ゴースト×ライター

創也慎介

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第16話 君がくれた、“今”

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 噴水広場に立ったまま、一樹らは改めて夕日に照らされる図書館を見つめた。茜色に染め上げられる建物は、こうしてみるとなんとも年季が入ったたたずまいをしている。
 
 日を改め、再結集した“三人”――その左端に立つ坂上は胸を押さえ、必死に呼吸を繰り返している。一樹は心配そうに、彼に問いかけた。

「坂上さん、大丈夫ですか?」
「あ、ああ、なんとか。すまない、やっぱり建物を見ただけで、トラウマが蘇ってくる」
「無理だけは、しないでください。本当に危なくなったら、すぐに中断しましょう」

 坂上は「分かった」と額の汗をぬぐい、ふぅとため息をつく。
 その姿はホームレスのそれから一変しており、白いシャツに黒ズボンという出で立ちだった。即席で揃えた簡易的な“正装”に身を包み、髭も剃ったその姿は、改めて見ると実に男前である。

 肉体を慣らすように、坂上は図書館を前に気持ちを落ち着けている。彼にとって長年、避け続けてきた忌むべき場所なのだ。もし無理に足を踏み入れれば、またトラウマによって何が起こるか分からない。
 無理をしないよう、たっぷりと時間をかけながら、坂上の号令によってようやく図書館の中へと足を進める。

 この時間帯の図書館には、やはり人影は見えない。常連の一樹や奈緒にとってはすっかり馴染み深い空間なのだが、一歩を踏み入れた坂上は懐かしさに声を上げた。

「驚いた。まるであの頃と、変わってないんだな」

 一樹らは5年前の姿を知らないが、恐らくもう長い間、この内装のままなのだろう。部屋に入ってきた三人を司書の女性がちらりと見たが、彼女はただ黙したまま、再び手元に目線を落とす。

 迷うことなく、三人はあの本棚の前に近寄る。そこにはやはりいつもと同じ場所、同じ向き、そして同じ姿で“彼女”が立っていた。

 杉本小春すぎもとこはる――その姿を目の当たりにした坂上が、明らかに息を飲むのが分かった。

 奈緒が坂上の背に手を当て、様子をうかがう。

「坂上さん、大丈夫?」
「ああ……すまない、胸が酷く苦しいんだ。だが、大丈夫。まだ耐えれるよ」

 周囲を取り囲む“本”と、目の当たりにした“幽霊”の姿に、トラウマが蘇りつつあるのだろう。精神がぎしぎしと軋む音が、肉体の中に響き渡っていた。

 間違いなく、坂上にも“彼女”の姿は見えているようだ。三人は目の前の“幽霊”を見て、しばし黙したまま立ち尽くす。
 
 三人が近付いても、彼女の反応はまるでない。ただ本棚の一点をじっと見つめたまま、“幽霊”は前を向いている。

 どうしたものか――考えあぐねている一樹らを差し置き、ゆっくりと坂上が一歩を踏み出す。
 たまらず、一樹は坂上の背中に声を荒げた。

「坂上さん!」
「大丈夫。無理はしないさ。俺に、やらせてくれ」

 危険だと察し、手を伸ばしかける一樹。だが、ちらりと見えた坂上の汗だくの顔に、言葉を飲んでしまう。
 先日までの自嘲気味な笑顔でも、全てを失った無気力な表情でもない。
 じっとりと汗を浮かべながら、それでも強さを失わない彼の眼差しを、一樹と奈緒は信じることにした。

 ゆっくりと坂上は近付く。そして、“幽霊”の横顔に向かって、語り掛けた。

「小春……なぁ……小春なのか?」

 返事はない。それどころか、坂上の言葉にすらまるで“彼女”は反応を示さない。
 いたずらに時間だけが過ぎていく。耐えがたい静寂の中、離れた位置の壁に取り付けられた時計の針の音すら、聞こえてきそうだった。

 緊張した面持ちで、様子をうかがう一樹と奈緒。二人が見ている前で、坂上は次の一手に出る。
 かつての一樹同様、彼は“幽霊”の視線の先に気付き、本棚の一冊を発見した。
 その見覚えのある背表紙に、ゆっくりと手を伸ばす。

