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Formation 2

バトル・プルーフ

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世界が茜色に染まるその僅かな時間が、マキナは一番好きだった。
広い滑走路の向こうには、穏やかな砂の海が広がっている。その乾ききった水平線の遥か向こうに、明るい輝きを放つ太陽が、今まさに沈もうとしていた。
あたたかな茜色を纏うのは、太陽の周辺だけだ。そこから上に向かって、空は次第に暗い青から濃紺へとグラデーションを織り成し、漆黒の宇宙へと続いてゆく。
人間が飛べるのは、この広大な空のほんの一部でしかないのに、なぜ人間はこんなにも、空へと上がりたがるのだろう。もっと高みへ昇ることができたら、まったく未知の存在がそこで自分を待っている。そう、例えるなら天使や精霊のような――――こんな夢物語のような幻想に、誰もが取りつかれているみたいだ。
そんなことを心の内では呟きながら、マキナは窓越しに滑走路を見下ろしていた。
夕闇に包まれつつある基地の廊下はひんやりとしていて、その乾いた冷たさが彼女の肩をすくませた。アジア系にしては彫りの深いその頬に、夕闇の色を纏った影が落ちる。
窓の向こう、轟音を置き去りにして飛び立ってゆくUAF戦闘機の、猛禽類の翼のように切れ上がったカナード翼が、ロールするその一瞬に、最後の陽光の名残を鋭く弾いた。
マキナはその手に、青い文字盤の腕時計を握り締めていた。時を刻むことを止め、沈黙したそれは、彼女の手の中で物言わず横たわっていた。少女は軍服のポケットにそれをしまうと、意を決したように顔を上げる。
「失礼します、ヴァーノン大佐。鷹羽(タカバネ)です」
 小さく声を掛けてノックを二度。ほどなくして、ドアの向こうから返答があった。
「少尉か、入れ」
「はい」マキナはドアを開け、敬礼してから室内に歩み入る。その拍子に、背に届くほどに伸ばした艶やかな黒髪が揺れた。
大きなマホガニー材のデスクで書類にサインをしていた男は、少女の顔を見ると、ペンを置いて顔を上げた。マキナはデスクの前に立つ。その華奢な左手は、白い三角巾で吊るされていた。
「待っていたよ。どうかね、体調は?」
「はい、もうほとんど本調子に近いです。傷の方も午前中にドクターに診ていただきましたが、来週には抜糸できるだろうと仰っていただきました」
「そうか、それはよかった」
 大佐は、まるで愛娘に対する父親のように表情をゆるめると、彼女の左手を見遣る。三角巾で吊られた腕の、濃い色をした軍服の隙間からのぞく肌には、白い包帯が巻かれていた。
「部隊への復帰はおそらく来月以降になるだろうが、それまでは休暇だと思ってゆっくりするといい」
 しかしその言葉を喜ぶ風でもなく、マキナは苦笑した。
「それなのですが……大佐。正直なところ、兵器としての自分の価値には、限界を感じています」
 いったい何を言い出すのかというように、ヴァーノン大佐は眉根を下げる。
「そんなことはないだろう。少なくとも私は、君の能力を大いに買っている。君はこんなところでくすぶっていていい人間じゃない」
「ヴァーノン大佐、お言葉はありがたいのですが、大佐はきっとわたしの実力を買いかぶっておられるんです。わたしはそんな大した人間ではありません。今のわたしが在るのは大佐に温情をかけていただいたからに他なりませんが、そのご期待に沿えず、今は申し訳ない気持ちで一杯です」
「……鷹羽少尉」
 困ったようにヴァーノン大佐は眉をひそめる。そしてデスクの上で両手を組んだ。その手は太く、節くれだち、かさついている。
これまで、数えきれないほど多くの決断を下し、また同じだけ多くを為してきた人間の手だと、マキナは思った。
「バトル・プルーフという言葉を知っているかね、少尉」
「兵器などが、実戦においてその性能が証明されること、ですか?」
「そうだ。そのとおり」
 大佐は満足そうに微笑む。そして壁に掛けられている戦闘機の写真に視線を走らせる。
「兵器は実戦で使用されねば、その真の性能や信頼性は証明できない。いくらカタログ上のスペックは高性能な兵器でも、開発時の環境と異なる実戦において、想定どおりの性能を常に発揮できるとは限らない。実戦こそ、開発環境では見つからなかった問題点が発見される絶好の機会だ。だから、バトル・プルーフされた性能は、その兵器の真のスペックであるということになるんだ。それと同じだよ、鷹羽少尉」
 マキナは唇を噛み締めていた。包帯の巻かれた左手に、無意識のうちに力がこもる。
記憶に甦る、光景と爆音。
砕けたキャノピィ。舞い散る破片。フライト・スーツをキャノピィの破片と弾体片が突き破り、身体を切り裂かれる衝撃。自らの血で赤く染まったコックピット。操縦不能になり、失速する愛機。失血のため、暗くなってゆく視界。
「人間も兵器も、実戦で見つかった問題点を改善し、更に実戦に生かしてこそ、よりハイスペックなものへと進化してゆける。そうではないかね?」
「――はい、大佐」
 マキナは項垂れたまま、それでもやっとのことで頷いた。大佐の言いたいことはわかる。
だがそれだけに、その期待が、今は重い。
そんな彼女の心中を見抜いたかのように、ヴァーノン大佐は小さく嘆息した。
「それで、私からひとつ提案がある。どうかね? 一度フロリダへ行ってみては?」
「フロリダですか?」マキナは思わず目を瞬いた。大佐は頷く。
「そうだ。あそこにはIDAがある」
「仰っていることの意味が、よくわからないのですが」
「君らしくないな、少尉。IDAにはブルー・フェアリーがある。君の亡きお父上、鷹羽慎氏が開発に協力した機体、ダルフィム‐マークⅢがあるんだよ」
「それは――」
「この機会に、少しの間実戦を離れてみるのもいいだろう。しかしこのまま君の腕を錆びつかせてしまうのは惜しい。あそこならうってつけの機体があるし、ちょうどメンバーの一人が卒業して、空きが出来ていると聞いている。君の腕なら、あの部隊で即戦力になるだろう。彼女たちにとってもいい刺激になる。一挙両得だとは思わんかね?」
 マキナはすぐには答えなかった。その細い指が握り締められる。
「それは、ご命令でしょうか、大佐」
「そう受け取ってもらって、かまわんよ」
「承知、いたしました」
マキナは唇を引き結ぶと敬礼し、退出する。
廊下に出た彼女は、アフターバーナーに点火して飛び立ってゆく機体を見上げた。エンジンノズルから伸びる赤い炎は、まるで赤い彗星のように長く尾を引いて、砂の海の上に無限に広がる空の向こうへと吸い込まれていった。

 茜色に染まるフロリダの空を見上げて、マキナはそんなアリゾナでの日々を思い出していた。あの砂漠地帯での毎日は、なんだか遠い昔のことのようだ。
マキナの中で【鷹羽少尉】という人間は、今ではどこか別人のように感じられていた。
変わらないのは、空への想いだけだ。
大地の拘束から解き放たれ、空にいるときだけが、素のままの自分に立ち返れるような気がする。マキナにとって空は、ある意味では自分という作品を表現できる唯一のオルケストラ(舞台)だった。
少尉と呼ばれていたあの頃は、空へと上がるためなら、何を引き換えにしても構わなかった。
たとえそれが、名前も知らない誰かの命を奪うことに繋がったとしても、この胸には何の感情も沸き起こりはしなかった。もちろん、罪の意識なんて浮かぶはずもなかった。
――あの日……翼を失うことになる戦いに臨んだ、あの日までは。

