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第21話 木枯らしの“彼女”
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赤煉瓦の敷き詰められた歩道を、一樹と奈緒は並んで歩いていく。左右に並ぶ木々はどれも葉が落ちており、いよいよ本格的な冬の到来を予感させた。
「しっかし、寒くなったなぁ。もう、ちゃんとした冬服を引っ張り出さないとだめだな」
「だねぇ。一樹君と出会ったときは暖かかったのに、時間が経つのは早いもんだね」
思い出を語る奈緒に、一樹もかつての記憶を辿ってしまう。
思い返せば、全てはあの日――図書館にて、偶然にも奈緒に原稿を読まれたことで始まったのだ。
ポケットに手を突っ込んで歩きながら、一樹は当時を振り返る。
「思えばあの時――奈緒が原稿を勝手に読んでた時は、焦ったなぁ。なにせ、当時はまだ“ゴーストライター”として食ってたから、ばれたらどうなるんだろうって冷や冷やしてたんだよ」
「ごめんごめん。本当、つい気になったんだよ。だけど一樹君、ずっとそうやって“正体”を隠しながら生きてきたんでしょ? 大変だったんだね」
「まぁ、な。なにせ、両親にすら打ち明けられなかったからさ。まぁ、言ったところで信じない人だらけだろうけど」
世間が見ていたのは、あくまで一樹ではなく女優・黒住だ。仮に一樹が全てを暴露したところで、そんなものは“戯言”として片付けられていたのかもしれない。
そう思うと、今まで随分と勝手に恐れ、怯え、静かに暮らしていたのだなと、自分が滑稽になって仕方がなかった。
「でもやっぱり、一樹君を信じて正解だった! 一樹君なら絶対、世の中に認められる、凄い物語が書けるって思ってたんだ」
「本当、よく俺みたいなのを信じられたよな。奈緒も奈緒で、なかなか変わり者じゃなあいか?」
「そんなことないよ。ただ、人より“見る眼”があったってだけ!」
一樹を褒めるようで、ちゃっかり自分自身を持ち上げている当たり、実にしたたかである。一樹は苦笑しながら、隣を弾んで歩く奈緒の言葉に耳を傾けた。
「私も趣味で“小説”を書いてたけど、自分の実力は自分が一番知ってるんだ。だからせめて、私より“才能”がある一樹君には、物書きとして幸せになってほしかったんだよ。なんていうか、私ができなかった“夢”を、少しでも誰かに叶えてほしかったの」
どこか初めて聞く彼女の思いに、一樹は「へえ」と素直に感嘆の声を上げた。だがそれでいて、何気なく彼女に提案してしまう。
「でもそれこそ、奈緒だって“書きたいもの”を書けばいいんじゃあないか。俺が烏真先生に言われたように、そうやって“好きに生きる”ってのが、一番いい形だと思うぜ」
白い歯を見せ、笑いながら振り向く一樹。
だが、隣を歩く奈緒の思いがけない表情に、息を飲む。
奈緒は笑っていた。だがどこかその眼差しに、もの悲しい色が混じる。
「そう、だね……うん。そうかもね。一樹君の言う通り。私は私の――やりたいように“生きる”のが、良いのかもね」
にこやかに語る奈緒のその横顔に、一樹は気付いてしまう。長らく共に歩いてきたからこそ、その微妙な感情の機微を読み取ってしまった。
彼女は納得していない――その理由を問いかけようとしたが、奈緒が無理矢理、話題を切り替えた。
「そういえば、あれから“四葉社”さんとは順調なの?」
「あ……ああ、うん。実はさ、年末に烏真先生が主催する、作家達のパーティがあるんだって。そこに、俺も出ないかって誘われててね」
「へえ、大作家が集まるパーティ!? 凄いじゃない!」
再び、奈緒の表情がぱあっと明るくなった。嬉しそうに笑う彼女を見ていると、先程の妙な感覚を忘れてしまう。
