ゴースト×ライター

創也慎介

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第1話 日陰を歩く男

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 閉め切った部屋の中にも、お構いなしに電話のコール音や社員達の声が聞こえてくる。前々から分かってはいたものの、外装がしっかりしているように見えて、建物の壁自体は随分と薄いらしい。

 電話越しに怒鳴りつける野太い男の声がどうにも不快だった。気を紛らわせようと彼――兵藤一樹ひょうどうかずきは、机の上の湯飲みに手を伸ばした。
 くいと傾けてみたものの、かすかに残った緑茶が唇をほんのりと温め、まるで意味をなさない。

 居心地の悪さは、相変わらずだな――ため息をついたのと応接室のドアが勢いよく開くのは、ほぼ同時であった。

 原稿の束を脇に携えた髭面の中年男性が「やあ、すまんすまん」と豪快に笑う。一樹はただ口をわずかに開き、会釈をして応対した。

「いやあ、待たせちゃってごめんごめん。担当のやつがとちっちゃってさぁ。ったく、参っちゃうよ。こういうことがないように、きつく言っておくからさあ」
「あ、いえ……別に」

 多大な熱量で一方的にまくしたてる男性に対し、一樹はどうにも波長を合わせることができない。もっとも、男性も一樹の態度にさほど関心もないようで、テーブルを挟んだ対面にどかりと無遠慮に座った。

 男は抱えていたA4用紙の束を、ばさりと机の上に置いた。
 自然と一樹の視線が落ちる中、男性は野太い声で陽気に語り始める。

「原稿についてだけど――いくつか構成は変えた方が良いものの、おおむねオッケーだと思うよ! いやあ、毎回、直しが少なくて助かるよ」
「はぁ……どうも」
「おかげさまで人気も好調なんだ。来週末には特番も組まれるから、是非観てみてよ」

 がっはっは、と笑う男に対し、なおも一樹はかすれそうな声で「ありがとうございます」と述べるのがやっとだった。
 喜ぶべきことだとは分かっているし、素直に褒められたと思えば良いのだろう。
 だがそれでも、取り繕った笑顔一つ浮かべることができない自分の不器用さが、なんだか嫌になる。

 一樹の複雑な心境などまるで配慮せず、対面の男――雑誌編集部の部長・田中は、なおも笑う。

「いやぁ、それでどうだろう? 今度、合併号ってことで2話連続掲載を計画してるんだけど、執筆間に合いそうかな」
「えっ……連続、ですか……」

 目を丸くし、たじろいでしまう一樹。先程までの過剰な持ち上げの意味する所を理解し、嫌気がさしてしまう。
 思わず視線を反らすと、机の端に置かれた週刊誌の表紙が目に付いた。

 ここの編集部――「宿木やどりぎ出版」から発行されている月刊雑誌「Shall we」の4月号である。その表紙で笑う妙齢の女性を、一樹は反射的に睨んでしまった。

 長く、艶やかなストレートの黒髪、染み一つない美しい肌。皺こそ刻まれてはいるものの、凛とした眼差しと張りのある肌の輝きが、まるで老いを感じさせない。
 女優・黒住京香くろずみきょうかの眩しい笑顔は、一樹の心を躍らすどころか、より一層暗くよどませてしまう。

 視線を素直に戻し、馬鹿笑いを続ける編集者に答える。

「まぁ、なんとか。時間だけは、ありますから」
「おお、そうかいそうかい。良かった。じゃあその予定で、企画を進めさせてもらうよ!」

 意を通せたことで満面の笑みを浮かべる編集者と、それを見て苦笑いを返すのがやっとの一樹。穏やかに見えて、両者を取り巻く空気はなんともぎこちない。
 一安心したのか、田中はポケットから取り出したスマートフォンをそそくさと操作する。おおかた、アプリにスケジュールでも入力しているのだろう。
 視線を画面からそらさず、意気揚々と彼は続けた。

「いやぁ。しかし、うちとしても兵藤君の活躍には助かってるよ。当初、上がこの企画を打ち出した時は、さすがに『おいおい』って思ったんだよね。いくら有名女優だっていっても、彼女の“代筆”を立てるだなんてさ」

 田中の言葉で反射的に、また雑誌の表紙に目をやってしまう。女優の笑顔を横目で睨みつけながら、一樹は膝の上で手を組み、思考を巡らせた。

 ――もうそろそろ、三ヶ月だな。

 一樹とて、初めてこの提案を持ち掛けられたとき、「冗談だろう」と驚いてしまったのを今でも覚えている。それほどまでに当時、田中から持ち掛けられた仕事内容は荒唐無稽だったのだ。

