7 / 8
一生のお願い
しおりを挟む
「そろそろ帰ろうと思うの」
健介が新しい小説に取り掛かろうとしていたところ。トモエが言った。
「え? あ、そう。それはどうも」
「どうもお世話になりました」
「あ、いいえ。こちらこそ」
トモエが床に正座して三つ指を突いたので健介もすっかり恐縮した。
「最後に一つお願いがあります」
「何でしょう」
「結婚してください」
「は?」
唐突な言葉に健介はあんぐりと口を開けた。
「吉乃さんと」
「ああ、なんだ。吉乃さんとね。……え?」
吉乃とは健介が中学時代に好きだった女子の名だ。それどころか高校時代も大学時代も女性と縁が無く、それはひとえに吉乃のことを忘れていなかったためである。
「そして子供を産むの。かわいいかわいい女の子よ」
「ちょっと待て」
言いたいことが色々あった。
「なんで君が彼女を知っている? 子供の性別は選べない。君は預言者か何かなのか? だいたい俺は結婚する気もないし子供も欲しくない」
「どうして結婚したくないの? 子供が欲しくないの?」
トモエが静かに尋ねた。
「25にもなってコンビニバイトの男が結婚していいわけないだろ。とても相手を幸せにできるとは思わない。吉乃さんならなおさらさ。そうさ彼女は俺にとって特別だよ。だからこそもっといい男じゃないとだめなんだ。
子供も同じ理由さ。俺みたいなぼけなすになったらどうするんだよ。親になるっていうのは責任重大なんだよ。そんなの俺には背負えないね」
トモエは悲しそうな顔をしてゆっくりと首を左右に振った。
「大丈夫よ」
「君に何が分かる」
「分かるの。吉乃さんはあなたをずっと待っている」
おもむろにトモエが立ち上がった。
「そんなわけない」
「二人は結婚して子供を設ける。あなたが兄弟との関係が悪いせいで一人っ子。わたしはずっと弟か妹が欲しかった」
「ちょっと待って。『わたし』って言った?」
「大した事件も病気もケガもなくその子は健やかに育った。しかも美人に」
トモエは無視して続ける。
「わたしは尊敬するパパと同じ職業の小説家になった」
先ほどから「わたし」と「その子」が混在している。
「そしてその子はもうすぐ結婚するの。式が近付いてきてちょっとブルーな気持ちになることがあったけどそれでも幸せな気持ちでいっぱいだよ」
トモエは一歩一歩近づいてくる。
「そんな馬鹿な」
健介は呟いた。
目の前の女性は見れば見るほどあこがれ続けた吉乃に似ている気がする。
突然健介の前に現れたこの女性は……、この娘は……。
健介は椅子から崩れ落ちて床にへたりこんだ。冷汗の流れる感触を思い出した。あまりの恐怖に歯がカチカチと音を立てた。
トモエが近付くのに合わせて健介は後退した。
「何をそんなにおびえてるの?」
健介は壁際に追い詰められた。もう逃げ場はない。
トモエがしゃがみこんで健介の顔を覗き込んだ。潤んだ目が健介の目を真っすぐに見ていた。
「そうそう、忘れてた。娘の名前はトモエ。『友』に『恵』まれるで友恵よ。友達が少ないパパがたくさん友達ができますようにって付けたの」
健介は観念した。信じがたい事実を認めるほかなかった。
「そうじゃない。少なくても大事な友達ができるようにだ」
「なに? もう考えてあるの? 気持ち悪」
「うるさいよ」
「これは文字通り一生のお願いよ。私の人生がかかっているもの」
友恵は再び健介の前に正座した。
「ママと結婚してください」
そう言って深々と頭を下げた。健介は肉親に頭を下げたことが無かった。だいたい誰もがそんなものだろう。
「わかったよ」
健介がそう言うと満足そうに笑った。友恵が現れてからのことで健介には一つ気付いたことがある。健介は小説を完成させるより、小説を評価されるよりも、友恵の笑った顔を見るのが一番嬉しかった。
その日健介がアルバイトから帰るとトモエの姿は消えていた。書き置きの類も残っていなかったが、気にしなかった。そのうち再会するのだろう。
健介は物を書くのに慣れてきたと思っていたが、どうやらそれは驕りだったようだ。「お久しぶりです」の簡単な文字列を打ち込み、吉乃へ送信するまでに三日三晩を要した。
健介が新しい小説に取り掛かろうとしていたところ。トモエが言った。
「え? あ、そう。それはどうも」
「どうもお世話になりました」
「あ、いいえ。こちらこそ」
トモエが床に正座して三つ指を突いたので健介もすっかり恐縮した。
「最後に一つお願いがあります」
「何でしょう」
「結婚してください」
「は?」
唐突な言葉に健介はあんぐりと口を開けた。
「吉乃さんと」
「ああ、なんだ。吉乃さんとね。……え?」
吉乃とは健介が中学時代に好きだった女子の名だ。それどころか高校時代も大学時代も女性と縁が無く、それはひとえに吉乃のことを忘れていなかったためである。
「そして子供を産むの。かわいいかわいい女の子よ」
「ちょっと待て」
言いたいことが色々あった。
「なんで君が彼女を知っている? 子供の性別は選べない。君は預言者か何かなのか? だいたい俺は結婚する気もないし子供も欲しくない」
「どうして結婚したくないの? 子供が欲しくないの?」
トモエが静かに尋ねた。
「25にもなってコンビニバイトの男が結婚していいわけないだろ。とても相手を幸せにできるとは思わない。吉乃さんならなおさらさ。そうさ彼女は俺にとって特別だよ。だからこそもっといい男じゃないとだめなんだ。
子供も同じ理由さ。俺みたいなぼけなすになったらどうするんだよ。親になるっていうのは責任重大なんだよ。そんなの俺には背負えないね」