「ま、まぁ、烏真先生が自主的にやってるパーティなんだけど、一応そこで、自己紹介はしないといけないらしくってさ。俺以外の新人も色々来るらしいんだ」
「へええ、じゃあこれで正真正銘、“小説家”として認められたって感じだね!」
奈緒は相変わらず、どんどんと思考――否、“妄想”を加速させ、暴走してしまう。
「いいなぁ。じゃあ、ゆくゆくは『幽闇通りのハル』もアニメ化とか、ドラマ化とかされるのかなぁ。そうなったらさ、“バキン”は誰が演じるんだろう? やっぱイケメンって言ったら“木戸卓則”がいいなぁ!」
またもや勝手に、あれこれとありもしない“未来”を思い描き始める奈緒。そのはつらつとした姿に苦笑しつつも、思わず一樹は足を止めた。
「なあ、奈緒」
「うん、なあに?」
「ありがとうな」
一歩遅れて、奈緒も立ち止まる。彼女はハッとして振り返り、一樹を見つめた。
「これも全部、奈緒のおかげだよ。君がいてくれたから俺は――“人間”になることができた」
「ど、どうしたの、急に? やめてよ、こっぱずかしいなぁ」
「あの日――いや、いつも、ここぞというときに俺の背中を押してくれたのは君だった。腐りそうになる時、打ちひしがれて泣いていた時、“幽霊”に襲われて死を覚悟した時――いつもいつも奈緒がいてくれたから、ここまで歩いてこれたんだ」
真剣な眼差しで告げる一樹に、奈緒はどこか頬を赤らめ「いやぁ」と口ごもる。
そして、照れながらもなんとか、笑って見せた。
「私なんて、なにも。頑張ったのは正真正銘、一樹君だよ。ここまで諦めなかったのも、必死に歩いてきたのも、一樹君自身の功績。だって一樹君は――『幽闇通りのハル』の作者なんだもんね」
木枯らしに髪を遊ばれても、彼女は微笑んだまま顔を上げる。そのどこか少しだけ潤んだ瞳に、真っすぐ彼女を見る自分がいた。
「私こそ、ありがとう。私みたいなやつの“わがまま”を――“夢”を叶えてくれて」
「それこそ、大げさだよ。俺はただ――もがいただけだからさ」
「良いじゃない、それで? しぶとさで、あの女優に勝てたってことだよ」
格好をつけるつもりが、結局、最後の最後には奈緒のペースに持っていかれてしまった。二人は煉瓦道のど真ん中で、互いに笑いあう。
一樹は一呼吸置いた後、彼女に問いかけた。
「さっき言ってたパーティなんだけど、誰かを誘っても良いって言われてるんだ。それで、その――もし良かったら、一緒に来ないか?」
「え……わ、私が?」
「ああ。ただ、日付がちょうど“クリスマス”なんだけど。その――もし、良ければ」
なんだかその一言を発するのに、どこか一樹は勇気が必要だった。一人の女性を誘うということが、どういう意味を秘めているのか、にわかに心の中で気付いていたからだろう。
一樹の“告白”に奈緒は少し考え、そして――どこか、悲しげな表情で笑った。
「ご、ごめん……お誘いは嬉しいんだけど……その日はちょっと、忙しくってさ」
「あ――ああ、そうか。うん、ならしかたないな」
断られてしまったことに、少なからず落胆してしまう一樹だったが、それ以上に目の前の奈緒の表情に、どこか違和感を抱く。
だが、その真意を問いかける前に、奈緒は踵を返す。
「また追々、パーティの内容、教えてよ! どんな大スターが来てたか、楽しみにしてるからさ!」
「ああ、うん。分かった」
「じゃあ、私、今日はこの辺で――バイトがあるからさ。んじゃ!」
奈緒は手を振り、煉瓦道を駆けて行ってしまう。なんだかいつもの奈緒らしからぬ態度にどこか呆気にとられつつも、一樹はその背中に「また」と手を振り返した。
しばし立ち尽くしたまま、一樹は彼女の背が遠ざかっていくのを見つめ、“ふられてしまった”という事実にため息をつく。
そんな一樹の背後から、聞き覚えのある声が響いた。
「おおい、兵藤君」
