あじさい

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 熱海の温泉旅館で、私は浴衣を着てPCに、ワードプロセッサーに、向かい合っていた。むむう、なんつって。お茶を飲んだりして。それっぽく急須で椀に注いだりして。
 立ち上がって伸びをする。窓の外を見る。部屋の窓からは海が見えた。素晴らしい海。窓を開けると波音が聞こえる。
 今日で三日目。カンヅメ生活は思っていた以上に辛かった。正直、満足のいくものはまだ書けていない。
 初日の夕。大浴場で長時間、湯に浸かった後、牛乳を飲みながら髪を乾かしていたら、少し思うところがあり、部屋に帰ってから書いてみた。それで、けっきょく朝方近くまで書いて、一万字くらい書いたのだが、翌日、再度読み返してみるとあまりしっくり来ず、これは駄だなぁ。という結論に至り、没にした。それが昨日のことで、そこからは何も書けていない。
 私は開け放した窓のサッシに腰を掛け、煙草に火を点けた。溜息をつき頭を掻く。外は暖かく、ぽかぽかの陽気で、波は一定のリズムで寄せては返していた。
 部屋の中に目をやる。机の上には開かれたPC、真っ白な画面のワードプロセッサー、ポット、急須、椀。部屋の隅にはボストンバッグ、脱ぎ散らかした服、その下にちらりと、行き道で買った「常紋 夏号」の角張った無線綴じ製本が見える。
 そう、もう結果は出ているのだ。
 しかし怖くて見れない。私はこの「常紋 夏号」を新幹線乗り場にある書店で購入したきり一度も開けていない。表紙には「第四十一回 常紋寺文学賞 受賞作発表」とある。
 沈黙。
 て、私しかいないから当たり前なのだけど。私と「常紋 夏号」は無言で睨み合っていた。互いの出方を伺うように。
 溜息をつき再度PCの前に座る。私の負けだった。まぁ、だけど、私はここに新しい小説を書きにきたのだから。賞のことはとりあえず置いておいて。うん。今は小説に集中。なんて思ってもやはり気になる。失敗したなぁ。あんなもん買わんければよかった。
 けっきょくその日は一行も書けなかった。

 四日目。気分を変えるために午前中から外に出て、海辺を散歩してみた。
 水面、きらきらと光っていて、私はその横を歩いた。煙草を喫いながら。風が気持ちよくて。国道を車がびゅんびゅんと通り過ぎる。
 水面に手をあてる。冷たかった。こりゃ、まだ泳ぐのは無理だな。見渡す限り誰も泳いでいる奴はいない。
 そう言えば少し前に配偶者と琵琶湖に行ったなぁ。あれは何月だっけ。少なくとも仕事はもう辞めていた。そうだ、確か一本松文学賞に落選した後だ。一本松文学賞かぁ。今や昔だな。最早。
 てか、配偶者。
 初日の夜。五回くらい電話がかかってきた。
 そりゃそうだよ。何も言わずに突然出て行ったんだから。何事かと思うわな。普通。私は屑は屑だが、家にはちゃんと帰る屑で、めためたに飲んでいても、激しい喧嘩をしても、帰る。我が家に。だからこんなふうに黙って何日も帰らない、なんてことは過去一度も無かった。
 翌朝もまた数回着信があり、私はとうとう罪の意識に耐えきれなくなり携帯電話の電源を落とした。それきり。配偶者としてもそれ以上はどうしようもない。分かってるよ、もちろん。悪いことをしていることくらいは。
 海岸に立って波の揺れを見てる。
 浴衣の袖に手を入れて。何かを考えている顔をして。
 でも特別何も浮かばなかった。
 あかんのう。なんて思っていたら、気付いたら隣に知らない爺さんが立っており、同じように海を見ていた。煙草の煙をゆっくり鼻から出して、ちょっと笑顔で。
「綺麗やな」