トモエは悲しそうな顔をしてゆっくりと首を左右に振った。
「大丈夫よ」
「君に何が分かる」
「分かるの。吉乃さんはあなたをずっと待っている」
おもむろにトモエが立ち上がった。
「そんなわけない」
「二人は結婚して子供を設ける。あなたが兄弟との関係が悪いせいで一人っ子。わたしはずっと弟か妹が欲しかった」
「ちょっと待って。『わたし』って言った?」
「大した事件も病気もケガもなくその子は健やかに育った。しかも美人に」
トモエは無視して続ける。
「わたしは尊敬するパパと同じ職業の小説家になった」
先ほどから「わたし」と「その子」が混在している。
「そしてその子はもうすぐ結婚するの。式が近付いてきてちょっとブルーな気持ちになることがあったけどそれでも幸せな気持ちでいっぱいだよ」
トモエは一歩一歩近づいてくる。
「そんな馬鹿な」
健介は呟いた。
目の前の女性は見れば見るほどあこがれ続けた吉乃に似ている気がする。
突然健介の前に現れたこの女性は……、この娘は……。
健介は椅子から崩れ落ちて床にへたりこんだ。冷汗の流れる感触を思い出した。あまりの恐怖に歯がカチカチと音を立てた。
トモエが近付くのに合わせて健介は後退した。
「何をそんなにおびえてるの?」
健介は壁際に追い詰められた。もう逃げ場はない。
トモエがしゃがみこんで健介の顔を覗き込んだ。潤んだ目が健介の目を真っすぐに見ていた。
「そうそう、忘れてた。娘の名前はトモエ。『友』に『恵』まれるで友恵よ。友達が少ないパパがたくさん友達ができますようにって付けたの」
健介は観念した。信じがたい事実を認めるほかなかった。
「そうじゃない。少なくても大事な友達ができるようにだ」
「なに? もう考えてあるの? 気持ち悪」
「うるさいよ」
「これは文字通り一生のお願いよ。私の人生がかかっているもの」
友恵は再び健介の前に正座した。
「ママと結婚してください」
そう言って深々と頭を下げた。健介は肉親に頭を下げたことが無かった。だいたい誰もがそんなものだろう。
「わかったよ」
健介がそう言うと満足そうに笑った。友恵が現れてからのことで健介には一つ気付いたことがある。健介は小説を完成させるより、小説を評価されるよりも、友恵の笑った顔を見るのが一番嬉しかった。
その日健介がアルバイトから帰るとトモエの姿は消えていた。書き置きの類も残っていなかったが、気にしなかった。そのうち再会するのだろう。
健介は物を書くのに慣れてきたと思っていたが、どうやらそれは驕りだったようだ。「お久しぶりです」の簡単な文字列を打ち込み、吉乃へ送信するまでに三日三晩を要した。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
愛した彼女は
悠月 星花
大衆娯楽
僕、世羅裕(せらゆたか)は、大手会社から転職したその日、配属された先で橘朱里(たちばなあかり)という女性と出会った。
彼女は大輪の向日葵のように笑う人で、僕の心を一瞬で攫っていってしまう。
僕は、彼女に一目惚れをしたのだ。
そんな彼女に、初めて会って30分もしないうちに告白をして玉砕。
当たり前だが……それでも彼女の側でいられることに満足していた。
年上の彼女、年下の僕。
見向きもしてくれなかった彼女が、僕に笑いかける。
いつの日か、彼女の支えとなるべく、今日も今日とて付き従う僕のあだ名は忠犬ワンコ。
彼女の笑顔ひとつを手に入れるため、彼女と一緒にお勤めしましょう。
僕は、考える。
いままでの僕は、誰にも恋をしてこなかったんじゃないかと……
橘朱里が、僕にとって、初めての恋だったのだと。
初恋は実らない?いんや、実らせてみせるさ!必ず、彼女を振り向かせてみせる。
もう、振られているけど……そんなのは……ちょっと気にするけど、未来を想う。
朱里さんが、彼女が、僕を選んでくれるその日まで……
ずっと、ずっと、彼女を支え続ける。
気持ち悪いだって……?彼女が気にしてないから、僕からは口に出さない。
僕が朱里さんと出会って初めて恋を知り、初めて愛を知った。
彼女となら……永遠さえ、あるのではないかと思えるほどである。
最初の恋を教え、最後に愛を残していってしまった人。
赦されるなら……ずっと、側にいたかった人。
今は、いないけど、そっちにいくまで、待っていてくれ。
必ず、迎えにいくからさ……朱里。
ある文子官の日常
紫翠 凍華
大衆娯楽
一人の文子官が、しっかり者の先輩の進めで士官した先の日常(非日常?)、ただ上司が・・・
(それネタバレするからダメだよ)
そこ書いとかないと読んで貰えないかも・・・
(私の話しでしょ)
・・・涙あり、感動の
(嘘は辞めようね)
(私、黒龍国、文子官、仙子のお話です、楽しんで頂けると幸です。)
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
亀と千代さんの徒然なる日々
チェンユキカ
大衆娯楽
この穏やかな日々が、いつまでも続くと思っていたのに……。
『亀』は、一人暮らしの老婦人・千代さんと何年も一緒に暮らしている。
時々尋ねてくる友人や息子家族とのやりとり、一人で気ままに過ごす姿、亀は千代さんのことをずっと見守っていた。
亀は気付いていなかった。ただただ平穏に流れる二人の時間に、いつか終わりが来ることを……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる