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第6話 脱出の一歩へ
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一樹は横目でちらりと受付カウンターを確認したが、相も変わらず司書の女性は手元の資料を眺め、微動だにしない。彼女が長時間、なにを眺めて時間を潰しているのかが、今更ながらに少しだけ気になってしまった。
しかし、すぐに目の前の“彼女”に意識を戻す。また一つ紙をめくる、ぱらりという小気味良い音が響いた。
一樹の隣に座る奈緒は手元の原稿に視線を落とし、一心不乱に文章を追っている。その表情は真剣そのもので、読み始めてからというもの、一樹は声をかけることすらできずにじっと待つしかなかった。
作者の一樹としては彼女の反応が気になるものの、今の奈緒からは何人たりとも“読む”ということを遮ることのできない、言い知れぬ気迫を感じ取れてしまう。
結局、じっくりと時間をかけ、彼女は手渡された新たな原稿――一樹オリジナルの無名作品を一気読みしてしまった。
原稿を畳み、大きく息を吐きだす奈緒。今だと言わんばかりにタイミングを計り、打って出る一樹。
「あの……どう、だった……?」
一樹自身、いつだって自分が手掛けたものは、“全力”を出せたと思ってはいる。だが一方で、それは作り手の“願望”を多分に含んでいるのだから、あまり参考にもならない――ということも理解していた。
だからこそ、今は素直な“第三者の感想”が欲しい。目の前の奈緒はゆっくりとこちらを振り向く。
読み終えた第一声は、なんなのか。
最初に浮かべる表情は、どのようなものなのか。
身構える一樹に対し、奈緒はなぜか無表情のまま、告げる。
「――バキンが」
「……はい?」
「バキンが――バキンの右腕が!!」
一瞬、何を言っているのか理解できなかったが、なんとか彼女の意図するところをくみ取る。それは新たな原稿に登場する、キャラクターの名前だ。
一樹が呆気に取られている目の前で、奈緒の表情が歪む。苦しいような、悔しいような、しかしどこか嬉しいような――“興奮”が渦巻いている顔だ。
「強かった……強すぎたよ、“真・絡新婦”」
「あ、ああ……そう」
「だって、あのバキンが――あの“居合”の腕があっても、ほぼ互角だなんて!」
相変わらず勝手に呼称を付けただけでなく、お気に入りのキャラまでも見つけてしまったらしい。彼女は大げさな身振り手振りで、興奮のままに感想を吐き出し続けた。
「いやぁ、凄かったなぁ、あの最後の一撃ぃ! 本当、殺るか殺られるか、絶妙なパワーバランスだったんだね!! 援軍が駆け付けたから、『あ、真・絡新婦、すぐやられちゃうんだろうな』って思ったら、まさかそこから巻き返して三人同時に相手にしちゃうんだよ!!」
図書館ということを忘れて声を張り上げる奈緒に対し、どこかたじたじな一樹。司書に怒られるのではないかとカウンターをちらちらと見つめていたが、反対側にいるおかげか、そこまで騒がしいとは思われていないらしい。
とにもかくにも、想像以上に作品を楽しんでくれる奈緒に一樹は困惑しつつも、気が付いた時には微かな笑みを浮かべてしまっていた。
自分が書き上げた物語――さらに言えば、心の底から“作りたい”と思った作品を素直に読んでくれて、その内容に一喜一憂する彼女の姿が、一樹にとっては涙が浮かんでしまうほど嬉しかった。
それからもしばらく、彼女から放たれる感想の嵐を一樹は受け止め続けた。
ようやく落ち着いたのか、彼女は改めて原稿をぺらぺらとめくり、文章を眺めている。
