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第13話 憧れ
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吹き付ける夜風はどこか生暖かく、それでいて砂っぽい独特の感触をしていた。城塞都市・ハルムートを取り囲む砂漠地帯から運ばれた熱砂が、少しずつ風に運ばれ、都市の表面へと積もっていく。
バルコニーに躍り出たリオンは欄干まで歩み寄り、夜に包まれていくハルムートの姿を一望した。5階建ての『デュランダル』の拠点からは、漆黒にそまった広大な城塞都市の姿が一望できる。
今までもこうして、高い位置から街を眺めることはしばしばあった。だがそのほとんどが、悪徳商人の豪邸に忍び込み、屋根を駆けて逃走する際の、“義賊”としての活動の最中である。
思えば周囲に一切警戒することなく、肩の力を抜いて夜景を眺めることなど、久方ぶりのことのように思う。
思わずため息をついてしまうリオンだったが、背後の大窓が音を立てて開くのが分かった。慌てて振り向くと、見覚えのある青い軽鎧姿にまた一つ、肩の力が抜けてしまう。
強く吹き付ける風が彼女の金色の髪をばさばさと、容赦なく弄んでいた。
「うわっ、相変わらずここは風がすごいな。嵐でも来るんじゃあないか?」
暴れる自身の髪の毛とひたすらに格闘しながら、『デュランダル』7番隊の隊長・アテナは歩み寄ってくる。腕を振り回すも、容赦なく間をすり抜ける髪の毛に「ええい!」と敵意をあらわにするその姿が、リオンにはどこか滑稽でならない。
くすりと苦笑するリオンに、アテナはようやく髪をまとめあげ、笑顔を取り戻す。
「すまんすまん。所用の帰りだったんだが、バルコニーにいる君の姿が見えてな。邪魔だったか?」
「ああ、いや。別に構わないさ。景色を眺めていただけだからな」
アテナはどこか嬉しそうに「そうか」と笑い、そのままリオンに並んで立つ。彼女もまた視線を夜の街へと向けた。
二人は互いにハルムートの夜景を見つめたまま、ゆるゆると自然体で言葉を交わしていく。
「すまんな。あいも変わらず、雑な取り調べばかりに付き合わせて。君だって、じっくりと休みたいところだろうに」
唐突なアテナの一言に、リオンは少しだけ目を丸くしてしまう。しかし、すぐに苦笑を浮かべ「別に」とそっけなく返した。
昼間、“廃棄地区”での大捕物を終えたリオンたちは、『デュランダル』本部に帰還しても各所から引っ張りだこだった。捕獲したブリュレ兄妹らをはじめ、悪漢たちについてはもちろん、“廃棄地区”で見聞きした数々の不可解な出来事を、事細かく聴取されていたのだ。
それこそ、リオンが解放されたのはつい先程のことで、疲れから夕食をとることすら億劫だったほどである。
「しかたないさ。なにせ、藪を突いて出てきたのが蛇どころか、もっとやばい“なにか”だったんだ。それをまた、捕えてた“義賊”が関わっていたとなりゃあ、焦るのが当然ってもんだよ」
「そう言ってくれると助かるよ。なにせ、我々としても今日体験したことは、どれもこれも規格外のことばかりなんだ。隊員たちも皆、事態をいち早く解明しようと必死なんだよ」
「そういうもんだって、理解してるつもりだよ。ただまぁ、あの“トサカ頭”の剣幕は、もうちょっとどうにかならないもんだろうかな」
トサカ頭という単語から、アテナもすぐにそれが誰のことを指しているのかを悟り、大きな笑い声を上げた。肩の力を抜き、無邪気に笑う彼女の姿を見ていると、なぜかリオンまでもおかしくなってしまう。
リオンへの聴取は、彼が『デュランダル』に捕縛された時と同様、守護隊の3番隊隊長を務めるエーギルが行ったのだが、あいも変わらずリオンに対する当たりは激しく、聴取というよりは“尋問”のそれであった。
リオンとしては嫌味のつもりだったのだが、あくまでアテナは同じ隊長格であるエーギルを想像し、けらけらと嬉しそうに笑っている。
「面白い髪型だろう、あれ。セットするにもかなりの時間をかけているらしいぞ。整髪剤にもこだわりがあるようで、行きつけの店があるらしい」
「そ、そうなのか。まぁ、あの隊長さんはよほど、俺のことが嫌いらしいな」
