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1巻
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しおりを挟む「そういえば衣織、三年の時に一緒にクラス委員してたじゃない。そのよしみで優先してもらえば? なんなら私が言ってきてあげようか」
「いやいやいや、朋美待って! それはいいよ!」
立ち上がろうとする朋美を慌てて押し止めて、衣織は首をぶんぶんと横に振った。
「なんでよ~。彼氏欲しいんでしょ? 前に、会社と自宅との往復だけじゃつまらないって言ってたじゃない」
不満そうな表情を浮かべた朋美は、ちらちらと風太郎のいる方を窺っている。目元が赤くなっているところを見ると、どうやら飲みすぎているようだ。
「確かに言ったけど、今はいいよ」
「今はいいって、今じゃなきゃいつ相談するのよ。風太郎のクリニックに予約入れるにしても、一年先までいっぱいだって、この間テレビで言ってたでしょ」
それは、衣織も知っていた。風太郎がメディアに登場するや否や、クリニックは大繁盛。彼自身はもちろん、他のカウンセラーもなかなか予約出来ないらしい。
「だって、わざわざ風太郎に相談とか……。なんか申し訳ないし、みんなのいる前で自分の事を話すのもちょっと……」
「なーに言ってんのよぉ。自分から積極的に動かなきゃ、彼氏なんか出来やしないよ!」
「わわっ、しーっ! しーっ! 朋美ったら、声が大きいよ!」
人差し指を唇に当て、衣織は必死に朋美に注意する。隣のテーブルにまで声が聞こえたのではないかと心配したものの、幸いこちらに注意を向ける者は誰一人いなかった。
「だってさ、衣織って昔から超がつくほどの奥手だし、いつまでたっても彼氏作る気配ないし、私本気で心配してるんだからね~!」
ダメだこりゃ。完全に酔っ払いのお世話焼きモードに入っている。朋美は高校の時から何かと衣織の事を気にかけてくれていたが、ここ最近では、それが恋愛に関する事に集中している。
「わかった! わかったから、もう少し小さい声で話してくれる?」
「はいはい。でもさ~、ほんと誰かいい人いないの? 大会社なんだし、適齢期の男性とかいっぱいいるでしょうに」
朋美が痛いところをついてくる。
「そりゃいるにはいるけど……。正直あまり接点がないんだよね。近くにいるのは既婚の役員ばっかだし、独身の男性社員とは話をするきっかけすら、ぜんぜんないし」
普段会話するのは自分の父親や祖父と同じ年代の人ばかりで、同年代の男性社員との絡みは仕事のみ。関係部署と直接やりとりをする事もあるが、そこから何かが生まれるわけでもなかった。縁がないものはないのだから仕方がない。
「ないったって、それじゃ駄目でしょ。考えてもみなよ、私達もう二十六歳だよ。あっという間に三十路を迎えて、気付いた時にはもうアラフォーでしたなんて事になったら、目も当てられないんだからね!」
まるでお見合いをすすめる親戚のおばさんみたいな口調で、朋美が言う。
「わ、わかってるけど、出会いがないんだってば。努力しようとは思ってるんだけど、なかなか……」
そう言って下を向く衣織に、朋美は同情の顔を向けた。
「わかるよ。今日だっていつもよりおしゃれしてるもんね。だけどねぇ……」
朋美の視線が、いきなり衣織のファッションチェックを始める。
「全体的にちょっと大人しすぎるんじゃないかな。そのワンピースも、会社のお偉いさん達には受けがよさそうだけど、同世代から見ると……真面目すぎて男がつけ入る隙もないって感じ?」
「つ、つけ入る隙って……」
やっぱり駄目か。朋美にまで駄目出しをされてしまった。自分なりに精一杯おしゃれして少しは進歩したと思っていたけれど、どうやら自己満足の域を出ていないようだ。
「メイクだってそう。それ、ほとんどすっぴんと変わんないよ。衣織、素材はいいんだから、それなりの格好してばっちりメイクすれば、あっという間に彼氏とか出来ちゃうって! まずは変わろう。そして、恋をしようよ!」
肩をバンと叩かれた衣織は、勢いで前につんのめってしまった。
「私だって出来る事ならそうしたいよ」
部屋の中は、それぞれの話し声が入り交じってだいぶ騒がしい。だから少しぐらい声を張り上げても、誰も気にしないだろう。お酒を飲んでいる事もあって、衣織は普段隠している胸の内を語り始める。
「だけど、具体的に何をどうすればいいのか、わかんないんだもの。自分を変えたい……外見も中身も。それでもって、素敵な彼と巡り会って、恋をして幸せになりたいっ」
手にしたグラスをぐいと傾け、冷たいジン・ライムを半分ほど飲み干す。頭の中に、ぼんやりとある映像が浮かんできた。素敵な笑みを浮かべた、背の高い憧れの王子様が。
ちらりと視線を移せば、風太郎の笑った顔が見える。彼こそ王子様に相応しい容姿と資質を兼ね備えた男性だ。
(おお神様! どうか私に風太郎クラスの彼氏を与えたまえ!)