 夕食後の軽いジョギングは、以前からのマキナの日課だった。パイロットは体重が軽い方がいい。だがその一方で、大Gのかかる中での操縦を余儀なくされるため、必要最低限の筋力を保持していなければお話にもならない。
生まれついての日本人であり、元々の骨格が華奢な彼女は、どうしても欧米人と比較すると筋肉の付き方は薄く、華奢なものになる。そこはいくら努力しても仕方がない。超えられない壁というものなのだ。
だから人一倍のトレーニングという形で、これまで彼女はそのハンデを補ってきた。
 しかし、IDAに来たばかりの頃は、いろいろと不慣れなせいもあって余裕がなかったから、少々さぼってしまっていたのは確かだった。ここで暮らし始めて、もうじき五日が経つ。いいかげん再開してもいい頃だろう。
トレーニングウェアに着替え、手には履き慣れたジョギングシューズとタオルを提げて、寮の部屋を出る。外気は夜の静けさを纏ってひんやりとしていた。
外へ出るまでの間、廊下や階段で多くの学生とすれ違ったが、誰にも呼び止められることはなかった。皆、遠巻きにマキナを見遣っているだけだ。ここでは自分はちょっと毛色の変わった新参者であり、物珍しさも手伝って、色々と話しかけられるだろうと想像していたマキナは、正直なところ、肩透かしをくらった気分だった。
はじめこそ、日本人である自分の外見がそうさせているのかと思っていたが、どうやらそれだけではないようだ。この特殊なIDAという環境下においても、ブルー・フェアリーのメンバーというのは更に特殊な存在らしい。
このIDA全体が、まるで腫れ物に触るように彼女たちを扱っている。そんなふうに、マキナの目には映った。彼女たちのご機嫌を損ねたら最後、いったい何が起こるかわからないとでもいうように。
 人間は見た目が華やかなもの、真新しいものに、安易に飛びつき群がる癖がある。それはさながら、燃えさかる焔の中に自ら飛び込んでゆく羽虫のようだ。その意味では、フェアリーは格好の誘蛾灯というわけだ。
渇ききった砂漠に咲いた一輪の鮮やかな花のようなフェアリーの存在は、望むと望まざるとに関わらず人々を引き寄せる。そして、大衆が銀のイルカで空を翔る少女たちの華やかさに酔い、その鮮やかな曲技が提供する興奮に熱狂している間は、UAFそのものが抱える深い闇に、彼らの目が向けられることはない。
言ってしまえば、ブルー・フェアリーという存在は、UAFにとってチャフかフレアのようなものなのだ。どちらも敵の目を欺き、情報を撹乱するために用いる兵器。それと一緒だ。
だが、そうわかっていても、マキナには特段不快感はなかった。
いくら否定しようにも、自分は兵器なのだ。そして兵器とは、生き抜くために使用するものだ。硝子のショー・ケースの中に大事におさめて、飾っておくためのものではない。
飾っておきたいのなら、ぬいぐるみでも買えばいいのだ。ぬいぐるみは燃料も使わない。弾丸も消費しない。騒音もたてない。もちろん、文句も言えないから、刃向かうこともない。うわべだけのきれいごとが好きな人間にしてみれば、いいこと尽くめではないか。
しかし、きれいごとを並べて生きていけるほどに、この世界は甘くはない。生きるためなら、指の先ほどの小さな虫だって精一杯に敵を欺瞞し、そのために知恵を絞るのだ。それが生きものの本能というものだ。
生きる意志のないものは、もはや死体に過ぎない。単なる肉のかたまりだ。戦うことをしない種は生き残っていけないのだから、戦うしかないのだ。
これといったい何が違うというのだろう。
ジョギングシューズの紐を締める。軽く踵を蹴ってその具合を確かめ、足首をまわすようにストレッチして念入りに関節をほぐすと、マキナは走り出した。特にコースは決めていなかったが、今夜は滑走路の周囲を回ることにした。
まだそれほど走っていないにも関わらず、すぐに額に汗がにじんでくる。そういえば、あの戦闘で左腕を怪我して以来、トレーニングらしいトレーニングをさぼっていたな、そんなことをふと思い出した。どうりで体が鈍るわけだ。
 そんなことを考えながらハンガーの近くまでやってきたとき、マキナはブルー・フェアリーのハンガーにまだ明かりがついていることに気が付いた。
今日はD‐3のフライトはなかったはずだが、こんな時間まで誰かが整備をしているんだろうか。なんとなく胸騒ぎがした。マキナはハンガーへと歩み寄り、首から提げたIDタグを認証装置にかざす。
ハンガー内は案の定、がらんとしていた。人の気配らしきものは感じられない。
 誰かが照明を消し忘れていったんだろうか。そうマキナが首を傾げたとき、奥の方でかすかな物音がする。マキナは反射的に駆け出していた。アトロポスの主翼の下、そこに一人の少年が屈み込んでいた。彼の抑えた手のひらの下からは、赤い血が筋となって伝っている。
「パーシー!」
「――マキナ?」
 痛みに顔をしかめて顔を上げたパーシーは、突然現れた少女の姿に面食らったかのように、幾度も瞬きを為した。痛みと失血のショックでか、その顔は青ざめている。
「いいから、しゃべらないで」
 マキナは首に掛けていたタオルを切り裂くと、パーシーの左手の傷口を素早く縛り上げて止血した。いったい何が起こったのかわからないという風情で、パーシーはマキナが手当てをするのを呆然と眺めていた。
「応急処置としては、これでいいわ。でも、もしかしたら少し縫わないといけないかも。後でちゃんと医務室へ行ってね」
「すごいな、マキナ」
「まあ、慣れてるからね」マキナは苦笑する。
「それより、どうしたの? この怪我」
「ああ、それなんだけどね。実に情けないよ、油断した」
 パーシーもまた苦笑して、床に落ちている大型のカッターナイフを指し示す。
「部品の細かいところを削ったあと、うっかりこいつを握ったまま、つまずいちゃってさ。まったく、整備補給士失格だよな。こんなへまするなんて」
「そんなことないわ。失敗は、誰にでもあることよ」マキナは首を横に振る。
「でも、それとは別にびっくりしたわよ。まだハンガーに灯りが点いているから誰かがいるのかと思ったら、これだもの」
「あはは。前とは逆というわけだ」
「前? ああ、そう言えばそうね」
一瞬きょとんとした後に、マキナはくすりと笑う。つられたようにパーシーも笑った。
「マキナこそ今日はどうしたの? またアトロポスに会いに来たの?」
「ううん。わたしはジョギング中。パイロットは体が資本だから」
「そっか。さすがだな。普段の心がけからしてマキナは違うなあ」
 妙に感心したように言いながら、パーシーは道具箱を片付け始める。まだ今日中にやってしまいたかったことはあったが、肝心の自分がこれでは仕方がない。
と、何も言っていないのに、マキナの手が横から伸びてきて手伝い始める。パーシーは目を見開く。彼女の手つきは実に慣れたものだった。マキナの身のこなしは、どの道具がいったい何のためのものであるか、知っている人間のそれだった。
――まるで、ずっと昔からこういった世界に慣れ親しんでいたとでもいうような。
 パーシーは自分の中で、この一見つかみどころのない、謎の多い少女に対する興味が、風船のようにどんどん膨らんでいくのを感じていた。
「ねえ……マキナ。あさっての土曜、フェアリーは非番?」
 工具箱の蓋を閉じて、パーシーの怪我をしていない方の手に渡したマキナは、その黒く大きな目を瞬いた。
彼女の黒い瞳の中に映り込む自分が、いつになく緊張した面持ちをしていることに気付いて、パーシーの頬がさっと赤くなる。
しかし、当のマキナはそんな些細なことには気付かなかった。飛行中は、ちょっとした計器の変化にも敏感に気付くセンサーのような彼女の瞳は、陸上に降りてしまっては、全く機能しないようだ。
マキナは鼻の頭に手を当てて、天井の方にちらりと目線を走らせる。何か考え事をするときの彼女の癖のようだった。おそらくスケジュールを思い出しているのだろう。
「訓練はないわ。明日、初めてのD‐3の実機でのフライトがあるの。だから、土曜は午前中にブリーフィングがあるだけ」
「明日、アトロポスで飛ぶの!?」
 自分で質問したくせに、思いがけずアトロポスの話題が出たせいで、反射的にパーシーは声を上げてしまう。マキナはかすかに頬を紅潮させると頷き、嬉しそうに相棒の鋼鉄の翼を撫でた。
「そっか、いよいよこいつの初舞台かあ」
「うまく飛ばせるといいんだけど」
「またまたあ。マキナなら大丈夫だよ。噂は聞いてるよ、昨日のシミュレータテスト、すごかったんだって? あの天下のエリーが、嫉妬でそれこそボルケイノ並みにカッカしてたって聞いたぜ」
 パーシーはからかうようにマキナの腕を肘でつつく。マキナは珍しく、小さくその目を見開いた。そうしているマキナは、ショートカットの髪型のせいもあってか、実年齢よりも幼く見える。
「驚いた。そんな噂をどこで仕入れてくるの?」
「おれの情報網はUAF並なのさ」
「おおかた、森岡中尉でしょ。知ってるんだから」
 今度はパーシーが目を丸くする。
「なんで、知ってるんだ? 秘密だって言ってたのに」
「やっぱり、中尉なんだ」マキナは小さく吹き出す。
そこでやっとパーシーは、自分が彼女の策略に引っ掛かったことを悟った。
「ひどいな、マキナ」
「それより、わたしの予定がどうしたの? さっき、その話途中だったでしょ」
「ああ、それなんだけど。ちょっと街へ出てみない? その、マキナはまだここに来たばっかりだし、買い物するときの店なんか、まだよくわからないんじゃないかと思って」
 マキナの目がわかりやすく輝く。
「ほんと? ありがとう、パーシー。ぜひ行くわ」
 ――やった! そう、思わず小さく心の中で叫んでしまう。無意識のうちに、パーシーは小さく拳を握り締めていたようだ。マキナが小さく首を傾げる。
「え? 何か言った?」
「え、ううん、なんにも。じゃあ、ブリーフィングが終わったら、待ち合わせしよう」
 パーシーは大きく首を振る。どことなく頬がゆるんでしまうのを、止めることはできなかった。

  

     *


「――さて、それで、本日の訓練の具体的メニューだが、四番機と五番機がエレメントを組む。他の三機は別メニューだ」
 森岡中尉はいつもの口調で淡々と説明しながら、スクリーンに映し出された訓練メニューをレーザーポインタで指し示す。
「今日はマキナが入隊して以来、初の実機での飛行訓練になる。今回に限ったことではないが、メンバーの新規参入があるときは、集中力が削がれがちだ。こういうときには事故が起こりやすい。だから今日はいつもに増して、気を引き締めてくれ」
「中尉!」
 中尉の説明が終わるのを待ちきれないというように、ブリーフィング・ルームに甲高い抗議の声が響く。その声の主が言いそうなことにいやというほど思い当たる森岡中尉は、内心嘆息しながらも、顔にはそれを出さずに腕を組む。
「何だ、エリー」
「私、嫌です。新人と組むなんて」
「これは任務だ。わがままは認めんぞ。エレメントリーダー(編隊長)はお前だ」
「でも、中尉」
「エリー」今度は中尉がエルフリーデの言葉を遮る。
「ブルー・フェアリーは子どものお遊びじゃないんだぞ。これは命令だ。嫌なら飛ぶな。それだけだ。わかったか?」
「……はい」
 中尉の言うことは正論だ。正論過ぎて反論もできない。エルフリーデはしぶしぶといった様子で頷く。
「マキナもだ。いいな?」
「はい」
二人の返事を見届けた森岡中尉は説明に戻る。
「マキナは今日が実機でのフライトは初めてだからな。エリーとのラインアブレスト(横一列の編隊)にまず慣れてくれ。それをクリアしたら五機でのラインアブレスト、次にエシュロン(斜めに一列になる編隊)の練習に入るからな。他の三人は今渡したメニューに従ってそれぞれソロでの訓練だ。具体的なフライトの順番は、今渡した資料のとおりだ。以上、解散」

 

