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ガーベラという花について私が知っていることは実を言うと少ない。
キク科、野生種が約40種、品種が約500種以上ある。花びらのサイズ、咲き方、原種によって品種改良が行われ、ヨーロッパから日本に伝わった明治末以降は日本でも様々な色のガーベラが育てられている。
開花時期は春頃と秋頃、1年に2回ある。4~5月、9~10月頃がガーベラの最盛期なのだ。と、ここまでのことは全て後から本で調べたことである。私はもともとガーベラが好きだった訳でもなく、何となく立ち寄った花屋で一目惚れして買ってしまっただけなのだ。
ガーベラには色によってそれぞれ花言葉がある。私の買った赤いガーベラの花言葉は「情熱」と「愛情」だった。これも後から知ったことだ。
情熱と愛情、これらの言葉は私を主張する言葉なのか、はたまた私が求めている言葉なのか? そんなことはよく分からない。だけどこの赤は私の好きな赤で、毎日毎日、大事にジョウロで水をやっていた。
しかし最近ガーベラはめっきり元気がなかった。
それもそのはず、今日はもうクリスマス。ガーベラの最盛期はとっくに過ぎている。それでも私は毎日水をあげた。そうすればまた綺麗な赤を広げてくれると信じていたのだ。
結局クリスマスはヒールの言う通り仕事だった。仕事が終わったのはクリスマスが終わる直前の23時。私は何となく元気のないガーベラに触れていた。
ちゃんと毎日陽に当てて水をあげているのにガーベラはどんどん弱っていった。本で読んだ通り育てたつもりだったがどこかで間違ったのだろうか? その本には「上手く管理ができていればガーベラの冬越しは難しくない」と書いてあった。
ビールの空き缶を片手にベランダに出て煙草を吸う。眼下に広がる街はクリスマスの夜とは思えないくらい静かだった。
多分人々はもう部屋に入って暖かい温もりの中で眠っているのであろう。子供たちは朝にやってくるプレゼントのことを考え、大人たちは隣に眠る大事な人のことを考えたりしているのだ。
私の吐き出した煙は白色の幽霊になって夜の街へ消えた。私はこの街の向こう側にいる友達のことを考えた。家族のことを考えた。ヒールのことを考えた。そしてヒールの家族のことも。
想像の中でヒールの家族はみんな幸せそうだった。みんなで大きなベッドに横になり、これ以上ない温かみの中にいた。
何とも言えない気持ちだった。嫌なのか? と問われるとそれはやはり嫌だった。でも同じくらい幸せな気持ちにもなれた。何故かは分からないが、私はヒールの家族を嫌いにはなれなかった。
私の存在が彼らを不幸にすることも分かっている。だけど私は彼らには幸せになって欲しかった。そんな矛盾がもう何年も私の中に住んでいる。
いけない、涙が出そうだ。と思った時に部屋の中で携帯が震えている音が聞こえた。私は慌てて煙草を消して部屋に入った。
電話はミサワさんからだった。
「もしもし?」
「あっ、キクちゃん。夜遅くにゴメン。まだ起きてた?」
「起きてますよ。仕事が終わったところです」
「そっか。お疲れ様」
「どうしたんですか?」
「ん、いやクリスマスの夜、キクちゃんは何してるかなって思って」
ミサワさんの声を聞くのはあの夜以来だった。
「クリスマスも平常営業ですよー。ロマンチックなことなんてありゃしない」
私は冗談っぽく笑った。
「そうか。俺もだよ。今仕事帰り」
電話口の後ろが何だか騒がしい。多分最寄り駅を降りたあたりなのだろう。
「お疲れ様です。帰り、遅いんですねぇ」
「うん、なんだかんだ年末はバタバタしてしまってね」
「恋人とのデートもすっぽかすくらいに……ですか?」
「そんな相手がいればいいんだけどね」
ミサワさんが苦笑いで答える。その苦笑いは妙に言葉に真実味を与えた。そうか、特定の恋人はいないんやな。
「仕事が恋人ですか?」
「残念ながら今は」
「私もこのままじゃ仕事と結婚してしまいそうですよ」
「キクちゃんみたいな綺麗な子が?」
「あらやだ」
「また飲みに行きたいね」
「私もです」
本音だった。私はまたミサワさんに会いたいと思っていた。
「ね、ミサワさん」
「ん?」
「部屋にあるガーベラの元気がないんです」