 爺さんが突然、自然に言うから、最初、自分に話しかけられたのだと気付かなかった。少し困惑したが、状況的に今ここには私と爺さんしか居らず、そうなるとまぁ、今の言葉は私に向けられたものなんだろうな、と納得して、私は爺さんの目を見て相槌を打った。
「綺麗やと思わんか」
 再度、笑顔で。
「綺麗ですね」
「やろ」
「はい」
 私の回答に満足したのか、爺さんはにかっと笑った。私は、別に何とも言えなかったので真顔を崩さなかったが。素面。
「あんた、観光客か? 地元の人間か?」
「観光ではないですが、旅の身です」
「ほう。仕事か?」
「ま、仕事ですね。仕事と言えば。まぁ仕事ってことで」
「そっか。結構なこっちゃ。ええとこやろ? ここは」
「そうですね」
 それは本当にそうだった。熱海。生まれて初めて来たのだが。良いところだった。旅館も古風で良い感じだし、こんな中途半端で難な身でなかったらもっと楽しめたと思う。
「仕事で熱海とはまた乙やな。まぁ楽しんでいけや」
「はぁ」
「今の時期は、ほら、海老がええやろ」
「海老?」
「海老」
「海老なんですか……今は?」
「そりゃそうじゃろ。何や、まだ食うてないんか?」
「ええ、食べてないですね」
「自分、それはあかんわぁ。海老食わな。海老。熱海と言えば海老やろう」
「あ、そうなんですか。知らなかった」
「海老だよ。兄ちゃん。ははは」
 爺さんはそう言って私の背中を大きく二回叩いて笑った。薄い浴衣の下、ちょっと肌が痛かった。熱海と言えば海老。聞いたことないなぁ。マジなんか? まぁ、私も別に地域特産品の類に詳しいわけではないんだけど。
 爺さんがしつこいから、あまり納得していなかったけど、とりあえず、はぁ、なんて曖昧なリアクションをしていた。何でも良かったしさ、別に。海老でもイカでも。蛸でもさ。
 じきに爺さんは去り、私も旅館へ帰ったのだけど、旅館の人に特産品のことを聞いてみるも、海老のことなんて名前も出てこなかった。何なの。もう。
 そうして四日目も駄目だった。
 七日目には旅館の予約が終わるから、後二泊三日。
 夕方、少し雨が降る。梅雨っぽく。しとしとと。列島を濡らしていた。

 五日目の昼、少し浮かんだアイデアを書き留めていたら電話が鳴った。
 私はもうずっと固定電話の無い生活を送っていたので、最初、それが部屋の電話だと気付かなかった。反射的に携帯を探し、脱ぎ捨てた上着のポケットから取り出すも、鳴ってない。画面は真っ暗だった。あ、そう言えば電源切ったんだった、私が。
 視界の端に部屋に設置された固定電話を見つけた。けたたましく鳴ってる。あいつか。あいつだったか。
「もしもし」
「こちらフロントでございます。お客様宛に旅館にお電話が入っていますのでお繋ぎいたします」
「あ、はい」
 フロントのおばはんは有無を言わさぬ感じだった。彼女は少し強引なところがある。この数日で何度かそう感じることがあった。
 それで私はあっさり、あ、はい、なんて言ったけど、その後に、もしやこの電話は配偶者からか? という考えが浮かび、緊張が走った。しまった。迂闊だった。逐電五日目。どないな感じで話せばいいのだろう。
 なんて思ったが電話は中畑からだった。
「なんだ、中畑か」
「なんだとはなんだ。人が心配して電話してやったというのに」
「あぁ、ありがとう。心配してくれたのか」
「お前、携帯の電源切ってるだろ。全然繋がらないぞ」
「あ、切ってる」
「まったく。奥さんも心配してたぞ。俺のところにも電話がきた」
「マジか」
「お前、また何も言わずに行ったんだな」
「うん。いや、時期が来たら話すつもりだったんだよ。ただ今はまだよう言いだせなくて……お前、まさか話したのか? ここの旅館のこととか私の状況とか」