     *


「あーあ、最低だわ。よりによって、あんたがウイングマン(僚機)なんてね」
 ラケシスの主翼に座って長い脚をぶらぶらさせながら、エルフリーデは聞こえよがしに文句をたれる。
それには聞こえないふりをして、マキナは外部ラダーに上り、あらかじめ定められたリストに従って、発進前のアトロポスのチェックを入念に行っていた。
二人とも、既にD‐3とのダイレクト・リンク用のパッドを装着している。パッドは白く小さな金属片で、遠目に見るとそこだけ白く小さな蝶がとまっているようにも見えた。エルフリーデの自慢の金髪の隙間からも、その白い蝶がちらりと顔を覗かせている。その先端部分を指先で弄りながら、エルフリーデはそっぽを向いて吐き捨てる。
「私の足を引っ張るような真似だけは、やめてよね」
「それは、おたがいさまじゃない?」
「何ですって!」
 マキナの呟きに似たひとことにも、エルフリーデは脊髄反射のように反応する。
 マキナは嘆息し、チェックを終えたリストに日付と時間、それから自分のサインを記入した。
「ねえ、エリー。こんなふうに言い争うの、やめない? あなたがわたしを気に入らないのはわかるけど、仕方ないのよ。これは任務なんだし」
「何よ、このあたしに上から目線で説教する気?」
「説教する気なんてないわ」マキナは眉をひそめる。
「エリー、あなた――これまで本気で叱ってくれるひとがいなかったのね、きっと」
「何を……」
「四番機ラケシス、五番機アトロポス、出動だ」
 ヘッドセットを通じて呼びかけてくる森岡中尉の声が、それ以上の会話を遮った。
途端、エルフリーデはバネに弾かれたような素早さで、ラケシスのコックピットに飛び乗る。それまで、どろどろに溶けたチョコレートのような不機嫌さを全身に纏っていたのがまるで嘘のようだ。
チェックリストを整備補給士に手渡したマキナが、外部ラダーを上ってコックピットへ身を沈めたときには、もう四番機はタキシングを開始していた。
やれやれといったようにマキナは苦笑して、キャノピィを閉じ、ヘルメットを被る。
整備補給士が外部ラダーを取り外し、機体から離れたのを確認して、エンジン・スターター・ボタンをオン。待ちかねたように、二つのエンジンが唸りを上げた。
パーキング・ブレーキを解除。そろそろとスロットルを押し上げる。アトロポスはゆっくりと動き出した。
懐かしいこの振動、この感覚。
ヘルメットバイザを通して瞳に刺さる青空がまぶしくて、マキナは目を細める。
キャノピィ越しに見る青い空。ほんものの空だ。
 やっと自分は帰ってきたのだ、とマキナは思う。
 今でも力を込めると、かすかに痛む左腕。そこに刻まれた傷は、おそらく一生消えないだろう。でも逆に、この傷があるからこそ、自分が自分であることを、きっと忘れずにいられるのだ。
タキシングして滑走路へ出ると、そこでは四番機ラケシスがきちんと待機していた。口ではああ言っていたが、中尉の命令にはちゃんと従うつもりなのだ。そんなエルフリーデのプロ根性を、マキナは素直に好ましいと思った。
誰よりも鮮やかに舞うための兵器である自分たちには、余計な感情はいらない。それが負であれ正であれ、感情というものは正常な判断力を阻害する。そんなものを身にまとっていては、翼の切れ味を自ら鈍らせるだけなのだ。
しかしその一方で、感情はたいていの場合、人間を動かす原動力にもなりうる。それゆえに、感情のコントロールは生きていく上で欠かせない技術と言えるだろう。ましてや自分の命を乗せて飛ぶパイロットともなれば。
要するに、使いどころを間違えないことが肝要なのだ。
キャノピィ越しに、エルフリーデの青い目がまっすぐにこちらを見ている。マキナと目が合ったのを確認すると、ラケシスのエンジンが、赤い焔を吹いた。
スロットル全開。二機は並んでテイク・オフ。
ラインアブレストは最もシンプルな横一列の編隊だ。自分はエレメントリーダーのエルフリーデに合わせればいい。簡単だ。目を瞑っていてもできそうなくらいに。
マキナには、キャノピィの向こうに広がる大空を存分に楽しむだけの余裕があった。
「すげえ……本当にあれにマキナが乗ってるんだなあ」
 包帯を巻いた手のひらで額の上に即席のバイザを作りながら、パーシーはあんぐりと口を開けて上空を見上げる。
雷鳴のような轟音とともに二機が降りてくる。美しいアブレストを保ったまま。
そのまま二機は滑走路すれすれの低高度を飛び去り、あっという間にまた芥子粒のように小さくなった。

 

     *



約束の土曜日、コメット島へと向かう連絡船オービターのデッキにマキナとパーシーの姿があった。二人は並んで潮風を受ける。マキナは気持ち良さそうに目を細めた。
やや長めのショートカットの毛先が、柔らかく風に揺れていた。そうして潮風に身をまかせているときの彼女は、ごく普通の女の子だ。彼女のフライトを実際に見た彼でさえ、あの五番機アトロポスを自在に操るパイロットと彼女が同一人物だなんて、信じがたいほどだ。
「風が気持ちいいね」
 眩しそうに目を細めて、マキナがこちらに微笑みかける。その笑顔こそ眩しくて、パーシーは自分の頬が火照るのを感じた。
 そのとき、はたはたと虫の羽ばたきのような音とともに、マキナの脚に軽い何かがこつんとぶつかる。
えっと思って振り向いたマキナが見たのは、透明な翼を持ったエアプレーンだった。
単純に風の力だけで飛ぶ、シンプルなものだ。思わずマキナが拾い上げると、そのプレーンの持ち主と思しき五、六歳の少年が駆け寄ってくる。
 マキナは微笑んで、少年にそれを返してやる。
彼はにっこり笑ってそれを受け取ると、再びデッキ上でそれを飛ばし始めた。
広いオービターのデッキは、彼にとって格好の飛行場というわけだ。 
 だが彼のエアプレーンは何度飛ばしても、ぐらぐらと不安定にピッチングを起こす。やがてそれが徐々に強くなり、最後には重力に引かれて無残に墜落した。もちろんやたらめったら肩に力の入った投げ方の問題もあるだろうが、おそらく墜落の原因はそれだけではないだろう。尾翼のエレベータが僅かに上がっているときに起こる症状だな、とマキナは思った。
 実際のマニューバーでは、ピッチングは操縦桿の操作で機首を上げ下げすることにより対応する。機首を上げる(ピッチアップ)ことでGが発生し、機首を下げる(ピッチダウン)ことでマイナスGが発生するのだ。
急激なピッチアップは失速の原因となるし、激しいGによりパイロットはブラックアウトを起こす危険性がある。また同様に、急激なピッチダウンも失速の原因となるほか、激しいマイナスのGにより、レッドアウトを引き起こす危険性がある。いずれも非常に慎重を要する機動なのだ。
あれがもし実際の飛行機だったら、パイロットは頭に血が上がったり下がったりで、さぞかし大変だな。そんなふうに考えていたマキナは、いいかげん自分も病気だ、青空症候群だな、と内心では自嘲気味に笑う。
 だがおそらく、パーシーも同じことを考えていたのだろう。職人魂を抑えきれず、隣でうずうずしているのが手に取るようにわかった。無意識なのだろうが、その手がそわそわと動いている。
「そんなに気になるのなら、行ってあげれば?」
 笑いをこらえながらマキナが言うと、パーシーの顔がぱっと輝く。
「たぶん、エレベータでしょ? 直してあげたら? 喜ぶよ」
「了解!」パーシーは少年の元に歩み寄り、彼のエアプレーンの尾翼付近を弄っていた。やがて少年の手に戻されたそれは、それまでの不安定な挙動が嘘のように、青い空へ高く真っ直ぐに舞い上がった。