感想をくれた奈緒に、一樹もようやく落ち着き、礼を述べることができた。
「ありがとう。その、随分と……楽しんでくれたみたいで、なによりだよ」
「こちらこそ! 凄いなぁ、一樹君は。どうやったら、こんな臨場感のあるシーンが書けるんだろう。私なんてどう頑張っても、こんな白熱した展開は書けないよ」
「買いかぶりすぎだよ。これくらい経験を重ねたら、きっと誰でも書けるさ」
「そんなことないって! いいなぁ、これだけ書けたら、きっと楽しいんだろうなぁ」
なんだかその無邪気な賞賛が、どこか恥ずかしい。一樹も視線を机の上に反らし、困ったように笑った。
――書いて良かった。
なんだか久々に、自身が筆をとったことを“報われた”と思えた気がする。仕事では――“代筆”をしている時には、どれだけ周囲に褒められても、まるで湧き上がってこなかった暖かい感情だった。
自分自身のやりたいことを精一杯、手を抜かずにやる。それを読んでくれた誰かが、良くも悪くも素直な感想を返してくれる。
そんな当たり前の“感情”のキャッチボールができたことに、一樹はどこかほっとしてしまった。
ため息をつき、机に肘をついたまま一樹は図書館の中を見渡す。今日は二人以外には誰も来ていない。
目を凝らして気配を探ったが、ここに出没するあの“幽霊”も今は姿を現していないようだ。
肩の力を抜いた一樹に、隣に座る奈緒の言葉が不意に突き刺さる。
「これだけ書けるんだから、やっぱり賞やコンテストに応募してみればいいのに。一樹君ならきっといい線、狙えると思うよ?」
突然の提案に驚き、振り向く。奈緒と視線が交わったことにドキリとしつつも、一樹は困ったように後ろ頭をかいた。
「いや、まぁ……そう言ってくれるのはありがたいけど、あくまで好きで書いてる趣味みたいなもんだからさ。それに今時、“妖怪”とのバトルがあるホラーなんてのも、きっと流行りじゃあないと思うし」
言いながらも、脳裏には出版社の男が口にした言葉が思い浮かんでいた。自身の作品に向けられたあの日の“駄目出し”を、そのまま言い訳に流用している自分が、どこかみすぼらしく思えてしまう。
だがこれに対し、奈緒は驚くほど呆気なく、自然に言葉を返した。
「そんなことないよぉ。流行りなんて、面白ければ関係ないって。それこそ、これだったら今、巷で流行ってる『ラブ&ゴースト』なんかより、何倍も面白いよぉ」
一樹はびくりと、全身を強張らせてしまった。慎重に、ゆっくりと奈緒の横顔を見る。
あくまで彼女は笑っていた。だが、彼女の口から不意に出たその作品タイトルに、どうしても警戒せざるをえない。
「今……なんて――」
「ほら、今、テレビとか雑誌で持ち切りなやつ。なんか大女優が書いたらヒットした作品だよ。周りの人も凄い面白いって言ってるけど、私は正直、微妙だなって思ってるんだよねぇ」
「そ、そう……あまり、面白くないの? その――『ラブ&ゴースト』ってのは」
「うん。文章力は一樹君と同じくらいきちんとしてるけど、なんだかこう、“活き活きしてない”っていうかさ。内容が無理矢理、綺麗なものに仕立て上げようとしてる、って感じがするんだよね」
一樹は目を見開き、思わず息を飲んでしまった。ぺらぺらと無名作品をめくる彼女を、凝視してしまう。
――奈緒は、全て分かっている。
彼女の口から語られたそれは、まごうことなく“代筆者”――すなわち、一樹が執筆中に抱いた、そのまんまの感情だった。
それでいて彼女は文章の“質”が、一樹のものと同様だということすら、しっかりと見抜いている。
きっとそれは、彼女がなんであれ丁寧に“物語”と向き合っている証拠なのだろう。
手元の一作を熱心に読むからこそ、そこに込められた作者の無意識の“感情”までもを、読み解いているのだ。