 だが直前で、坂上の手が止まった。離れた位置の一樹や奈緒にすら、彼の指が激しく震えているのが分かる。

 静かな動きの中で、確かに坂上は戦っているのだ。彼にとって、もはやこの場所に立っていることも、本を手にすることも恐ろしくてしかたがない。
 湧き上がる本能的な恐怖から際限なく肉体が震え、内臓が混乱を起こし、吐き気すらこみあげてくる。気を抜けば、一瞬で意識を断ち切られそうだった。

 脂汗を全身に浮かべ、ぜえぜえと呼吸を繰り返す坂上。脳裏にフラッシュバックする様々な記憶を押し切り、彼は歯を食いしばって本を手に取った。

 “幽霊”は動かない。恐る恐る、坂上は彼女の姿を横目に見つつも、手元の本を開いた。
 ボロボロになった一冊――“春風の君”と名付けられた詩集を、ぺらりとゆっくり、めくっていく。

 汚れ、千切れたページの中に、それでもしっかりと記されている、数々の詩。
 その群れが、坂上のかつての記憶に鮮明な色を取り戻させる。

 手にしているそれは間違いなく、自身が杉本小春に貸した一冊だ。彼女が最後の瞬間まで、大切に鞄の中に入れていた一冊なのである。
 この傷や汚れはきっと、あの“事故”によってつけられたもの。そう分かっていながらしてなおも、過剰な恐怖は湧いてこなかった。
 ただ一心に、坂上はページをめくる。その彼の表情に、一樹と奈緒も見入ってしまった。

 不安と恐怖を、それらよりも遥かに大きな“なつかしさ”が押し流していく。

「小春は……きっとこれを、きちんと読んでくれてたんだな。彼女は――」

 呟きながら、ぺらりとまた一枚、めくる。
 そこで遂に、坂上の手が止まった。

 たった一つの“詩”。
 記されていた何の変哲もない一編の“詩”に、坂上は息を飲む。

 その明確な変化に気付き、たまらず一樹と奈緒も歩み寄った。三人は覗き込むように、そこに記されていた“詩”に目を落とす。

 本を握りしめた指に力を込めながら、坂上がその“詩”を音読した。

「“君の目の前にある苦難は、それでも君を奪えなどしないだろう。僕と君がこうしていられるのに、それをくじかせることができるものなど、きっと世界にはない”」

 それは恋する男女の関係性をベースにした、短い詩だった。ページには挿絵として、丘の上の木の下で手を取り合う、男と女の背中が描かれていた。

 詩の内容と、坂上の表情を交互に伺う二人。坂上の眼が震え、微かに潤んでいるように見えた。

 そんな三人の背後から、“彼女”の声が響く。
 今までのようなかすれたそれとは違い、はっきりと、透き通った波長で。

『――いくつもの寒さを乗り越えて、もう一度この丘で会おう』

 顔を跳ね上げ、振り返る三人。そこには変わらず、ジッとたたずむ“幽霊”がいた。
 彼女は本棚ではなく、坂上が手にした一冊――“春風の君”を見つめ、続ける。

『――そして共に手を取り、暖かさを分かち合いながら、死ぬまで一緒にいよう』

 美しい声だった。彼女は詩集を見つめたまま、ゆっくりと呟いていく。
 その言葉の内容から、すぐさま三人は察した。

 彼女が囁いていたのは、呪怨の言葉でも、誰かへの恨み節などでもない。

 それは“詩”――“春風の君”と題された一冊に収録された、若者同士の恋を歌った詩の一説だった。

 息を飲む一樹と奈緒の隣で、全てに気付いた坂上が、彼女を見つめる。
 小春を見つめる坂上の目に、熱い雫が溢れ出していた。

「そうか、君は……しっかりと、読んでくれたんだな。この本を――俺が好きな、この“詩”を」

 読書が嫌いな彼女は、それでも恋をした男性と話をするため、慣れない詩集を借り、隙間を見つけては読みふけったのだろう。
 難しい言い回しや読めない漢字にくじけても、それでもなお文字の海にどっぷりと浸かり、そこに描かれた物語と、言葉の意味を考え続けた。

 やがて彼女は、たどり着いたのだ。
 彼女が恋をした“彼”が、好きだと言っていた、この“詩”に。
 そして自身も、そこに描かれた“恋”の形に思いを馳せ、いつしか自身に投影したのだろう。