「エーギルは隊長らのなかでもとりわけ、正義感の強い男だからな。なんにつけても、突っ走ってしまう部分があるんだ。悪意があるわけではないんだが、不快にさせてしまったならすまない」
「いいよ。もう、そういう奴だって割り切ってるからな。それに、なにせ“事が事”だからな……焦る気持ちも分からないでもないさ」
この一言で、ほんのわずかにリオンの表情が曇る。彼の心情をいち早く察したアテナが、視線を彼方に向けたまま問いかけた。
「あの商人――トモジと言ったか――彼のことだろう?」
「ああ。まさかあんなことになるとはな……あいつはやっぱり――?」
「ダメだったよ。念の為、医療班にも見てもらったが、即死だったようだ。すでに彼の肉体には、知らず知らずのうちに“術式”が仕込まれていたらしい」
リオンの脳裏に、“廃棄地区”で目の当たりにしたあの凄惨な光景が浮かぶ。闇の商人であり、情報屋として暗躍していたトモジが、体の内部から“串刺し”にされたその姿を、簡単に忘れ切る事ができない。
「昔から狡猾な奴だったから、俺らを売ったってところまではまだ理解できたんだ。けれどまさか、あんな形で殺害されるなんて……」
「ああ、救えなかったことは本当に残念だよ。彼の死によって、ハルムートで起こっている“富豪殺し”と、裏で暗躍している邪教団――『タタラ教団』との関係性まで見えてきたんだ。おそらくこれは、我々が想像するよりはるかに難解で、厄介な事態になりつつあるのかもしれない」
商人・トモジは、あくまで教団は“縁”を利用するためだけの存在だとのたまっていた。だがその実、彼はすでに教団に深く関わり、その身に呪術による“枷”を施されてしまっていたのだろう。
知ってか知らずか、彼が教団を裏切った際、自動的にその“報い”を与える、呪われた術式を刻まれながら。
リオンは欄干に両肘を預けてもたれかかりながら、大きなため息を漏らす。また一つ、強く吹き付けた夜風は彼の短い赤髪をさらりと撫でた。
「ああいう奴だったから、ろくな死に方はしないんだろうな、って思ってたんだ。けれど、それでもいざ、目の前であんな酷い死に様を見ちまうと、どうにもやるせなくなるよ。人の命ってのは――ああも簡単に、消し飛ばされちまうんだな、って」
それこそ、リオンにとってトモジという男は、親しい間柄だったわけでもない。互いが互いを“利”のために利用する、そういう関係性だったはずだ。
だがそれでも、謎の教団に利用され、“駒”として無惨に廃棄されてしまった彼の死に顔を忘れる事ができない。
しばし、バルコニーには夜風の音だけが響いていた。リオンは欄干に体重を預けたまま、眼前に広がるハルムートの街並みを見つめる。
ぽつぽつと、そこら中に民家の明かりが見える。日が落ちてもなお、人々はそれぞれのリズムで今日を過ごし、やがて眠りにつくことで変わらぬ明日へと向かっていく。
死してしまった人間には、もはや二度とその“明日”はこない。
自身もアウトローな世界に足を踏み入れてはいたが、それでもリオンはそんな無情な事実をいまだにどこか受け止めきれずにいた。
しばしの沈黙の後、後ろ手に腕を組んで立つ女騎士が唐突に切り出す。
「今日の出来事の中で気になっていたんだが、“ヴァン”とは一体、どんな人物なんだい?」
あまりにも予想だにしなかった一言に、リオンは目を丸くして振り向いてしまう。アテナは横目にこちらを見つめ、やはり口の端にどこか不適な笑みを浮かべていた。
取り調べの中でも、その点を追求されることはなかった。それゆえ、彼女がその名を覚えていたということに、リオンは激しく動揺してしまう。
女騎士の問いかけに答えるべきか否か、しばしリオンは迷ってしまった。だがやはり、隣に立つアテナのその独特の気安さに、自然と口が動いてしまう。
「俺の、“師匠”だった人なんだ。俺に義賊としてのあれやこれやを叩き込んでくれた、親代わりみたいな人だった」
「そうだったのか。トモジだけでなく、ブリュレ兄妹までその名を知っていた。我々、表の人間は知り得ていないだけで、なかなかの有名人なのではないか?」
「ご察しの通りだよ。ヴァンは昔、各地のアウトローを束ねて“義賊連合”ってのを立ち上げていた男なんだ。こと盗みに関しては、プロ中のプローー俺なんざ、いまだに足元にも及ばないよ」
アテナが「ほお」と素直に感心するのが、リオンにとってはどうにもおかしくてならなかった。そんな彼女の態度が、“義賊”の口をより饒舌にしていく。