一樹の中に湧き上がった困惑は、肉体を内側から震わし、微かに鳴動させていく。
彼の感情の揺らぎに気付くことなく、あくまで無垢な笑顔で奈緒は続ける。
「『ラブ&ゴースト』も“幽霊”とかを題材にしてるけど、私はお世辞抜きにこっちの方が好きだなぁ。あんな“取り繕った話”より、一樹君みたいな“純粋に書きたい話”の方が、読んでいて楽しいよ!」
きっと奈緒の言葉に、他意はないのだろう。
ただ真っすぐ、ただ純粋に、心から思ったことを彼女は告げている。
その混じりっ気のなさが、あまりにも澄んだ言葉の一つ一つが――ただただ、一樹には痛くてたまらない。
笑う奈緒を前にして、一樹は拳を握りしめ、ついにうつむいてしまう。
奈緒もようやく一樹の異変に気付き、不安げにその顔を覗きこもうとしていた。
「一樹君、どうしたの?」
一樹は歯を食いしばったまま、答えることができない。細めた目の中に、どこか熱いものがじわりとこみ上げ、視界をぼやけさせている。
絶対にバレてはいけない。
友人だろうが、親だろうが――ましてや、つい最近出会った、ただの知り合いの彼女に、そんなことを知られてはいけないのだ。
その唯一にして絶対の“ルール”に縛られている自分が、一樹はひどく嫌だった。
大人達が決めた不文律にがんじがらめにされたまま、今日まで生きた心地がしなかった日々に、積み重なった不平不満が、心の中で暴れまわっている。
初めて出会えたのだ。
素性も明かさず、理由も知らないというのに、自分の全てを覗き込んでくれた“理解者”に。
また一つ、奈緒が「ねえ」と心配そうに声をかけてくれる。
そんな彼女に一樹は、気が付いた時には言葉を絞り出していた。
理性という鎖を、自身の“本能”が引きちぎる感覚が、生まれて初めて肉体に刻まれる。
「違うんだ……」
「え?」
「あれは……あれを書いたのは――」
わなわなと拳を震わしたまま、一樹は前を向く。まぶたの裏で堰き止められていた雫が数滴、パッと宙を舞う。
驚き口を開いたままの奈緒に、一樹は至近距離で告げた。
今まで隠し続けてきた、“真実”を。
「あれは……『ラブ&ゴースト』は――俺が書いたんだ」
***
何一つ、止めることができなかった。一樹はまさに一気呵成の勢いで、自身が内に秘めていた“全て”を、目の前の奈緒にぶちまけてしまう。
副業として出版社との繋がりを持ったこと、自身の作品を何度も評価してもらっていたこと、そして偶然――大女優・黒住の“代筆”を任せられたこと。
ありとあらゆる“秘密”を奈緒の前にさらけだしていた。それが取り返しのつかないことだと理解しつつも、暴走する自分自身を抑えることができなかった。
どこかみすぼらしく、駄々っ子のように全てを打ち解ける一樹。奈緒は唖然とし、ただただ、吐き出される言葉の群れを受け止めるしかなかった。
ようやく落ち着いた一樹に、しばし奈緒は言葉を失っていたが、やがて静かに言葉を返す。
「そう……だったんだね。そんな、ことが……」
自分で吐露しておきながら、一樹はすんなりと信じてしまった奈緒に、どこか疑問を抱いてしまった。
「信じてくれるのか? こんな……こんな、馬鹿馬鹿しい事」
「うん。もちろん、ちょっと驚いたけどね。だけど、一樹君――嘘、ついてないよ。それは分かるから」
思いがけない一言に、またも涙が沸き上がってくる。一樹はそれをぐっとこらえ、耐えた。
「ひどい、話だね……あの黒住って人、一樹君を使って、自分のことみたいに堂々と振舞ってるなんて」
「まぁ、その……俺も、安請け合いすべきじゃあ、なかったのかもしれない。こうなったら、もう今更、止まることもできない。だから――」