「ん……あれ、あなたは――?」
振り返ると、そこには一人の男性が立っていた。細身の長身で、身に着けたスーツ姿がよく似合う。短く整えた髪と端正な顔立ち、浅黒い肌にどこか見覚えがあった。
「いやあ、偶然だな。こんなところで会うなんて」
「あ、ああ……ええっと……ごめんなさい、あなたは……」
「え? あ、ああ、そうか! この姿で会うのは初めてだね。ほら、俺だよ――“ホームレス”の坂上!」
その一言で一気に意識が覚醒した。かつてよれよれの服を着ていたみすぼらしい男と、目の前の彼が重なる。
「ええ、坂上さん? ま、まるで別人ですね」
「ははは、まぁ、方々で言われるよ。なにせスーツを着込むのも久々すぎて、どうにも慣れないんだ」
それはかつて、一樹らと共に“図書館の幽霊”――杉本小春を成仏させた、あの元司書の男性・坂上だった。彼の言う通り、ホームレスだった時に比べれば、その清潔感溢れる姿は別人だ。
「実はあれから、ようやく吹っ切れることができてね。なんだか、考えたんだよ。小春は今まで、俺をずっと待ってくれていた――なのに、俺がしょげかえってたんじゃ、申し訳が立たないだろう? 俺は俺として――残された人間として、精一杯、生きなきゃあいけないなって」
「そうなんですか。じゃあもしかして、社会復帰したってことですか?」
「ああ。実は司書だった経験を活かして、“出版社”への入社が決まったんだ。もっとも、給与は下の下から再スタートだけどね」
この一言に、素直に「へええ」と感嘆する一樹。その姿がおかしかったのか、坂上は襟元をわざとらしく正し、笑う。
「じゃあ、もしかして、俺とも近い関係になるかもしれませんね?」
「ああ。君が“四葉社”で連載を持つことも知ってるよ。もしかしたら、これからは職場で会うことがあるかもな?」
なんだか一人の人間の“再生”した姿を見ると、こちらまで嬉しくなってしまう。
坂上はあくまで強い眼差しは捨てず、だがほんのわずかに寂しそうな色を瞳に浮かべ、続けた。
「それに――あれからもう、すっかりと“幽霊”を見ることもなくなったんだ。不思議なもんで、小春がいなくなった瞬間、なにか俺の中でも“執着”してた心が消えたのかもしれないな」
「そう、ですか……もしかしたら、そうなのかもしれませんね。小春さんが成仏できたから、坂上さんもまた、救われたってことなんですかね?」
なぜ、こんな力があるのか――相変わらず一樹には分からない。理論も理屈もさっぱりで、どういう理由がそこに秘められているのかは、謎のままだ。
だがそれでも、坂上はその“力”の消失にどこか、納得しているのだろう。
再び歩き出そうとしている男同士、二人はしばし互いの身の上話に盛り上がってしまった。
しかし、ふいに坂上は一樹に問いかけてくる。
「そう言えば、兵藤君。さっきまで、誰と話していたんだい?」
「さっき――ああ、この前、一緒にいた奈緒って子ですよ。今日は用事があるみたいで、先に帰っちゃいましたけどね」
どうやら、彼女と並んで歩いているところを目撃されていたようだ。ちょっと気恥ずかしくなりながら再び振り返り、奈緒が去った先を見つめる。
もうそこには、彼女の姿はなかった。
つい先程まで対峙していた眩しい笑顔を思い浮かべる一樹に、首をかしげながら坂上は問いかける。
「どういうことだい? 君、さっきからずっと、一人で歩いてただろう?」
「――え?」
少し遅れて、坂上に振り返る。意地悪でもなんでもなく、彼は純粋に疑問を抱いているようだった。
「この煉瓦道を通りかかった時に、歩いていく君の姿が見えたんだよ。慌てて追いついてきたわけだけど、君、ずっと“一人”だったじゃあないか?」
坂上のその一言で、何故か胸の奥がざわついた。
ちょっとした勘違いの可能性もある。それこそ、ただの意地悪だという可能性も否定できない。