「詳しい出自までは知らないけれど、もう長いこと闇の世界で盗賊として活動していた男なんだ。俺が騎士の“登用試験”を受けて、落ちたって話があっただろう? あの後、当てもなくフラフラしてた矢先、野党の群れに出くわしてさ。あわや死にかけていたところを、助けてくれたのが偶然に通りかかったヴァンだったんだ」
アテナもしっかりと、リオンの“過去”については覚えていた。彼がかつて騎士を目指し上京してきたことも、その先で“八百長”によって未来を断たれたことも、しっかりと記憶している。
それゆえ、彼女はあえて何も言わず、リオンの言葉に耳を傾け続けた。
「やけっぱちになってた俺を、ヴァンはしばらく匿ってくれてさ。最初こそ素性を隠してはいたけど、すぐにあの人が盗賊だってのが分かったんだ。俺も驚きはしたんだが、それでも不思議とヴァンを見ていて、悪い人間には思えなかった。むしろ、“義賊”として活動しているその姿に、なんだか眩しさみたいなものすら感じたんだよ」
「なるほど。君が“義賊”になったのは、道を示してくれた師がいたから、ということか。あの卓越した技の数々も、そのヴァンという男性から習ったのか?」
「ああ。盗みの技術や知識、道具の作り方や薬品の調合。それに、短刀の扱い方や投げナイフのコツ。初めて触れる盗賊としてのノウハウを、俺は気が付いたら夢中に学んで、ものにしようとしていたよ」
リオンは視線を持ち上げ、城塞都市の向こう側に広がる砂漠地帯を見つめた。あいにく、荒廃した大地は黒一色に塗りつぶされ、その輪郭すら捉える事ができない。
彼はその闇を背景に、過去の淡い思い出を手繰り寄せていく。胸中にしまい込んだ色褪せない記憶の数々を、久方ぶりに思い返していた。
「ヴァンにはなぜか、周りの人を惹きつける奇妙な魅力があったんだ。だから、知らず知らずのうちに志を共にする奴らが集まって、気が付いた時には“義賊連合”なんてたいそれたものが出来上がっていたんだよ。俺もその連合の一員として、しばらくは活動していた。世間の裏で生きる奴らはやばいのも混じってはいたけど、それでもヴァンがそれをまとめ上げて、みんなで楽しくやっていたんだよ」
「それはまさに、我々が知り得ない“影”の世界の歴史なのだな。しかし、件のヴァンという男性は今はどこに? どこか別の地で、“義賊”として活動しているのかな」
「いや。ヴァンは――1年前に“処刑”されたよ」
リオンの口をついて出た一言に、アテナが目を丸くして驚く。思えばそれは、女騎士が初めて見せる、明確な揺らぎだった。
「そうだったのか……すまない。踏み込みすぎたことを聞いてしまった」
「構わないよ。俺もとっくの昔に、自分の中で決着をつけてるからな。ヴァンはヘマをしちまった“義賊連合”のメンバーを助けようと動いたんだが、その矢先に捕まっちまったんだよ。当時活動していた王国の騎士団の手で、大衆の面前で“公開処刑”されたんだ」
今でもしっかりと、リオンは当時の情景を思い出す事ができる。捕えられたヴァンの姿も、彼の姿に身勝手なことを口走る群衆たちも、刃を意気揚々と振りかざした騎士たちも。
最も忌避すべき思い出だというにもかかわらず、かつての“公開処刑”の瞬間はことさらリオンの記憶の中に鮮明に焼き付いている。その一瞬を思い返すだけで、自然と両の拳に力がたぎっていくのが分かった。
「思えば、あの日からだよ。俺が“義賊”として、活動しようって心に決めたのは。今までのような、ヴァンの真似事じゃあない。俺なりのやり方で、世の中の悪徳な奴らを懲らしめようって決めたんだ。それで――」
そこから先を、リオンは言葉を詰まらせてしまう。痛いほどに握りしめた拳に宿った力がどこか虚しく、行き場を失い肉体の中で震えていた。
何から何まで、あの日から始まっている。あの日、断たれたヴァンという男の命は、今もなおリオンの胸中に消えない灯火を宿し、沸々と滾らせている。
思えば、リオンがこうやって自身の過去を誰かに語ったのは、初めてのことかもしれない。身分を偽り働いていた職場の連中にも、それこそトモジのような裏の世界の住人にも、誰一人として自身の過去を喋ったことはなかった。
それだけに、ここまでいともたやすく、その過去を打ち明けてしまったことに、リオン自身が戸惑ってしまっていた。“義賊”としての隠すべき素性をべらべらと喋ってしまう自身の甘さに、リオンは閉口したまま後ろ頭を掻いてしまう。