「ねえパーシー。パーシーは、どうしてIDAに入ったの?」
「おれ?」
 デッキの手すりに寄りかかり、船内のカフェで買ってきたジェラートを味わいながら、ふとマキナが口にしたひとことに、パーシーは小さく目を見開く。
「そうだなあ、おれは昔から機械いじりが好きだったからね。ほら、たまにいるじゃん、電化製品やらおもちゃやら、直せないくせにすぐ分解したがるクソガキって。まさにあんな感じの子どもだったわけ」
 マキナはくすくす笑いながら、頷く。さぞかしやんちゃだったであろう、その頃が目に見えるようだ、と思いながら。
「で、さすがに親も考えたんだろうな。こんな危なっかしい子どもは、普通の学校に行かせておいたんじゃ、将来何をしでかすかわからない。一歩道を誤ったら、ひとさまに迷惑を掛ける人間にだってなりかねない。だったらいっそのこと、ちゃんとした学校に行かせて、しっかり教育を受けさせて、きちんと手に職をつけさせた方がいいって。そんなこんなでおれは、ジュニア・ハイから工業系のところへほとんど強制的に行かされたんだけど、そこで出会ったのがあれだったのさ」
パーシーは上空を見上げる。整然と編隊を組み、白いヴェイパーの尾を引いて、遥かな天空を横切ってゆく白い機体が五つ。UAFの最新鋭戦闘機だ。
特徴のある、光沢を抑えた黒い塗装は、機体のステルス性を高めるためのもの。そして、鋭角に切れ上がった前進翼が美しい。
旋回するためにバンクしたその一瞬に、風切り羽のようなカナード翼がきらりと光る。それらはあっという間に彼方へと飛び去り、あとには名残のような轟音だけが残された。
「ジュニア・ハイのときのチューターがさ、筋金入りのUAFの戦闘機マニアで、すっかりおれもその病気に感染しちゃったってわけ」
 パーシーはそこで言葉を切り、肩をすくめてみせる。
「マキナは?」
「え?」
「マキナはどうしてIDAに来たの?」
 マキナはすぐには答えなかった。わずかに伏せたその黒い瞳の奥に、言い知れぬ闇のようなものが広がっているように、パーシーには見えた。やがてその薄い唇が小さく開かれる。
「――命令だったから」
「命令? 親の?」
「うん、まあ、そんなところ」
 マキナは曖昧に微笑った。コーヒー味のジェラートが、急に苦く感じる。
「わたしの父は、UAFのパイロットだった。だけど、ある事故が元で死んでしまったの」
 連絡船オービターの霧笛が鳴る。近くを航行する大型の貨物船に注意を促したらしい。
 その警告にハッとしたように、マキナは目を瞬いた。
「ごめんね、いきなりこんな話」
「ううん。続けて? もしマキナさえよければ」
 マキナは頷く。体温で溶けたジェラートが、コーンの端から滴り落ちた。
「父が亡くなったその日、十歳だったわたしは父に連れられて、UAFの訓練用滑走路の近くに遊びに来ていたの。わたしをひとり滑走路の端に残して、父は空へと発っていった。わたしは父と、父のウイングマン、二機の曲技を見て目を輝かせていた。何も知らずに」
 マキナはがりりと乾いた音を立てて、コーンをかじる。
「ちょうどオポジング・ナイフ・エッジ・パスに差し掛かったときだった。そこで事故は起こったの。わたしの見ている前で、ウイングマンの主翼に父の主翼が接触したの。父の機体の大きな翼が千切れ飛ぶのが、ほんとうにゆっくり見えた」
 マキナは空になった手のひらを見つめた。
まるで、そこに父の機体の欠片が乗っているかのように。
「父のウイングマンは緊急脱出して無事だった。でも父は、間に合わなかった。母はショックで、まるで廃人のようになったわ。父を喪ったわたしたち親子は両親のふるさとだった日本に帰国したのだけれど、わたしには親代わりになってくれる祖父母もいなかったから、わたしは日本でしばらく施設に預けられたの」
 マキナの黒い瞳が翳る。いつも彼女の瞳の奥に漂っていた影のようなものの正体に、このときパーシーは初めて気付いた気がした。
「それからしばらくして、母は再婚したわ。わたしが十二歳のときだった。わたしの二人目の父――パパ――になったのは、母が一番辛いときに慰めてくれた友人だったの。わたしはもちろん賛成したわ。これで、母もきっと元気になるって思ったから。結果、確かに母は明るくなったわ。でも、わたしにとってはそれが地獄のはじまりだった」
「――新しいお父さんが、つらくあたったの?」
 パーシーは眉をひそめる。マキナは目を伏せると首を横に振った。黒髪が頬に当たり、ぱさぱさと音を立てる。
「ううん。その逆よ。まるっきり逆。わたしは小さい頃から、パイロットだった父の影響で戦闘機が好きだったんだけど、新しいパパはそうじゃなかった。「女の子がそんなものに興味を持つんじゃありません。危ないから」、そう言ってわたしを飛行機から遠ざけようとするひとだったの。日本の中学校を卒業後、パパはわたしを一流の花嫁修業を売り物にした、全寮制の女学院に転入させようとしたわ。物騒な戦闘機のことなんかきれいすっぱり忘れて、おしとやかなヤマトナデシコになるように、って」マキナは小さく息を吐いた。
「もちろん、わたしのことを思って、そう言ってくれたんだってことくらいわかってる。でも、わたしは誰かに言われたから戦闘機が好きなんじゃない。それに、誰かに言われたからって、はいそうですかと嫌いになれるものでもない」
 マキナは顔を上げる。そして、パーシーの鳶色の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「夢中になれるもの、好きなものって、そういうものでしょ?」
 パーシーは強く頷いた。マキナの言うことはとてもよくわかる。
自分でも言ったように、パーシーの両親は、彼がIDAに入学することを反対はせず、むしろ応援してくれていたが、それはむしろ稀な例なのだと彼は知っていた。
パーシーと同じように、好きなものを極める道を選ぼうとした者は彼の友人の中にも多い。しかし、結局は両親の理解が得られなかったり、経済的な事情があったり等、様々な障害に阻まれて、泣く泣く夢を諦めざるをえなかった例も決して少なくなかったからだ。だからパーシーは、自分が恵まれた環境にあることを、理屈ではなくその肌身で理解していた。
子どもだからといって、夢だけを食べて生きてはいけないのだ。
子どもは親に食べさせてもらわなければ、生きてはいけない。そして、何を食べさせてくれるかは、親次第だ。子どもの都合ではない。
大人という生きものの目には、子どもは何もわかっていない、か弱く無力で、無知な存在に映っているのだろう。だから自分たちが導いてやらねば道を誤ってしまうのだ、大人はそう考えているのかもしれない。
けれどそうではない、とマキナは思う。
子どもは子どもなりの目で、きちんとこの世界を見ている。大人がそう考えるのは、エゴというものだ。確かに人間としての経験年数が少ない分、無知かもしれない。経済力と呼べるものがない分、無力かもしれない。だがだからといって、子どもたちの未来まで、可能性まで決めつけてしまうのは、単なるエゴ以外の何ものでもないだろう。
「だから、わたしはある日、家出同然に飛び出したの。母親のカードを勝手に借りて、ザックひとつに荷物を詰めて……別にどこに行こうかなんて、考えていなかった。とにかく夢中で、現実から逃げ出したくて」
 パーシーに勇気付けられたように、マキナは微笑む。
「家を出て、どのくらい経ったのかわからない。雨に濡れてぼろぼろになって、くたくたに疲れて――そして、気がついたとき、わたしはあそこにいたの」
「あそこ?」
 その呟きには、マキナはすぐには答えなかった。ただ、ゆっくりと目を巡らせる。導かれるようにして、彼女のまなざしが向けられた方角をパーシーは見た。
そこに広がるのは、広大な人工の浮島、コメット島――UAFの本拠地――だった。
マキナの話からすると、彼女にIDA行きを命じたのは、彼女の両親ではないようだ。とすると、いったい誰なんだろう。そんな素朴な疑問をパーシーは感じたが、それを口にはしなかった。 

 連絡船オービターはゆるゆるとコメット島に接岸する。
コメット島にはUAF軍人を相手にした大型のショッピング・モールがあるのだ。
部外者の立ち入りは厳密にチェックされているコメット島だが、IDA関係者に対してはほぼ出入りは自由だ。学生であることを示すIDタグさえ身に付けていれば、特に行動が制限されることもない。
 マキナとパーシーは、そこで思う存分買い物を楽しんだ。年頃の女の子にしては飾り気のないマキナではあったが、そこはやはり女の子というべきか。きらきらしたアクセサリーやペットショップの子猫など、かわいらしいものの傍を通るたびに足を止め、彼女は目を輝かせた。
「さすがにちょっと疲れたね、一休みしようか。何か冷たいものでも買ってくるよ」
 噴水を囲むように据えられたベンチに腰を降ろすマキナにそう言って、パーシーは駆け出す。
手を振りながら遠ざかる彼の背中を見送りながら、マキナはわずかににじんだ汗を拭い、ふうと息を吐いた。
 ショッピング・モールは吹き抜けになっており、天井に張られた透明な強化アクリル板の向こうに青い空が見えていた。雲ひとつない空は、どこまでも澄んでいる。
ひとりになって落ち着いてはじめて、マキナはそれまで薄く感じていた違和感のようなものに気がついた。
それは言い換えれば、敵のレーダーに捕捉されたときのような、ぞっとする感覚だと言ってもよかった。何かが自分を照準している、そう直感的にマキナは悟った。他人の視線を肌で感じる術は身に付いている。
伸びをするふりをして、さりげなく辺りに目線を走らせる。けれど、それらしき人物は見当たらない。だが、いっこうに違和感は消えなかった。一瞬、気のせいかとも思ったが、こうした動物的な勘をマキナは大切にしていた。

「ごめんごめん、思ったより混んでてさ。あれ?」
 両手にキャラメル・マキアートを持ったパーシーは、そこにいるはずの少女の姿が見えないことに気付いて首を傾げた。
咄嗟に場所を間違えたかとも思ったが、そうではない。噴水の周りに設けられたベンチはここだけだ。そして、土曜日とはいえショッピング・モールは比較的空いている。他に見間違えてしまいそうな少女はいない。
「マキナ?」
 パーシーは思わず声を上げる。しかし、その呼びかけに応える者はいなかった。

 