「ガーベラ?」
「そう、ガーベラ。毎日毎日、大事に育てているのにどんどん弱っていくんです」
「うーん、俺はあんまり花のことは分からないんだけど、季節的なことなの?」
「よく分からないんです。もしかするとそうかもしれないんですけど。暖かくなってきたらまた元気になるかも」
「今は我慢の時期なのかもね」
「そうだといいんですけど」
「あんまり役に立つことは言えないけど、また元気になるといいね」
「ありがとうございます。なんかすいません。よく分からない話をしてしまって。1人で弱っていく花を見てるのがなんだか辛かったんです」
「微力ながら祈ってるよ。また連絡する」
「ありがとう。待ってます」
しかしミサワさんの祈りも虚しく年を越して何週か経ったころにガーベラは枯れてしまった。
たまたま取材で知り合った花に詳しいカメラマンさんに話を聞くと、水のやり過ぎを指摘された。
冬場は寒さで生長が鈍るので、水やりの回数を控えめにしなければいけなかったらしい。土の表面が湿っているうちに水を与えると過湿になり根が腐ってしまうようだ。
そんな話を聞いてもう一度私が読んだ飼育本を読み直すと、確かにそのようなことが書いてあった。大切なところを見落としてしまっていた。
愛情のつもりでやっていたことが逆にガーベラを苦しめていたのだ。
ガーベラがいなくなった部屋は色合いに乏しく、私の気持ちを灰色にした。だけど新しい色を取り入れる気持ちには今はどうしてもなれなかった。
過剰な愛は時に大事なものを壊してしまう。そんなことはとうの昔から知っていたはずだ。私だってただ無駄に歳をとってきた訳ではない。
だけど今も灰色の奥には消せないガーベラの赤がいることを私は知っていた。
ミサワさんとは2週に1回くらいのペースで会った。
私達は会うとお酒を飲んで近況報告をしたり最近読んだ本の話をしたりした。
中でもミサワさんの職場の人の話は面白かった。
同じ課の同僚にバカがつくほど真面目な男の人がいるらしい。彼は頭のいい大学を出た有能な人らしいのだが、真面目過ぎて融通が利かず、それが原因でたまに可笑しなことをしてしまうらしい。
例えば、最近では外注業者から提出された見積に押された社印が少し斜めになっていることを気にして、それを上司に提出していいものかどうかを1人で何時間も悩んでいたらしい。冗談でなく本気でやっているところが面白い。
そういえば、私がデザイン事務所で働いていた頃はミサワさんみたいに周りの人を俯瞰して見るなんて事は到底できなかった。
仕事の駆け引きも覚え、大人にもなった今、昔みたいに人のたくさんいる会社で働いたらもしかしたら楽しいかもしれないな、なんてミサワさんの話を聞いていると思わせられた。
ガーベラが枯れてしまったことも一応伝えた。ミサワさんは少し残念そうな顔をして1言2言慰めてくれた。
今年の冬はなんだか短く、バタバタしているうちに少しずつ春の暖かさが朝日のように街に降り注いできた。
その日も私はいつものように起き抜けのままポストへ向かった。新聞とダイレクトメールの間に1通の小綺麗な封書が届いていた。
差出人を見ると真っ白な上質紙にマツとユウの名前が並んでいる。結婚式の招待状だった。
マツとユウの名前が並んで印刷されていることに対して、私にはまだ少しの違和感があった。
でも昼を過ぎた頃に封を開け、招待状に目を通してみたらなんだか急にお似合いの2人のようにも思えてきた。
何にせよ親友が結婚するのだ(私を置いて……いや、そういうことを言うのは止そう)めでたいことだ。結婚式に出席しない理由は1つもない。
そういえばヒールもマツと仲が良かったから結婚式には呼ばれそうだと言っていた。本当に奴も来るのだろうか。
まだ仕事中であろう時間ではあったが久しぶりにヒールに電話をしてみた。最近は忙しいのかあまり顔を出して来ない。
仕事中にもかかわらず奴は直ぐに電話に出た。
「もしもし」
「おー、キク。久しぶりやな」
「久しぶり。妙に直ぐ電話に出たな。おサボり中かー?」
「あほ、たまたまお客さんとこ入る前の空き時間やったんや」
ヒールは総合商社の営業をしている。確かそれなりに大きい会社だったと思う。
「あんた、マツとユウの結婚式の招待状届いた?」
「あー、来てたで。昨日やったかなぁ。どうしたん?」
