上 下
2 / 30
1章

2:もう一人の行き倒れ、犬を拾う

しおりを挟む
 服の袖でレンズを磨き、かけなおすと通りの反対側で何やら事故があったらしい……クリアになった視界には真っ二つに分かれた車が街灯とどこかの民家に突っ込んでいるのが見えた。

「朝から騒々しいわね……」

 丁度、手持ちのお金で……なけなしの10銭で紙芝居のおじさんから飴を買った。
 ぺろりと舌を飴に沿わすとほんのりと甘い、大事に食べなければならない最後の食糧だ。
 
「こっちは静かに野垂れ死ぬかもしれないのに」

 甲高い声音で自分の未来を口にする。
 このままでは生活に詰む……無一文、ツテ無し、眼鏡有り。
 目深にかぶったフードから覗くのは高価な視力補正具、職人が磨き上げたガラスのレンズを嵌めた丸メガネ。

 着の身着のまま、すでに一週間。
 手持ちのお金はあっという間に底を尽いた。

「働くにしてもこの国じゃ目立つ……」

 ぐぅ…………

 まるで同意するかのようにお腹が鳴る。
 虚しい……。

「……あの事故の処理、手伝ったら1円くらいくれないかしら?」

 よくよく見れば結構な大事故だ。
 けが人の手当て位なら師から教わっている。
 しかし、なかなか踏ん切りがつかない……もっといい手はないだろうか?
 そもそも人と話すのが苦手だ……あの場に飛び込んでもどうしたらいいか慌ててしまうのがオチな気がする。

「とりあえず、公園にでも行こう……水呑みたい」

 ぺろぺろと結論は出ないまま小さな飴を舐めつつ……とぼとぼと路地に入った。
 人目を避ける様に細い道を選ぶのには訳がある。

「もういいかな」

 春先の東京はうららかで、暖かい日差しなのに被っていたフードがその答えだった。
 ぱさり、と脱いだフードから出てきたのは良く映える綺麗な金髪と吸い込まれるような青い瞳。
 
「シャワー……浴びたい」

 ただし手入れはされて無く、髪はあちこち跳ねてぼさぼさ……。
 一度覚悟を決めて公園の水道で水を被ってみたが……夜はまだ肌寒く震えて眠れない。
 本当に生きるのに困り果てる寸前だった。

 そんな時……

 ――ぐぅ……

「うん?」
 
 思わず自分のお腹が鳴ったのかと錯覚するくらい、明確な音に振り向く。

「あれ?」

 そこには電信柱の影に同化するんじゃないかと言う位、力無く、覇気の無い老人がへたり込んでこちらを見ていた。
 つい今さっき、通り過ぎる時には居なかったはず。
 首を傾げつつも観察すれば、白髪のおさげと言うなかなか特徴的で着物の上に藍色のロングコートを羽織っていた。

「……何あれこわい」

 君子危うきに近寄らず、そそくさとその場を離れようとするが……

 ――ぐぐぅ……

「…………」

 再び主張する腹ペコのサイン。
 仕方なくちらりと振り向くと、今度は目が合った……。
 老人とは思えぬほどしっかりとこちらが見えているらしく、自分の髪と瞳に視線を感じる。
 
「……無理、文無し」

 きっと自分の飴を見てしまってお腹の音が鳴ったのだろうと可哀想だが現実を伝えた。
 期待させてはダメだ、ついてこられても……そこまで考えてふと思う。

「犬みたい」

 それが聞こえたのだろうか、老人の首がかくんと垂れる。
 ますます再現度が上がる犬のような仕草に……とうとう耐え切れず近寄ってしまった。

「お腹、すいてる?」

 目の前まで歩き、目線を合わせる様にしゃがむとその老人の瞳がはっきり見える。
 憔悴はしているけど力強い意思を宿した優しい眼差し。
 答えてくれるだろうかと見つめたまま待っていると、老人の口がゆっくりと開いた。

「お嬢ちゃんは日本語が、わかるのか?」

 どうやらこっちが日本語をしゃべった事に驚いていたらしい。
 老人は老人で近くで見たら愛らしい少女であることに驚く、ずいぶんと野暮ったい灰色の外套に隠れているが……その胸の辺りがしっかりと膨らんでいた。

「うん、日本生まれの日本育ち」
「そうか、つい珍しくて見てしもうた……すまぬな」
「良いよ、慣れてる」
「つかぬ事を聞くが……銀行とはなんだか知っておるか?」
「……馬鹿にしてる?」
「しておらぬ……」

 少女は目を細めて老人を睨むが……困り果てたその表情に嘘は見つけられなかった……。

「知ってる」
「金の降ろし方は?」
「知ってる」
「どこにある?」
「この先の公園の米屋の隣……あなた。この辺の人じゃないの?」
「この辺で住んでおった……と思う」
「……思うって、ずいぶん曖昧な」
「一人暮らしが初めてでの。なんもわからんのじゃ」
「……その年で?」

 少女が見る限り老人はいい年に見えた。
 一人暮らしをした事がない、とは言うものの……銀行を知らないとは謎は深まるばかり。
 しかし、身なりは良いし腰の刀も上物だろう。

