内報を手にした全員が内容をくまなくチェックしているというわけではないし、八年前から同時配信しているウェブ版社内報の閲覧数も伸び悩んでいる。
つい最近取ったアンケートでは、最大の理由は記事に面白みがなく、知りたいと思う情報と掲載内容に大きなズレがあるという結果が出た。
これについては、早急に改善策を講じようと話し合っていたところに、今回の「副社長密着取材」の話が持ち込まれたのだ。
部内は大いに盛り上がり、芽衣は皆に〝広報部の期待の星〟と呼ばれるようになった。
皆の期待に後押しされ、芽衣はますますやる気をアップさせている。
(きっと一筋縄ではいかないだろうけど、ぜったいにやり遂げる!)
もともと、簡単にへこたれる自分ではない。
全力を尽くし、必ずや結果を出してみせる――芽衣は、そう固く決心していた。
「部長、これから社長のところに行ってまいります!」
社長から特命を受けた週末を挟んだ月曜日、芽衣は彼女に言われた取材計画書を作成した。
作るにあたり、アンケートの内容を十分に加味したし、この取材が成功すれば広報誌の閲覧数がアップする事間違いなしだ。
広報部のアンケートでは、社内報の感想や要望はもちろん、会社に関するちょっとした疑問や質問なども受け付けている。
とはいえ、社内報への期待が下がっている中、アンケートの数もかなり少ない。
そんな中、少し前に「井川社長に聞く」と銘打って優子の特集記事を組んだところ、それまでにないほど多くの反響があった。
「社長の事がよくわかった」「また社長の特集を組んでほしい」など、送られてきたアンケート数も多く、今でもウェブ版で歴代一位の閲覧数を誇っている。
もともと美意識の高い社員が多い「エゴイスタ」だ。
美しく年を重ねる優子に対する関心は高く、第二弾の特集記事の企画も進んでいる。
そしてもうひとつ。その記事の中に、一枚だけ副社長である斗真が写っている写真が交じっていた。
それに、驚くほどの反響があったのだ。
「副社長、さすがのかっこよさですね!」「血は争えないという感じ」「副社長の写真、引き伸ばしてパソコンの背景にしたい」「他にも副社長の画像、ないんですか?」
などなど、以後のアンケートの中には、斗真の写真への感想の他、「今度は副社長の特集記事を組んでほしい」という要望が多数届いた。
広報部としては社員の声を無視できず、一度副社長秘書の黒川を通して斗真にお伺いを立ててみた。しかし、斗真は秒で企画を却下し、せっかく集まった要望は企画会議にかける前に見送られた。けれど、それからも斗真に関する要望は、アンケートを通して十分すぎるほど集まっていた。
(アンケートの中で誰かが言ってたっけ。「副社長は自社の枠を遥かに超えたワールドクラス級のイケメンです!」「副社長ならハリウッドデビューも難しくないでしょう」って)
身につけているものはどれをとってもゴージャスかつシック。女性のみならず、男性社員も斗真に興味を持つのは、そんな彼のインフルエンサー的吸引力もあってだと思われる。
あれこれと考えつつ七階の役員用のフロアに下り立ち、社長室のドアをノックした。
許可を得て中に入ると、優子が微笑みを浮かべながら芽衣を迎え入れてくれる。
「思ったよりも早かったわね。やる気があって結構よ」
「はいっ、社長のご下命ですから、張り切って準備させていただきました!」
応接セットのソファに導かれ、彼女と向かい合わせに座る。
憧れの優子を前に、芽衣は緊張の面持ちで企画書を提出した。
彼女はそれを受け取り、時折頷きながら読み進めている。
表紙にデカデカと「塩谷斗真副社長密着取材企画案詳細」と印字された企画書には、大きく分けて三つの項目が書かれている。
・その一、副社長って、どんな生活をしているの?
ミステリアスなイメージがある副社長の私生活を可能な範囲でつまびらかにし、質問を交えながら社員の知りたいポイントを深堀りする。
・その二、副社長のワードローブを拝見!