「いや、うちにも今朝来て。ヒールも行くんかなって思って」
「もちろん行くよ。キクも行くやろ?」
「うん、行く」
そう言ったとこで会話が途切れた。大体わざわざ電話するようなことでもないのだ。
「たまには飲もうよ」
気まずい沈黙に耐えかねて私は言った。
「あぁ、せやな。しばらく会ってなかったもんな。今夜は? 家おるん?」
「おる。待ってるわ」
「あいよ」
そこで電話が切れた。一体何の電話だったのだ? でも私は久しぶりに話したヒールが私の知っているヒールのままだったことに少しの喜びを感じた。
ヒールは夜の20時くらいに来た。私はその頃にはもう仕事を終わらせ、簡単なつまみを作ってヒールが来るのを待っていた。
「お疲れ様」
「うん、お疲れ」
ヒールが革靴を脱いであがってくる。本当は「おかえり」と言いたいところではあるが、そんなことは馬鹿げているとも思っていた。
「ビールでいい?」
「うん」
私はスーパードライの缶をヒールに放り投げた。軽く乾杯して晩酌を始める。
「ありがとう」
「久しぶりね」
「そうやんな。元気してた?」
「相変わらずよ。ヒールは?」
「俺も変わらず。あれ? あそこにあった花は?」
ヒールはドアの開いた仕事部屋の方を指差して言う。私は何故だかちょっとドキリとした。
「ガーベラね。枯れちゃったんよ。残念やったんやけど冬を越せんかった」
「ふーん。そうなんか」
ヒールはあまり興味なさ気に言った。
「気に入ってたんやけどな」
「生き物を育てるのは難しいからな。俺も昔、朝顔やらひまわりやらで失敗した」
そんな事を言ってほしかった訳じゃないのに。相変わらず分かっていない男だ。私はそれ以上何も言わなかった。
ぐだぐだと飲んでいると話題は件の結婚式の話になった。
「マツさんの結婚式、バレー部関係の人けっこう来るらしいよ」
「あら、本当」
「なんやら全員で100人くらい呼んでるらしいで。そんで2人は大学での繋がりやから半分近くは大学時代の友人らしい」
「100人て、えらいまた豪勢なんやなぁ」
私は3本目のスーパードライを飲みきって言う。いつも控えめだったユウからは想像もできない大規模な式だ。
「ほら、マツさんて製薬会社のMRやから。それなりに金持ってんねんて」
「あぁ、なるほどね。ユウもこの歳まで独身やったからだいぶ貯め込んでたやろうしね」
私が真面目な顔でそんなこと言うとヒールの奴が笑った。
「何よ?」
「いや、貯め込んでたなんて、えらいオバハンくさい物言いするんやなって思って」
「誰がオバハンや!」
「ちゃうちゃう、別に貶してるんやないで。なんかキクが言うとおもろかった。全然オバハンぽくない人がオバハンぽい言い方するから」
ヒールはまだ笑ってる。
「フン、酔っ払ってきたな。そーですよ。私はもう34のオバハンですよ」
私は少し不貞腐れていた。
「おーい、そんな機嫌損ねるなよ。キクはまだまだ綺麗や。全然オバハンちゃうよ」
「うそつけ」
「うそちゃう。キクは綺麗や。少なくとも俺の周りで一番綺麗や」
「……」
「ほんで一番好きや」
しれっとヒールがそんなことを言う。これには参った。奴は愛情表現がめっぽう苦手なのだが、たまに油断している時に急にこんな直球を投げてくるのだ。
こういうギャップに私は弱い。
「本当?」
「……本当」
自分でもそんなことを言うつもりじゃなかったのだろう。傍目から見てもヒールは物凄く恥ずかしそうだった。だから私はちょっと意地悪をする。
「本当に本当? ねぇ、それってどのくらい? どのくらい私の事好きなん?」
「う、どのくらいとか。……そういうの止めようや」
「いーや、どのくらいなん?」
「うーん……世界中の天ぷらがみんな爆発して……ほんで世界中のガーベラがみんな枯れてまうくらい好きや」
ヒールはちらっと視線を外して真面目な顔をして言った。
「なんやそれ!」
今度は私が笑った。指を指して笑った。しどろもどろになりながら答えてくれたヒールには悪いけど可笑しかった。ヒールはすっかり恥ずかしくなって顔を真っ赤にした。
素早く私のいるソファまで回り込み、「ふん、胸の張りもええしな!」と言って急に私の上に覆い被さって右胸を鷲掴みにしてきた。見え見えの照れ隠しだったが、私は身体に触れられてちょっとだけドキっとした。
