Gerbera

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 私の住んでいる部屋は大阪市内に建つありふれたマンションの3階にある。
 そしてそこが私の職場であり、1日の大半を過ごす場所でもある。
 誰かのことを深く知りたいと思う時、私は大体いつもその人の住んでいる部屋の話を聞くことにしている。そうするとなんとなくその人の性格や人柄が見えてくるのだ。だからまずは私の住んでいる部屋のことを話そう。私がどんな人間なのかを知ってもらうために。
 大学を出て12年、私はずっと同じ部屋に住んでいる。長い時間を共に過ごすと、部屋もだんだん私らしくなってくる。壁一面に並べられた色とりどりの本たちも、いつも飲みかけで置いたままにしてしまうコーヒーカップも、部屋の隅に咲く赤色のガーベラも、もうすでに私の身体の一部のようだ。当たり前だが、家具の配置もその色も、全部私が決める。ここでは私の決定は絶対なのだ。
 12年、思えばちょっとした時間だ。小学校に入学したての鼻垂れ小僧が煙草を燻らせて夜な夜な麻雀にのめり込む大学生になるくらいの歳月である。
 大学を出てからの最初の5年間、私は小さなデザイン事務所に勤めていた。そして多くのライターがそうであるように、今は独立してフリーのライターとして仕事をしている。
 デザイン事務所に勤めていた頃はとにかく早く独立したいと思っていた。
 それは別に事務所での人間関係が上手くいっていなかったとか、残業が多く心が病みかけていたとか、そういったことが原因ではなかった。人間関係も上手くいっていたし、勤務時間も特に負担ではなかった。私はただ単純に通勤時の満員電車がどうしようもなく嫌いだったのだ。
 当時の私は毎日毎日同じ時間に起きて満員電車に揺られて出社していた。
 駅で言うと七駅くらいの間なので、人によっては「なんだそんなくらいの距離で!」と言われてしまうかもしれないが私にとっては大変なことだったのだ。
 満員電車はとにかく空気が薄い。人生において、上手く呼吸ができないことほど辛いことはないと私は思う。5年間の満員電車通勤で何度か本当に倒れそうになったことだってある。なんとか倒れずに乗り切れたのは今となっては大人としてのプライドで……としか説明のしようがない。
 倒れそうになる時、私は高校生の頃に歴史の授業で習った世界大戦中の強制収容所を思い出した。狭い場所に押し込められた沢山の人たち。怖かった。そしてあれと同じくらいここは地獄だと思った。
 だから事務所を辞めた時は、ライターとして独立できたことよりも、もうあの満員電車に毎日乗らなくてもいいのだということの方が私は嬉しかった。
 さて、話が逸れた。12年も住んでいる私の部屋、私のテリトリーの話だ。2LDKで家賃は管理費込みで月8万円。少し築年数が古いところが玉に瑕だが、女の一人暮らしにしては立派な所帯だと思う。お風呂とトイレもちゃんとセパレートだ。上等である。
 玄関を開けるとまずは10帖のリビングダイニングキッチンがある。そこには向かい合わせのソファと机が置いてある。これは簡単な打ち合わせ用のスペースだ。ソファと机は独立する時にデザイン事務所の上司からいただいた。
 その奥に2つの洋室があり、向かって左側が寝室で右側が仕事部屋になっている。
 まずは寝室。部屋の中にはセミダブルのベッドとクローゼット、洋タンスがある。私は昔から生真面目な性格で、脱ぎ散らかした服をベッドに置きっ放しにするようなことは絶対にしない。だからアイロンのあてられたシャツは綺麗にクローゼットに掛けられ、下着類は丁寧にくるりと畳まれ棚の中に収まっている。
 次に仕事部屋。ドアを開くとまず、デスクの上のパソコンと目が合う。そして右側の壁には大きな本棚があり、びっしりと本が並べられている。これはちょっとした光景だ。そして私の自慢でもある。
 初めてこの光景を見た人は大抵「すごいね」なんて驚く。私はその度に「そう?」なんて気のないふりで視線も合わさず返事をするのだが、心の中では「よしよし」とガッツポーズをしてほくそ笑んでいた。これは言わば私の知の主張なのだ。
 私は仕事中、よく煙草を吸う。だからこの部屋は少し煙草臭い。ちゃんと窓を開けて吸っているのだが、やはり匂いは完全には消えてくれない。部屋の隅に佇むガーベラも消えない匂いを嫌がっているように見える。