そんな彼に、やはり女騎士はどこか嬉しそうに、かすかに言葉を弾ませた。
「なるほどな。どうやら、私の見立ては間違っていなかったようだ。君はやはり――“良い人間”だったんだな」
思わずリオンは振り返り、「なに?」と声をあげてしまう。気がつけばアテナも、夜景ではなくこちらに視線を向けていた。
至近距離で見つめ合ったまま、アテナはまっすぐに告げる。
「君はただ純粋に、“憧れ”に従って歩いてきたんだろう。だからこそ、“師”である彼の教えを、今でも大切にしている。そういう真っ直ぐな気持ちを抱く人間は、悪人なんかではないさ」
「よしてくれよ。重ね重ね、あんたらが思うほど、俺は真人間じゃあないんだ。“義賊”なんて言ってはいるけど、結局は盗人――誇れるような生き方をしてるわけじゃあない」
「けれど、それを“誇り”だと思うからこそ、危険を承知で富豪の館に突入し、生還してこれた。そうだろう?」
どこか揚げ足を取られているようにも思えたが、一方でアテナの言葉がリオンの心を揺さぶっていく。彼は思わず目を丸くし、「いや」と返答に困ってしまう。
相変わらず調子を狂わされてしまうリオンに、やはり嬉しそうにアテナは笑ってみせた。
「私だって同じだよ。こうしてこの場に立っていられるのは、“憧れ”に従って進んでこれたからなんだ」
「――え?」
「“騎士”と“義賊”――互いに立つ場所は違っても、私たちは“似たもの同士”ということだよ。だから尚更、はっきりと分かるんだ。君は君自身が思うほど、悪い人間じゃあないさ。現に君は、あの商人――わずかでも“縁”ができたトモジという男の死に、心を痛めている。自分ではない誰かの不幸に悲しむことができるなら、それは間違いなく、君が“正しい人間”だからこそなんだ」
なんの根拠もないアテナのその言葉は、やはりリオンの体に強く染み渡っていく。自身の中に湧き上がった予想だにしない感情の数々に、リオンはやはりどうにも戸惑ってしまった。
正しい人間――これまで考えたこともないその概念に、リオンは自然と思いを馳せてしまう。気がついた時には蘇った過去がもたらした悲しみや不安が消え去り、リオンは再び自然体で前を向くことができるようになっていた。
リオンの体から余計な力が抜けたことを察し、また一つ、アテナは笑う。彼女はまたちらりと夜の街を眺めた後、ようやく踵を返してみせた。
「我々もまだまだ、今回の件については分からないことだらけなんだ。けれど、君と私たちなら、そこに隠れた“真実”に辿り着ける気がするんだよ」
「“真実”か……本当にそんなもの、見つけられるんだろうか」
「見つかるとも。少なくとも我々は、立ち止まってなどいない。どれだけそこまでの道程が遠かろうが、わずかずつでも近付いている。ならばいずれ、必ず辿り着けるだろうさ」
あっけらかんと言ってのけるアテナの顔を、リオンもどこか呆れたように見つめてしまった。なおも嬉しそうに笑っている女騎士の表情から、リオンは目が離せなくなってしまう。
無数の不可思議を体験してもなお、まるで弱みを見せない彼女のしたたかさが、リオンの背を微かに押す。なおも言葉に迷う“義賊”に、アテナは柔らかな笑みを浮かべた。
「あれやこれやと調べることばかりで、きっと明日からも忙しくなる。せめて今日は少しでも、体を休めてくれ。明日からも引き続き、よろしく頼むよ」
そんな快活な言葉を最後に、アテナは建物の中へと戻っていく。リオンもたどたどしく彼女に返しはしたが、なすすべなくその場に取り残されてしまった。
去っていった女騎士の姿をしばし目で追っていたが、リオンは再びその視線を夜の城塞都市へと向けた。そこかしこでちかちかと明滅する人々の灯火を前に、彼は思いを巡らせていく。
かつて“騎士”という存在に打ちのめされたリオンの過去は、新たに現れた風変わりな“騎士”によって新たな今へと繋がっている。それを思うだけで、実におかしな道へ迷い込んだものだと、なおも肩の力が抜けてしまった。
風が吹きつける中、なおも変わらず静かに動く、夜の街を見つめ続ける。この漆黒のどこかに、リオンたちが追い求める“真実”があるのかと思うと、なんだか妙に胸がざわついてならない。
そこに待つのは、一体なんなのか。