「話してないよ。話せるかよ、そんなこと。自分で説明しろ」
「うん」
「で、小説は? 書けてるのか?」
「……」
 中畑は、私の沈黙から何かを悟ったようだった。
「そんなことだろうと思った。どうすんだよ。後二日だぞ」
「全く書けてないわけじゃないんだよ。書いてることは書いてる。今もちょっと書いてた。ただ納得いかないんだよなぁ。何か」
「小説のことはよく分からんけどさ。まぁ、頑張れ。で、そろそろ奥さんに連絡してやれよ」
 電話の向こうでライターを擦る音が聞こえた。今、昼一時半。仕事中か。事務所の喫煙所だろうか。
「分かった」
「頑張れよ。けっこうマジで」
「うん。ありがとう」
 それで電話を切った。
 夕飯前まで書き進めた。
 また一万文字くらい書いて。少し手が疲れた。腰も痛い。
 トイレに立って戻って来たタイミングで煙草を喫い、ここまで書いた内容を見返してみる。二時間くらいだろうか。少しずつ手直ししながら読んでいたのだが、読み終わった感想はまたもやもやとしたもので、二文字で言うと稚拙。三文字で言うと落第点。
 つまり、またしても駄だった。
 私は保存せずにワードプロセッサーのファイルを消し、そのまま横になった。
 掴めないかもしれん。大事な何かを。
 そう思った。
 その時、横になった低い視界、畳の大地の向こう、脱ぎ捨てた服の下に「常紋 夏号」が居るのが見えた。
 目が合っていた。完全に。
 私はそれに手を伸ばした。でも指先、全然届かなくて。仰向けに寝そべったまま畳の上をもぞもぞして、標的に、「常紋 夏号」に私は向かう。毒蜘蛛のようだった。
 しばらくして、やっと掴んで、それを天井に掲げてみた。ぶら下がっている蛍光灯にかざして、逆光でやや見にくいが、表紙にはやはり太めの明朝体で「第四十一回 常紋寺文学賞 受賞作発表」とある。変わらず。変わらないよね、それは。印刷なんだからさ。きちっと刷られてるんだから。
 結果を見てみようと思った。
 だってどうせ駄目だ。私は文学に愛された人間ではない。真っ正面から向き合ったこの数日で、それはもう痛いくらい分かったよ。
 私の自信は最早、蚊の心臓よりも小さなものになっていた。指で潰せるくらいの。少量の薬剤で御陀仏してしまうくらいの。
 どうせあと二日で終わる。殺せよ。いっそ一思いに。サクッとやれ。そんな気持ちだった。
 私は意を決して頁を開く。最初に開いたのは発表とは全然違う頁だった。知らない作家の知らない小説の中盤くらいだった。

「女の子らの背中には揃って英語で『デュラ・エン・ジュレ』なんや、それ。彼女らのカッコからしておそらくビジュアル系バンドかなんかの名前なんやろう。変な名前。駄目だ。俺はどうしようもなく歯が磨きたかった」

 何のことかまったく分からなかった。
 全然シチュエーションが読めない。何を言うとんねん。あ、でも、ここまで意味が分からんと逆にちょっと気になってしまうなぁ。
 そんなこんなで周辺の頁を繰っていると、突然、部屋の襖が開いた。
「わっ」
「あ、すいません。驚かしてしまいましたか」
 フロントのおばはんだった。私は反射的に身体を起こしていた。
「どうしたんですか?」
「そろそろ夕飯の時間ですが、お食事お持ちいたしましょうか?」
「あ、もうそんな時間ですか」
「ですよ。どうされます?」
 そう言われても、私としては先程まで死を覚悟して「常紋 夏号」に手を掛けていた身。腹などあまり減っていないし、食事って気にもなれなかった。でも、もう用意してるんでしょ、早く食べてほしいんでしょ、そりゃそうだよね。どないしょう、的な私の考えが表情から伝わったのか、おばはんが、
「それか先にお風呂行かれます? お風呂上がりに声掛けてくださったらそこからお食事お持ちしますよ」