「そうっ、その意気だよ!」
朋美の力いっぱいのハグを食らって、空想の世界を漂っていた思考が、いきなり現実に引き戻される。ふと気が付けば、朋美はもうレモンハイを立て続けに二杯空けている。ぐらぐらと身体を揺すられ、衣織の持っていたグラスの中身が零れそうになった。
「朋美、平気? だいぶ酔ってるよね?」
「平気よぉ。ね、今日はとことん飲もうよ。あ、あっちのグループにも誰かいい人いないか聞いてみようか。ねぇみんな、ちょっと聞いてくれる~?」
朋美が、斜め前にいるグループに話しかける。
「もう、ちょっと朋美ってば!」
これ以上この話を長引かせると、しまいには風太郎の耳に入るかもしれない。
衣織は慌てて朋美を引き戻して、彼氏がいない事はここだけの話にしてくれるよう頼み込んだ。
気になって風太郎をちらりと見ると、彼は次々に持ち込まれる相談事に耳を傾け、的確なアドバイスをしている。
(昔からああだったなぁ。そりゃあ人気カウンセラーになっちゃうよね。私だって風太郎に相談したいよ。どうやったら彼氏出来ますか? どうすれば上手く変身出来ますかって……)
だけど、きっとこうやって思い悩んでいるだけでは何の解決にもならない。どうにかしてこの現状から脱出しなくては。それはわかっているけど、具体的に何をどうすればいい? 恋をするには? 自分の外見も中身も変えるために必要な事は? ああ、これでは堂々巡りだ……
「えー、宴もたけなわではございますが、一次会はこれで終了~! 続いて二次会の会場に移りたいと思いまーす」
賑やかな部屋の入り口に立ち、戸田が大声を出した。それを合図に、帰り支度を終えた面々が席を立ち始める。はっと顔を上げた衣織も、時計を見て帰り支度を始めた。いつの間にか、もう十一時を回っている。
「衣織、二次会行くでしょ? 私、子供の面倒は実家に任せたから、今夜は朝までオッケーなんだ。久々に羽を伸ばすぞ~!」
立ち上がったところで、衣織は朋美に肩を抱かれた。
「んー、どうしようかなぁ。明日は早くからちょっと忙しいんだよね」
明日は朝一番で役員会議がある。いつもより早めに家を出て、会議室の準備をしなければならない。
「え~、いいじゃん、今日くらい付き合ってよ。あんたっていつもそうだよね、放課後も部活終わったら速攻家に帰っちゃってさぁ」
かなり酔っぱらっているらしい朋美は、傍らに置いていた衣織のショールを取り上げて抱え込む。
「ねぇ、ちょっとだけでもいいから行こうよ~。じゃなきゃ、これ返してやんない」
猫撫で声で懇願され、衣織は仕方なく妥協案を出した。
「わかった、行くわよ。だけど、終電に間に合うように帰るからね」
「やったぁ!」
朋美が、大げさに手を上げて叫ぶ。
気が付けば、部屋に残っているのは自分達だけだった。衣織は、朋美を入り口の外に押し出し、誰か忘れ物をしていないか一通り部屋の中を見回す。こんな癖がついたのも、担当役員である田代常務が忘れ物の常習犯だからだ。
「衣織、早く行こう。置いて行かれちゃうよ~」
「ごめん、先に行ってて。私ちょっとお手洗いに行ってくるから」
朋美が外に出て行ったのを見送ると、衣織は店の奥にある化粧室へと向かった。
