ゴースト×ライター

創也慎介

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第5話 覗く者

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 関東地方の田舎町で育った一樹は大学を卒業後、特に高い志もなく「働く以上は一人暮らしするもの」と、勝手な思い込みを頼りに親元を離れた。
 こだわりもないため、都心部と実家のどちらにでもアクセスしやすい中間点の安アパートを借り、そこを拠点としてアルバイトや出版社の打ち合わせに繰り出している。

 両親からすれば真っ当な企業に就職することを願ったのだろうが、一樹はどうもそういう生き方に馴染むことができなかった。一樹自身もそれは理解していただけに、もう随分と連絡も取れずにいる。

 ましてや“ゴーストライター”をしているということは、両親にすら漏らすことができない機密事項だ。
 そんな背景もあり、一樹は表面上は「うまくやっている」とだけ取り繕い、いつも両親を煙に巻いていた。

 根城のアパートから出版社までは、バスで片道30分はかかる。今日も一樹は昼過ぎのバスに乗り込み、後方の座席で浮かない顔をしていた。
 一樹の心境を表すかのように、窓の外には曇り空が広がっている。

 リュックを両腕で抱えたまま、流れていく景色を眺め、考えていた。
 騒がしい出版社の嫌な空気も、編集者・田中のあの取り繕った笑顔も、もちろんうんざりだ。
 だがそれ以上に、社屋にいた“あれ”のことを思い出し、嫌気がさす。

 出版社のオフィスを彷徨さまよう、無数の目を持つ“幽霊”。
 実害こそなかったが、あの空間にまだ漂っているとしたら、再び相対する可能性は十分あり得る。

 あのおぞましい姿は、忘れようと思ってもなかなか消え去ってはくれない。見た目以上に、対峙した際のあの薄ら寒い感覚を細胞が覚えてしまっている。

 ――なぜ“幽霊”は、この世に留まっているのか。

 かつて図書館で見た“幽霊”と、それについて奈緒と交わした会話の内容を思い返してみる。
 何をしたいのかも、何を考えているのかも分からない。
 姿形も、大きさも、場所も、それぞれ異なる。

 だがそれでも、間違いなく“幽霊”は、この世に存在しているのだ。

 奈緒は自身の小説を“経験”を元に書いた、と勘違いしていた。
 一樹もホラーは好きだし、血なまぐさい戦いが登場する物語も好物だ。

 だがそれは、あくまで“作り物”だからである。
 本当に怪物に出会いたいとは思わないし、それらと対峙しようなど思うわけもない。
 文字の上やスクリーン上に表現されたそれは、あくまで創造物でしかなく、本物が持つおぞましさ、仄暗さなどまるで持ってはいないのだ。

 バスに揺られながら、一樹は社内を一瞥いちべつする。
 都心部に向かう線ということもあり、バスの中はほぼ満員だ。通路にもちらほら人が立っており、吊り革を頼りに揺れに耐えている。

 禿げかかった中年のサラリーマン、母親と並んで座る少女、ゲーム機に夢中の青年、杖を突いて眠りこける老婆。
 性別も、年齢も、立場も違う彼らは、はたして“幽霊”が視えるのだろうか。
 そんなことに思いを馳せながら、すぐさま心の中で「無理だろうな」と結論を出してしまう。

 ついこの前――奈緒と出会うまで、“幽霊”について共有できる人間など、一人足りと見たことはない。
 それほどまでに、この力を持つ人間が稀有けうであるという、妙な実感があった。
 
 もちろん、視えない方が幸せだと思う。
 たとえすぐ隣にいようとも、感じ取ることさえできなければ、なにかが起こることなどないのだ。

 不安も、恐怖も――あの“冷たさ”が肌に伝わらないのならば、それにこしたことなどないのである。

 前方で吊り革に掴まっているサラリーマンが、大きな揺れのせいで体勢を崩し、座席の角で背を打ってしまうのが見えた。
 声を上げた彼の周囲の人々が「大丈夫ですか」と声をかけ、サラリーマンは強がりながらもなんとか体勢を立て直す。

 その姿に思わず苦笑してしまう一樹。
 揺れる景色のその中心に、まったく意図せず“それ”が映りこむ。

 困ったように笑うサラリーマンと、心配する家族連れ。
 無関心に本を読む女性と、なおもゲームを続ける青年。
 それらのすぐ隣に――“それ”が立っている。

 ぞぞぞ、と背筋が震えた。
 まるで意識しないうちに捉えてしまった“それ”の姿に、全身が一気に覚醒する。

 乗客でごった返すバスの前方――運転手のすぐ脇に、男性が立っている。
 一瞬でそれが“生者”でないことは、すぐに分かった。
 恰好こそポロシャツにチノパン、角刈りという普通の格好をしているが、血の気のない肌と大きく見開いた異様な眼差しが、あまりにも異質である。

 なによりも、“それ”の正体を決定づける証拠があった。
 サラリーマンのすぐ背後で宙を凝視するその白い肌の男に、周囲の人間達は全く気付いていない。

 一樹は瞬間、その“幽霊”の姿に悟ってしまう。

 ――しまった。

 図書館で見たあの女性と同様、一樹はこの男性の“霊”についても見覚えがあった。
 かつて都心部に行くため、初めてこのバスを利用した一樹の前に、彼は姿を現したのである。