     *



 森岡中尉はその日、久々の休暇をのんびり楽しんでいた。正規の軍人である彼は、無論コメット島のUAF施設を自由に使える。この日、彼が存分に羽を伸ばしていたのは、UAF軍人専用保養施設の一つである温水プールだった。
UAFの実戦部隊を離れてブルー・フェアリーの教官に就任してから早三年、思えば駆け足でもするようにして過ごしてきた。実際に数えてみたわけではないが、まともに休日を取ったことなど、両手の指で足りるほどだろう。
戦地へ赴くパイロットに比べれば命の危険がない分、そういった意味での緊張はないが、教官という立場はそれほど楽な仕事でもない。
なにしろ、ブルー・フェアリーの曲技指導のみならず、世界各地で行われるショーへの出演依頼の対応からそのスケジュール調整、はては整備班とのやり取り、それらの上官への報告等々、それこそやる気になったら休暇を取る余裕なんぞない、というのが彼の仕事なのだ。
 凝り固まった肩をほぐすように念入りにストレッチすると、森岡中尉はざぶりとプールへ飛び込んだ。
元々水泳は得意な方だ。あっという間に五十メートルを泳ぎきると、壁を蹴って伸びやかにターン。その流れるようにきれいなフォームは、銀翼で風を切って飛ぶ、美しいダルフィムの雄姿を思い起こさせる。続けて三百メートルを泳ぎきり、プールサイドに上がろうとした彼の前に、白い脚が立ちはだかった。
「珍しいこともあるものね、レナード。あなたがこんなところに来るなんて」
「アレッシア」
 森岡中尉を、ミドルネームのレナードで呼ぶ人間は珍しい。彼女と気心の知れた数人の友人くらいだ。水の伝う黒髪を後ろへなでつけながらプールサイドへ上がる森岡中尉へ、アレッシア・ソミス中尉は僅かに身体をずらして道を空けながら、妖艶に微笑みかける。ソミス中尉は以前に森岡中尉が所属していた部隊にいた、いわば戦友という奴だった。
その気安さで、森岡中尉の笑みから力が抜ける。
「君こそ珍しいな、てっきり三日と空けずに飛んでいるものとばかり思っていたが。水に潜ることもあるんだな」
「人をなんだと思ってるのよ」
 口ではそう言いながらも、ソミス中尉の言葉に棘は見当たらない。
二人はプールサイドのチェアに並んで座った。
「ここにはよく来るのかい?」
「ぼちぼちね。月に数回といったところかしら。やっぱり水に潜るよりは飛んでいたいから」
「何だ、ぼくの言ったとおりじゃないか」
「まあね。あと半月はこっちにいるから、まあ季節はずれのバカンスといったところね」
 アレッシア・ソミス中尉は笑いながら、濡れた長い金髪を纏めて結い上げた。白い健康的な肌が水を弾いている。彼女は持参していたポットから冷たいコーヒーをカップへ注ぐと、森岡中尉に渡す。コーヒーには、小さく砕かれた氷が浮かんでいた。
ソミス中尉は自分もカップに注ぐと、それを美味そうに飲み干す。彼女に倣ってカップに口を付けた森岡中尉は、一瞬その苦さに驚いた。ソミス中尉のコーヒーは、IDA内の自分のオフィスでいつも飲むものよりずっと濃く、そして苦かった。その苦さが、彼を現実へと引き戻す。
森岡中尉がブルー・フェアリーの教官になり、前線を離れてからも、彼女たちはずっとそこで戦ってきたのだ。この苦さは、戦いを生き抜いてきた人間の苦さだと、彼は思った。
かつては自分も、一緒にこの苦さを味わってきたはずなのだ。それなのに、いったいいつ頃から、こんなに腑抜けてしまったのだろう。
「そちらはどうだい? IDAに入り浸りになってから、のんびりし過ぎてとんと情報に疎くなってしまったよ」
 ソミス中尉は小さく目を見張ると、やや憤慨したように眉根を寄せて、ぐいと顔を近づけてきた。ぽってりと厚みのある唇が、意味深な笑みを形作る。
「何言ってるのよ。あなたのところこそ、大物を仕入れたみたいじゃない。こっちじゃ凄い噂よ」
「大物? 仕入れた?」
「あくまで惚けるつもり? ちょっと見ないうちにずいぶんと狸になったわね、レナード。空よりも地上の仕事が肌に合っているのかしら?」
「惚けてなんかいないよ。君がいったい何を言っているのか、ぼくには本当にわからないんだ」
 森岡中尉は眉をひそめる。それでようやくソミス中尉にも、彼が白を切っているわけではないと知れたのだろう。
それまでのからかうような軽い口調から、途端に慎重なものへと切り替わる。
「まさか本当に、聞いてないの?」
「だから、何を」
「ああ、まずったわね。私としたことが」
 眉間に手を当てて、ソミス中尉は盛大に嘆息した。だが一方の森岡中尉には、何が何だかわからずじまいだ。
「何だよ、気になるじゃないか、アレッシア」
「わかった、わかったわよ。元はと言えば私が迂闊だったわ。だからきちんと責任を取って最後まで言うわよ」
 ソミス中尉は手を振って、身を乗り出してくる森岡中尉を牽制すると、カップをサイドテーブルに置いた。
「だけどね、それであなたがショックを受けたとしても、知らないわよ。そこまでは責任取れないわ。それでも、いい?」
 彼女の目も、声も本気だった。幾度も共に死線を潜り抜けたことのある森岡中尉には、理屈ではなく、それがわかった。自分は今、彼女のガンサイトに捉えられている。挙動を誤れば、待つのは破滅かもしれないのだ。
「いいさ。元より、それほどやわな人間じゃない」
「それは、知ってるわよ」
「いったい何なんだ。大物を仕入れたって、誰が?」
「あなたのところに決まってるじゃない」
「ぼくの?」
「あなたのところと言ったら、一つしかないでしょう。ブルー・フェアリーよ」
「フェアリー?」ようやく、森岡中尉の脳裏に一つの事実が閃く。
「もしかして、マキナ――各務蒔那――のことか?」
「ええ、そうよ。あなたらしくない、察しが悪いわね。最初のひとことですぐに気付くと思っていたのに」
「マキナがどうしたというんだ。確かにフェアリーは目立つ存在だが、こっちに新入りが来たくらいでそちらが騒ぐ必要なんてないだろう? だいたい、そんなこと珍しいことじゃない」
「あなた、本当に知らないのね?」ソミス中尉は眉をひそめた。「いえ、きっと、知らないんじゃない、知らされてないんだわ」
「知らされていない?」
「あなた、その新人のこと、どのくらい聞いているの?」
「ヴァーノン大佐からいただいた紹介状には、既にD‐3の操縦には問題ない程度の操縦技術を有している人間だから、きっと即戦力になるだろうとあった。戦闘機全般については、過去にアリゾナのUAFの施設で訓練を受けたと書いてあったさ。アリゾナ基地での訓練修了履歴もちゃんと書かれていたぞ。あれが架空のものだとは思えない。それにだいいち、たかが学生の編入程度に、大佐が嘘を書く必要はないだろう?」
「誰もそれが嘘だなんて言ってないわ」
 アレッシアは肩をすくめて嘆息する。
「ああまったく、ヴァーノン大佐は、いったい何を考えているのかしら」
 頭が痛いという風にこめかみを押さえ、ちょっとビールでも買ってくるわ、コーヒーではとてもじゃないがやってられないもの、とソミス中尉はひとりごとのように言った。
じゃあぼくが、と言って森岡中尉が先に席を立つ。彼が両手によく冷えたビールを提げて戻ったとき、ソミス中尉はコットンのパーカを羽織って待っていた。
ぷしりと軽い音が二つ、プールサイドに響く。ひとしきり咽喉を鳴らした後、ソミス中尉は白く長い脚を組み直した。 
「あなたがフェアリーの教官になって実戦から退いた頃、ある人間が入隊してきたの。だからあなたはその人物を知らなくて当然ね。彼女は、ひとことで言うなれば……そう、異質だったわ」
「異質?」
 ええ、とソミス中尉は頷く。
「彼女は、ヴァーノン大佐の肝いりで、アリゾナの基地に突然やって来たの。そう、まさに突然という言葉がふさわしいわ」
 ソミス中尉の言葉を聞きながら、森岡中尉はたった今、自分が言ったばかりの言葉を反芻していた。アリゾナはマキナが訓練を受けたという、UAFの基地だ。
「来たばかりの頃の彼女は、何を考えているのかわからない虚ろな目をして、がりがりに痩せた子どもだった。ひと目でアジア系と分かる黒い髪と目、そして痩せた体。話しかけてもほとんど反応がなく、いつもぼんやり空ばかり見ている少女。こんな子どもにいったい何ができるのか、誰もがそう思っていたわ。もちろん私もよ」
 ソミス中尉はひとくち、ビールを啜る。