「あ、それが良いですね。先にお風呂行きます」
「分かりました」
 そう言っておばはんが下がってく。
 私は手に持っていた「常紋 夏号」を机の上に置き、替えの下着とタオルを手に、大浴場へ。もう五日目だ。旅館のレイアウトや勝手にもすっかり慣れて、まるで我が家のような足取りで向かう。ここの湯は温泉で、打ち身や腰痛に効果的なようで、湯加減も悪くなかった。特に露天は最高で、目の前には海が広がり、いつでも波音が聞こえる。熱海らしい露天だった。
 私は露天の、何となく私の定位置にしていた岩場に腰を下ろす。気が付けば空、暮れて。遠く、近く、星が黒に散らばっていた。
 風呂から上がってもイマイチ腹は減っていなかった。
 気持ちはやっぱり沈んでたし、飯、て感じじゃないよなぁ。そりゃ酒はちょっと飲みたいけど。一応カンヅメの身、私はここに来てから、「酒は一日夕飯時に出る瓶ビール一本」と決めていた。いつもみたいに際限無く飲むのを禁じた。
 時計を見ると午後八時過ぎ。
 まぁ、そろそろ飯を食ってもいい時間だった。てか旅館の片付けのこととかを考えると遅いくらいで、おそらく他のお客様はもう食事を終えられ、各々の団欒。地下のゲームセンターでホッケーゲームをやったり、普段は絶対に見ないバラエティ番組を見て笑ったりしている頃合だろう。
 フロントに電話を掛けると、すぐに例のおばはんが出た。そろそろ夕飯をお願いしたい旨を伝えると、了解したようで、ほんの十分後くらいに盆を手におばはんが部屋にやってきた。
 私は邪魔なのでPCや「常紋 夏号」を机の端に追いやり、夕飯を並べてもらう体制を整えた。で、机の中心に座りおばはんが料理の皿を順番に並べていく様を見ていたのだが、何かがおかしい。
 直ぐに気付いた。多いのだ。料理の数が。昨日よりも格段に。
 私はおばはんに聞いた、
「あの、何か。料理のコースを間違えてないですか? 昨日までよりだいぶ豪華な気がするんですけども」
「あ、気付きました?」
 おばはんがにやっと得意げに笑う。
「そりゃ、まぁ」
「実は今日でこの旅館が営業開始してちょうど四十年なんですよ。だから今日は特別サービスということで、皆さん最高ランクのお食事をご用意させていただいてるんです」
「へぇ、そうなんですか。それはまた」
「お客様、運が良いですなぁ。ま、ゆっくり召し上がってください」
「ありがとうございます」
 おばはんが出て行って改めて机の上を見る。うっひゃあ。本当に豪華だった。
 土鍋仕立ての松茸、湯葉、刺身、それは鯛、鮪、サーモン、いか、蛸、鰤、いくら等、霜降り黒毛和牛のしゃぶしゃぶぽいやつ、栄螺の壷焼き、麩とわかめの浮いた上品そうなお吸物、鮑の踊り焼き、カット檸檬、バター添えられて、白米、沢庵も勿論、瓶ビールも。麒麟。
 中々な数だった。思い付く限り用意してみましたという感じで。すげぇな、マジで。大丈夫かよ、こんなに奮発して。と思ってしまう程だった。試しに鯛の刺身を指で摘み、醤油に付けて食べてみる。ややっ、美味。見た目通りに。すげぇわ、これは。
 なんてしてたら、おばはんが戻ってきた。
「メインの料理をお持ちいたしました」
「え、ここからまだメインがあるんですか?」
 するとおばはんはまた、にゃっと笑って机の真ん中にスペースを空けて得意そうに大皿を置く。海老だった。それも特上の。姿焼き、とでも言うのだろうか。まんま海老。これは。
「すげぇ、すね」
 つい声に出してしまった。だからまたおばはん、にやっと。そのままの顔で出てった。
 呆気に取られている私を机の上から海老が見てた。目を合わせるも奴は威風堂々。立派な奴だ。でかいし。
 海老。
 ん? 海老?