ふと振り返れば、廊下の向こうに戸田と並んで歩く風太郎の後ろ姿が見えた。会計のそばにいた男性陣が風太郎を囲み、店の外に出て行こうとしている。八年ぶりに三メートルほどの距離に近づけたというのに、結局それ以上近づく事は出来なかった。
(あーあ、結局風太郎とは一言も話せなかったなぁ。この調子だと、二次会に行っても同じかも)
辿り着いた化粧室の前には、年配の女性客が四人、立ち話をしながら並んでいた。
列の最後尾に並んで、何とはなしに風太郎と初めて会った時の事を思い浮かべてみる。
それは、高校の入学式の日。電車で一時間弱かかるその高校に進んだのは、衣織のいた中学からは彼女ただ一人だった。周りを見ても、当然誰一人知った顔がおらず、緊張の中で式を終え、教室に入ったのを覚えている。
一クラスの生徒は全部で三十二名。衣織の後ろの席が風太郎で、すでに周りの注目を集めるほどのオーラを放っていた。
スポーツマンらしく髪を刈り上げ、きりりとした太い眉で、誰が見ても納得の美男子だったが、それだけではない独特の雰囲気がある。
誰にでも優しくフレンドリーだった風太郎は、すぐに人気者になった。そんな風太郎が後ろの席だったおかげで、彼と話すうちに自然とクラスに打ち解けられている事に気付いた。
学期毎に席替えがあったけれど、なぜかいつも席が近く班も同じ。それまで男子とはあまり話した事がなかったのに、風太郎が相手だとなぜか話しやすかった。
話す内容も多岐にわたって、普段突っ込んで話せない本の話や好きな映画の話も出来たり。
そうするうち、いつの間にか彼といるだけで胸がドキドキしている自分に気付いた。
あれだけの美男子だし、性格もいい彼の事だから当然といえば当然なのだが、衣織がそんな気持ちになったのは、生まれて初めての事だ。
だけど、風太郎に自分の気持ちを知られてしまえば、きっとこれまでの友達関係が崩れてしまう。
そう考えた衣織は、誰にも気付かれないよう徹底的に自分の気持ちを隠す事に決めた。
(そういえば、なんで風太郎の事をあんなに好きになっちゃったんだろうな……)
特別な出来事があったわけではない。気が付けば、もう彼の事が好きになっていた。そう自覚したのが、一年生の一学期半ば。三年生でまた同じクラスになれた時は、嬉しくて丸一週間浮かれ気分だった事を覚えている。
ようやくやってきた化粧室の順番で、衣織ははっと我に返った。用をすませ、急いで店の外に出て辺りを見回す。
「あ……あれ?」
店の前には、いくつかの酔っ払いグループがたむろしているものの、見知った顔は誰一人いない。
「えっ、嘘……。みんなどこ?」
もしかして、置いていかれたのだろうか。道の真ん中に進み、背伸びしながら視線をあちこちに巡らせてみると、遠くの方に薄い色のショールが揺れているのを見つけた。
「あっ……もう、朋美ったら!」
衣織が急いで駆け出そうとしたところ、手首をぎゅっと掴まれた。
「衣織!」
「えっ?」
驚いて振り向いた先には――にこやかな笑みを浮かべる風太郎の顔があった。
「ふっ、風太郎?」
(なんで? どうして風太郎が?)