気が付けばリオンは、欄干に乗せた手を握りしめてしまう。荒々しく夜風が吹きつけるが、固めた拳の内側の熱はなおも沸々と湧き上がり、微かにそのか細い体を震わせていた。
バルコニーに躍り出たリオンは欄干まで歩み寄り、夜に包まれていくハルムートの姿を一望した。5階建ての『デュランダル』の拠点からは、漆黒にそまった広大な城塞都市の姿が一望できる。
今までもこうして、高い位置から街を眺めることはしばしばあった。だがそのほとんどが、悪徳商人の豪邸に忍び込み、屋根を駆けて逃走する際の、“義賊”としての活動の最中である。
思えば周囲に一切警戒することなく、肩の力を抜いて夜景を眺めることなど、久方ぶりのことのように思う。
思わずため息をついてしまうリオンだったが、背後の大窓が音を立てて開くのが分かった。慌てて振り向くと、見覚えのある青い軽鎧姿にまた一つ、肩の力が抜けてしまう。
強く吹き付ける風が彼女の金色の髪をばさばさと、容赦なく弄んでいた。
「うわっ、相変わらずここは風がすごいな。嵐でも来るんじゃあないか?」
暴れる自身の髪の毛とひたすらに格闘しながら、『デュランダル』7番隊の隊長・アテナは歩み寄ってくる。腕を振り回すも、容赦なく間をすり抜ける髪の毛に「ええい!」と敵意をあらわにするその姿が、リオンにはどこか滑稽でならない。
くすりと苦笑するリオンに、アテナはようやく髪をまとめあげ、笑顔を取り戻す。
「すまんすまん。所用の帰りだったんだが、バルコニーにいる君の姿が見えてな。邪魔だったか?」
「ああ、いや。別に構わないさ。景色を眺めていただけだからな」
アテナはどこか嬉しそうに「そうか」と笑い、そのままリオンに並んで立つ。彼女もまた視線を夜の街へと向けた。
二人は互いにハルムートの夜景を見つめたまま、ゆるゆると自然体で言葉を交わしていく。
「すまんな。あいも変わらず、雑な取り調べばかりに付き合わせて。君だって、じっくりと休みたいところだろうに」
唐突なアテナの一言に、リオンは少しだけ目を丸くしてしまう。しかし、すぐに苦笑を浮かべ「別に」とそっけなく返した。
昼間、“廃棄地区”での大捕物を終えたリオンたちは、『デュランダル』本部に帰還しても各所から引っ張りだこだった。捕獲したブリュレ兄妹らをはじめ、悪漢たちについてはもちろん、“廃棄地区”で見聞きした数々の不可解な出来事を、事細かく聴取されていたのだ。
それこそ、リオンが解放されたのはつい先程のことで、疲れから夕食をとることすら億劫だったほどである。
「しかたないさ。なにせ、藪を突いて出てきたのが蛇どころか、もっとやばい“なにか”だったんだ。それをまた、捕えてた“義賊”が関わっていたとなりゃあ、焦るのが当然ってもんだよ」
「そう言ってくれると助かるよ。なにせ、我々としても今日体験したことは、どれもこれも規格外のことばかりなんだ。隊員たちも皆、事態をいち早く解明しようと必死なんだよ」
「そういうもんだって、理解してるつもりだよ。ただまぁ、あの“トサカ頭”の剣幕は、もうちょっとどうにかならないもんだろうかな」
トサカ頭という単語から、アテナもすぐにそれが誰のことを指しているのかを悟り、大きな笑い声を上げた。肩の力を抜き、無邪気に笑う彼女の姿を見ていると、なぜかリオンまでもおかしくなってしまう。
リオンへの聴取は、彼が『デュランダル』に捕縛された時と同様、守護隊の3番隊隊長を務めるエーギルが行ったのだが、あいも変わらずリオンに対する当たりは激しく、聴取というよりは“尋問”のそれであった。
リオンとしては嫌味のつもりだったのだが、あくまでアテナは同じ隊長格であるエーギルを想像し、けらけらと嬉しそうに笑っている。
「面白い髪型だろう、あれ。セットするにもかなりの時間をかけているらしいぞ。整髪剤にもこだわりがあるようで、行きつけの店があるらしい」
「そ、そうなのか。まぁ、あの隊長さんはよほど、俺のことが嫌いらしいな」
「エーギルは隊長らのなかでもとりわけ、正義感の強い男だからな。なんにつけても、突っ走ってしまう部分があるんだ。悪意があるわけではないんだが、不快にさせてしまったならすまない」
「いいよ。もう、そういう奴だって割り切ってるからな。それに、なにせ“事が事”だからな……焦る気持ちも分からないでもないさ」