「熱海と言えば海老やろう」
 あの爺さん、確かそんなこと言ってたな。海老。それで海老なんかな。いや、でもこの前聞いた時は誰も特産品に海老なんて話、していなかった。でも奴が今、こうして今夜のメインとして沢山の料理達を率いて私と対峙しているのも事実なわけで、今日はこの旅館の四十周年記念なわけで、それはやはり一つの権威で、そんな権威に就けるのには何か理由があるのではないかと勘ぐってしまうのは、仕方がないことだろうよ。
 私はよっぽどフロントに電話を掛けて、おばはんに真偽を問いただしたいくらいだった。でも、そうしなかったのは何だかちょっと面倒になってきて、面倒というのはおばはんの声やあの笑顔を見るのが面倒という意味で、海老のこと自体は興味が引かないのだけど、少しずつ腹も減ってきて、私は電話などやめて食事にしようと思ったのだ。
 さて、海老よ。
 私は食べる。お前を。回りくどいことはしない。食べる。この一団の首領。お前からだ。
 私は海老のその逞しい身体を両手で持ち上げ、その甲の中心に亀裂を入れた。そのまま身を指で出し、口へ。
 次の瞬間、脳天から身体中に稲妻が走った。
 美味、過ぎる。
 これは。圧倒的だった。
 これまで私が食したものたちが情け無いくらいに。美味かった。これは中々凄いことだった。
 例えばさっき私が摘んだ鯛の刺身。あいつだって十分に美味かった。強かった。それが何だ。この海老。流石は一団の首領。鯛の刺身を圧倒。
「熱海と言えば海老やろう」
 じゃマジだったのか? あの爺さん。
 胡散臭かったけど。確かに美味い。熱海の海老。圧倒的なくらいに。
 あの爺さん、何だか地元民のような感じを出してたけど関西弁だった。そう、それもまた胡散臭さに輪をかけてたんだよ。だから私も曖昧な返事しかできなかった。でも、まぁ、海老美味かったし。もし明日か明後日、また会ったら謝ろう。んで、海老美味かったです、と、報告しよう。
 瓶ビール飲んで。半端ない量の夕飯だったが、私はそれをペロリと食べてしまった。満腹。畳に転がって膨れた腹を摩り、深く息をする。こんな屑の身だが、極楽だった。
 その時、ころん、と何かが私の中で転がった。
 ころん。
 本当にそんな音がしたのだ。私の中で。
 私は上半身を浮かせ、きょとんとした顔で部屋を見回す。
 別に何も無かった。
 何てこと無かった。海老は私に敗れ果て、殻になって皿でやられてるし、瓶ビールももう空だ。カーテンの隙間からは夜。溢れてて。
 私はPCの電源を入れた。一文字ずつ、しっかりと、小説を書き出した。

 久しぶりに聞く配偶者の声は相変わらず澄んでいて、でも少し毒があって。煙草とコーヒーを購入した駅前のコンビニを出たとこ。深夜にも関わらず、配偶者は直ぐに電話に出た。
「まだ起きてたのか?」
「ええ」
「あ、そうか」
 言葉に詰まる。
「あなた今どこにいらっしゃるんですか? 連絡も寄越さないで。心配したんですよ」
「ごめん」
「いつ帰ってくるんですか?」
「明後日。あ、いや、さっき、日付が変わったからもう明日か。明日には帰る」
「で、どこにいらっしゃるの?」
 配偶者は溜息を吐いた。溜息を吐く時の配偶者の疲れた顔は可愛い。そんな顔を私は思い出す。
「熱海だよ」
「熱海……何でまたそんなところに? お仕事ですか?」
「いや、仕事じゃないよ。仕事は二カ月前に辞めたんだ」
 これには流石の配偶者も驚いたようだった。
「そんな、辞めたって……どういうことですか?」
 私はゆっくりと旅館に向けて歩き出す。国道の砂、踏み締めて。夜、深くて。