 売り上げが低迷しつつあった月刊雑誌「Shall we」を盛り上げるため、編集部はあまりにも大胆な“策”に打って出た。
 雑誌の専属モデルとして度々表紙を飾っていた大御所女優・黒住に“恋愛小説”を書かせ、新たな軸を持って読者の新規開拓を狙ったのである。
 元々、黒住自身にも作家としての活動意欲があったようで、渡りに船――とばかりに、それを企画にまで仕立て上げてしまったのだ。

 誰しもが知る大女優となれば世間は当然騒ぎ立て、至る箇所で話題に上げる。形としては大女優の新たな挑戦劇だが、裏では月刊雑誌の発行部数の底上げというもう一つの目的が据えられていたのである。

 この目論見は実にうまくいった。
 黒住の女優としての知名度、世間一般への好感度の高さが功を奏し、彼女が手掛けた恋愛小説――「ラブ&ゴースト」と名付けられたそれは、瞬く間に注目を集めることとなる。
 
 だが、この計画にはもう一つ、大きな“裏”があった。
 その影の部分を知っているのは、編集部の人間と女優・黒住。そして、今ここにいる一樹しかいない。

 大きく熱いため息をつき、一樹は田中に問いかけてみる。それはどこか、挑戦的な意味合いも込められていた。

「いい加減、ばれるんじゃないですかね、こんなの。勘の良い読者なら、妙に思うかも」
「ああ、大丈夫大丈夫。いちいち、そんなことを邪推しながら読む奴なんていないよ」
「それなら、いいんですけど……」

 ちくりと言ってやるつもりが、まるで軽くあしらわれてしまい、一樹は椅子に腰かけなおす。
 もはや編集者達と一樹の間には、縮まることのない大きな溝が存在している。

 大女優が手掛ける、どこか不思議なテイストの恋愛小説。
 それを書いているのは――黒住ではない。
 ここにいる、一樹その人だ。

「まあ、珍しい連載形式ではあるけど、ままあることだからねえ。俳優や女優、有名人が皆文才があるわけでもないから、実は後ろに文章の専門家がついている――ってのは、なにも不思議なことじゃあないよ。もっとも、兵藤君が選ばれたってのも、凄い偶然ではあるんだけどねえ」

 がっはっは、と笑うその顔がなんとも憎たらしい。
 かすかに眉間にしわを刻みながら、一樹は膝の上できゅっと両手に力を込めた。

 偶然――すべては、ほんの偶然だった。

 おそらく編集部としては、誰でも良かったのだろう。最低限の文章が書け、暇を持て余し、そこそこの稿料で納得してくれる人物。そんな“適材適所”な人間を、各方面で探していただけにすぎない。

 その白羽の矢が立ったのが、この編集部と関わりのある一樹だった。ただ、それだけのことだったのである。

 深く重いため息をつき、一樹は視線を持ち上げる。嫌気は差すが、それでも話を終えるつもりはない。
 そんな“代筆”の是非よりも、遥かに重要なことを確認したかった。

「あの、それと、もう一つのほうは――」

 一樹の言葉を受け、田中の笑いがようやく止まる。だがいまいちぴんときていないのか、明確に視線が泳いでいた。

「もう一つ……ああ、ああ! こっちか」

 脇に置いていたもう一つの原稿の束を手に取り、乱雑に机の中央に置く田中。その雑な扱いに、一樹はまた眉間にしわを寄せてしまう。

 一樹が代筆した原稿の隣にもう一つ並ぶ、別の“物語”。
 自然と一樹は編集者・田中の顔色を、先程よりも注意深く伺ってしまう。心のどこかで無意識に期待してしまうが、すぐにそれが裏切られたと理解してしまった。

「えっと、今回も“怪奇もの”だね。最近、凝ってるみたいだけど、やっぱり『ラブ&ゴースト』を書いてる影響――」
「いえ。そっちとは、全然。単純にホラーが好きなんです」
「あ……ああ、そうなんだ。なるほどねぇ」

 困ったように笑う田中に、あえて視線を反らさず対峙し続けた。

 ――あんなものと、一緒にしてほしくない。

 圧をかけるつもりはなかったのだが、自然と顔から気迫が伝わったらしい。田中は原稿を手に、改めて唸って見せる。

「うぅん、まぁ、悪くはないと僕は思うんだけどねぇ。兵藤君の書くストーリーはアクション性もあるから、細かい起承転結もあるし、読む側としても飽きない構成にはなってるんだ。ただ、まぁ、なんと言うか――もっとこう、分かりやすい“ウリ”がればなぁ、って」
「ウリ……ですか?」
「そうそう。それこそ、怪奇小説なんてのは古今東西、色々あるからねぇ。その中に切り込むには、ちょっとばかし個性的な“色”が足りない気がするんだよ」