「馬鹿!」
私はまだ笑っていた。ヒールも笑っていた。私の右胸を弄りながら笑っていた。そしてそのままそっとキスしてきた。本当に馬鹿みたいだ。
「あんたは昔から本当に変わらんね」
「そう? 少しずつやけど変わってるで?」
「そんなこと言わんといて」
「変わってほしくない?」
「……変わってほしくない気もするし変わってほしい気もする」
私はちょっと考えた後に答えた。
「キクの言うてること、分かる気がするよ。俺もキクに対して同じようなこと思ってる」
「いや、分かってない。あんたは絶対分かってない」
私が少し鋭い口調をしてしまったので、ヒールは黙った。換気扇が回る音だけが部屋を支配していた。
「……でもな。でもそれでええんやと思うの」
「何が?」
「あんたは私の考えてることなんて分からんでええ」
「普通逆ちゃうの? 何を考えてるか相手に分かってほしいのが普通ちゃうん?」
「じゃ普通ちゃうねん」
「俺は……俺はキクが何考えてるか知りたい」
「いいのよ。それで。あんたは追いかける、私は逃げる」
「追いかけっこか」
「うん、私は捕まらない」
「いや俺は捕まえる」
私はヒールの首に腕を回して抱き寄せた。愛おしくて仕方がなかった。
私のヒール。良くないことを考えている時はいつも世界中を敵に回しているみたいだった。
勝てる気はしなかったが負ける気もしなかった。だって私はそれと向かい合って戦うことすらしなかったのだから。
深夜3時、ヒールの腕の中で不意に目が覚めた。寝室に立てかけられた鏡に私達が映っている。
2人とも何も身に付けていない。そこには1戦を交えた後の男と女のいやらしさがあった。
確かにここにいる。今日もここにいる。そう思いながら私は火がついたように暖かい布団の中でもう一度眠りについた。
年度末の喧騒の中、私はミサワさんから仕事を紹介してもらった。
初めて会った日の約束通り、私は自分の書いた記事をミサワさんに読んでもらっていた。ちょうど年を越した頃だ。
ミサワさんは私の記事を気に入ってくれ、何かのタイミングで仕事をお願いしたいと言ってくれていた。そしてこのタイミングで隣の部署で新しいフリーペーパーを作ることになり、私に声がかかったのだ。
またちょっとの間忙しくなることは目に見えていたが私は嬉しかった。自分の作ったものが認められるということはやはり気持ちのいい事だ。
ぽかぽかの陽気の中、私は新しいニューバランスのスニーカーを履いてミサワさんの務める商工会議所を訪ねた。
基本的には隣の部署の担当者とのやり取りになるのだが、初回は顔つなぎの意味もありミサワさんも同席することになっていた。私はとりあえずミサワさんの部署を訪ねた。
受付で名前を言うと奥の席にいたミサワさんが私を見付けて手を振った。
「お世話になります。じゃ早速打ち合わせに行こうか」
「はい、今日はよろしくお願いします」
「そんな固くならなくていいよ。リラックス、リラックス」
「はい。でもなんかこんなとこでミサワさんと会うなんて……」
「変な感じ?」
「少し、いやかなり。普段は飲み屋でしか会わないですからね」
ミサワさんはちょっと笑った。
「そりゃそうか。昼の顔を見るのは初めてだもんな」
「昼の顔!」
私も笑う。ちょっと話してみるとミサワさんはやはりどこで会ってもミサワさんだった。
フリーペーパーの担当者との打ち合わせは滞りなく終わった。スケジュールも値段も特に先方が提示してきたもので問題なかった。
実際作業が始まるのは来月からで、そこから年に4回、季刊で記事を書くことになる。私としてもこういった決まったペースでできる仕事は有難い。
打ち合わせの後、ミサワさんが商工会議所の入り口まで送ってくれた。
「今日はありがとうございました」
私は頭を下げて言う。
「いやいや、こちらこそ。これからよろしくお願いします」
「はい。頑張ります」
「キクちゃん、この後は時間あるの?」
「あっ、大丈夫ですよ」
「じゃちょっと1杯行こうか。10分くらい待っててくれる?」
「分かりました。待ってます」
ミサワさんは軽く手を振って中へ戻って行った。私は商工会議所の前の生垣に座って一方通行の大通りを行く車達を見ていた。夕方になってもまだ暖かかった。
私を残してまた季節が流れていくのか。ミサワさんはちょうど10分後に戻ってきた。