「ずっと黙ってたけど、私は、小説家になりたいんだ。けっこう。いや、かなり本気で。えーと、だから幾つかの文学賞に小説を応募して仕事を辞めた。小説家になるつもりで。受賞するって思ってたから。でも、駄目だった。箸にも棒にもかからなくて。あ、一つはまだ結果を見てないけど。でもまぁ、駄目だと思う。多分。で、次また何かに応募するために小説を書かなければならないんだけど、それも全然書けなくて。袋小路で。それで一回集中したくて。ま、平たく言うと逃げたんだ。そんな現実から。熱海まで。急に居なくなってすまなかった。それは本当に、ずっと思ってた。謝りたかった。小説、熱海に来てからもずっと駄目だった。書いては消して、書いては消して、で、一向に上手くいかなかった。でも今夜、やっとちょっと、何となく、書けてる。どうなるかは分からんけど。書いてる。それなりに、いいとも思う。思ってる。帰ってからのことは、正直まだ考えられてない」
 配偶者は何も言わなかった。怒っているのだろうか。ま、仕方ないだろうな。途方もない話だし。いきなりそんなこと言われてもなぁ。百パーセント、私が悪い。
「ごめん」
 沈黙が痛くて、再度、謝った。
「謝ったって今更どうにもならないじゃないですか」
「まぁ、そうだけれども」
「そんなに小説が書きたいんですか?」
「うん」
「相談してくださればいいのに」
「ごめん」
「だから謝ったって今更どうにもならないじゃないですか」
「うん」
「もう、私のことはいいですわ。あなたの自分勝手には慣れてますし。少し驚きましたけどね。今回は。流石に。でもお腹の子は別ですよ。生まれる前からこんなことして。ちゃんと謝ってください」
「悪かったよ」
「ふん」
 私は電話をしながらずっと歩いていた。配偶者の声はずっと遠くて、でも近くて。不思議な感じだった。
「で、明日帰ってくるんですか?」
「うん」
「夕飯はどうなさるのですか?」
「あ、夕飯は家で食べたいなぁ。久しぶりに」
「じゃあ、ちゃんとした時間に帰ってきてくださいね。約束ですよ」
「分かったよ」
「ほんとに、もう。でも一つ謎が解けましたわ」
「謎? 何のこと?」
「ここ数日、常紋寺文学賞の関係という方から何回もうちに電話がかかって来てたんですよ。しつこくって。私、ずっとそんなの知りませんって言ってたんです。まさか、あなたが小説の応募なんてされてた何て思いもよらなかったから」
「えっ」
 常紋寺文学賞の関係者が私にいったい何の用だと言うのだ。
「本当しつこくて。困ってたんですよ。あなたから電話してくださいね。お願いしますよ」
「あ、あぁ」
「それとあと一つ」
「何、まだ何かあるの?」
「お腹の子の名前、あなたが考えてくださいよ。だってあなた、小説家なんでしょ。私も考えてたんですけど中々良い名前が浮かばなくて。小説なんて書けるなら何か言い名前が考えられるんじゃないですの」
「あぁ、えーと、女の子だっけ?」
「男の子です。昨日の検査で分かりました」
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「予定通りなら十月」
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「凍冶、ですか。ふぅん」
「何だよ。ふぅん、というのは」
「ちょっと秋生まれにしては気の早い名前じゃないですか? まぁ、候補の一つとして残しておきますわ」
「うん。中々、良い名前だと思うけどなぁ」
「そうですね。悪い名前じゃないです。さ、眠いので、私はそろそろ寝ますわ」
「あぁ、うん」
「おやすみなさい。明日、お帰りをお待ちしていますわ」
「うん。すまないな。苦労を掛ける」
「馬鹿」
 そう言って電話が切れた。ちょうど旅館に着いた頃合いだった。


 真っ暗な部屋の中、ワードプロセッサーの画面が光っている。かたかたとキーボードが鳴ってる。私の指に弾かれて。
 て、何で真っ暗なの?