「けれど、そんな大人たちの鼻を明かすかのように、彼女は瞬く間に、しかもほとんどノーミスで訓練期間を終えた。そして、IDAを正規に卒業した奴らをあっという間に抜いていったわ。それまでの彼女は、きっとその翼の下に、天性の鋭い牙を隠していたのね。アカデミーを出たてのひよっこたちは、シミュレータでは誰一人として彼女に勝てなかった。それはそうだわ。鷹に鳩が戦いを挑むようなものだもの」
「大佐はどうして、マキナを? 彼女と大佐は、別に血縁関係でもないだろうに。不思議に思わなかったのか?」
「そんなことは知らないわ。ああした世界で生きていれば、別にどうでもいいことだし。あなただって、前線にいるときはそうだったでしょ? 生きていくために必要最低限のことしか、考えなくなる」
 言われて、森岡中尉には返す言葉がない。
「見せてあげたかったわよ、彼女の飛行を。ああいうのを、水を得た魚、っていうのかしらね。彼女の操る機体は、まさにそれ自体が意思を持った生きもののように、時として信じられない機動をしたわ。そんな彼女が実戦に投じられるまでに、そうそう時間は掛からなかった。わかるでしょう」
「マキナが……実戦経験のあるパイロットだっていうのか?」
「経験がある――なんて軽いもんじゃないわ。彼女はエースよ。私たちの部隊のトップ、エースパイロットだったわ」
通常、五機以上の敵機を撃墜するとエースパイロットの呼称を手に入れる。その事実に、森岡中尉はぞくりと背筋があわだつような感覚をおぼえた。
五機というと少なく聞こえるかもしれない。だが航空戦が複雑化し、国家間の戦争というものがほとんど起こらなくなった現在では、非常に稀な存在なのだ。
超国家的な軍事力行使機関であるUAFの最大の使命は、ある意味ではそうした紛争を起こすおそれのある国家や、民族に無言の圧力をかけることだ。直接的な攻撃は最終手段なのだ。だから、発足当初に比較すると遥かに現在の出動回数は少ない。
 ソミス中尉、そして森岡中尉の感じる脅威はそういうことなのだ。
「あの子の飛行センスは天性のものよ。理屈じゃないわ。きっと彼女にとって、戦闘機を飛ばすことは、わたしたちが自転車に乗るようなものなのかもしれない。はじめは難しくても、いったん体が覚えてしまえば、それこそ目をつぶっていても乗れるようになる。もちろん、障害物がなければの話だけど、空には障害物なんかないんだから、同じようなことよね」
 ソミス中尉はそっと包むように自らの肩を抱く。
「そうでなければ、あの飛び方の説明がつかないわ。彼女の機は時々、まるで人間を乗せていないかのような動きをするの。そのうちに空中で分解するんじゃないか、一緒に飛んでいて、何度そんなふうに思ったかしれない。あれは実際に、この目でそれを見た人間じゃないとわからない感覚よ」
 ソミス中尉は優秀なパイロットだ。森岡中尉は充分にそれを知っている。そんな彼女がこんなふうに語るパイロットとマキナが同一人物だなどと、とてもすぐには信じられなかった。
「これは私の持論ではなく、客観的なデータに基づいた説なのだけれど」
 ソミス中尉はそこではじめて言葉をためらい、森岡中尉の目をじっくりと見据える。
「子どもの兵士の方が、何も知らない分だけ、戦場では残酷になれるものなのよ」
「アレッシア!」
 反射的に森岡中尉は、自分たちがどこにいるかを忘れて声を上げていた。 大声がプールの天井にわんわんと反響する。いったい何ごとかと、泳いでいた数人がこちらを見遣っている。
「落ち着いて、レナード」
「悪かったよ。取り乱した」
「いいのよ。仕方ないもの。私の言い方が悪かったわ」
 ソミス中尉はパーカの前を掻き合わせる。
「だけど、彼女が最前線で飛んでいた期間はそう長くはないの。そうね、半年くらいかしら」
「半年?」
 森岡中尉は眉をひそめる。戦闘機のパイロットが現役で空を飛べる期間はそう長くはない。高度な機器操作、反射神経を必要とされ、極度の緊張を強いられる世界に、心身ともに磨耗するからだ。しかしそれにしても、半年というのは短すぎやしないか。
「彼女は撃墜されたのよ。中東での任務の最中にね。もちろん、ぎりぎりで彼女は脱出したわ。だからああして生きているんだけど。それからよ、どこかおかしくなってしまったのは」
「おかしくなった?」
「端的に言えば、飛べなくなった、ということね。そう聞いているわ。彼女が部隊から消えたのは、それからすぐよ。それと入れ替わるようにして、フェアリーに新しいメンバーが入ったというニュースを聞いたわ。すぐにわかった。この新人というのは、きっと彼女だって」
「さっき、君は彼女が飛べなくなったと、言ったね」
「ええ」
「それはおかしい。シミュレータでも実機でも、彼女は優秀な成績だった。何の問題もなく飛んでみせたよ」
「本当に?」ソミス中尉は目を見開く。演技ではなく、本当に驚いているようだ。
「だったら、それはおそらく、戦いじゃないからよ。私の知る彼女は、本当に飛べなくなっていたわ。撃墜されてからは、そのときの怪我が完全に治っても、エンジンを始動することすらためらっていた。実際にこの目で見ているもの、間違いないわ」
 ソミス中尉は、缶に残ったビールを一気に飲み干す。そして乾いた音を立てて、それを握りつぶした。
「――彼女は飛べなくなったんじゃない。戦うために飛ぶことが、できなくなったんだわ」
 森岡中尉の胸中に、マキナの横顔が浮かぶ。
ハンガーでパーシーと話しながらも、どこか孤独さを漂わせていた彼女。そして、あのシミュレータテストで見せた、新人ならざる落ち着いた機動。
「彼女、今は基地では[『マキナ・タカバネ』と名乗っていたわ。だから私たち、仲間内では彼女をガトリング・ホークと呼んでいた」
「鷹羽……?」
 森岡中尉は息を飲む。
体中の血液が逆流するような感覚。それは、敵の索敵レーダーの照射を浴び、HUDに警告を示すサインが明滅したときの感覚に似ていた。
「知ってるの?」
 彼の表情がさっと変わったことに、そのパイロット特有の視力で、ソミス中尉も気がついたのだろう。怪訝そうにこちらの顔を覗き込んでくる。
素早く目線を逸らして、森岡中尉は作り笑いを顔に張り付かせた。空を飛んでいたときには知らなかった、身を守る術だ。
「いや、何でもない。ちょっと、昔聞いたことのある名前に似ていたから、驚いただけさ」
「そう? なら、いいのだけれど」
 彼女は腑に落ちないような表情をしていたが、それ以上追及しようとはしなかった。小さく嘆息すると立ち上がり、背を向ける。
「気をつけてね、レナード。あの子は特殊よ。ビール、ごちそうさま」
「ああ」
 そうさ、わかっているとも――――
遠ざかってゆくソミス中尉の白い背中を見送りながら、森岡中尉は誰にともなく呟いた。
 きっと、「これ」は偶然じゃない。鷹羽の姓を名乗る人間で、森岡中尉が知っている者はたった一人しかいない。
その顔を思い浮かべるとき、森岡中尉の胸の中に浮かんでくるのは、まだあどけなさを残した少女の笑顔だった。彼がこの世界で最も愛していた、一人娘の笑顔だ。
彼女はパイロットだった森岡中尉にあこがれと羨望のまなざしを向け、よくなついていた。
そして森岡中尉もまた彼女を大切に思い、彼女に会えるのを楽しみにしていた。
今にして思えば、彼女は自分にとって妹も同然の存在であり、共に空を愛する同士として認めていたのだ、と中尉は過ぎ去った日々をふり返る。
乾いた砂が水を吸い込むように知識を吸収してゆく彼女の将来を楽しみに思い、いつの日か成長した彼女と共に飛べるのを、確かにあの頃の自分は夢見ていた、と森岡中尉は思い出す。
けれど、今の自分はあの頃とは違うのだ。
自分は空から逃げ出した。自分の失態でなくしたものの大きさに耐えきれず、そこから逃げ出したのだ。
 手のひらにじっとりと汗がにじんでくる。それは冷たい汗だった。
空で戦うことで、おそらくは自己というものを見つめていただろう少女。彼女にとってそこは、最愛の者を奪った場所であると同時に、愛してやまない場所なのだろう。今でも。
一人空に上っていくとき、彼女はいつも何を思っていたのか。そこに、いったい何を見ていたのか。それとも、いったい何から目を背けていたのか。
彼女と真正面から向き合うことは、おそらく自分には避けられないことなのだ。
もしかしたら、そのために彼女はIDAにやって来たのかもしれない。たとえそれが、命令という名の仮面を被ったものだったとしても。
森岡中尉は空になった缶を握り潰すと、ざぶりと水しぶきを上げて再びプールに飛び込んだ。