この一言で、ほんのわずかにリオンの表情が曇る。彼の心情をいち早く察したアテナが、視線を彼方に向けたまま問いかけた。
「あの商人――トモジと言ったか――彼のことだろう?」
「ああ。まさかあんなことになるとはな……あいつはやっぱり――?」
「ダメだったよ。念の為、医療班にも見てもらったが、即死だったようだ。すでに彼の肉体には、知らず知らずのうちに“術式”が仕込まれていたらしい」
リオンの脳裏に、“廃棄地区”で目の当たりにしたあの凄惨な光景が浮かぶ。闇の商人であり、情報屋として暗躍していたトモジが、体の内部から“串刺し”にされたその姿を、簡単に忘れ切る事ができない。
「昔から狡猾な奴だったから、俺らを売ったってところまではまだ理解できたんだ。けれどまさか、あんな形で殺害されるなんて……」
「ああ、救えなかったことは本当に残念だよ。彼の死によって、ハルムートで起こっている“富豪殺し”と、裏で暗躍している邪教団――『タタラ教団』との関係性まで見えてきたんだ。おそらくこれは、我々が想像するよりはるかに難解で、厄介な事態になりつつあるのかもしれない」
商人・トモジは、あくまで教団は“縁”を利用するためだけの存在だとのたまっていた。だがその実、彼はすでに教団に深く関わり、その身に呪術による“枷”を施されてしまっていたのだろう。
知ってか知らずか、彼が教団を裏切った際、自動的にその“報い”を与える、呪われた術式を刻まれながら。
リオンは欄干に両肘を預けてもたれかかりながら、大きなため息を漏らす。また一つ、強く吹き付けた夜風は彼の短い赤髪をさらりと撫でた。
「ああいう奴だったから、ろくな死に方はしないんだろうな、って思ってたんだ。けれど、それでもいざ、目の前であんな酷い死に様を見ちまうと、どうにもやるせなくなるよ。人の命ってのは――ああも簡単に、消し飛ばされちまうんだな、って」
それこそ、リオンにとってトモジという男は、親しい間柄だったわけでもない。互いが互いを“利”のために利用する、そういう関係性だったはずだ。
だがそれでも、謎の教団に利用され、“駒”として無惨に廃棄されてしまった彼の死に顔を忘れる事ができない。
しばし、バルコニーには夜風の音だけが響いていた。リオンは欄干に体重を預けたまま、眼前に広がるハルムートの街並みを見つめる。
ぽつぽつと、そこら中に民家の明かりが見える。日が落ちてもなお、人々はそれぞれのリズムで今日を過ごし、やがて眠りにつくことで変わらぬ明日へと向かっていく。
死してしまった人間には、もはや二度とその“明日”はこない。
自身もアウトローな世界に足を踏み入れてはいたが、それでもリオンはそんな無情な事実をいまだにどこか受け止めきれずにいた。
しばしの沈黙の後、後ろ手に腕を組んで立つ女騎士が唐突に切り出す。
「今日の出来事の中で気になっていたんだが、“ヴァン”とは一体、どんな人物なんだい?」
あまりにも予想だにしなかった一言に、リオンは目を丸くして振り向いてしまう。アテナは横目にこちらを見つめ、やはり口の端にどこか不適な笑みを浮かべていた。
取り調べの中でも、その点を追求されることはなかった。それゆえ、彼女がその名を覚えていたということに、リオンは激しく動揺してしまう。
女騎士の問いかけに答えるべきか否か、しばしリオンは迷ってしまった。だがやはり、隣に立つアテナのその独特の気安さに、自然と口が動いてしまう。
「俺の、“師匠”だった人なんだ。俺に義賊としてのあれやこれやを叩き込んでくれた、親代わりみたいな人だった」
「そうだったのか。トモジだけでなく、ブリュレ兄妹までその名を知っていた。我々、表の人間は知り得ていないだけで、なかなかの有名人なのではないか?」
「ご察しの通りだよ。ヴァンは昔、各地のアウトローを束ねて“義賊連合”ってのを立ち上げていた男なんだ。こと盗みに関しては、プロ中のプローー俺なんざ、いまだに足元にも及ばないよ」
アテナが「ほお」と素直に感心するのが、リオンにとってはどうにもおかしくてならなかった。そんな彼女の態度が、“義賊”の口をより饒舌にしていく。
「詳しい出自までは知らないけれど、もう長いこと闇の世界で盗賊として活動していた男なんだ。俺が騎士の“登用試験”を受けて、落ちたって話があっただろう? あの後、当てもなくフラフラしてた矢先、野党の群れに出くわしてさ。あわや死にかけていたところを、助けてくれたのが偶然に通りかかったヴァンだったんだ」