 以上が簡単な私の部屋の(私の)話である。私の生活と性格が詰まったテリトリー。誰にも手出しできない私だけの場所なのだ。
 しかし、今日はその自慢のテリトリーに侵入者が入り込んでいるような気がする。携帯を鞄に入れっぱなしにしていたノーマークな数時間、奴から3件も不在着信が入っていた。

 普段は自宅で仕事をしている私だが、今日は取材があり昼から部屋を空けていた。
 思ったより時間がかかってしまい、取材が終わって外に出たら辺りはもうすっかり夜だった。太陽の去った街並みは蒼く、油断していると寂しさが襟元から風になって入って来そうな感じだった。だから私はあわててマフラーを巻いた。私の短い髪が秋の風に揺れる。時計を見るともう20時だった。
 今から帰ってご飯を作るのも面倒なので、どこかで少し飲んで帰るかと思い携帯を見たところで、件の不在着信を見つけたのだ。すぐに折り返したが、今度は逆に奴が電話に出なかった。そういう奴なのだ。
 仕方なく私は歓楽街と逆の方向に歩みを進め、留守番電話の無表情な声を聞きながら地下鉄への階段を降りた。
 地下鉄を降りた最寄り駅からの帰り道、私のマンションは50m手前くらいからその様子を見ることができる。
 遠目で見ると私の部屋の窓から黄色い明かりがぼんやりと漏れていた。やっぱりな、と思いため息を吐く。
 部屋の鍵を開けて中に入るとヒールがソファに座ったまま眠っていた。何もかも予想通り過ぎて笑えてくる。本当に読みやすい男だ。
 私はそうっと眠るヒールの前を通り過ぎて冷蔵庫からキンキンに冷えたスーパードライを2本出す。そしてゆっくりと後ろに回り奴の両頬に思いっきりそれをくっつけてやった。
「うわっ!」
 ヒールはすぐに目を覚ました。予想以上の声を出してくれたので私はお腹を抱えて笑う。
「びっくりしたー! 心臓が止まるかと思った……あー、びっくりした。おかえり」
 ヒールが冷たくなった頬に手を当てて言う。
「ただいま。来るなら来るって前もって言ってくれたらいいのに。今日は取材やってん。だいぶ待った?」
「うーん、2時間くらいかな? 帰って来るまで待っとこうと思ってソファに座ってたら気づいたら寝てた。キクの家のソファ、気持ちいいからついつい寝てまう」
 ソファに沈み込んだままヒールが言う。私もこのソファは重宝している。本当に座り心地が良いのだ。ノーネクタイの首筋からか細い奴の鎖骨がちょっとだけ見える。スーツなところを見るとおそらく仕事帰りなのだろう。
「ビール飲む?」
「おっ、ありがとう。ほんならいただきます」
「ご飯は? なんか食べる?」
「いや、ご飯はいいわ。今日はビールだけでいい」
「はいよ」
 私たちは向かい合わせのソファにそれぞれ腰掛けてスーパードライを飲んだ。
「あらら、マフラーなんて巻いて。まるでもう冬が来たみたいやな」
 「あっ、なめとるやろ。外はもうすっかり冬やで。この季節、18時を過ぎたら一気に気候の顔つきが変わる」と、私はマフラーをつけたままビールを飲む。
「へぇ。それくらいの時間、外歩いてたけど別になんとも思わんかったけどなぁ。そうか、当たり前やけどもうすぐ冬が来るんやな。またクリスマスやらなんやらで慌ただしくなるんやなー。俺、あの慌ただしい空気がなんか苦手やねんな」
 ヒールが悪気のないしかめっ面をする。
「あんたは昔からほんまにイベント事が嫌いやな。あかんで、そんなんじゃ女の子にモテへんよ」
「ふーん」
 なんて鼻で笑って、ヒールはまたスーパードライの缶に口をつける。試しに買い置きしていたピーナッツ揚げを少しお皿に出してみたら案の定、奴は美味しそうに食べ出した。
「どっか行く?」
 視線をピーナッツ揚げが入ったお皿に落としたままでヒールが言う。
「えっ?」
「いや、クリスマス」
「えー、うん、でも……なぁ?」
「嫌? キクもクリスマス嫌いやったっけ?」
「いやいや、そうじゃない。クリスマスは好きや。そうじゃなくてさ」
 私はちょっと怒ったような目でヒールを見ていたのだろうか、ヒールはそこで話を後ろにすっと引いた。
「冗談、冗談。クリスマスはお互い仕事やろうしな。ほんでもたまには美味しいものでも食べに行きたいなー」
 なんてコロっと話題を変える。
「うん……せやな。また考えとくわ」
 仕事柄、私は美味しいお店をたくさん知っている。でも本当はクリスマスに一緒にどこか行きたいなぁ。少しお高い洋食屋さんに2人で行って、冷えた赤ワインを楽しみながらよく焼けた七面鳥を開いて食べてみたい。窓の外の何気ない街並みを見て「綺麗やな」なんて言ってうっとりしたい。
 普通の恋人たちが普通にやっていることだ。ただそれだけのことなのだ。
「今日は泊まってく?」
 答えは分かっていたが私は聞いてみた。
「いや、今日は帰るわ。仕事帰りにちょっと顔が見たくなっただけ」
「そう」
 それから1時間くらい他愛のない知人の噂話や最近聴いた音楽の話をした。そして奴は帰って行った。帰ってほしくないなんて思っている私の横顔になんて気づきもせずに。そういう奴なのだ。
 これが私の恋人、ヒールなのだ。