     *




 その視線を追っているうちに、パーシーのいるところから思ったよりも離れてしまったことにマキナが気付いたのは、賑やかなショッピング・モールから出てしまってからだった。
敵のレーダーに追われることに慣れた身体は、他人の視線というものに敏感になっていた。そうでなくては生き残れなかったからだ。
 モールの地下に広がっていたのは巨大な駐車場だった。時折買い物客が出入りする他は、湿っぽいコンクリートの壁がどこまでも続いている。
さすがに神経質になり過ぎたかな、そう思ったとき、その声は後ろから降ってきた。 
「誰を探してるんだい、ガトリング・ホーク?」
 びくりと反射的に身構え、マキナは目を見開く。
いつの間にか後ろに立っていたのは、赤みがかった金髪の、まるでモデルのような整った容姿の男性だった。
 だが何より彼女を驚かせたのは、その容姿ではない。マキナは彼と面識があったのだ。
「……メロー、少尉?」
「そうさ、よく覚えてたな? そう、メローだ。ダミアン・メロー」
驚きに目を瞬かせる彼女に、メローはやや照れ臭そうに微笑みかける。
「君と同じくヴァーノン大佐の下で働いていたイギリス人さ。もっとも、俺はパイロットじゃなく、アビオニクス(航空電子工学)担当、いわば技術屋だったけどね。覚えていてくれて、嬉しいよ。――とは言っても、とっくに辞めちまったけど」
「辞めた?」
「ああ。研究するのは好きだったけどね。所詮、軍隊暮らしが肌に合わなかったんだよ」
 メロー元少尉はそう言ってけたけたと笑う。
マキナはわけがわからなくなっていた。
あの、ぞくりとするような視線はもう、感じなくなっていた。メローがその視線の主だったのか、それとも、彼が現れたから視線の主はいなくなってしまったのか。今の彼女に、それを即座に判断する術はない。だがこの不自然な状況から考えて、彼が視線の主だったのだと判断するのが妥当だろう。そうマキナは思った。
「それで、わたしに、何か?」
「つれないなあ」
「あなた、自分で言ったでしょ、UAFを辞めたって。退役したんなら、もう部外者よ。あれこれ話すことはないわ」
 あくまで警戒を解くことのないマキナに、メロー元少尉はぴゅう、と口笛を鳴らす。
「相変わらずの、クールガールだね。せっかくこうして久々に会ったっていうのに、少し世間話するくらい、いいだろう」
「わたしの方は話すことなんて何もないって言ったでしょ。聞こえなかったの?」
「そう言うなよ。今は、新しい父親側の姓の方を名乗っているんだな。KAGAMI、と」
 マキナは自分のこめかみがぴくりと引きつるのを、どこかひとごとのように感じていた。
「UAFにいたときはずっと、死んだ父の姓を名乗っていたのに。心境の変化があったのかい? それとも、別の理由?」
「いったい、何が言いたいの?」
「怒るなよ。君と喧嘩がしたいわけじゃない」
 戦意がないのだとでも言いたげに、メローは両手を上げて肩をすくめてみせる。
「俺も退役して、普通の平和な生活に戻ってようやく思い出したのさ、何の変哲もない、普通の生活の大切さってやつをね。鷹羽少尉、あんたはまだ若い。そして女の子なんだぜ。人殺しの道具に乗って空を飛ぶより、もっと普通の幸せを考えるべきなんじゃないか、ってことさ」
「普通?」マキナは眉をひそめる。
「普通って何? あなたの言い分に従うのなら、わたしみたいな女の子は駄目で、大人の男の人なら戦場に行って、人殺しをしてもかまわないってことよね。その違いって何? 男も女も子どもも、お年よりも同じ人間よ。命の重さは変わらないわ。違う?」
 マキナは目を細める。
「あなたの言う普通も平和も、偽善が過ぎて吐き気がするわ」
 堰を切ったようにたたみかける彼女の言葉に、メローはわずかにひるんだように見えた。
「俺の言葉で不快な思いをさせてしまったのなら謝るよ。でも、あんたに言いたかったのは、こんなことじゃないんだ。俺は昔からあんたのことが嫌いじゃなかった。いや、どちらかと言うなら、むしろ好ましく思っていたよ。だから、俺は今でもあんたのことが心配なんだよ。このままあそこにいたら、あんた今度こそ本当に――死ぬぞ」
「あなたに心配してくれなんて、頼んでない」
 マキナは踵を返してショッピング・モールの中へと戻ろうとする。これ以上話を続けることに意味はない、とでも言うように。慌ててメローは彼女の手を掴んだ。
「待てよ、少尉」
「今すぐ離して。警備員を呼ぶわよ」
 極限まで感情を抑制したような、水晶のような響きを持つ彼女の低い声は、本気のそれだった。 その鷹のような眼に射貫かれて、メローは背筋をぞくりと悪寒がかけのぼるのがわかる。もしここが空の上だったなら、きっと警告を無視した自分は、瞬きする間にその機銃の餌食になっていたことだろう。
「あなたはきっと勘違いをしている」
「勘違い?」
「わたしは戦うために飛んでいるんじゃない。わたしにとって飛ぶことは、息をするのと同じことなのよ」
 マキナは彼の手を振り払うと、強く掴まれていたため、僅かにしびれたそこを軽く擦る。
「あなたに、わたしのことをとやかく言う権利はない」
「鷹羽少尉、俺はあんたの力になりたいんだよ。ブルー・フェアリーの在り方はおかしい。歪んでいる。あんたたちの華やかさを隠れみのにしているんだ。その最たるものがあんただぜ。もしかしたら、とっくに自分でもわかってるんじゃないか? パイロットとしてのあんたを、UAFもIDAも利用しているんだと」
 この男はいったい何がしたいのだ、というようにマキナの黒い目が細められる。
そうしている彼女はもう頭ごなしに否定はせず、慎重にこちらの出方を伺っているように見えた。
 彼女の索敵レーダーはマシン並の性能だ。ここで出方を間違えれば、二度目はもう、ない。離脱する前に、何のためらいもなく撃墜されるだろう。そうメロー元少尉は悟った。
「俺はあんたがUAFから姿を消して以来、ずっと探していたんだ、鷹羽少尉」
「探していた? どうして」
「もちろん、あんたに危険を知らせるためさ」
「危険?」マキナの眉間に刻まれた皺が深くなる。「民間人であるあなたがわたしに警告できるような危険が存在するなんて、そう簡単には考えられない。メロー少尉、あなたいったい何を隠しているの?」
 マキナの反応に、メローは素直に舌を巻いていた。実戦を離れた人間は、誰しも感覚が鈍るものだ。それは仕方がない。いわゆる現場感覚というものは、その緊張感を常にその身で感じることのできる人間でなければ、維持できないからだ。
 だが、こうして実戦を退いても、彼女のレーダーは少しも鈍っていない。むしろ、実戦から距離を置くことで、それはいっそう鋭さを増したようにも見えた。
「俺は――」
「私の部下に、何のご用ですかね」
 メローの言葉を遮ったのは、低く、よく通る男性の声だった。
その声に、マキナは聞き覚えがあった。
「……森岡中尉、どうしてここに」
 マキナが怯んだその一瞬の隙に、メローは中尉の死角になる位置から、目にも止まらぬ速さで彼女のブルゾンのポケットに何かをねじ込む。
マキナはそれに気付いたが、森岡中尉が足早に歩み寄ってきたことで、それ以上の行動は断念した。森岡中尉はマキナを背に庇うようにしてメローの視界から隠しながら、肩越しに小さく振り向いて答える。
「このショッピング・モールは、UAFの温水プールの出入り口と地下で繋がっているんだよ。おれはプールの帰りだ」
 その言葉どおり、森岡中尉の黒髪は、まだしっとりと湿り気を帯びている。小さなザックを背負っただけの軽装だった。UAF関係者は、コメット島内では銃の保持を許可されている。しかし今の森岡中尉の服装からは、彼が銃を持っているか否かを知ることはできない。だが、そうだと思って行動しておいた方がいいだろう。そうメローは判断した。
彼がその気にさえなれば、メローを撃っておいて、正当防衛でした、と言い張ることも可能なのだ。物騒な話だが。
「何やら言い争っている二人がいるかと思えば、まさかそのうちの一人がうちの大事な新人とはね」
「すみません、情けないところをお見せしました」
「いいや、マキナ、君が謝ることはないさ」
「何だか一方的に悪者扱いされてるようだけど、俺は別に何もしていないぜ」
「何かあってからでは遅いんだ」森岡中尉は眉をひそめる。
「これ以上彼女を困らせるようなら、今すぐ警備員を呼ぶが? そもそも、ここはUAFの敷地内だ。ここで揉め事を起こすのは、君にとっても好ましくないだろう?」
「まことに、仰るとおりですね」メローはやれやれといった風情で肩をすくめてみせる。
「それでは、何かある前にさっさと退散しますよ」
 その姿勢のまま、メローはその場から立ち去る。だが、マキナの横を通り過ぎざま、前に向けた視線を逸らすことなく、メローは素早く囁いた。マキナにしか聞こえないほどの、小さな声で。
――そこに連絡を。でないとあんたは、悪魔を射抜く銀の弾丸で、命を落とすことになるよ。

「あれえ? どうしてマキナと中尉が一緒にいるんですか?」
「まあ、ちょっとそこで偶然、ね」
 お茶を濁す森岡中尉の様子に納得がいかないように、パーシーは小さく呟く。
 ――なんだよ、せっかくのんびり二人で過ごそうと思ってたのにさ。
「何か言ったか、パーシー?」
「あ、いや何でもありません! それより中尉はどうして街に? 買い物ですか?」
 ぶんぶんと首が千切れそうなほど横に振るパーシー。そんな彼の様子に苦笑しながら、森岡中尉はわざと思いついたように目を見開いた。
「おれは隣のプールに泳ぎに来てたのさ。そういう君たちは? ああ、もしかしてデート?」
「何仰ってるんですか、中尉。そんなんじゃないです」
 マキナ、即答。パーシーは少しだけ泣きたい気分になった。うん。そうだよな。彼女は嘘をついてない。嘘をついてはいないんだけど……
 そんなパーシーと中尉のやり取りが、爽やかな風の吹きぬけるオービターのデッキ上で繰り広げられる中、マキナはそっとブルゾンのポケットを探る。そこにかさりとした手触り。
取り出してみると、それは丁寧に小さく折りたたまれた紙片だった。あの地下駐車場で用意したものとは思えない。あのとき、そんな余裕はなかったから。
だとすると、最初からメローはマキナがあのショッピング・モールにやって来ることを承知で、これを用意したのだ、ということになる。それはすなわち、彼がマキナの行動を即座に把握できる位置にいることを意味していた。
一介の民間人に、それが可能だとは思えない。だとすると、少なくとも彼にはIDA……ひいてはUAFの情報を内部から流す人間が、つまり協力者がいるということになる。
いったい、彼は自分と接触することで、何をしようとしているのか。顔と名前の知れている自分の前にわざわざ現れるなんて危険を冒してまで、何がしたかったのか。
彼にとって唯一の誤算であったのは、あそこに偶然現れた森岡中尉の存在なのだろう、とマキナは思う。もしあのとき、中尉が現れなかったら、メローは何を語ったのか。
――とっくに自分でもわかってるんじゃないか? パイロットとしてのあんたを、UAFもIDAも利用しているんだと――
彼が残していった紙片を、そっとマキナは広げてみる。そこにあったのは、おそらく電話番号と思われる数字の羅列と、繊細なフォントで印刷された数行の英文だった。


 My mother has killed me.
 My father is eating me.
 My brothers and sisters sit under the table.
 Picking up bury them under the cold marble stones.

  





     *



「こんなところにいたのね、新人。探したわ」
マキナの月曜日は、エルフリーデのその騒々しい一声で、幕を開けた。
「エリー? どうしたの」
「勝負よ、新人! あたしと勝負なさい」
 教室に着いたばかりで、マキナはまだ鞄の中身を机に移動してもいなかった。突然やって来るや否や、両手をその細い腰に当てて仁王立ちするエルフリーデの迫力に、呆気に取られる。
「勝負?」
「今日の放課後、IDAのトレーナで勝負しようって言ってんの。このあたしがわざわざ時間を取って相手をしてあげようっていうんだから、むしろ感謝されてもいいくらいよ」
「でも、勝負って言っても……だって、ブルー・フェアリーはアクロ部隊でしょう?」
「わかってないわね」エルフリーデはむくれた。
「いい? あたしが言ってるのは対アグレッサー(仮想敵)用のトレーナのこと。プロセデュア・トレーナ(訓練装置)よ。アクロのシミュレータじゃないわ。実戦よ、実戦!」
「別に、いいけど……でも、繰り返すようだけど、フェアリーはアクロ」
「くっどーい! 実戦と言ったら実戦なの! いいわね!」
 マキナが言い終わらないうちに、さっさとエルフリーデは教室を出ていってしまう。
 クラスメイトたちが、そんなマキナを哀れんだような視線を送ってきた。
「マキナ、あれ、ブルー・フェアリーのエルフリーデよね? あなたも大変ねえ」
「ほんとほんと、よくやってるよ。俺だったらとっくにギブアップだよ」
「彼女の攻撃に耐え切れなくて、やめていったメンバーもいるらしいよ。他の生徒ならともかく、同じフェアリーのメンバー、ましてあのエリーじゃ、IDA側も強く言えないしなあ」
 クラスメイトたちの同情の言葉に、マキナには乾いた笑いしか出てこない。
エルフリーデが文句を言うためにマキナのクラスに乱入するのは、これが初めてではない。だが転入してからこのかた、遠巻きに彼女を見つめるだけだったクラスメイトたちとは、奇しくもエリーのおかげで少しずつ距離を縮めることができていた。
それはある意味ではありがたいことなのだが、もう少し穏やかに手合わせ願いたい、とマキナは密かに心の中でだけ思うことにした。勿論そんなこと、当の本人の前でひとことでも言ったが最後、火に油コースへ突入するのはあまりに明らかだったから。