キク科、野生種が約40種、品種が約500種以上ある。花びらのサイズ、咲き方、原種によって品種改良が行われ、ヨーロッパから日本に伝わった明治末以降は日本でも様々な色のガーベラが育てられている。
開花時期は春頃と秋頃、1年に2回ある。4~5月、9~10月頃がガーベラの最盛期なのだ。と、ここまでのことは全て後から本で調べたことである。私はもともとガーベラが好きだった訳でもなく、何となく立ち寄った花屋で一目惚れして買ってしまっただけなのだ。
ガーベラには色によってそれぞれ花言葉がある。私の買った赤いガーベラの花言葉は「情熱」と「愛情」だった。これも後から知ったことだ。
情熱と愛情、これらの言葉は私を主張する言葉なのか、はたまた私が求めている言葉なのか? そんなことはよく分からない。だけどこの赤は私の好きな赤で、毎日毎日、大事にジョウロで水をやっていた。
しかし最近ガーベラはめっきり元気がなかった。
それもそのはず、今日はもうクリスマス。ガーベラの最盛期はとっくに過ぎている。それでも私は毎日水をあげた。そうすればまた綺麗な赤を広げてくれると信じていたのだ。
結局クリスマスはヒールの言う通り仕事だった。仕事が終わったのはクリスマスが終わる直前の23時。私は何となく元気のないガーベラに触れていた。
ちゃんと毎日陽に当てて水をあげているのにガーベラはどんどん弱っていった。本で読んだ通り育てたつもりだったがどこかで間違ったのだろうか? その本には「上手く管理ができていればガーベラの冬越しは難しくない」と書いてあった。
ビールの空き缶を片手にベランダに出て煙草を吸う。眼下に広がる街はクリスマスの夜とは思えないくらい静かだった。
多分人々はもう部屋に入って暖かい温もりの中で眠っているのであろう。子供たちは朝にやってくるプレゼントのことを考え、大人たちは隣に眠る大事な人のことを考えたりしているのだ。
私の吐き出した煙は白色の幽霊になって夜の街へ消えた。私はこの街の向こう側にいる友達のことを考えた。家族のことを考えた。ヒールのことを考えた。そしてヒールの家族のことも。
想像の中でヒールの家族はみんな幸せそうだった。みんなで大きなベッドに横になり、これ以上ない温かみの中にいた。
何とも言えない気持ちだった。嫌なのか? と問われるとそれはやはり嫌だった。でも同じくらい幸せな気持ちにもなれた。何故かは分からないが、私はヒールの家族を嫌いにはなれなかった。
私の存在が彼らを不幸にすることも分かっている。だけど私は彼らには幸せになって欲しかった。そんな矛盾がもう何年も私の中に住んでいる。
いけない、涙が出そうだ。と思った時に部屋の中で携帯が震えている音が聞こえた。私は慌てて煙草を消して部屋に入った。
電話はミサワさんからだった。
「もしもし?」
「あっ、キクちゃん。夜遅くにゴメン。まだ起きてた?」
「起きてますよ。仕事が終わったところです」
「そっか。お疲れ様」
「どうしたんですか?」
「ん、いやクリスマスの夜、キクちゃんは何してるかなって思って」
ミサワさんの声を聞くのはあの夜以来だった。
「クリスマスも平常営業ですよー。ロマンチックなことなんてありゃしない」
私は冗談っぽく笑った。
「そうか。俺もだよ。今仕事帰り」
電話口の後ろが何だか騒がしい。多分最寄り駅を降りたあたりなのだろう。
「お疲れ様です。帰り、遅いんですねぇ」
「うん、なんだかんだ年末はバタバタしてしまってね」
「恋人とのデートもすっぽかすくらいに……ですか?」
「そんな相手がいればいいんだけどね」
ミサワさんが苦笑いで答える。その苦笑いは妙に言葉に真実味を与えた。そうか、特定の恋人はいないんやな。
「仕事が恋人ですか?」
「残念ながら今は」
「私もこのままじゃ仕事と結婚してしまいそうですよ」
「キクちゃんみたいな綺麗な子が?」
「あらやだ」
「また飲みに行きたいね」
「私もです」
本音だった。私はまたミサワさんに会いたいと思っていた。
「ね、ミサワさん」
「ん?」
「部屋にあるガーベラの元気がないんです」
「ガーベラ?」
「そう、ガーベラ。毎日毎日、大事に育てているのにどんどん弱っていくんです」
「うーん、俺はあんまり花のことは分からないんだけど、季節的なことなの?」