 異国のどこかで、恵まれていない境遇でも、互いを愛する心の身を頼りに丘の上から街を見下ろす二人。どんな苦難も全て受け入れ、前を向いて進む、二人を歌った“詩”を。

 全てを悟り、言葉を失う一樹と奈緒。
 そんな二人の前で、坂上は詩集ではなく、目の前の“彼女”を見つめたまま口を開く。
 
 期せずして坂上と彼女――杉本小春は同時に、その最後の一説を呟いていた。

『――どんな辛さも、切なさも、全て“愛”と名付けて未来へ運ぼう』

 ぱぁっと、小春の体が光を放った。その突然の事態に思わず身を引き、目を閉じてしまう一樹達。
 
 恐る恐る目を開き、すぐ目の前に立っていた姿に、声を上げてしまった。

 そこにいたのは、一人の女性だ。だが、先程までのような仄暗さはどこにも残っていない。血色の良い肌と、白く輝くワンピース。艶やかな長い黒髪が、風もないのに揺れていた。

 大きく美しい瞳が、しっかりと前を向いている。ぽおっと光を放つ彼女の姿に、最初に言葉を放ったのは坂上だった。

「――小春」

 坂上の言葉に、彼女は――杉本小春は何も言わない。
 だが彼女は静かに微笑み、大きく頷いた。

 唖然とする坂上の手を、小春がとる。彼女の放つぬくもりが、触れていない一樹や奈緒にまで伝わってきた。

 暖かい――坂上は一歩を踏み出し、気が付いたときには目の前の彼女をそっと抱きしめていた。

 錯覚なのかもしれない。三人が同時に見ている、幻覚だったのかもしれない。
 だがそれが何であろうと、確かに三人は感じ取っていた。

 今までのような冷たさや、暗さは、どこにもない。
 ただ肉体を内側から揺さぶる素朴な暖かさだけが、図書館の一画を照らしだす。

 小さな春のような温もりを宿し、彼女はなおも、すぐ目の前の“彼”に笑った。

 その笑顔で、坂上の心が砕け散る。張り詰めた緊張が解け、彼はただ子供のように、身を震わせて泣いた。

「そうか、君は……待っていてくれたんだなぁ。ちゃんと、読んだんだって……俺に、伝えに来てくれたんだなぁ」

 ここにあったのは、怨嗟でも、憎悪でもない。
 彼女はただ、伝えたかったのだ。

 自身が読んだ“詩”を――彼女が大好きだった人が、大好きだった“物語”を。

 とめどなく湧き上がる感情を坂上は必死に噛みしめ、言葉を紡ぎ出す。嗚咽おえつとなって漏れていくその言葉の一つ一つが、一樹らの肉体にも染み込み、震わせる。

「ごめんな……ごめんなぁ……君は待ってくれてたのに、俺はずっと……逃げてたんだなぁ……5年……5年も……ずっとここにいてくれたんだなぁ……」

 涙を流す坂上に、それでも彼女は笑っている。その暖かさが、温もりが、いまの三人にはただただ辛く、虚しい。

 もう彼女は、戻ってこない。
 どれだけ触れられても、どれだけ分かり合えても彼女は――死んでしまったのだ。

 小春の姿は光の粒となって散っていく。消えていく温もりを力いっぱい抱きしめながら、坂上は歯を食いしばり、涙を耐える。

 最後に一言だけ、小春が告げた。その短く、そしてあまりにも切ない言葉に、杉本小春が告げたかった全てが、集約されていた。

 光の粒は蛍のように部屋の中を浮遊し、すぐに差し込む茜色に溶けて消えてしまう。
 “図書館の幽霊”が消え去り、坂上はがくりとうなだれ、うずくまって泣いていた。

 崩れる彼に一樹と奈緒も腰を落とし、手をそえる。震える肉体の熱さを掌に感じ、二人もただ胸を締め付けられた。

 無粋な言葉は不要だった。二人はいつまでも、涙を流す男の背を支え続ける。5年分の感情が、雪解け水のようにとめどなく溢れ出ていた。

 “過去”と“今”――離れ離れになってしまった二人は、図書館という約束の場所で、再び出会った。
 “彼女”は失ってしまった自分という存在で、止まりかけていた“彼”の歯車を、再び動き出させる。

 ――“ありがとう”。

 それだけを告げ、遠くへ行ってしまった“彼女”に向けて、“彼”は何度も何度も同じ言葉を繰り返していた。

 俺みたいなのを、好きになってくれて。
 俺のような男を、待っていてくれて。

 ――ありがとう。

 仄暗い図書館に、涙がただ、零れ落ちる。
 その熱い雫の中から、悲しみや後悔の色は消え去っていた。
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