なんだか振り絞った言葉までもが、どこか言い訳臭くて嫌になる。だが少なくとも、今の一樹には「ラブ&ゴースト」という作品を止めることも、投げ出すこともできないのは事実だ。
「そもそも今更、俺が真実をぶちまけたところで、世の中は信じないよ。あっちは大女優、こっちは無名の作家志望――どっちが強いかは一目瞭然。悲しいけど、世間ってのはそれだけ“ネームバリュー”に弱い、ってことなんだろうさ」
自嘲気味に告げ、一樹は背もたれにだらしなく体を預けた。きぃという嫌な音を肉体で感じつつ、両手で顔を覆う。
つくづく、世界の在り方というものに嫌気がさす。奈緒によって弾みかけていた気持ちが、今ではかつてと同様、どんよりとした泥沼の中に沈み込んでいる。
世の中が求めているのは“真実”などではない。
世間は“正しさ”などどうでも良いし、“嘘”であろうとも、興味をひくものだけが“正義”になりえる。
そんな虚しく、寂しい持論に溺れ、一樹は重々しいため息をついて見せた。
目を閉じ、両手で徹底的に光を遮り、暗闇に沈む。
そんな一樹を、すぐ隣に座る彼女の言葉が、光の元へと引きずり出した。
「そうだね。きっと世間からすれば、強いのはあの黒住って人の方なんだろうね」
どこか奈緒だけが、一樹にとって救いだった。その奈緒ですら、世間の不平等な“力関係”を受け入れ、憂いの言葉を吐きだしてしまう。
しかし、彼女は“しかたない”なんていう、都合の良い決着に逃げるつもりはないようだ。
「だったらさ――勝てばいいんだよ」
「――え?」
思わず目を見開き、前を向き直す一樹。
奈緒は目の前に座り、椅子ごとこちらを向いている。その両手にはしっかりと、一樹が書き上げた無名作品の原稿が握られていた。
「勝っちゃえばいいんだよ。堂々と、真正面から。あの黒住って女優に」
「勝つって……で、でもそんな……勝てるわけない、だって――!」
「あの人は文章なんて書けないんでしょう? なら、正々堂々――“これ”で証明すればいい。どっちが“本物”なのか、を」
奈緒は強い眼差しを向けたまま、ずいと原稿の束を突き付けてくる。その真剣な顔に、一樹は思わずたじろいでしまう。
「お、おいおいおい……本気――で言ってる、それ?」
「もちろん。マジもマジ、大マジだよ」
独特の言葉選びに肩の力が抜けるが、一樹はそれでも視線を反らすことができない。
今までにない力強さを秘めたまま、奈緒は続けた。
「このままじゃあ一樹君、ずっとあの黒住って人の“ゴーストライター”でしかないんだよ。だったら無理矢理でも、その世界を変えないと。一樹君には一樹君の“持ち味”がしっかりとあるんだよ?」
「そう……かな……でもそんなこと――」
「もちろん、簡単じゃあないよ。きっとすごく辛いし、うまくいかないかもしれない」
随分とはっきりと言ってのける奈緒に、気圧されてしまう一樹。だが、そのあまりにも前向きな姿に、気が付いた時には涙が止まってしまっていた。
椅子に浅く座る一樹目掛けて、奈緒はありったけの“本音”を叩きつけ、奮い立たせる。
「せっかく書きたいものがあって、作りたいものがあるのに、それを誰かのために捨てちゃうなんて間違ってるよ。一樹君は一樹君のやりたいこと――自分の“わがまま”をもっと、信じてあげなよ」
真っすぐ、容赦なく、躊躇せず――奈緒の言葉の一つ一つが、一樹の真正面から突き刺さる。そのたびに痛いほどに心臓が跳ね、体全身が震えた。
肉体の芯が次第に熱くなってくる。だがそれは、先程までの言い知れない悔しさや惨めさがゆえではない。
目の前の彼女の放つ強い気持ちに、一樹の中で眠っていた“なにか”が目覚め始めようとしていた。