突然の展開に頭がついていかず、衣織は口をあんぐりと開けたままその場に立ち尽くしてしまった。
さっきまで頭に描いていた高校生の頃の風太郎が、八年の月日を飛び越えて、目の前で笑っている。
「久しぶりだな」
「う、うん、久しぶり……」
完璧な笑顔、優しい声。それを数十センチの距離で見つめている今の状態が理解出来ず、衣織はパニックになる。
「えっと、どうしてここにいるの? みんなもう二次会のお店に行っちゃったよ。ほら、あそこにいるの、そうだよね? なんか私、置いてきぼりくらっちゃったみたいで……」
衣織が指を差した方向には、朋美に奪われたショールが、ゆらゆらと揺れている。
「ああ、さっきまでここで固まって騒いでたんだけど、通行人の邪魔になるからって俺が先に行かせたんだ。多分、半分以上は二次会に流れたかな。帰宅組はもうとっくに駅に向かった」
「そうなんだ……」
彼の顔と、徐々に見えなくなっていくショールを交互に見比べ、衣織は必死に頭を動かした。
風太郎はなぜここにいるのだろう。しかも、衣織と二人っきりで。
風太郎が握ったままでいる手首が、どんどん熱を帯びていっている気がする。
(いけない、冷静になれ、衣織!)
内心の動揺を悟られないよう平静を装い、衣織は問い掛ける。
「風太郎はなんでここにいるの?」
すると、風太郎は満面の笑みで答えた。
「衣織を見かけたから、待ってたんだ」
この上なく魅力的な彼の笑顔を、色鮮やかなネオンが照らす。濃褐色の瞳がきらきらと光って、まるで白馬に乗った王子様のように煌びやかだ。
(だ、だからって、なんで風太郎が待っているんだろう……?)
ほろ酔いの脳みそが一気に覚醒して、胸がドキドキしてきた。それと同時に、頬も火照ってくる。
(八年ぶりだから、どうしていいかわかんないよ! 話したいとは思ったけど、まさかこんな形で二人きりになるなんて――)
突っ立ったまま目を瞬かせる衣織を見て、風太郎がクスッと笑う。
「こんな時間に女性を一人だけ置いて行くわけにはいかないだろ。たちの悪い酔っ払いに絡まれるかもしれないし。男連中は結構出来上がっちゃってたから、比較的しらふの俺が残る事にしたんだ」
「あ……、あぁ、そうなんだ」
なるほど、さすが風太郎だ。的確に物事を判断して、一番良い対処方法を瞬時に選び出す。外見だけじゃなく、中身もかなりグレードアップした風太郎に改めて驚愕する。
高校時代からなんら変わりない自分とは大違いだ……
「待たせちゃってごめんね。えっと、風太郎はこれから二次会に行くんだよね?」
「衣織は?」
「ちょっとだけ顔を出そうかなって。でも明日朝一で会議だから、終電に間に合うように店を出るつもり」
「そっか。俺はどうしようか迷ってるんだ。そしたらちょうど衣織を見かけたから少し話したいと思って」
「え? わ、私と?」
思いがけない彼の言葉に、また心臓がドキリとする。
「うん。他のやつらとは全員話せたけど、衣織はまだだったからね」
「……そうなんだ。なんか、わざわざありがとう……」
「どういたしまして――って、なんだよ。妙に他人行儀な事言って」
照れてかしこまったところを、風太郎に軽く笑い飛ばされる。そのおかげで、かえって気が楽になった。
「だって、まさか風太郎が待ってくれてるとは思わなかったから。私も、風太郎と話したかったんだよ。でも、あれだけ囲まれてたら無理かなぁって。すごいね、風太郎。昔から人気者だったけど、今やそれが全国区に広がっちゃってるんだもの」
彼を目の前にして、しみじみとそう感じる。
「周りに恵まれたからな。いい先生に出会って、いい環境で働かせてもらって、いい感じで後押しされて今に至る、だ」
そうやって驕らないでいるところも昔のままだ。これだけのイケメンなんだし、ちょっとくらい自慢してもいいだろうに。元同級生というだけの関係だが、なんだか誇らしくて周囲に自慢したくなる。
「っと、ここにいると、通行人の邪魔になるな。ちょっとこっち行こうか」
「うん」
掴まれたままだった手首を軽く引かれて、ビルの合間のやや薄暗い路地に入った。