「よく分からないんです。もしかするとそうかもしれないんですけど。暖かくなってきたらまた元気になるかも」
「今は我慢の時期なのかもね」
「そうだといいんですけど」
「あんまり役に立つことは言えないけど、また元気になるといいね」
「ありがとうございます。なんかすいません。よく分からない話をしてしまって。1人で弱っていく花を見てるのがなんだか辛かったんです」
「微力ながら祈ってるよ。また連絡する」
「ありがとう。待ってます」
しかしミサワさんの祈りも虚しく年を越して何週か経ったころにガーベラは枯れてしまった。
たまたま取材で知り合った花に詳しいカメラマンさんに話を聞くと、水のやり過ぎを指摘された。
冬場は寒さで生長が鈍るので、水やりの回数を控えめにしなければいけなかったらしい。土の表面が湿っているうちに水を与えると過湿になり根が腐ってしまうようだ。
そんな話を聞いてもう一度私が読んだ飼育本を読み直すと、確かにそのようなことが書いてあった。大切なところを見落としてしまっていた。
愛情のつもりでやっていたことが逆にガーベラを苦しめていたのだ。
ガーベラがいなくなった部屋は色合いに乏しく、私の気持ちを灰色にした。だけど新しい色を取り入れる気持ちには今はどうしてもなれなかった。
過剰な愛は時に大事なものを壊してしまう。そんなことはとうの昔から知っていたはずだ。私だってただ無駄に歳をとってきた訳ではない。
だけど今も灰色の奥には消せないガーベラの赤がいることを私は知っていた。
ミサワさんとは2週に1回くらいのペースで会った。
私達は会うとお酒を飲んで近況報告をしたり最近読んだ本の話をしたりした。
中でもミサワさんの職場の人の話は面白かった。
同じ課の同僚にバカがつくほど真面目な男の人がいるらしい。彼は頭のいい大学を出た有能な人らしいのだが、真面目過ぎて融通が利かず、それが原因でたまに可笑しなことをしてしまうらしい。
例えば、最近では外注業者から提出された見積に押された社印が少し斜めになっていることを気にして、それを上司に提出していいものかどうかを1人で何時間も悩んでいたらしい。冗談でなく本気でやっているところが面白い。
そういえば、私がデザイン事務所で働いていた頃はミサワさんみたいに周りの人を俯瞰して見るなんて事は到底できなかった。
仕事の駆け引きも覚え、大人にもなった今、昔みたいに人のたくさんいる会社で働いたらもしかしたら楽しいかもしれないな、なんてミサワさんの話を聞いていると思わせられた。
ガーベラが枯れてしまったことも一応伝えた。ミサワさんは少し残念そうな顔をして1言2言慰めてくれた。
今年の冬はなんだか短く、バタバタしているうちに少しずつ春の暖かさが朝日のように街に降り注いできた。
その日も私はいつものように起き抜けのままポストへ向かった。新聞とダイレクトメールの間に1通の小綺麗な封書が届いていた。
差出人を見ると真っ白な上質紙にマツとユウの名前が並んでいる。結婚式の招待状だった。
マツとユウの名前が並んで印刷されていることに対して、私にはまだ少しの違和感があった。
でも昼を過ぎた頃に封を開け、招待状に目を通してみたらなんだか急にお似合いの2人のようにも思えてきた。
何にせよ親友が結婚するのだ(私を置いて……いや、そういうことを言うのは止そう)めでたいことだ。結婚式に出席しない理由は1つもない。
そういえばヒールもマツと仲が良かったから結婚式には呼ばれそうだと言っていた。本当に奴も来るのだろうか。
まだ仕事中であろう時間ではあったが久しぶりにヒールに電話をしてみた。最近は忙しいのかあまり顔を出して来ない。
仕事中にもかかわらず奴は直ぐに電話に出た。
「もしもし」
「おー、キク。久しぶりやな」
「久しぶり。妙に直ぐ電話に出たな。おサボり中かー?」
「あほ、たまたまお客さんとこ入る前の空き時間やったんや」
ヒールは総合商社の営業をしている。確かそれなりに大きい会社だったと思う。
「あんた、マツとユウの結婚式の招待状届いた?」
「あー、来てたで。昨日やったかなぁ。どうしたん?」
「いや、うちにも今朝来て。ヒールも行くんかなって思って」
「もちろん行くよ。キクも行くやろ?」
「うん、行く」