静かな図書館の中で、一樹と奈緒は椅子に座ったまま互いを見つめ合う。
新たにつづられた“物語”の原稿を握る彼女の指は、いつしか原稿に食い込み、痛いほどに歪めていた。
しかし、すぐに目の前の“彼女”に意識を戻す。また一つ紙をめくる、ぱらりという小気味良い音が響いた。
一樹の隣に座る奈緒は手元の原稿に視線を落とし、一心不乱に文章を追っている。その表情は真剣そのもので、読み始めてからというもの、一樹は声をかけることすらできずにじっと待つしかなかった。
作者の一樹としては彼女の反応が気になるものの、今の奈緒からは何人たりとも“読む”ということを遮ることのできない、言い知れぬ気迫を感じ取れてしまう。
結局、じっくりと時間をかけ、彼女は手渡された新たな原稿――一樹オリジナルの無名作品を一気読みしてしまった。
原稿を畳み、大きく息を吐きだす奈緒。今だと言わんばかりにタイミングを計り、打って出る一樹。
「あの……どう、だった……?」
一樹自身、いつだって自分が手掛けたものは、“全力”を出せたと思ってはいる。だが一方で、それは作り手の“願望”を多分に含んでいるのだから、あまり参考にもならない――ということも理解していた。
だからこそ、今は素直な“第三者の感想”が欲しい。目の前の奈緒はゆっくりとこちらを振り向く。
読み終えた第一声は、なんなのか。
最初に浮かべる表情は、どのようなものなのか。
身構える一樹に対し、奈緒はなぜか無表情のまま、告げる。
「――バキンが」
「……はい?」
「バキンが――バキンの右腕が!!」
一瞬、何を言っているのか理解できなかったが、なんとか彼女の意図するところをくみ取る。それは新たな原稿に登場する、キャラクターの名前だ。
一樹が呆気に取られている目の前で、奈緒の表情が歪む。苦しいような、悔しいような、しかしどこか嬉しいような――“興奮”が渦巻いている顔だ。
「強かった……強すぎたよ、“真・絡新婦”」
「あ、ああ……そう」
「だって、あのバキンが――あの“居合”の腕があっても、ほぼ互角だなんて!」
相変わらず勝手に呼称を付けただけでなく、お気に入りのキャラまでも見つけてしまったらしい。彼女は大げさな身振り手振りで、興奮のままに感想を吐き出し続けた。
「いやぁ、凄かったなぁ、あの最後の一撃ぃ! 本当、殺るか殺られるか、絶妙なパワーバランスだったんだね!! 援軍が駆け付けたから、『あ、真・絡新婦、すぐやられちゃうんだろうな』って思ったら、まさかそこから巻き返して三人同時に相手にしちゃうんだよ!!」
図書館ということを忘れて声を張り上げる奈緒に対し、どこかたじたじな一樹。司書に怒られるのではないかとカウンターをちらちらと見つめていたが、反対側にいるおかげか、そこまで騒がしいとは思われていないらしい。
とにもかくにも、想像以上に作品を楽しんでくれる奈緒に一樹は困惑しつつも、気が付いた時には微かな笑みを浮かべてしまっていた。
自分が書き上げた物語――さらに言えば、心の底から“作りたい”と思った作品を素直に読んでくれて、その内容に一喜一憂する彼女の姿が、一樹にとっては涙が浮かんでしまうほど嬉しかった。
それからもしばらく、彼女から放たれる感想の嵐を一樹は受け止め続けた。
ようやく落ち着いたのか、彼女は改めて原稿をぺらぺらとめくり、文章を眺めている。
感想をくれた奈緒に、一樹もようやく落ち着き、礼を述べることができた。
「ありがとう。その、随分と……楽しんでくれたみたいで、なによりだよ」
「こちらこそ! 凄いなぁ、一樹君は。どうやったら、こんな臨場感のあるシーンが書けるんだろう。私なんてどう頑張っても、こんな白熱した展開は書けないよ」