 乗り込むときに気付くべきだったのだ。混みあっていたせいで、その存在をまんまと見逃してしまっていた。
 彼は必ず、ルートを巡回するバス――ナンバーが“3”から始まるこの車両に現れる。

 一樹は深呼吸しながら、できるだけ彼を中心に据えないよう視線を反らす。
 視界の端で青白い顔をした男は、ゆらりと動きだした。

 彼が何をするのか、一樹はすでに知っている。だからこそ、気付かれないように平静を取り繕いながら、慎重に観察した。

 男はバスの前方からゆらり、ゆらりと後方に向かって歩いてくる。
 その途中、バスの左右に座っている乗客の顔を、何故か身を乗り出して覗き込み、しばらく見つめていた。
 
 異様な光景である。
 男が鼻の先まで顔を近付けているにもかかわらず、乗客達はいたって普通に過ごしていた。
 ある者はスマートフォンをいじり、ある者は会話を続けている。
 間違いなく、人々には男の姿は見えていない。

 一人、また一人と、男はなぜか乗客の顔を至近距離で“覗き”ながら、こちらに近付いてくる。
 何かを探しているのか、あるいは別の意図があるのか。
 その真意は分からずとも、一樹はリュックを手繰り寄せ、シートにもたれかかって目を閉じた。

 このままでは彼は、確実にここまでくる。
 そして同様に、自分の顔を覗き込むのだろう。
 もしそこで自分が動揺したならば、どうなってしまうのか――想像したところで、なにがどうなるわけでもない。一樹はただ目を閉じ、寝たふりをすることでその時を待った。

 バスの振動と音、人々の会話が聞こえる。
 その暗闇の中に、音こそないが確実に“それ”がこちらに近付いてくるのが分かった。
 一人、また一人――前方からこちらに近寄ってくる“冷たさ”で、彼との距離が分かる。

 ついに彼は一樹の前の席まで辿り着き、足を止めた。
 
 ――頼む、戻ってくれ。

 一樹のその必死の祈りも叶わず、彼は移動を開始してしまう。
 
 窓から微かに差し込んでいた陽光を、まぶたの裏でもしっかりと感じ取れた。
 だがそれが不意に遮られ、真の暗闇がやってくる。

 すぐ目の前――鼻の先に、巨大な氷塊がある。
 一樹は呼吸を止め、全身の肉という肉を強張らせていた。

 目の前の男の“声”が聞こえた。
 かすれたような、潰れたような。
 腐ったガラスを擦り合わせるような、不快な音波が鼓膜を揺らす。

 一樹は柔らかく閉じた唇の奥で、あらん限りの力で歯を食いしばって耐える。
 寝たふりを続ける彼の眼前で、“幽霊”は呟き続けていた。

 ――どこですかどこですかどこですかどこですかどこですかどこですかどこですかどこですか。

 数秒なのか、数分なのか、はたまた数時間なのか。
 あらゆる感覚が狂い、壊れ、吹き飛んでいく。
 ぎしぎしと自身の骨が軋む音が聞こえたが、それでもなお歯を食いしばり、ただただ、その悪夢のような時が過ぎ去るのを待った。

 しばらくして眼前の冷たさが離れ、太陽の暖かさが戻ってくる。
 じわり、じわりと、徐々に彼の気配は離れ、遠退いていった。

 一樹がうっすらと目を開けれたのは、次の停留所にバスが停車した時であった。
 薄目のまま様子を伺うと、“幽霊”は再びバスの前方に戻り、今度は運転手の方を見ている。

 次々に乗客が降りていくが、男の姿には気付かない。それどころか、堂々と男の立っている位置を通過するも、男はかすみのように透けてしまい、触れることすらできなかった。

 一樹は視線を手元に落とし、ようやく握りしめていた拳をほどく。一気に血の気が戻ってきた掌は真っ赤に染まり、腕全体がぷるぷると震えていた。

 大きく呼吸をすると、肺がやけに痛んだ。ぐったりとしたままシートに身を預け、汗だくになりながらも遠くの男の姿を眺めた。

 重ね重ね、“それ”が何のためにいるのかは分からない。
 どうしてこのバスに乗っているのか、このバスの中で誰を探しているのか。
 そしてなぜ、あんな問いかけをしたのか。

 分かるはずがないし、分かりたくもなかった。
 どくどくと加速する鼓動を抑えるように胸に手を当て、また一つ、大きな息を吐き出す。

 正体も、経緯も、理由も、思惑も――何もかもが謎な“幽霊”という存在に、それでも一樹がたった一つだけ、理解していることがあった。

 なにがあろうと、どこで出会おうとも――それはきっと、恐ろしいものなんだ。

 少し乗客の減ったバスは、また次の停留所を目指して走り出す。
 残った人々の隙間で、なおも彼はたたずみ、周囲の人々に問いかけ続けていた。

 リュックを抱きかかえ、一樹は視線を窓の外に向ける。
 敷き詰められた曇り空からは、耐えきれなくなった雨水がぽつぽつと、大地に降り注ぎ始めていた。
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