何気なく離された手首に、ほんのりとした温かさを感じる。風太郎といると、ドキドキもするけど、妙に落ち着く。この不思議な感覚は、高校の頃から彼と接するたびに感じていた。
「そう言えば、さっき飲み会で聞こえたんだけど、衣織って今彼氏いないの?」
「えっ!」
突然の質問に、衣織は思わず目を剥いた。
「嘘っ、聞こえちゃってた? 誰も聞いていないと思ってたのに……」
「しっかり聞こえてたよ。自分を変えたい、外見も中身も。そして、素敵な彼と巡り会って、恋をして幸せになりたいって」
「うわっ、そこまで聞こえちゃってたんだ……」
「うん」
向かい合って立つ風太郎とは、身長差が二十センチはあるだろうか。それを気にしてくれているのか、風太郎はやや前かがみになった姿勢で首を傾げる。
こうなったらもう開き直るしかない。妙に隠し立てするよりは、素直に打ち明けた方が楽になれる。
「……でも、当分無理そう。だって、恋をするにも自分を変えなきゃダメだし、だからって自分を変える方法なんて、何をどうやったらいいか……実のところ途方にくれちゃってるんだよね」
下を向いて、衣織はおろしたてのワンピースを見つめる。
「自己流で努力したところで、結果が伴わなきゃやってないのと同じだよね。こんなんじゃ、恋をして幸せになるなんて夢のまた夢かな……」
ふと顔を上げると、風太郎がこちらをじっと見つめていた。穏やかな表情をしているのに、なぜかやけにセクシーに見えて、一瞬息が出来なくなる。
「そんな事ないさ。正しい方法で取り組めば、それ相応の結果は出る」
「そうなのかな……」
「そうだよ。よかったら、俺がカウンセリングしてやろうか?」
「え……?」
風太郎のいきなりの発言に、衣織の思考が止まる。
「元同級生のよしみでさ。メンタル面からファッションまで、全部ひっくるめてカウンセリングする――いわば、衣織の個人的な恋愛カウンセラーってとこかな」
「……ほ、ほんとに?」
驚きのあまり、衣織はあんぐりと口を開けたまま風太郎の顔に見入った。ただでさえ忙しいのに、元同級生だからといってそこまでしてくれるなんて。
「うん、本当に。もちろん料金は取らない。俺、出来るだけカウンセラーの経験を積みたいんだ。雑誌やテレビに出てるとはいっても、まだまだひよっ子だしね。チャンスがあれば、新しいカウンセリング法を模索したり、チャレンジしてみたいと思って」
風太郎の目に、仕事に対する真摯な光が宿る。
なるほど、ギブアンドテイクというものか。衣織は恋愛に前向きになる事が出来るし、風太郎はカウンセラーとしての経験が積めるのだ。
「つまり……業務提携みたいなもの?」
「ははっ。上手い事言うな。そんな感じだ」
風太郎は、やっぱり風太郎だ。現状に甘んじる事なく、常に自分を磨こうとしている。衣織は、うんうんと頷きながら姿勢を正し、改めて風太郎に顔を向けた。
「もし衣織が本気で自分を変えたいと思っているなら、俺は全力でそれをサポートするよ」
「もちろん本気で自分を変えたいって思ってるよ! ほんとの本気、これ以上ないってくらい本気だから!」
風太郎からの願ってもない申し出に、衣織は思わず勢い込んで返事をする。
こんなチャンス、きっと二度と巡って来ないだろう。
「よし! じゃあ早速だけど、これからうちのクリニックに来ないか?」
「え? これから?」
「『善は急げ』だ。ここからタクシーで十分くらいの距離にあるから。衣織、終電は何時?」
「〇時四十分だよ」
「そうか。じゃあそれに間に合うように、またタクシーで駅まで送るよ。それでいい?」
「私はいいけど、風太郎は二次会行かなくていいの?」
「いいよ別に。これを機にもっと頻繁に同窓会やろうとか言ってたしな。またすぐにみんなに会えるよ」
「そっか――」
朋美には悪いけど、二次会には行かないとメールさせてもらおう。奪われたショールはまた今度会った時にでも返してもらえばいい。
「でも、なんだか申し訳ないな。風太郎の貴重な時間を無料でもらっちゃうとか……」
風太郎は料金は取らないと言ってくれているが、やっぱり社会人としてきちんと支払ったほうがいいのかもしれない。
「だから気にしなくていいって。むしろ、衣織の時間を割いてもらう分、俺が支払いをしなきゃいけないと思ってるのに」