「買いかぶりすぎだよ。これくらい経験を重ねたら、きっと誰でも書けるさ」
「そんなことないって! いいなぁ、これだけ書けたら、きっと楽しいんだろうなぁ」
なんだかその無邪気な賞賛が、どこか恥ずかしい。一樹も視線を机の上に反らし、困ったように笑った。
――書いて良かった。
なんだか久々に、自身が筆をとったことを“報われた”と思えた気がする。仕事では――“代筆”をしている時には、どれだけ周囲に褒められても、まるで湧き上がってこなかった暖かい感情だった。
自分自身のやりたいことを精一杯、手を抜かずにやる。それを読んでくれた誰かが、良くも悪くも素直な感想を返してくれる。
そんな当たり前の“感情”のキャッチボールができたことに、一樹はどこかほっとしてしまった。
ため息をつき、机に肘をついたまま一樹は図書館の中を見渡す。今日は二人以外には誰も来ていない。
目を凝らして気配を探ったが、ここに出没するあの“幽霊”も今は姿を現していないようだ。
肩の力を抜いた一樹に、隣に座る奈緒の言葉が不意に突き刺さる。
「これだけ書けるんだから、やっぱり賞やコンテストに応募してみればいいのに。一樹君ならきっといい線、狙えると思うよ?」
突然の提案に驚き、振り向く。奈緒と視線が交わったことにドキリとしつつも、一樹は困ったように後ろ頭をかいた。
「いや、まぁ……そう言ってくれるのはありがたいけど、あくまで好きで書いてる趣味みたいなもんだからさ。それに今時、“妖怪”とのバトルがあるホラーなんてのも、きっと流行りじゃあないと思うし」
言いながらも、脳裏には出版社の男が口にした言葉が思い浮かんでいた。自身の作品に向けられたあの日の“駄目出し”を、そのまま言い訳に流用している自分が、どこかみすぼらしく思えてしまう。
だがこれに対し、奈緒は驚くほど呆気なく、自然に言葉を返した。
「そんなことないよぉ。流行りなんて、面白ければ関係ないって。それこそ、これだったら今、巷で流行ってる『ラブ&ゴースト』なんかより、何倍も面白いよぉ」
一樹はびくりと、全身を強張らせてしまった。慎重に、ゆっくりと奈緒の横顔を見る。
あくまで彼女は笑っていた。だが、彼女の口から不意に出たその作品タイトルに、どうしても警戒せざるをえない。
「今……なんて――」
「ほら、今、テレビとか雑誌で持ち切りなやつ。なんか大女優が書いたらヒットした作品だよ。周りの人も凄い面白いって言ってるけど、私は正直、微妙だなって思ってるんだよねぇ」
「そ、そう……あまり、面白くないの? その――『ラブ&ゴースト』ってのは」
「うん。文章力は一樹君と同じくらいきちんとしてるけど、なんだかこう、“活き活きしてない”っていうかさ。内容が無理矢理、綺麗なものに仕立て上げようとしてる、って感じがするんだよね」
一樹は目を見開き、思わず息を飲んでしまった。ぺらぺらと無名作品をめくる彼女を、凝視してしまう。
――奈緒は、全て分かっている。
彼女の口から語られたそれは、まごうことなく“代筆者”――すなわち、一樹が執筆中に抱いた、そのまんまの感情だった。
それでいて彼女は文章の“質”が、一樹のものと同様だということすら、しっかりと見抜いている。
きっとそれは、彼女がなんであれ丁寧に“物語”と向き合っている証拠なのだろう。
手元の一作を熱心に読むからこそ、そこに込められた作者の無意識の“感情”までもを、読み解いているのだ。
一樹の中に湧き上がった困惑は、肉体を内側から震わし、微かに鳴動させていく。
彼の感情の揺らぎに気付くことなく、あくまで無垢な笑顔で奈緒は続ける。