 率直に叩きつけられる意見に、机の下の拳が自然と握りしめられていく。
 先程の“代筆作品”に比べて、なんとも塩気の多い対応だ。あくまで田中からすれば、もう一つの原稿など“もののついで”、というくらいなのだろう。

 それほどまでにその“作品”は――一樹が書き上げた“オリジナルの小説”は、この編集部には刺さらないもの、ということだ。

 歯噛みする一樹に構わず、田中は無理矢理、話題を元に戻した。

「まぁ、こっちも連載の“ネタ”は随時募集してる状態だから、諦めないでまた挑戦してほしいな。ああ、もちろん『ラブ&ゴースト』の方もよろしくね」
「はい……ありがとう、ございます」

 一応、読んでもらったことに頭を下げるも、なんだか腹の中に気持ちの悪い感覚が居座っている。
 終始、ハイテンションな田中と、淡々と会話を処理する一樹。
 二人の“打ち合わせ”はものの十分ほどで完結し、二人は荷物を手に会議室を出た。

 デスクが並ぶ一室には、相変わらず喧しい音が飛び交っている。
 本来、広いはずの空間にこれでもかと机や資料棚を押し詰めた結果、なんとも息苦しく、嫌でも他人の熱気を感じざるをえない。

 田中が契約用の書類を持ってき忘れたせいで、彼のデスクを経由してから退出することとなった。
 だが、デスクに辿り着いた田中を、不意に若手の編集者が呼び止める。

「あのぉ、田中さん。すみません、ちょっと良いですか」

 今まで一樹の前ではにこにこと笑顔を浮かべていた田中が、明らかに顔色を変える。

「なんだよ、おい。来客対応中なんだよ」
「あ、あの、そうなんですけど……ちょっと、先方がお怒りで――」

 身をすくませ、田中の射るような視線に耐える若手の男性。どうやらクレーマー対応に困惑しているようで、緊急を要するのだろう。
 怒気をあらわにしつつも、田中は編集部内を一瞥し、他の面々も手が離せないのを悟った。「ったく」と気だるそうに吐き捨て、すぐさま表情を作って一樹を見る。

「ごめんねぇ、兵藤君。ちょっとだけ、待っててもらえるかな?」

 ころころ変わる横顔が、どこか不気味だった。一樹は「はい」と短く答え、若手のデスクへと赴く田中を目で追う。
 壁際にもたれつつも、田中のデスクの上を眺める。決して整頓されているとは言えないその景色に、男の性格がよく表れていて、ため息しか漏れない。

 居心地の悪さを肌で感じつつ、おもむろに原稿の一つ――自身が書き上げた作品を手に取り、眺めた。
 何度も読み返し、何度も修正を繰り返した作品だ。内容もオチも知っているはずなのに、気が付けばその“改善点”を深掘りしようとしてしまう自分がいた。
 
 もっとインパクトが必要なのか。はたまた、文章の言い回しを丁寧にすべきなのか。壁の固い感触を背に受けつつも、意識は手元の文字の群れに捕らわれている。

 数枚めくり、また戻っては読み返し――次第に周囲の喧騒が遠退き、雑多な景色すら意識から弾きだされていく。

 研ぎ澄まされた意識のその端に、ふわり、と黒い束が揺れた。

 文字のそれとはまるで違う“黒”を感じ取り、意識が覚醒する。視線こそ原稿を捉えているが、全身が妙に強張った。

 ざわり、と肌が粟立つ。
 集中した意識はそのままに、ゆっくりと、慎重に視線を動かす。

 並べられた編集者達のデスクと、壁の間。狭い通路の上を、ゆらり、ゆらりと、黒い塊が歩いていく。
 その“黒”の正体に気付き、一樹は反射的に呼吸を止めてしまう。

 ざわりと揺れる、巨大な髪の毛の塊だった。ぼさぼさの長髪がゆらり、ゆらりと左右に揺れながら、通路を奥へと進んでいく。
 異質な存在だった。腰まで伸びた長い黒髪の端に、灰色の煤けた細い手足が見える。靴どころか靴下すら履いていない素足が、編集部のカーペットを踏みしめている。