 あ、そうだ、そうだ、さっき煙草を買いにコンビニに出た時に電気を消して、そのままなんだ。忘れてた。真っ暗。カーテンも閉めていて。薄っすらとその部分だけが碧がかっていて。PCの右下の時刻を見るともう深夜四時だった。深夜っていうか最早朝方。
 ずっと書いていた。私は。一心不乱に。そう、まさに一心不乱に。立ち上がって伸びをしてみる。ずっと座っていたから腰が痛い。一度中断したものの、多分今夜、六時間近く書いている。
 ワードプロセッサーには文字の河。何文字くらい書いたのだろう。とっくに冷たくなった椀の茶を飲む。底には茶葉が沈殿していて、最後の一口は苦味、後味が悪かった。
 どうなんだろなぁ、今回の小説は。何て考えながらカーテンを開ける。まぁ、悪くは無いと思う。多分。ここ数日、没にした、駄だった小説とはちょっと手ごたえが違った。うーん、悪くはないよなぁ、客観的に見ても。ま、でもそんなふうに思って箸にも棒にもかからなかった小説もあるからなぁ。分からんよなぁ。
 窓の外、海は相変わらず悠然としてた。黒く、力強く、何より広大。水面に浮かぶ月が綺麗だった。白んでいて、波に揺れて。
 私は空に浮かぶ現物を見たくなり、窓から身を乗り出したのだけど、頭上にある日除けの関係で上手く見えなくて、それがどうにも悔しくなり、息抜きを兼ねて外に出て月を見ようと考えた。
 廊下へ出ると薄暗く、深夜だし、考えようによっては朝だし、ま、そんなもんかなぁ、と思わせる暗がりの廊下を歩いた。静寂。耳がきぃん、とするくらいの。
 エレベーターを使いロビーまで降りる。辺りが静か過ぎてエレベーターの音をやたらと五月蝿く感じた。当然、誰も居ない。しぃん、としていて。誰も居ない旅館のロビー。今まで体験したことの無いシチュエーションで、少し背徳感があった。別に悪いことをしようと思っているわけでは無いのだけどね。
 ロビーの引き戸に手を掛ける。が、開かない。
 これは誤算だった。そうか、私がコンビニに出た頃はまだ日付が変わるかどうかという時間帯だったから開いていたが、それ以降の深夜は物騒だし、扉を施錠しているのだ。まともな考えだった。まぁ、こんな時間に出入りする奴なんて普通いないもんな。なんて納得できた反面、しかし、おばはん、やってくれたな。とも思う。月、見たかったなぁ。
 そこで私に良い考えが浮かんだ。
 もしや、この建物、屋上なんて設備を備えていないのだろうか。そういったものがあれば建物から出れなくても問題はない。これは名案であった。暗がりに目が慣れてきて、ロビーの壁に建物の全体図を見つける。すると、ビンゴ。この建物にはきちんと屋上があった。えーと、客室自体が五階あり、その上に屋上があるので、実際は六階。上等。行ってみよう。
 屋上階までは直接エレベーターでは行けず、私は五階客室までエレベーターで上がり、もう一階を階段で登ることにした。
 エレベーターで五階へ移動、難なく屋上へ通じる階段を見つけて上がって行く。
 その先、屋上へ通じる、と思われる扉前にはプラカードで「関係者以外立ち入り禁止」とあった。私も大人だし、これには一瞬躊躇した。
 だが、外に出たかったのにロビーが空いていなかったということも事実で、こうなると現状考えられる手段は屋上、しかなくて、致し方ないと、許してくれるだろうと。そういう都合の良い結論に至った。悪いけど屋上へ出ます。許してね、皆さん。おばはん。