「『ラブ&ゴースト』も“幽霊”とかを題材にしてるけど、私はお世辞抜きにこっちの方が好きだなぁ。あんな“取り繕った話”より、一樹君みたいな“純粋に書きたい話”の方が、読んでいて楽しいよ!」
きっと奈緒の言葉に、他意はないのだろう。
ただ真っすぐ、ただ純粋に、心から思ったことを彼女は告げている。
その混じりっ気のなさが、あまりにも澄んだ言葉の一つ一つが――ただただ、一樹には痛くてたまらない。
笑う奈緒を前にして、一樹は拳を握りしめ、ついにうつむいてしまう。
奈緒もようやく一樹の異変に気付き、不安げにその顔を覗きこもうとしていた。
「一樹君、どうしたの?」
一樹は歯を食いしばったまま、答えることができない。細めた目の中に、どこか熱いものがじわりとこみ上げ、視界をぼやけさせている。
絶対にバレてはいけない。
友人だろうが、親だろうが――ましてや、つい最近出会った、ただの知り合いの彼女に、そんなことを知られてはいけないのだ。
その唯一にして絶対の“ルール”に縛られている自分が、一樹はひどく嫌だった。
大人達が決めた不文律にがんじがらめにされたまま、今日まで生きた心地がしなかった日々に、積み重なった不平不満が、心の中で暴れまわっている。
初めて出会えたのだ。
素性も明かさず、理由も知らないというのに、自分の全てを覗き込んでくれた“理解者”に。
また一つ、奈緒が「ねえ」と心配そうに声をかけてくれる。
そんな彼女に一樹は、気が付いた時には言葉を絞り出していた。
理性という鎖を、自身の“本能”が引きちぎる感覚が、生まれて初めて肉体に刻まれる。
「違うんだ……」
「え?」
「あれは……あれを書いたのは――」
わなわなと拳を震わしたまま、一樹は前を向く。まぶたの裏で堰き止められていた雫が数滴、パッと宙を舞う。
驚き口を開いたままの奈緒に、一樹は至近距離で告げた。
今まで隠し続けてきた、“真実”を。
「あれは……『ラブ&ゴースト』は――俺が書いたんだ」
***
何一つ、止めることができなかった。一樹はまさに一気呵成の勢いで、自身が内に秘めていた“全て”を、目の前の奈緒にぶちまけてしまう。
副業として出版社との繋がりを持ったこと、自身の作品を何度も評価してもらっていたこと、そして偶然――大女優・黒住の“代筆”を任せられたこと。
ありとあらゆる“秘密”を奈緒の前にさらけだしていた。それが取り返しのつかないことだと理解しつつも、暴走する自分自身を抑えることができなかった。
どこかみすぼらしく、駄々っ子のように全てを打ち解ける一樹。奈緒は唖然とし、ただただ、吐き出される言葉の群れを受け止めるしかなかった。
ようやく落ち着いた一樹に、しばし奈緒は言葉を失っていたが、やがて静かに言葉を返す。
「そう……だったんだね。そんな、ことが……」
自分で吐露しておきながら、一樹はすんなりと信じてしまった奈緒に、どこか疑問を抱いてしまった。
「信じてくれるのか? こんな……こんな、馬鹿馬鹿しい事」
「うん。もちろん、ちょっと驚いたけどね。だけど、一樹君――嘘、ついてないよ。それは分かるから」
思いがけない一言に、またも涙が沸き上がってくる。一樹はそれをぐっとこらえ、耐えた。
「ひどい、話だね……あの黒住って人、一樹君を使って、自分のことみたいに堂々と振舞ってるなんて」
「まぁ、その……俺も、安請け合いすべきじゃあ、なかったのかもしれない。こうなったら、もう今更、止まることもできない。だから――」
なんだか振り絞った言葉までもが、どこか言い訳臭くて嫌になる。だが少なくとも、今の一樹には「ラブ&ゴースト」という作品を止めることも、投げ出すこともできないのは事実だ。