だが、どうしても一樹には、坂上という男が“嘘”をついているようには見えなかった。
だとしたら――たまらず再び、煉瓦道の先を見つめてしまう。
木枯らしが一陣、吹き抜けた。先程まで確かに心地良かったはずの冷たさが、なぜかひどく恐ろしく、そして虚しいものに変わった気がした。
「しっかし、寒くなったなぁ。もう、ちゃんとした冬服を引っ張り出さないとだめだな」
「だねぇ。一樹君と出会ったときは暖かかったのに、時間が経つのは早いもんだね」
思い出を語る奈緒に、一樹もかつての記憶を辿ってしまう。
思い返せば、全てはあの日――図書館にて、偶然にも奈緒に原稿を読まれたことで始まったのだ。
ポケットに手を突っ込んで歩きながら、一樹は当時を振り返る。
「思えばあの時――奈緒が原稿を勝手に読んでた時は、焦ったなぁ。なにせ、当時はまだ“ゴーストライター”として食ってたから、ばれたらどうなるんだろうって冷や冷やしてたんだよ」
「ごめんごめん。本当、つい気になったんだよ。だけど一樹君、ずっとそうやって“正体”を隠しながら生きてきたんでしょ? 大変だったんだね」
「まぁ、な。なにせ、両親にすら打ち明けられなかったからさ。まぁ、言ったところで信じない人だらけだろうけど」
世間が見ていたのは、あくまで一樹ではなく女優・黒住だ。仮に一樹が全てを暴露したところで、そんなものは“戯言”として片付けられていたのかもしれない。
そう思うと、今まで随分と勝手に恐れ、怯え、静かに暮らしていたのだなと、自分が滑稽になって仕方がなかった。
「でもやっぱり、一樹君を信じて正解だった! 一樹君なら絶対、世の中に認められる、凄い物語が書けるって思ってたんだ」
「本当、よく俺みたいなのを信じられたよな。奈緒も奈緒で、なかなか変わり者じゃなあいか?」
「そんなことないよ。ただ、人より“見る眼”があったってだけ!」
一樹を褒めるようで、ちゃっかり自分自身を持ち上げている当たり、実にしたたかである。一樹は苦笑しながら、隣を弾んで歩く奈緒の言葉に耳を傾けた。
「私も趣味で“小説”を書いてたけど、自分の実力は自分が一番知ってるんだ。だからせめて、私より“才能”がある一樹君には、物書きとして幸せになってほしかったんだよ。なんていうか、私ができなかった“夢”を、少しでも誰かに叶えてほしかったの」
どこか初めて聞く彼女の思いに、一樹は「へえ」と素直に感嘆の声を上げた。だがそれでいて、何気なく彼女に提案してしまう。
「でもそれこそ、奈緒だって“書きたいもの”を書けばいいんじゃあないか。俺が烏真先生に言われたように、そうやって“好きに生きる”ってのが、一番いい形だと思うぜ」
白い歯を見せ、笑いながら振り向く一樹。
だが、隣を歩く奈緒の思いがけない表情に、息を飲む。
奈緒は笑っていた。だがどこかその眼差しに、もの悲しい色が混じる。
「そう、だね……うん。そうかもね。一樹君の言う通り。私は私の――やりたいように“生きる”のが、良いのかもね」
にこやかに語る奈緒のその横顔に、一樹は気付いてしまう。長らく共に歩いてきたからこそ、その微妙な感情の機微を読み取ってしまった。
彼女は納得していない――その理由を問いかけようとしたが、奈緒が無理矢理、話題を切り替えた。
「そういえば、あれから“四葉社”さんとは順調なの?」
「あ……ああ、うん。実はさ、年末に烏真先生が主催する、作家達のパーティがあるんだって。そこに、俺も出ないかって誘われててね」
「へえ、大作家が集まるパーティ!? 凄いじゃない!」
再び、奈緒の表情がぱあっと明るくなった。嬉しそうに笑う彼女を見ていると、先程の妙な感覚を忘れてしまう。
「ま、まぁ、烏真先生が自主的にやってるパーティなんだけど、一応そこで、自己紹介はしないといけないらしくってさ。俺以外の新人も色々来るらしいんだ」