 が、またしても誤算。ここにも鍵がかかっている。ちくしょう、あのおばはんめ。一瞬おばはんを憎んだが、この問題は意外とすぐに解決した。
 と、いうのも、この屋上への扉の鍵はロビーのようなキーを使って施錠するものでなく、内側からツマミを使って施錠するタイプのもので、内側からの開閉はいつでも自由にできるものだった。私は一安心し、ツマミを回して外へ出た。
 扉、ついに開け放たれる。
 外の空気、ひやっと。私の肌を通り過ぎて。海の音がはっきりと聞こえた。
 ここで私はハッとなった。屋上への扉。ああいったツマミタイプは内側からは開閉自由だが、外側からはキーが無いと開けられないのではないか、と思ったのだ。慌てて身を翻してドアノブを掴む。セーフ。見るとやはり、ノブには鍵穴一つ。思っていた通りだった。私は履いていたスリッパを片方、ドアに噛ませた。
 改めて見ると屋上はがらんと殺風景で、何も掛けられていない洗濯干しが幾つかと、エアコンの室外機が置いてあるだけだった。頭上には月。真ん丸で。よう、やっと会えたなぁ、何て言ってみる。けど、まぁ、しかし、思っていたほどの感動はなかった。苦労してここまで来たのに。月は月だなぁ、なんてくらいで。
 月明かりで、辺りは室内よりもずっと明るく思えた。
 片足のスリッパをぺたんぺたん鳴らし、屋上の端まで行って海を見る。部屋にいる時は気がつかなかったが、もうすでに船が数隻海に出ていた。ライトで航路、照らして。行く。
 煙草を部屋に忘れたなぁ。しまった。
 私の部屋は三階で、ここは実質六階だから視界が大分高い。水平線がずっと遠い。果てしなく、本当に遠くて、あのずっと向こうでも同じように世界が続いているなんて、何だか嘘みたいだった。早起きの船。みんな、頑張ってんだな。ま、そりゃそうか。私も頑張らないと。生活のすれ違いで咲く花。美しいよね、本当に。大好きです。
 船が一隻、水平線の向こうに消えそうだった。光がちかちか。線の上で点滅してる。
 行かないで。
 光って。
 そんな眩しい光ってあんまりないよなぁ。
 うん。かけがえがない。
 だから、行かないで。ずっと側にいて。
 ずっと、ずっと、側に。
 煙草が喫いたかった。
 やがて光は水平線の向こうに消えた。
 そりゃそうだよなぁ。私は溜息を吐いた。そうしてその後も何隻か船を見送った。
 部屋に戻ると、私は思う存分煙草を喫った。
 再び小説を書き出したのだが、どうにも眠くなってしまい、もう今日は寝てしまおうと思う。随分と疲れていたようで。冷蔵庫を開け、水を飲むのも面倒だった。床につき、頭まで布団を被る。その時、まだ空、ぎりぎり明けていなかった。
 熱海からももうすぐ引き上げる。また来たいなぁ。今度は配偶者も。あ、勿論、凍冶もね。海老食べよう。海老。みんなで。
 そう言えば配偶者、常紋寺文学賞の関係者から電話がどうたら、とか言ってたな。あれ、電話せんとなぁ、明日には。まぁ、いいや。とりあえず起きたらまた書こう。小説の続きを。それが私の今一番したいこと。
 午前九時におばはんが朝食を持って来るまで、私はぐっすりと眠った。
 一度も目を覚まさず、ぐっすりと。深い眠り。希望の朝。海。寄せては返す波の音。
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