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一生のお願い

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「そろそろ帰ろうと思うの」

 健介が新しい小説に取り掛かろうとしていたところ。トモエが言った。

「え? あ、そう。それはどうも」

「どうもお世話になりました」

「あ、いいえ。こちらこそ」

 トモエが床に正座して三つ指を突いたので健介もすっかり恐縮した。



「最後に一つお願いがあります」

「何でしょう」

「結婚してください」

「は?」

 唐突な言葉に健介はあんぐりと口を開けた。



「吉乃さんと」

「ああ、なんだ。吉乃さんとね。……え?」

 吉乃とは健介が中学時代に好きだった女子の名だ。それどころか高校時代も大学時代も女性と縁が無く、それはひとえに吉乃のことを忘れていなかったためである。



「そして子供を産むの。かわいいかわいい女の子よ」

「ちょっと待て」



 言いたいことが色々あった。



「なんで君が彼女を知っている? 子供の性別は選べない。君は預言者か何かなのか? だいたい俺は結婚する気もないし子供も欲しくない」

「どうして結婚したくないの? 子供が欲しくないの?」

 トモエが静かに尋ねた。



「25にもなってコンビニバイトの男が結婚していいわけないだろ。とても相手を幸せにできるとは思わない。吉乃さんならなおさらさ。そうさ彼女は俺にとって特別だよ。だからこそもっといい男じゃないとだめなんだ。

 子供も同じ理由さ。俺みたいなぼけなすになったらどうするんだよ。親になるっていうのは責任重大なんだよ。そんなの俺には背負えないね」



 トモエは悲しそうな顔をしてゆっくりと首を左右に振った。

「大丈夫よ」

「君に何が分かる」

「分かるの。吉乃さんはあなたをずっと待っている」

 おもむろにトモエが立ち上がった。



「そんなわけない」

「二人は結婚して子供を設ける。あなたが兄弟との関係が悪いせいで一人っ子。わたしはずっと弟か妹が欲しかった」

「ちょっと待って。『わたし』って言った?」



「大した事件も病気もケガもなくその子は健やかに育った。しかも美人に」

 トモエは無視して続ける。



「わたしは尊敬するパパと同じ職業の小説家になった」

 先ほどから「わたし」と「その子」が混在している。



「そしてその子はもうすぐ結婚するの。式が近付いてきてちょっとブルーな気持ちになることがあったけどそれでも幸せな気持ちでいっぱいだよ」

 トモエは一歩一歩近づいてくる。



「そんな馬鹿な」

 健介は呟いた。

 目の前の女性は見れば見るほどあこがれ続けた吉乃に似ている気がする。

 突然健介の前に現れたこの女性は……、この娘は……。



 健介は椅子から崩れ落ちて床にへたりこんだ。冷汗の流れる感触を思い出した。あまりの恐怖に歯がカチカチと音を立てた。



 トモエが近付くのに合わせて健介は後退した。

「何をそんなにおびえてるの?」

 健介は壁際に追い詰められた。もう逃げ場はない。



 トモエがしゃがみこんで健介の顔を覗き込んだ。潤んだ目が健介の目を真っすぐに見ていた。

「そうそう、忘れてた。娘の名前はトモエ。『友』に『恵』まれるで友恵よ。友達が少ないパパがたくさん友達ができますようにって付けたの」

 健介は観念した。信じがたい事実を認めるほかなかった。

「そうじゃない。少なくても大事な友達ができるようにだ」



「なに? もう考えてあるの? 気持ち悪」

「うるさいよ」



「これは文字通り一生のお願いよ。私の人生がかかっているもの」

 友恵は再び健介の前に正座した。

「ママと結婚してください」

 そう言って深々と頭を下げた。健介は肉親に頭を下げたことが無かった。だいたい誰もがそんなものだろう。

「わかったよ」

 健介がそう言うと満足そうに笑った。友恵が現れてからのことで健介には一つ気付いたことがある。健介は小説を完成させるより、小説を評価されるよりも、友恵の笑った顔を見るのが一番嬉しかった。





 その日健介がアルバイトから帰るとトモエの姿は消えていた。書き置きの類も残っていなかったが、気にしなかった。そのうち再会するのだろう。





 健介は物を書くのに慣れてきたと思っていたが、どうやらそれは驕りだったようだ。「お久しぶりです」の簡単な文字列を打ち込み、吉乃へ送信するまでに三日三晩を要した。
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