 まるで重さを感じさせない歩みで、黒い後ろ姿は一樹から遠ざかっていく。
 編集部を行き交う人々は、その存在を気にも留めていない。後ろを通り過ぎられた男性も、“それ”を挟んで会話をしている二人も、明らかに異質な存在を認識できていないのだ。
 
 周囲の不可解な反応と、自身の肉体に伝わる違和感で一樹は悟る。
 だからこそ、原稿を握りしめる指に自然と力がこめられ、A4用紙の束をくしゃりと歪めていた。

 ――こんなところにも、いるのか。

 慎重にゆっくりと呼吸を続けながら、横目でそのぼさぼさの黒髪を見つめていた。

 いつから“それ”が見えるようになったかは、覚えていない。“それ”が見える原理も理由も知らなければ、存在そのものについても何一つ、理解などしていない。
 
 たった一つだけ、はっきりと言えるのは、“それ”がこの世の者ではない、ということだけだ。
 “幽霊”や“妖怪”――人は“それ”に様々な呼称をつけたがるが、依然として存在定理も、メカニズムも分からない。
 とにもかくにも一樹はそんな“別世界の何か”を、偶然にも見ることができる稀有な力に恵まれてしまったらしい。

 神様の仕業だというのならば、実に余計なおせっかいだと言わざるをえない。
 一樹はうんざりしつつも、目線だけを慎重に動かし、ぺたぺたと歩いていく“それ”の後ろ姿を追った。

 慌ててはいけない――こういう時、最もまずいのは、こちらが“見えている”と悟られることだ。
 悟られたならば最後、“それら”から目をつけられ、下手をすれば付きまとわれる可能性すらある。今日まで一樹は幾度となく“それ”を目にし、そしてあえて見えないふりをして対処をしてきた。

 なにが目的でどうしたいのか、さっぱり分からない。だが一樹らが住むこの世の至る所に“それ”は出現し、彷徨っている。

 落ち着いていれば、大丈夫だ。そう自分に何度も言い聞かせ、またちらりと、一樹は離れていく黒髪――ぼさぼさの後頭部を睨みつけていた。

 ふわりと、荒い黒髪が揺れる。
 その隙間から覗いた“それ”に、一樹は絶句してしまった。

 長髪の隙間に覗いたのは、大小さまざまな“点”だった。
 一樹は思わず目を凝らして追ってしまったが、すぐに自身の犯した過ちに気付いてしまう。

 人ならざる存在の、後頭部とうなじ。
 そこに並んでいたのは無数の――目玉だった。

 大きなものから小さなもの、様々な“目”がびっしりと並び、各々のリズムでぐりぐりと動いている。
 身体の方向とは無関係に、頭部に張り付けられた目玉の群れは、揺れる黒髪の隙間から何かをひたすら探していた。

 ひゅう、と一樹の呼吸が音を立てる。同時に、ゆらゆらと歩んでいた“それ”が動きを止めた。

 無数の目玉が一斉に、一樹を見る。
 瞬間、一樹の全身の感覚が凍てつく。

 原稿を手にしたままの一樹に、ようやく編集者の田中が書類を一枚持ってやってきた。

「ごめんごめん、兵藤君。これ、契約についての書類。できれば来週中には――」

 田中の言葉が、走り出すきっかけとなった。
 一樹は一気に振り向き、彼の手からそれを奪い取って返答すらせずに走り出す。突然の事態に田中が驚いていたが、一樹は構うことなく一目散に編集部を後にした。

 廊下を走り、すれ違う人を避け、階段を跳ぶように駆け下りた。
 後ろは決して振り返らない。もしすぐ後ろに“あれ”が付いてきていたら、自身の心臓がもってくれるか分からなかったからだ。
 
 なんでこんな“力”を与えられたのか。なぜ“あれ”がこの世にいるのか。
 分からない事ばかりだが、それでも一樹はただ息を荒げ、必死に建物の外を目指す。

 田中が声をかける直前、“あれ”が一樹を見て、確かに笑ったのが分かった。
 大きい目玉、小さい目玉。
 それらが一斉に歪み、一樹を捉えていた。

 原稿と書類を鞄の中に押し込みながら、もつれる足を必死に前に出す。
 チャックの開け放たれた鞄の中で、ぐしゃぐしゃになった「ラブ&ゴースト」の原稿と、自身がしたためた無名の作品が混ざりあう。
 
 大女優の名の裏で筆をとる“ゴーストライター”は、激痛に蝕まれる胸を押さえ、それでも必死に呼吸を繰り返し、自身が見てしまった“幽霊”から逃げるべく走り続けた。
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