「へええ、じゃあこれで正真正銘、“小説家”として認められたって感じだね!」
奈緒は相変わらず、どんどんと思考――否、“妄想”を加速させ、暴走してしまう。
「いいなぁ。じゃあ、ゆくゆくは『幽闇通りのハル』もアニメ化とか、ドラマ化とかされるのかなぁ。そうなったらさ、“バキン”は誰が演じるんだろう? やっぱイケメンって言ったら“木戸卓則”がいいなぁ!」
またもや勝手に、あれこれとありもしない“未来”を思い描き始める奈緒。そのはつらつとした姿に苦笑しつつも、思わず一樹は足を止めた。
「なあ、奈緒」
「うん、なあに?」
「ありがとうな」
一歩遅れて、奈緒も立ち止まる。彼女はハッとして振り返り、一樹を見つめた。
「これも全部、奈緒のおかげだよ。君がいてくれたから俺は――“人間”になることができた」
「ど、どうしたの、急に? やめてよ、こっぱずかしいなぁ」
「あの日――いや、いつも、ここぞというときに俺の背中を押してくれたのは君だった。腐りそうになる時、打ちひしがれて泣いていた時、“幽霊”に襲われて死を覚悟した時――いつもいつも奈緒がいてくれたから、ここまで歩いてこれたんだ」
真剣な眼差しで告げる一樹に、奈緒はどこか頬を赤らめ「いやぁ」と口ごもる。
そして、照れながらもなんとか、笑って見せた。
「私なんて、なにも。頑張ったのは正真正銘、一樹君だよ。ここまで諦めなかったのも、必死に歩いてきたのも、一樹君自身の功績。だって一樹君は――『幽闇通りのハル』の作者なんだもんね」
木枯らしに髪を遊ばれても、彼女は微笑んだまま顔を上げる。そのどこか少しだけ潤んだ瞳に、真っすぐ彼女を見る自分がいた。
「私こそ、ありがとう。私みたいなやつの“わがまま”を――“夢”を叶えてくれて」
「それこそ、大げさだよ。俺はただ――もがいただけだからさ」
「良いじゃない、それで? しぶとさで、あの女優に勝てたってことだよ」
格好をつけるつもりが、結局、最後の最後には奈緒のペースに持っていかれてしまった。二人は煉瓦道のど真ん中で、互いに笑いあう。
一樹は一呼吸置いた後、彼女に問いかけた。
「さっき言ってたパーティなんだけど、誰かを誘っても良いって言われてるんだ。それで、その――もし良かったら、一緒に来ないか?」
「え……わ、私が?」
「ああ。ただ、日付がちょうど“クリスマス”なんだけど。その――もし、良ければ」
なんだかその一言を発するのに、どこか一樹は勇気が必要だった。一人の女性を誘うということが、どういう意味を秘めているのか、にわかに心の中で気付いていたからだろう。
一樹の“告白”に奈緒は少し考え、そして――どこか、悲しげな表情で笑った。
「ご、ごめん……お誘いは嬉しいんだけど……その日はちょっと、忙しくってさ」
「あ――ああ、そうか。うん、ならしかたないな」
断られてしまったことに、少なからず落胆してしまう一樹だったが、それ以上に目の前の奈緒の表情に、どこか違和感を抱く。
だが、その真意を問いかける前に、奈緒は踵を返す。
「また追々、パーティの内容、教えてよ! どんな大スターが来てたか、楽しみにしてるからさ!」
「ああ、うん。分かった」
「じゃあ、私、今日はこの辺で――バイトがあるからさ。んじゃ!」
奈緒は手を振り、煉瓦道を駆けて行ってしまう。なんだかいつもの奈緒らしからぬ態度にどこか呆気にとられつつも、一樹はその背中に「また」と手を振り返した。
しばし立ち尽くしたまま、一樹は彼女の背が遠ざかっていくのを見つめ、“ふられてしまった”という事実にため息をつく。
そんな一樹の背後から、聞き覚えのある声が響いた。
「おおい、兵藤君」
「ん……あれ、あなたは――?」
振り返ると、そこには一人の男性が立っていた。細身の長身で、身に着けたスーツ姿がよく似合う。短く整えた髪と端正な顔立ち、浅黒い肌にどこか見覚えがあった。