 ヒールは大学時代のバレーボール部の後輩だ。
 とは言っても歳が離れており、同じ時期に大学に在籍していたことは一度もない。ヒールが大学1回生になった年、入れ替わりで私は社会人1年目になったので、年齢的に奴は私の4つ下になる。
 大学を卒業してから何年かは年に2回ある部活の公式試合の応援へ顔を出した。それは各校のバレー部が集う大会で、毎回けっこうな数の大学が出場していた。卒業して1年目の秋、私は初めて卒業生として大会を見に行った(春にも大会があるのだが早くも仕事の関係で私は行けなかった)
 その時の会場は京都の奥地にある体育館で、私は京阪電車と近鉄電車を乗り継いでそこまで行った。現役の時、何度か行ったことのある体育館だ。大阪市内からだと1時間半もかかった。
 就職してバレーボールから遠ざかっていた私にとって、体育館の空気はもはや過去のものとなっていた。いつもは選手として来ていた体育館は1年前とはまったく違った顔つきをして私を出迎えた。そして思っていた以上に寒かった。私はそれに妙な気まずさを感じずにはいられなかった。引退した時よりも何よりも自分が選手として終わったことをその時痛感したのを覚えている。
 観覧席に着くと、大学時代の同級生や先輩達が既に着いていた。
「キク! こっちこっち!」
 大学時代、一番仲が良かったユウが私の席を取ってくれていた。ユウは部の同級生で、現役時代はジャンプ力のある、チームの主力選手だった。長い髪を後ろに括り健康的な汗を流すその姿は、後輩たちにとってはマドンナ的な存在でもあった。久しぶりに会った先輩たちに挨拶をして私はユウの取ってくれていた席に座る。
「キク、ぎりぎり間に合ったね。もうすぐ男子の第1試合が始まるよ」
「市内からやと思っていたよりずっと遠いんやもん。でも間に合って良かったわ。席取っててくれてありがとう」
「どういたしまして。いつもぎりぎりに来るところは昔から全然変わってへんな」
 体育館の乾いた空気の中、そう言ってユウが笑う。

 私が入っていたのは女子バレー部だが男女のバレー部は合同練習や合宿もあり、交流の場も多かった。男子と女子がそれぞれ20人程度、合計で40人にもなる大所帯だった。部活動なので練習も本格的で上下関係にも厳しく、そして強かった。
 男子バレー部は特に強かった。みんな身長が高く、身体付きもいい。私の代では近畿圏でベスト8という功績を残した。コートに男子チームが現れて整列する。試合に出れるメンバーのほとんどは4回生で、3回生が少しいるかいないかというのが毎年の感じだった。そういう訳で、今回の試合のメンバーは私の1つ下か2つ下の代になるのだが、その中で1人見たことのない顔があった。
「ユウ、あの子誰? あんな子いた?」
 私がその子を指差す。
「あの子ね。さっき聞いたんやけど今年入ったばかりの1回生らしいねん」
「1回生? 1回生からメンバー入りしてるん?」
「そう。上手らしいで。高校生の時、全国大会にもレギュラーで出てたらしいねん」
「へー、それはまた。なんか生意気そうな顔してるなぁ」
 まだ大学に入りたてで顔つきは若いのだが、その目つきは鋭かった。他の男子と比べると身長も平均くらいで、身体付きもどこか華奢だった。本当にこの子が? というのが正直な印象だった。
「やんなぁ。1つ下の女の子たちもあの子は生意気やって言ってたで」と言ってユウが笑う。とにかくよく笑う子なのだ。