副社長のファッションに対する考え方やポリシーを伺い、クローゼットのラインナップと、特にお気に入りのものを紹介する。
・その三、副社長のプライベート、ここが知りたい!
お気に入りの場所や店など、副社長のとっておきを紹介。実際に現地を取材し、副社長の人となりを徹底調査する!
若干ノリが軽すぎると思わなくもないが、アンケートの内容を反映させた結果、こうなった。
それに、せっかく任されたのだから、多少なりとも自分のカラーを出したいという思いもある。
「いいわね。とても面白いと思うし、私自身も、これが記事になるのが楽しみだわ」
「ありがとうございます!」
優子のお墨付きをもらい、芽衣は満面の笑みを浮かべた。
「副社長は、『冷淡』で『毒舌家』で『気難しい』――そんな話を、佐藤さんも聞いた事があるでしょう?」
優子が指折り数えながら、そう訊ねてくる。
「は……はい。ですが、私は直接お話をした事がありませんし、本当のところはどうなのかわかりません」
実際そうだし、芽衣は昔から人を見かけや噂だけで判断しない主義だ。
「その考え方、とても素晴らしいわ。是非、佐藤さん自身の感性で副社長がどういう人間なのか判断してちょうだい。きっとそれが、いい記事を完成させる事に繋がると思うわ」
優子が、ふんわりと笑った。
その笑顔につられるようにして、芽衣もにっこりする。
「彼には、確かにそういう傾向があるし、扱いづらいところもあるわ。辛辣な言い方をするし、物事を斜めに見ていたりする。ビジネスにおいては鬼のように厳しいし、研究に関しては完璧を求めるあまり寝食を忘れがちね。でも、本当はとても優しい子なの」
最後の言葉を発した時、優子が目尻を下げて微笑んだ。
「この件については、私が全面的にバックアップするし、ここに書かれているものはすべてやってもらって構わないわ。たぶん、彼から多少の不満は上がると思うけど、ぜんぶ社長命令という事で片づけてちょうだい。――黒川室長、ちょっといいかしら?」
優子が秘書室に内線で連絡し、副社長秘書の黒川富夫を呼んだ。
ほどなくしてやって来た黒川が、芽衣を見て軽く頷いた。そして、優子に促されて彼女の隣に腰を下ろす。
「副社長への取材については、黒川室長にもすべて把握しておいてもらうわ。もちろん、私同様取材には全面的に協力するから、何かあれば必要に応じて彼に相談してね」
優子より三つ年下の黒川は秘書室長を務めており、彼女の信頼が厚い存在のようだ。
「わかりました」
芽衣が頷くと、優子もまた満足そうに頷いた。
「いろいろ大変だと思うけど、頑張ってね。佐藤さん、あなたには期待してるわ。是非、ここに書かれているとおり、副社長をとことん深掘りして」
握手を求められ、芽衣は前のめりになってそれに応じた。
握った優子の手は思いのほか小さい。しかし、掌からは並々ならぬ熱量が伝わってくる。
「はい、承知いたしました! 佐藤芽衣、心して社長の特命を実行させていただきます!」
社長室を辞したあと、黒川に相談して、取材は明後日からスタートさせる事になった。
優子から、とても面白い企画だと褒められ、取材中の不満はぜんぶ社長命令で片づけていいという言葉をもらった。
これ以上力強い後押しはない。事実上、芽衣は「社長命令」という免罪符を手に入れたのだ。
(それにしても、さっきの笑顔は素敵だったなぁ)
優子はビジネスにおいて、他の追随を許さないほどの辣腕を振るう。しかし、物腰や口調は柔らかで、常に微笑んでいるイメージがあった。
けれどさっき、彼女が自分の息子について語った時の微笑みは、今まで見た中で一番柔らかで優しかったように思う。
優子の期待に応えるためにも、彼女が優しいと言った〝塩谷斗真〟という人の本質をしっかり見極め、記事に反映させてみせる。
(よし、やるぞ~! 塩谷斗真副社長、待っててくださいね!)