アテナもしっかりと、リオンの“過去”については覚えていた。彼がかつて騎士を目指し上京してきたことも、その先で“八百長”によって未来を断たれたことも、しっかりと記憶している。
それゆえ、彼女はあえて何も言わず、リオンの言葉に耳を傾け続けた。
「やけっぱちになってた俺を、ヴァンはしばらく匿ってくれてさ。最初こそ素性を隠してはいたけど、すぐにあの人が盗賊だってのが分かったんだ。俺も驚きはしたんだが、それでも不思議とヴァンを見ていて、悪い人間には思えなかった。むしろ、“義賊”として活動しているその姿に、なんだか眩しさみたいなものすら感じたんだよ」
「なるほど。君が“義賊”になったのは、道を示してくれた師がいたから、ということか。あの卓越した技の数々も、そのヴァンという男性から習ったのか?」
「ああ。盗みの技術や知識、道具の作り方や薬品の調合。それに、短刀の扱い方や投げナイフのコツ。初めて触れる盗賊としてのノウハウを、俺は気が付いたら夢中に学んで、ものにしようとしていたよ」
リオンは視線を持ち上げ、城塞都市の向こう側に広がる砂漠地帯を見つめた。あいにく、荒廃した大地は黒一色に塗りつぶされ、その輪郭すら捉える事ができない。
彼はその闇を背景に、過去の淡い思い出を手繰り寄せていく。胸中にしまい込んだ色褪せない記憶の数々を、久方ぶりに思い返していた。
「ヴァンにはなぜか、周りの人を惹きつける奇妙な魅力があったんだ。だから、知らず知らずのうちに志を共にする奴らが集まって、気が付いた時には“義賊連合”なんてたいそれたものが出来上がっていたんだよ。俺もその連合の一員として、しばらくは活動していた。世間の裏で生きる奴らはやばいのも混じってはいたけど、それでもヴァンがそれをまとめ上げて、みんなで楽しくやっていたんだよ」
「それはまさに、我々が知り得ない“影”の世界の歴史なのだな。しかし、件のヴァンという男性は今はどこに? どこか別の地で、“義賊”として活動しているのかな」
「いや。ヴァンは――1年前に“処刑”されたよ」
リオンの口をついて出た一言に、アテナが目を丸くして驚く。思えばそれは、女騎士が初めて見せる、明確な揺らぎだった。
「そうだったのか……すまない。踏み込みすぎたことを聞いてしまった」
「構わないよ。俺もとっくの昔に、自分の中で決着をつけてるからな。ヴァンはヘマをしちまった“義賊連合”のメンバーを助けようと動いたんだが、その矢先に捕まっちまったんだよ。当時活動していた王国の騎士団の手で、大衆の面前で“公開処刑”されたんだ」
今でもしっかりと、リオンは当時の情景を思い出す事ができる。捕えられたヴァンの姿も、彼の姿に身勝手なことを口走る群衆たちも、刃を意気揚々と振りかざした騎士たちも。
最も忌避すべき思い出だというにもかかわらず、かつての“公開処刑”の瞬間はことさらリオンの記憶の中に鮮明に焼き付いている。その一瞬を思い返すだけで、自然と両の拳に力がたぎっていくのが分かった。
「思えば、あの日からだよ。俺が“義賊”として、活動しようって心に決めたのは。今までのような、ヴァンの真似事じゃあない。俺なりのやり方で、世の中の悪徳な奴らを懲らしめようって決めたんだ。それで――」
そこから先を、リオンは言葉を詰まらせてしまう。痛いほどに握りしめた拳に宿った力がどこか虚しく、行き場を失い肉体の中で震えていた。
何から何まで、あの日から始まっている。あの日、断たれたヴァンという男の命は、今もなおリオンの胸中に消えない灯火を宿し、沸々と滾らせている。
思えば、リオンがこうやって自身の過去を誰かに語ったのは、初めてのことかもしれない。身分を偽り働いていた職場の連中にも、それこそトモジのような裏の世界の住人にも、誰一人として自身の過去を喋ったことはなかった。
それだけに、ここまでいともたやすく、その過去を打ち明けてしまったことに、リオン自身が戸惑ってしまっていた。“義賊”としての隠すべき素性をべらべらと喋ってしまう自身の甘さに、リオンは閉口したまま後ろ頭を掻いてしまう。
そんな彼に、やはり女騎士はどこか嬉しそうに、かすかに言葉を弾ませた。
「なるほどな。どうやら、私の見立ては間違っていなかったようだ。君はやはり――“良い人間”だったんだな」