 試合が始まる。対戦相手は私もよく知っているチームだった。強いチームだ。昨年、私の代の男子はこのチームに負けた。
 試合は序盤から対戦相手のペースだった。ブロックは弾かれ、サービスエースまで決められてしまった。まるで去年の試合の再放送を見ているみたいだった。去年も同じような展開であっさりと負けてしまったのだ。
「やっぱり強いなぁ」
 ユウは半ば諦め顔だ。応援をする現役生たちも少しずつ声が小さくなってきている。そんな中、私はベンチの端に座るあの子を見つけた。
「まだあの子、出てないね」と私が言うと、ユウはちょっと意外そうな顔をした。
「あっ、そうやね。でも1人変わってどうにかなるような感じじゃないよなぁ……」
 彼はベンチに座り、ぐっと拳を固く握りコートの中を睨んでいた。とても強い目だった。私のことなんて全然見ていないのに、私はなぜか自分の心を射抜かれたような気持ちになった。
 その目を見た時、私は思った。彼は覚悟が違うのだ。たかが部活動の試合なんかではなくこれは決闘なのだ。他のメンバーの意識が低い訳ではない。彼が高すぎるのだ。目を見ればよく分かる。
「大丈夫だよ」
「えっ?」
 私はユウの目を見ずにもう一度言う。
「大丈夫。きっと勝てる」

 7点差がついてしまったところで彼がコートに入ってきた。側から見ればそれは苦し紛れのメンバーチェンジであったが、違った。妙に頼もしい背中、これは勝利への第一歩だ。
 前衛から入った彼はその鋭い目で相手を睨みつける。依然として勢いのある対戦相手は強気なサーブを打ち込んできた。カットが乱れ、何とか繋がれた2段トスがあの子に上がった。
 迷いのないジャンプだった。高く、そして早かった。トスは厳しかった。私なら絶対に打たないだろう。しかし彼はそれを振り抜いた。思いっきり振り抜いた。
 ボールは不意を突かれた対戦相手のコートに豪快に叩きつけられる。私はなんだかんだと長年バレーボールをやってきたが、あんなに綺麗なスパイクは見たことがなかった。
 チームメイトも客席も湧いた。コートの空気が一瞬で変わったのが分かる。たまにこういう魔法のような1点があるのだ。それは点差も悪い雰囲気も全部吹き飛ばしてしまう。私は気付いたら叫んでいた。両手を叩いて、叫んでいた。なぜだか分からないが泣きそうなくらい嬉しかったのだ。

 試合が終わった後の体育館は寂しい。それは選手で来ていた時も応援で来ている時も変わらなかった。
 係員たちがネットを緩めて片付けを始めている。審判の机や椅子はもう折りたたまれてなくなっていた。その光景は文化祭の後片付けのようで、見ているとキュッと胸が締め付けられた。
 私たちは現役生、卒業生と一同に会して観客席の端で円になって集まっていた。女子チームは3回戦敗退、男子チームは準優勝という結果だった。女子チームは私たちの代と同じような結果であったが、男子チームは初の準優勝という快挙だった。
 近畿圏で2位。すごい事だ。私から見ても優勝したチームとの力の差はほとんどなかったと思う。ただほんの少し運がなかった。その程度の差だったと思う。
 大会の終わり、現役生が全員集まって応援に来てくれた卒業生たちに声を合わせてお礼を言う。これは昔から続くしきたりだった。
 私は初めて卒業生の側に立っている。それはどこか変な感じだったし、現役生たちの若さを羨ましくも思えた。汗で火照ったユニフォーム。男子チームの快挙もあり今日はみんな表情が明るい。
 彼はその中でただ1人、浮かない顔をして現役生の一番後ろで腕を組んでいた。
 私はすぐにそれに気づいた。彼の思いはよく分かる。それはチームにとっては快挙であっても、彼にとっては快挙でもなんでもないのだ。帰り際、現役生たちが卒業生に頭を下げる中、彼はまだ悔しそうな顔であの鋭い目をコートに向けていた。
 その時のヒールの目を私は一生忘れない気がする。

 時が経ち、大学1回生だった彼も現在では30歳になる。年の割には若々しく、中年太りもしていない。3年前に結婚して、子供も1人いる。
 そして、私の恋人なのである。
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