「本当に、わからんのじゃ」
「そっか……」

 迷う、なんか面倒そうな老人だ。
 
「見たところ、お嬢さんも困ってる様子。無事にお金が降ろせたら飯ぐらいは恩として返せる……頼まれてくれまいか?」

 年長者に失礼だがまるで雨に打たれて媚を売る子犬の様に、見えてしまう。
 だから……ほんの気まぐれで、ごはんの為に。

「文月灯子……」
「うん?」
「文月灯子って言うの……」
「儂は……蓮夜、水無月蓮夜と言う。よろしく頼む」

 灯子は蓮夜に手を差しのべた。
 しっかりと、その手を握り返す蓮夜の顔には安堵の二文字が浮かんでいる。

「じゃあ、こっち」

 思いの他しっかりと立ち上がった蓮夜を連れて、灯子は道を先導した。
 お腹が空いている事も考慮して(お互いに)ゆっくり目に歩いていくのだが……灯子はたびたび蓮夜を振り返る。

「どうしたのじゃ?」

 あまりにも気にされて……蓮夜も自分が何か変な格好をしているのかとコートを引っ張り、身なりを確認する。

「いや、足音しない」
「ああ、すまぬ……長年の癖でな」

 灯子の言葉に合点が言った洞爺が草履を鳴らした。
 
「変な人……」

 それ以上は追及せず、灯子はふらりふらりと独特な歩き方で進んでいく。
 しばらく進むと鉄棒と砂場がある小さな公園に突き当たり、その公園を突っ切ると少し広めの道路に出た。
 灯子の言う通り、その右側に米屋が出てきた。

「あの隣の背の高い建物が銀行。通帳と身分証明書があればお金がおろせる」
「身分証明書とはなんじゃ?」

 かくん、と肩を落とす灯子。
 そこからか!? と心の中で叫びつつも……ごはんの為。

「これくらいの紙に名前と住所が書いてある奴」

 指ではがきサイズ位の大きさを示すと、蓮夜は一つ頷きコートの内ポケットから一枚の紙を出した。
 それには蓮夜の生年月日と名前、何やら複雑な文字が書かれた判子が一つ押されている。

「これかの?」

 その紙を受け取り、灯子は首を傾げた。
 住所も無い、本籍も無い、しかし確かに紙の一番上には身分証明書と書かれている。
 まあ判子も押されているし問題は無かろうと、灯子は大丈夫と蓮夜にそれを返した。

「通帳はあるの?」
「これを見せればいいと言われとる。しかし、見せたが書類に何やら書いてほしいと言われて断念したのじゃ」
「それは多分金額を書く紙……いくら貯金あるの?」
「分からぬ」

 だめだこりゃ、基本から教えないといけないが今は面倒だ。
 解決策は一つしかない。

「じゃあ、受付にその身分証明書を持って『預金全部降ろしたい』って言えば良い。そしたら受付の人が何円入ってるか教えてくれるからその金額を紙に書く」
「分かった」

 幸い昼過ぎで人も多くない、すぐにお金を降ろせるだろう。
 最近増えてきた鉄筋コンクリートのビルに視線を送り、蓮夜を送り出した。

「百円くらい入ってると良いんだけど」

 なんかあまりにも無頓着と言うか、生活力の欠片も見えない蓮夜に灯子は早くも諦めの色が隠せない。
 一食くらいまともに食べれれば御の字だ。
 しばらくぼーっと人の流れを眺めているとみんなが自分を注目する。
 
「あ、いけない」

 ついうっかり空腹も相まってフードを被り忘れていた。
 もぞもぞと億劫そうに被り直していたら……とうとう飴が無くなって棒のだけが残される。

「はあ……終わった」
 
 もうこれで灯子は眼鏡と服しか無い。
 重くなる気持ちと瞼を何とか押し上げ銀行の出入り口を見ると……意外と高い身長の蓮夜が遠目にわかるぐらい項垂れながらこちらへ歩いて来た。

「終わったぁぁ」

 あの様子では大した金額を持ってない。
 無駄足だったと後悔するがまあいい、どちらにせよ手持無沙汰だったのだから暇つぶしと割り切ろう。

「戻ったのじゃ」

 物憂げな蓮夜の言葉に気のない返事を返す灯子。
 
「で、いくらだった?」
「おろせない……」
「ゼロって事ね」
「いや、銀行にその金額は今用意できないと断られた……」
「そうよね。ゼロじゃおろせないわよね……ん?」

 なんか予想と違う。

「用意できない?」
「うむ、支店では扱いきれんと……」
「待って、一分私に頂戴」
「分かった」

 …………扱いきれない? 支店とは言え銀行が?
 もしかしてこの老人、いや……蓮夜『様』は大変高貴なご身分なのでは???
 灯子の脳裏に今までの犬扱いとぶっきらぼうの対応が蘇る。

 くるり。

「うん? どうしたのじゃ灯子殿」

 背中を預けていた街灯へ向かい、灯子が身を回した。
 次の瞬間。

 ――ガンガンガンガン!!

 灯子はいきなり街灯に頭を打ち付け始めた!
 これには蓮夜も驚く。

「な!? 待て!! 何をしておる!?」
「反省中」
「何を!?」
「蓮夜……いえ、蓮夜『様』……今度はぜひ私を連れて行ってください。すべて良しなにしましょう」
「なんか口調がおかしいが!?」
「いえ、これが本来の私の口調です。さっきまでの私はただのまやかしです」
「ええぇ……」

 額を真っ赤にして涙目の灯子の気迫に気圧されして、蓮夜は後ずさった。
 何が彼女の琴線に触れたのか全く把握できない。
 ちなみに、灯子を連れて行った後……無事にお金を降ろせた蓮夜は意気揚々と浅草で評判の蕎麦屋へと向かうのだった。

しおりを挟む

処理中です...