イケメン副社長だからといって、容赦なんかしない。
芽衣は、非常階段で己の士気を上げてから自席に戻り、企画がすべて通った事を上司に報告した。
いよいよ、明後日から密着取材がスタートする。
芽衣はウキウキした気分で、やりかけていたファイリングの仕事に取り掛かるのだった。
その二日後、芽衣は意気揚々と出社して、早々に斗真の秘書である黒川に内線電話をかけた。
優子に言われたとおり黒川は非常に協力的で、芽衣が訊ねる前に斗真のここ一週間のスケジュールを教えてくれた。
それによると、斗真は今日、午前中いっぱい会議に出席し、午後は取引先などを訪問するために外出する予定らしい。
芽衣は黒川と相談の上、会議終了後に今回の企画の顔合わせを兼ねた打ち合わせの時間を設けてもらう事にした。
時計を見ると、あと十分で会議が終わろうとしている。
芽衣は席を立ち、広報部部長の相田のデスクに向かった。
「佐藤芽衣、副社長の密着取材に行ってまいります!」
芽衣が小さく敬礼をすると、相田もそれに応えて同じポーズを取る。
「よろしく頼むよ。社長直々の依頼だ。これが成功すれば、広報部の未来は限りなく明るくなる」
現在五十八歳の相田は、優子が「エゴイスタ」を立ち上げた頃からの古参社員だ。芽衣と同じで明るく前向きな彼は、今回の大抜擢を自分の事のように喜び、応援してくれている。
「任せてください!」
芽衣は、にっこりと微笑み、くるりとうしろを振り返った。見ると、部内の同僚達が、残らず芽衣を見て頷いてくれている。
「頑張れよ」
「期待してるぞ~」
課長の武田が声を上げ、主任の西と佐川がそれに続く。
広報部のメンバーは、ぜんぶで六名おり、芽衣以外の全員が男性で、主任以上の役職者だ。
「京本くんには、連絡をしたか?」
「はい、昨日メールを送って、返事がきています」
京本という男性主任は、一昨日から妻の親族の祭事に出るため有休を取っており、明日出社する予定だ。彼は部内でカメラマンを担当していて、今回もそうだが撮影を伴う取材に行く時は、必要に応じて同行してくれる。
「では、ご挨拶に行ってまいります!」
芽衣はそれぞれの視線に応えながら広報部をあとにする。途中、更衣室に立ち寄り、ロッカーから外出用のバッグを取り出した。鏡の前に立ち、そこに映っている自分を隅々までチェックする。
「エゴイスタ」には制服がなく、優子の方針により社員達は常識の範囲であれば比較的自由にファッションを楽しむ事ができる。
芽衣も化粧品メーカーの社員らしく、トレンドから外れない恰好をするよう心掛けていた。
ただ、もともとの感性に難があるのか、好みの着こなしをすると、なぜかアンバランスになる傾向にある。
何事も最初が大事だ。
今回の企画が無事に終わるまでは、我流のファッションは封印しようと決めた。
急な事で洋服を新調する暇はなかったが、手持ちの中から一番フェミニンなクリーム色のワンピースを選んだ。メイクも普段より念入りにし、髪の毛も整えてきた。
(これで少しは女らしく見えるかな?)
しかし、服装はともかく、顔立ちは大きく変えられない。
芽衣は目と鼻が丸っこく、どちらかといえば童顔だった。そのせいもあり、あまり派手なメイクは似合わない。だが、色白なのでルージュを引くだけで十分と言えなくもなかった。
肩までの緩いウェービーヘアを指で梳き、眉の位置で綺麗に切り揃えた前髪を整える。
(メイクよし、服装よし。準備オッケー!)
芽衣は襟元のフリルを摘まんで形を整え、鏡の中の自分に向かってコクリと頷いた。
社長室に呼ばれた時もそうだったが、平社員の芽衣は役員クラスの部屋に行くと思うだけで緊張してしまう。
「社長命令」という免罪符を持っているとはいえ、雲の上の存在である斗真を相手にするのだ。そう思うと、いやが上にも緊張する。
(もう少し、副社長の人となりが事前にわかっていればなぁ……)
取材に先駆けて、秘書の黒川から斗真の簡単な経歴を教えられていた。
それによると、斗真は幼少期より優秀で、中学三年に進級するタイミングで渡米。同国のセカンダリースクールに入学し、卒業後は帰国して国内最難関の大学に入学したそうだ。六年間、化学とバイオテクノロジーについて探求し、卒業後は再度渡米して世界的に有名な製薬会社に入社。そこで二年間さまざまな研究成果を上げたのちに退社し、「エゴイスタ」に入社した。
しかし、芽衣が知りたかった斗真の内面については、やんわりとはぐらかされ、なんの情報も得られずじまいだった。
『私は佐藤さんのサポートをする立場ですが、これ以上の情報は、かえって取材の邪魔になりますので』
なるほど、それも一理あると納得した。
今回の案件は、社長自ら斗真に伝えているそうなので、安心して取材をスタートできるし、過剰に心配するのもよくないだろう。
(せっかくの、キャリアアップのチャンスだもの。ぜったいにいいものにしてみせる!)
自分に気合を入れ直すと芽衣はおもむろに両肩の上下運動をして、目や口を大きく開けたり閉じたりし始める。
社長室を訪ねた時もそうだったが、大事な局面の前には、芽衣は必ず顔中の筋肉を動かして心の緊張を緩めるのだ。
たまたまそうしている時の顔を見た人は、もれなく「変顔」と言って笑うが、芽衣は至極真面目に取り組んでいる。
「あ、え、い、う、え、お、あ、お。ぱ、ぺ、ぴ、ぷ、ぺ、ぽ、ぱ、ぽ――」
小さく呟きながら表情筋を動かし、それが済むと足早に更衣室を出て廊下を歩く。
目指す副社長室は七階にあった。
芽衣は誰もいないエレベーターに乗り込み、目当てのフロアに下り立つ。一歩進むごとに、緩んだはずの緊張が再びジワジワと高まってくる。
緊張の度合いは、社長室に向かう時よりも格段に高い。
芽衣は無意識に表情筋をほぐしながら、副社長室のドアの前に立った。そして、ノックしようと拳を前に振り下ろした途端、ドアが開いて握った手が何か柔らかなものに当たる。
「え?」
目の前にあるダークグレーの壁を見つめながら、芽衣はパチパチと目を瞬かせた。よく見ると、自分の手が触れているのはスーツを着た男性の胸元だ。
芽衣はあわててうしろに下がりながら男性の顔を見上げた。
「ふ、副社長っ!」
「部屋の外でおかしな呻き声がしたから何事かと思えば……人の執務室の前で百面相か」
不機嫌そうに顰めた眉と、射るような目つき。
それでいて、正面から見た斗真の顔は、一言では言い表せないほど魅力的だった。
図らずも胸がときめいてしまい、芽衣は咄嗟に頭を下げて挨拶をした。
「お、お初にお目にかかります! 広報部の佐藤芽衣です! 社長直々の命を受けて、副社長の密着取材をさせていただく事になりました!」
「ああ、その話か」
斗真が眉間に縦皺を寄せながら、そう言った。
「とりあえず、中に入れ。話はそれからだ」
彼は、いかにも面倒そうな表情を浮かべて芽衣を部屋の中に招き入れる。
「失礼します」
芽衣は一礼して中に入り、促されるまま黒革の応接セットのソファに腰を下ろした。
斗真がテーブルを挟んで、芽衣の正面に座る。これほどの美男と接した経験がない芽衣は、瞬きをするのも忘れて彼の顔に見入った。
「君もとんだ災難だったな。芸能人じゃあるまいし、僕のプライベートなんか誰が興味を持つというんだ? 記事を書いても、骨折り損のくたびれ儲けになるのが関の山だ」
斗真に企画をバッサリと切り捨てられるなり、芽衣は思わず立ち上がって大きく頭を振る。
「そんな事はありません! 社内報のアンケートでは副社長に関する要望がどっさり届いているんですよ」
芽衣は両手を大きく広げて、量の多さを示した。
「僕に関する要望とは?」
斗真が指でソファを指して、立ち上がった芽衣に座るよう指示する。
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