そう言ったとこで会話が途切れた。大体わざわざ電話するようなことでもないのだ。
「たまには飲もうよ」
気まずい沈黙に耐えかねて私は言った。
「あぁ、せやな。しばらく会ってなかったもんな。今夜は? 家おるん?」
「おる。待ってるわ」
「あいよ」
そこで電話が切れた。一体何の電話だったのだ? でも私は久しぶりに話したヒールが私の知っているヒールのままだったことに少しの喜びを感じた。
ヒールは夜の20時くらいに来た。私はその頃にはもう仕事を終わらせ、簡単なつまみを作ってヒールが来るのを待っていた。
「お疲れ様」
「うん、お疲れ」
ヒールが革靴を脱いであがってくる。本当は「おかえり」と言いたいところではあるが、そんなことは馬鹿げているとも思っていた。
「ビールでいい?」
「うん」
私はスーパードライの缶をヒールに放り投げた。軽く乾杯して晩酌を始める。
「ありがとう」
「久しぶりね」
「そうやんな。元気してた?」
「相変わらずよ。ヒールは?」
「俺も変わらず。あれ? あそこにあった花は?」
ヒールはドアの開いた仕事部屋の方を指差して言う。私は何故だかちょっとドキリとした。
「ガーベラね。枯れちゃったんよ。残念やったんやけど冬を越せんかった」
「ふーん。そうなんか」
ヒールはあまり興味なさ気に言った。
「気に入ってたんやけどな」
「生き物を育てるのは難しいからな。俺も昔、朝顔やらひまわりやらで失敗した」
そんな事を言ってほしかった訳じゃないのに。相変わらず分かっていない男だ。私はそれ以上何も言わなかった。
ぐだぐだと飲んでいると話題は件の結婚式の話になった。
「マツさんの結婚式、バレー部関係の人けっこう来るらしいよ」
「あら、本当」
「なんやら全員で100人くらい呼んでるらしいで。そんで2人は大学での繋がりやから半分近くは大学時代の友人らしい」
「100人て、えらいまた豪勢なんやなぁ」
私は3本目のスーパードライを飲みきって言う。いつも控えめだったユウからは想像もできない大規模な式だ。
「ほら、マツさんて製薬会社のMRやから。それなりに金持ってんねんて」
「あぁ、なるほどね。ユウもこの歳まで独身やったからだいぶ貯め込んでたやろうしね」
私が真面目な顔でそんなこと言うとヒールの奴が笑った。
「何よ?」
「いや、貯め込んでたなんて、えらいオバハンくさい物言いするんやなって思って」
「誰がオバハンや!」
「ちゃうちゃう、別に貶してるんやないで。なんかキクが言うとおもろかった。全然オバハンぽくない人がオバハンぽい言い方するから」
ヒールはまだ笑ってる。
「フン、酔っ払ってきたな。そーですよ。私はもう34のオバハンですよ」
私は少し不貞腐れていた。
「おーい、そんな機嫌損ねるなよ。キクはまだまだ綺麗や。全然オバハンちゃうよ」
「うそつけ」
「うそちゃう。キクは綺麗や。少なくとも俺の周りで一番綺麗や」
「……」
「ほんで一番好きや」
しれっとヒールがそんなことを言う。これには参った。奴は愛情表現がめっぽう苦手なのだが、たまに油断している時に急にこんな直球を投げてくるのだ。
こういうギャップに私は弱い。
「本当?」
「……本当」
自分でもそんなことを言うつもりじゃなかったのだろう。傍目から見てもヒールは物凄く恥ずかしそうだった。だから私はちょっと意地悪をする。
「本当に本当? ねぇ、それってどのくらい? どのくらい私の事好きなん?」
「う、どのくらいとか。……そういうの止めようや」
「いーや、どのくらいなん?」
「うーん……世界中の天ぷらがみんな爆発して……ほんで世界中のガーベラがみんな枯れてまうくらい好きや」
ヒールはちらっと視線を外して真面目な顔をして言った。
「なんやそれ!」
今度は私が笑った。指を指して笑った。しどろもどろになりながら答えてくれたヒールには悪いけど可笑しかった。ヒールはすっかり恥ずかしくなって顔を真っ赤にした。
素早く私のいるソファまで回り込み、「ふん、胸の張りもええしな!」と言って急に私の上に覆い被さって右胸を鷲掴みにしてきた。見え見えの照れ隠しだったが、私は身体に触れられてちょっとだけドキっとした。
「馬鹿!」
私はまだ笑っていた。ヒールも笑っていた。私の右胸を弄りながら笑っていた。そしてそのままそっとキスしてきた。本当に馬鹿みたいだ。