「いやあ、偶然だな。こんなところで会うなんて」
「あ、ああ……ええっと……ごめんなさい、あなたは……」
「え? あ、ああ、そうか! この姿で会うのは初めてだね。ほら、俺だよ――“ホームレス”の坂上!」
その一言で一気に意識が覚醒した。かつてよれよれの服を着ていたみすぼらしい男と、目の前の彼が重なる。
「ええ、坂上さん? ま、まるで別人ですね」
「ははは、まぁ、方々で言われるよ。なにせスーツを着込むのも久々すぎて、どうにも慣れないんだ」
それはかつて、一樹らと共に“図書館の幽霊”――杉本小春を成仏させた、あの元司書の男性・坂上だった。彼の言う通り、ホームレスだった時に比べれば、その清潔感溢れる姿は別人だ。
「実はあれから、ようやく吹っ切れることができてね。なんだか、考えたんだよ。小春は今まで、俺をずっと待ってくれていた――なのに、俺がしょげかえってたんじゃ、申し訳が立たないだろう? 俺は俺として――残された人間として、精一杯、生きなきゃあいけないなって」
「そうなんですか。じゃあもしかして、社会復帰したってことですか?」
「ああ。実は司書だった経験を活かして、“出版社”への入社が決まったんだ。もっとも、給与は下の下から再スタートだけどね」
この一言に、素直に「へええ」と感嘆する一樹。その姿がおかしかったのか、坂上は襟元をわざとらしく正し、笑う。
「じゃあ、もしかして、俺とも近い関係になるかもしれませんね?」
「ああ。君が“四葉社”で連載を持つことも知ってるよ。もしかしたら、これからは職場で会うことがあるかもな?」
なんだか一人の人間の“再生”した姿を見ると、こちらまで嬉しくなってしまう。
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「そう、ですか……もしかしたら、そうなのかもしれませんね。小春さんが成仏できたから、坂上さんもまた、救われたってことなんですかね?」
なぜ、こんな力があるのか――相変わらず一樹には分からない。理論も理屈もさっぱりで、どういう理由がそこに秘められているのかは、謎のままだ。
だがそれでも、坂上はその“力”の消失にどこか、納得しているのだろう。
再び歩き出そうとしている男同士、二人はしばし互いの身の上話に盛り上がってしまった。
しかし、ふいに坂上は一樹に問いかけてくる。
「そう言えば、兵藤君。さっきまで、誰と話していたんだい?」
「さっき――ああ、この前、一緒にいた奈緒って子ですよ。今日は用事があるみたいで、先に帰っちゃいましたけどね」
どうやら、彼女と並んで歩いているところを目撃されていたようだ。ちょっと気恥ずかしくなりながら再び振り返り、奈緒が去った先を見つめる。
もうそこには、彼女の姿はなかった。
つい先程まで対峙していた眩しい笑顔を思い浮かべる一樹に、首をかしげながら坂上は問いかける。
「どういうことだい? 君、さっきからずっと、一人で歩いてただろう?」
「――え?」
少し遅れて、坂上に振り返る。意地悪でもなんでもなく、彼は純粋に疑問を抱いているようだった。
「この煉瓦道を通りかかった時に、歩いていく君の姿が見えたんだよ。慌てて追いついてきたわけだけど、君、ずっと“一人”だったじゃあないか?」
坂上のその一言で、何故か胸の奥がざわついた。
ちょっとした勘違いの可能性もある。それこそ、ただの意地悪だという可能性も否定できない。
だが、どうしても一樹には、坂上という男が“嘘”をついているようには見えなかった。
だとしたら――たまらず再び、煉瓦道の先を見つめてしまう。
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