「わわっ! そんな、滅相もない……!」
今をときめく人気恋愛カウンセラーが、無料でカウンセリングをしてくれるだけでもったいなさすぎる話なのに。
「そもそも俺が言い出した事だし、衣織は『クリニック』じゃなくて『俺』の個人的なクライエントだから。……ああでも、その代わり、ちょっと実験させてもらってもいい?」
「うん、もちろん! そんなのぜんぜん構わないよ」
完全に恋愛ベタをこじらせている自分の事。むしろ、積極的にいろいろと試みてほしいくらいだ。
「そうか。じゃあまずは大通りに出てタクシーに乗ろう――っと、寒いだろ、これ着とけよ。衣織のショール、朋美が持って行っちゃったもんな」
風太郎はおもむろに着ていたジャケットを脱いで、衣織の肩にふんわりと掛けてくれた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして。四月っていっても、まだ夜は寒いからな」
何気なく見せてくれる優しさに、つい心臓が跳ねてしまう。
坂道を通り抜けて大通りに出ると、ちょうど乗客を降ろしたばかりのタクシーが停まっていた。
「あれに乗ろう」
後部座席に乗り込むと、風太郎がドライバーに行き先を告げる。大通りに出た車は、交差点を渡り指示された細い道へと入っていった。窓を流れるなんでもない街の風景が、きらきらと輝いて見える。
(まるで、お城に向かうお姫様みたい――)
まさにそんな気分のまま到着した場所は、白壁に「垣田メンタルクリニック」というプレートが掲げてある五階建てのビルだった。
衣織はタクシーから降りて来た風太郎の後に続き、レンガで出来た階段を五段ほど上って、ドアの前に立つ。バッグからカードキーを取り出した風太郎はドアを開け、衣織の方を振り返って手招きをする。
「ようこそ、俺の職場へ。今日は特別に貸切だよ」
風太郎の歓迎の言葉に、衣織は気持ちを落ち着かせるため肩の力を抜いて深呼吸する。
「静かでいい場所だね。このビル全体がクリニックになっているの?」
「そうだよ。ドクターとカウンセラーが全部で六人。経営者の垣田先生は大学の先輩でもあるんだ。精神科医と臨床心理士の資格を持っていて、俺の目標であり尊敬する人だよ」
促されビルの中に入ると、暗かったフロアにぱっと明かりがつく。
温かみのあるオフホワイトの壁に、メープル色の床板。柔らかな曲線を描く受付カウンターの上には、ピンク色の薔薇の花が飾られている。
「結構雰囲気が柔らかいね。メンタルクリニックって、もっとかしこまったところかと思ってた」
そう言って、衣織はきょろきょろと辺りを見回す。クリニックというよりは、ちょっとしたリゾートホテルのロビーみたいだ。
「クライエントがリラックス出来るようなつくりにしてあるんだ。カウンセリング用の部屋もそれぞれ少しずつ違っていて、各自の状態に一番合う部屋に案内して話をする。衣織は……そうだなぁ、とりあえず上に行こうか」
エレベーターに乗り、風太郎が三階のボタンを押す。衣織は、少し前に立っている風太郎にちらりと視線を投げた。シャツの上からでも腕の筋肉がたくましく隆起しているのがわかる。高校の時よりも身長が伸びているし、身体つきも全体的にがっしりとしている。
(今もバスケ続けてるみたいだし、まさに文武両道って感じ。風太郎……ほんと、変わんないなぁ……)
思えば、同窓会が終わってから、信じられない幸運が次々に起こっている。
店を出たら、高校の時に憧れ続けた風太郎が待っていた。それだけでも驚きなのに、彼は自分から衣織のカウンセリングを買って出てくれ、今その打ち合わせをするために彼の職場まで来ている。
おまけに料金はかからないのだ。
(ちょっと待って。ほんと夢じゃないよね? 私、そこまで酔ってないよね? 日頃頑張っている貴女に、特別なプレゼントを――的な、どっきり企画だったりして……)
天井や壁にテレビカメラがないか探しそうになるものの、風太郎がそんな悪ふざけに加担するはずがないと、すぐに考え直した。
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