「あんたは昔から本当に変わらんね」
「そう? 少しずつやけど変わってるで?」
「そんなこと言わんといて」
「変わってほしくない?」
「……変わってほしくない気もするし変わってほしい気もする」
私はちょっと考えた後に答えた。
「キクの言うてること、分かる気がするよ。俺もキクに対して同じようなこと思ってる」
「いや、分かってない。あんたは絶対分かってない」
私が少し鋭い口調をしてしまったので、ヒールは黙った。換気扇が回る音だけが部屋を支配していた。
「……でもな。でもそれでええんやと思うの」
「何が?」
「あんたは私の考えてることなんて分からんでええ」
「普通逆ちゃうの? 何を考えてるか相手に分かってほしいのが普通ちゃうん?」
「じゃ普通ちゃうねん」
「俺は……俺はキクが何考えてるか知りたい」
「いいのよ。それで。あんたは追いかける、私は逃げる」
「追いかけっこか」
「うん、私は捕まらない」
「いや俺は捕まえる」
私はヒールの首に腕を回して抱き寄せた。愛おしくて仕方がなかった。
私のヒール。良くないことを考えている時はいつも世界中を敵に回しているみたいだった。
勝てる気はしなかったが負ける気もしなかった。だって私はそれと向かい合って戦うことすらしなかったのだから。
深夜3時、ヒールの腕の中で不意に目が覚めた。寝室に立てかけられた鏡に私達が映っている。
2人とも何も身に付けていない。そこには1戦を交えた後の男と女のいやらしさがあった。
確かにここにいる。今日もここにいる。そう思いながら私は火がついたように暖かい布団の中でもう一度眠りについた。
年度末の喧騒の中、私はミサワさんから仕事を紹介してもらった。
初めて会った日の約束通り、私は自分の書いた記事をミサワさんに読んでもらっていた。ちょうど年を越した頃だ。
ミサワさんは私の記事を気に入ってくれ、何かのタイミングで仕事をお願いしたいと言ってくれていた。そしてこのタイミングで隣の部署で新しいフリーペーパーを作ることになり、私に声がかかったのだ。
またちょっとの間忙しくなることは目に見えていたが私は嬉しかった。自分の作ったものが認められるということはやはり気持ちのいい事だ。
ぽかぽかの陽気の中、私は新しいニューバランスのスニーカーを履いてミサワさんの務める商工会議所を訪ねた。
基本的には隣の部署の担当者とのやり取りになるのだが、初回は顔つなぎの意味もありミサワさんも同席することになっていた。私はとりあえずミサワさんの部署を訪ねた。
受付で名前を言うと奥の席にいたミサワさんが私を見付けて手を振った。
「お世話になります。じゃ早速打ち合わせに行こうか」
「はい、今日はよろしくお願いします」
「そんな固くならなくていいよ。リラックス、リラックス」
「はい。でもなんかこんなとこでミサワさんと会うなんて……」
「変な感じ?」
「少し、いやかなり。普段は飲み屋でしか会わないですからね」
ミサワさんはちょっと笑った。
「そりゃそうか。昼の顔を見るのは初めてだもんな」
「昼の顔!」
私も笑う。ちょっと話してみるとミサワさんはやはりどこで会ってもミサワさんだった。
フリーペーパーの担当者との打ち合わせは滞りなく終わった。スケジュールも値段も特に先方が提示してきたもので問題なかった。
実際作業が始まるのは来月からで、そこから年に4回、季刊で記事を書くことになる。私としてもこういった決まったペースでできる仕事は有難い。
打ち合わせの後、ミサワさんが商工会議所の入り口まで送ってくれた。
「今日はありがとうございました」
私は頭を下げて言う。
「いやいや、こちらこそ。これからよろしくお願いします」
「はい。頑張ります」
「キクちゃん、この後は時間あるの?」
「あっ、大丈夫ですよ」
「じゃちょっと1杯行こうか。10分くらい待っててくれる?」
「分かりました。待ってます」
ミサワさんは軽く手を振って中へ戻って行った。私は商工会議所の前の生垣に座って一方通行の大通りを行く車達を見ていた。夕方になってもまだ暖かかった。
私を残してまた季節が流れていくのか。ミサワさんはちょうど10分後に戻ってきた。
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