思わずリオンは振り返り、「なに?」と声をあげてしまう。気がつけばアテナも、夜景ではなくこちらに視線を向けていた。
至近距離で見つめ合ったまま、アテナはまっすぐに告げる。
「君はただ純粋に、“憧れ”に従って歩いてきたんだろう。だからこそ、“師”である彼の教えを、今でも大切にしている。そういう真っ直ぐな気持ちを抱く人間は、悪人なんかではないさ」
「よしてくれよ。重ね重ね、あんたらが思うほど、俺は真人間じゃあないんだ。“義賊”なんて言ってはいるけど、結局は盗人――誇れるような生き方をしてるわけじゃあない」
「けれど、それを“誇り”だと思うからこそ、危険を承知で富豪の館に突入し、生還してこれた。そうだろう?」
どこか揚げ足を取られているようにも思えたが、一方でアテナの言葉がリオンの心を揺さぶっていく。彼は思わず目を丸くし、「いや」と返答に困ってしまう。
相変わらず調子を狂わされてしまうリオンに、やはり嬉しそうにアテナは笑ってみせた。
「私だって同じだよ。こうしてこの場に立っていられるのは、“憧れ”に従って進んでこれたからなんだ」
「――え?」
「“騎士”と“義賊”――互いに立つ場所は違っても、私たちは“似たもの同士”ということだよ。だから尚更、はっきりと分かるんだ。君は君自身が思うほど、悪い人間じゃあないさ。現に君は、あの商人――わずかでも“縁”ができたトモジという男の死に、心を痛めている。自分ではない誰かの不幸に悲しむことができるなら、それは間違いなく、君が“正しい人間”だからこそなんだ」
なんの根拠もないアテナのその言葉は、やはりリオンの体に強く染み渡っていく。自身の中に湧き上がった予想だにしない感情の数々に、リオンはやはりどうにも戸惑ってしまった。
正しい人間――これまで考えたこともないその概念に、リオンは自然と思いを馳せてしまう。気がついた時には蘇った過去がもたらした悲しみや不安が消え去り、リオンは再び自然体で前を向くことができるようになっていた。
リオンの体から余計な力が抜けたことを察し、また一つ、アテナは笑う。彼女はまたちらりと夜の街を眺めた後、ようやく踵を返してみせた。
「我々もまだまだ、今回の件については分からないことだらけなんだ。けれど、君と私たちなら、そこに隠れた“真実”に辿り着ける気がするんだよ」
「“真実”か……本当にそんなもの、見つけられるんだろうか」
「見つかるとも。少なくとも我々は、立ち止まってなどいない。どれだけそこまでの道程が遠かろうが、わずかずつでも近付いている。ならばいずれ、必ず辿り着けるだろうさ」
あっけらかんと言ってのけるアテナの顔を、リオンもどこか呆れたように見つめてしまった。なおも嬉しそうに笑っている女騎士の表情から、リオンは目が離せなくなってしまう。
無数の不可思議を体験してもなお、まるで弱みを見せない彼女のしたたかさが、リオンの背を微かに押す。なおも言葉に迷う“義賊”に、アテナは柔らかな笑みを浮かべた。
「あれやこれやと調べることばかりで、きっと明日からも忙しくなる。せめて今日は少しでも、体を休めてくれ。明日からも引き続き、よろしく頼むよ」
そんな快活な言葉を最後に、アテナは建物の中へと戻っていく。リオンもたどたどしく彼女に返しはしたが、なすすべなくその場に取り残されてしまった。
去っていった女騎士の姿をしばし目で追っていたが、リオンは再びその視線を夜の城塞都市へと向けた。そこかしこでちかちかと明滅する人々の灯火を前に、彼は思いを巡らせていく。
かつて“騎士”という存在に打ちのめされたリオンの過去は、新たに現れた風変わりな“騎士”によって新たな今へと繋がっている。それを思うだけで、実におかしな道へ迷い込んだものだと、なおも肩の力が抜けてしまった。
風が吹きつける中、なおも変わらず静かに動く、夜の街を見つめ続ける。この漆黒のどこかに、リオンたちが追い求める“真実”があるのかと思うと、なんだか妙に胸がざわついてならない。
そこに待つのは、一体なんなのか。
気が付けばリオンは、欄干に乗せた手を握りしめてしまう。荒々しく夜風が吹きつけるが、固めた拳の内側の熱はなおも沸々と湧き上がり、微かにそのか細い体を震わせていた。
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