「そもそも今更、俺が真実をぶちまけたところで、世の中は信じないよ。あっちは大女優、こっちは無名の作家志望――どっちが強いかは一目瞭然。悲しいけど、世間ってのはそれだけ“ネームバリュー”に弱い、ってことなんだろうさ」
自嘲気味に告げ、一樹は背もたれにだらしなく体を預けた。きぃという嫌な音を肉体で感じつつ、両手で顔を覆う。
つくづく、世界の在り方というものに嫌気がさす。奈緒によって弾みかけていた気持ちが、今ではかつてと同様、どんよりとした泥沼の中に沈み込んでいる。
世の中が求めているのは“真実”などではない。
世間は“正しさ”などどうでも良いし、“嘘”であろうとも、興味をひくものだけが“正義”になりえる。
そんな虚しく、寂しい持論に溺れ、一樹は重々しいため息をついて見せた。
目を閉じ、両手で徹底的に光を遮り、暗闇に沈む。
そんな一樹を、すぐ隣に座る彼女の言葉が、光の元へと引きずり出した。
「そうだね。きっと世間からすれば、強いのはあの黒住って人の方なんだろうね」
どこか奈緒だけが、一樹にとって救いだった。その奈緒ですら、世間の不平等な“力関係”を受け入れ、憂いの言葉を吐きだしてしまう。
しかし、彼女は“しかたない”なんていう、都合の良い決着に逃げるつもりはないようだ。
「だったらさ――勝てばいいんだよ」
「――え?」
思わず目を見開き、前を向き直す一樹。
奈緒は目の前に座り、椅子ごとこちらを向いている。その両手にはしっかりと、一樹が書き上げた無名作品の原稿が握られていた。
「勝っちゃえばいいんだよ。堂々と、真正面から。あの黒住って女優に」
「勝つって……で、でもそんな……勝てるわけない、だって――!」
「あの人は文章なんて書けないんでしょう? なら、正々堂々――“これ”で証明すればいい。どっちが“本物”なのか、を」
奈緒は強い眼差しを向けたまま、ずいと原稿の束を突き付けてくる。その真剣な顔に、一樹は思わずたじろいでしまう。
「お、おいおいおい……本気――で言ってる、それ?」
「もちろん。マジもマジ、大マジだよ」
独特の言葉選びに肩の力が抜けるが、一樹はそれでも視線を反らすことができない。
今までにない力強さを秘めたまま、奈緒は続けた。
「このままじゃあ一樹君、ずっとあの黒住って人の“ゴーストライター”でしかないんだよ。だったら無理矢理でも、その世界を変えないと。一樹君には一樹君の“持ち味”がしっかりとあるんだよ?」
「そう……かな……でもそんなこと――」
「もちろん、簡単じゃあないよ。きっとすごく辛いし、うまくいかないかもしれない」
随分とはっきりと言ってのける奈緒に、気圧されてしまう一樹。だが、そのあまりにも前向きな姿に、気が付いた時には涙が止まってしまっていた。
椅子に浅く座る一樹目掛けて、奈緒はありったけの“本音”を叩きつけ、奮い立たせる。
「せっかく書きたいものがあって、作りたいものがあるのに、それを誰かのために捨てちゃうなんて間違ってるよ。一樹君は一樹君のやりたいこと――自分の“わがまま”をもっと、信じてあげなよ」
真っすぐ、容赦なく、躊躇せず――奈緒の言葉の一つ一つが、一樹の真正面から突き刺さる。そのたびに痛いほどに心臓が跳ね、体全身が震えた。
肉体の芯が次第に熱くなってくる。だがそれは、先程までの言い知れない悔しさや惨めさがゆえではない。
目の前の彼女の放つ強い気持ちに、一樹の中で眠っていた“なにか”が目覚め始めようとしていた。
静かな図書館の中で、一樹と奈緒は椅子に座ったまま互いを見つめ合う。
新たにつづられた“物語”の原稿を握る彼女の指は、いつしか原稿に食い込み、痛いほどに歪めていた。
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