 


     *



 対アグレッサー用のプロセデュア・トレーナは、曲技部隊であるブルー・フェアリーには勿論設置されていない。それを使用するにはIDA内の施設を使うことになる。
IDAには高度な制御コンピュータに接続された訓練用の装置が他にあるが、それは学生が簡単に使用できるものではない。そういった意味でも、こうして学生だけで使えるタイプの訓練装置は、ある意味ではお遊びの延長のようなものなのだとも言えた。
このトレーナには、ブルー・フェアリーのシミュレータ・ポッドのように高度な擬似G体験等は付属していない。感覚としては、ゲームセンターのシューティング・ゲームに近い。ブラックボックスのようなトレーナの筐体をぽんぽんと叩きながら、エルフリーデは胸を張る。
「機銃が唯一の武装だったのは大昔のこと。第一次世界大戦までよ。特に空対空ミサイルの発達した今ではほとんどゼロと言っていいわね。重要なのは早期発見、そして速度をいかした奇襲攻撃。そして一撃離脱ね! 敵の存在に気付く前に勝負は終わっているのよ」
「確かにあなたの言う通りね」
「なんだかいちいちカチンとくるのよね、あんたって」
「ねえエリー。いいかげんわたしのこと、名前で呼ばない? わたし、あんたとか新人じゃなくって、各務蒔那って名前なんだから」
「あーもう、うるさいわね! そういうところがカチンとくるのよ!」
「そんなこと言われたって」
「いいからもう! さっさと準備する!」
 エルフリーデはマキナにヘッドセットを放ってよこす。
「これはあんたが先週テストしたポッドと違って、ヘッドセットのみ装備の簡易的なものよ。でも戦闘時の反射速度を見るには適しているわ。D‐3がぶっつけ勝負であれだけ操縦できるなら、初めてでも問題ないでしょ」
「まあ、たぶん」
 マキナは曖昧に頷く。エルフリーデはさっさとヘッドセットを装着すると、二つあるトレーナの片方に身体を突っ込んだ。
「うだうだ言わずに始めるわよ、いいわね。中に入って準備が整ったらさっさと離陸して」
「わかった」
 仕方がないなといった風情で、マキナもヘッドセットを装着し、その黒い箱の中に入る。中はブルー・フェアリーのシミュレータ・ポッドに比べると、確かにかなり簡素化された設備だった。
しかし、それでも戦闘機のコックピットに備え付けられている最低限の計器類や設備は、過不足なく揃っている。マキナはシートに腰を降ろしたまま、首をぐるりと巡らせてそれらひとつひとつを確認した。
「いつまできょろきょろしてるのよ、新人! さっさと準備しなさいよね」
 するとヘッドセットから、いらいらした調子のエルフリーデの声が聞こえてくる。見上げれば、スクリーンの右端に彼女の姿が小さく映っていた。マキナは苦笑して、シートに深く身を沈めると、制服の上からショルダー・ハーネスを装着する。
「いい? あんたはこのトレーナを使うのが初めてだから、それを考慮して機体にはD‐1を設定してあげてるわ。感謝しなさいよね」
「D‐1?」マキナは目を瞬く。「どうして?」
「あんたが練習機はこれしか操縦したことがないって言ったからじゃない」
 エルフリーデはむくれた。
「D‐2やD‐3はそもそもアクロバット用に改造された機体だから、このタイプのトレーナじゃ設定できないしね。それともD‐1じゃ不満?」
「ううん」
 マキナは首を横に振る。何だかんだ言っても、エルフリーデはマキナとフェアに戦いたいらしい。口ではいろいろとうるさいが、彼女の持つこうしたプロ精神、フェア精神は嫌いではなかった。口ではいろいろと調子のいいことを言ってはいても、精神において腐っている人間を、これまで山ほど見てきたから。
 だったら、こちらも今の自分の全力で戦わなければ。それが、フェアの精神というものだ。
 マキナは覚悟を決めた。自分の目の色が変わるのが、自分でもわかる。
おそらく、今の自分は人間の目をしていない。叢に潜んで獲物の様子をうかがう、飢えた野生の獣の目をしているはずだ。情けも容赦も相手には必要ない。
「準備はいいよ、エリー。いつでも始めて」
 ヘッドセットからマキナの声がする。
「ラジャー」エルフリーデは頷いた。「じゃあ、今、スクリーンの右上にあたしが見えているでしょう? それと同じように、そっちの様子もこちらに見えているわ。テイクオフから約一分後、自動的にドグファイト開始。あとは言わなくても本番と一緒よ、何か質問は?」
「ないわ」
「じゃあ、行くわよ」エルフリーデは操縦桿を握る手に力を込める。「あたしはあんたなんて認めない。化けの皮ひん剥いてやるんだから」
 
 ざわりと、血が騒ぐのがわかる。
懐かしい感触に、マキナは全身で浸っていた。
 シミュレータ・ポッドとは違い、電子的に再現されたエンジンの振動はない。もちろん、身体をシートに押し付けられるように強烈なGもない。
けれど、戦闘機独特の広いキャノピィからのすばらしい眺め、そして索敵レーダーのきらめきは、そうとは意識せずとも興奮と緊張を誘う。
大丈夫。大丈夫だよ。きっと。まだ飛べる。
マキナは目を閉じ、大きく息を吸った。
心臓の音がうるさい。耳の奥を突き破って飛び出してきそうだ。
わたしは兵器なんだ。生きている限り、まだ戦える。まだ飛べる。
ほんとうは、戦いたいわけじゃない。飛びたいだけ。
けれど、もしわたしがわたしのままで飛ぶ手段が、戦うことでしかなかったのだとしたら、それでもわたしはきっと飛ぶだろう。
それならば、墜ちるまでは飛んでみせる。
片翼が千切れたとしても、飛んでみせる。
 マスターアーム・スイッチをセーフモードからアームモードへ。
スロットル・ハイ。アフターバーナーに点火。
テイクオフからほどなくして、インジケータに刺すような鋭い反応。来た!
 マキナは急旋回する。それをエルフリーデも追ってくる。
旋回半径を徐々にゆるめながら、マキナは相手の出方をうかがった。
 素早い挙動で回り込まれ、後ろを取られる。
 エルロンを細かく操作、機体をロールさせて離脱。
だが、彼女も同じようにロールして追ってきた。 
さすがにこのIDAでも一、二を争う優秀なパイロットと呼ばれるだけはある。どんなに引き離しても、体勢を立て直すと彼女はぴったりついてきた。
冷静な判断力と操縦技術だ。マキナは素直に感心していた。
これが実戦だったなら、おそらく経験で勝る自分が彼女に勝つ方法はいくらでもあるだろう、とマキナは思う。
けれどこれはトレーナだ。普段このマシンを使い慣れている彼女の方が圧倒的に有利なのは明らかだ。普通に戦っていては、遅かれ早かれ自分は墜とされる。
けれど、そう簡単に墜とされてはやるもんか。
マキナは顔を上げた。
スロットル・ダウン。ストールを利用して機体を急反転させる。機体が分解しそうに軋んだ。
エルフリーデからは、マキナの機がいきなり視界から消えたように見えているだろう。
 いつの間にか、それまで後ろを取っていたはずのエルフリーデの機体はマキナの機を追い越してしまっていた。オーバーシュートだ。
これは罠であり、そこにうまく誘い込まれたことにエルフリーデが気付いたときには、マキナの機のガンサイトは既に彼女の機体を捉えていた。
指は機銃の発射ボタンにかかっている。
これはフェアな戦いだ。フェアな戦いには、フェアに応じねばならない。
マキナはそれを押そうとして、自分のその指が小さく震えていることに気付いた。
『あのとき』の光景が、フラッシュバックする。
砕けたキャノピィ。舞い散る破片。
コックピットを赤く染める、自らの血。
息が止まる。世界の全てが、凍りついて見えた。

 気付けば、マキナのスクリーン上には「LOST」の文字が大きく、そして赤く明滅していた。心臓の鼓動がせわしない。額にはじっとりと汗をかいている。HUDに映った自分の顔は蒼白で、まるで死人のようだ。
死人――それはそうかもしれない。シミュレータとはいえ、自分は撃たれたのだ。これが実戦だったなら、今頃自分は機体とともに、この空を漂う塵の一部と化しているだろう。
ヘッドセットを叩き付けんばかりの勢いで、エルフリーデが掴みかかってくる。
「ちょっと新人! どういうことよ!」
「どういうことって――」
「あんた、あのときわざとあたしに撃たれたでしょ!」
 エルフリーデはマキナの肩を掴む。彼女の琥珀色の瞳は怒りで赤く灼熱しているようだ。
「わざとじゃないわ。本当に反応できなかったのよ」
「嘘ばっかり。ちゃんと見てたんだから。あんた、あたしの機体を追い越した後、攻撃できるタイミングがあったのに、わざとそうしなかったでしょ!」
「違うわ」
「ふん、このあたしも舐められたものね!」
 エルフリーデはヘッドセットを乱暴に投げ捨てると、大股に去っていってしまった。
彼女が騒々しかった分だけ、後に残されたマキナを包む静寂は、より深い。
マキナは自分の手のひらを、じっと見つめる。
操縦桿を握っていたその手は、まだかすかに震えていた。
 バトル・プルーフされた性能こそ、その兵器の真の性能なのだとヴァーノン大佐は言う。ならば、これが各務蒔那という兵器の、真の性能なのかもしれない。
マキナはそっと、両手で自分の身体を包み込む。
その白い膝に、温かく透明な液体が、ぽたぽたとこぼれ落ちた。






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