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第五章「月の川」
(5)喪失のベネフィット
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水無瀬砂子とは高一の春に出会った。
その放課後、俺は、緊急で母親に連絡を取らなければならない状況にあった。通話は恐らく一度では済まず、少なくとも半日は連絡の取り合える状態にしておく必要があった。だが間が悪いことに俺は携帯のバッテリーを切らしていた。頼れる友人もおらず右往左往していたところに声をかけてくれたのが、教室の片隅で静かに本を開いていた女子だった。彼女は、自分の携帯を差し出してこう言った。
好きなように使って貰って構わない。気が向いたときに返してくれ、と。
「俺が中身を覗くとは考えないのか?」
問うと、その女子は些末なことだと皮肉っぽく笑った。
「どうせ姉と書店の番号ぐらいしか入っていない。ああ、美容院の連絡先もあったかな? いずれにせよ覗かれて困るものでもない」
それは携帯を受け取らせるための方便ではなく、俺の人間性を信頼できると見込んだからでもない。彼女はただ本当に覗かれても困らないから困らないと口にしているだけだった。変な奴だとは思ったが、俺は、その厚意に甘えることにした。
当然、借りた携帯は通話以外には使わず、翌々日には礼を言って返した。水無瀬は、中身は見たのかと問い質すようなことはしなかったし、俺も煩わしいやり取りは持ち出さなかった。お互いそんな淡白なところが気に入ったのかも知れない。俺たちは二人でよく話をするようになった。好きな作家のこと。哲学のこと。宇宙の始まりと終わりのこと。時空や精神、人間の存在意義について。特に小説を書いていると打ち明けられたときは大いに驚いた。同じクラスに俺のような変人がいるとは想像もしていなかったからだ。二週間で見切りを付けた文芸部には、そこまで本格的に活動しているやつはいなかった。俺と水無瀬は互いの作品を読み合い、批評を交わすようになった。そこに、くだらない見栄やおべっかはなかった。純粋に、感じ取ったものを語り合う夢のような時間。本当に楽しかった。
尤も俺と水無瀬ではレベルが違っていた。水無瀬が紡ぐ流麗な文体。そこに浮かぶ幻想的な色模様。孤独。悲哀。死と退廃。それでも未来を見据える一匙の意志。俺の凡庸な感性では到底辿り着けない次元に水無瀬はいた。プロの端くれとして十年書き続けてきた今でもその確信は揺るがない。それほどまでに水無瀬砂子の才能は、あのとき既に完成を見ていたのだ。
同じ文章を綴る者として嫉妬を覚えなかったと言えば嘘になる。けれど、そんな劣等感など水無瀬の描く世界を前にすれば塵芥に等しかった。俺は、水無瀬砂子という一人の作家にすっかり魅了されてしまっていたのだ。
将来、二人で作家になろう。
そう約束を交わしたわけではない。その点において、あの悪魔の指摘は全く正しい。それでも俺は、水無瀬はずっと文章を書いて生きていくものだと信じていたし、水無瀬もまた俺がそうやって生きていくものだと信じてくれていたはずだ。俺は、水無瀬が信じる俺を信じようと決めた。互いに別々の道を選択し、連絡を取り合うことがなくなっても、俺は文字を書き続けた。同期の連中が大学生活を謳歌するなか、部屋に篭って黙々と若さを捧げた。何度落選を繰り返しても、誰も何も読んでくれなくても、いつか胸を張って水無瀬と再会できる日が来ることを信じた。
やがて俺はプロの末席に名を連ねることができた。
じきに彼女の名も聞こえてくるだろうと期待した。
けれど、水無瀬砂子の名は、いつまで経っても耳に届いてくることはなかった。
「ちょっとあなた!? 聞いてます? 何なのさっきから。その態度……っ」
休憩が終わって間もなく、一人の客に絡まれた。スーツを着た中年女が、前よりも料理のボリュームが少なくなっているとクレームをつけてきたのだ。恐らく職場でもそれなりの立場にいる人間なのだろう。他者を叱ること、他者を威圧することが生活の一部になっているという態度だった。女の前には二人の部下らしき男がいたが「まあまあ」と半笑いで汗を拭くばかりで、制御する力量はなさそうだった。そんな彼らの様子を眺めていると、女は「こっちを見なさい」と益々不機嫌に声を荒げた。
俺の知る限りメニューの量が変わったという話は聞かない。だが変わっていないという話も聞かない。価格は据え置きで量を減らす。そんな詐欺のような値上げ措置が、気付かないうちに布かれていたのかも知れない。だとしたら女の怒りは正しいものだった。
失った分は何かが欲しい。代金に見合う利益が欲しい。何も得られないことが許せない。損をすることに耐えられない。実に正しい、健全な理屈だった。
ならば、俺はどうなのだ?
支払った分だけ……失った分だけ、何かを得ることができたのか?
自問自答は虚しかった。女の正当な金切り声が、俺の異常性を吊し上げていた。
彼は、何を求めて旅をするのか。
そのトラブルは、相手が土下座を求めてきたところで店長の謝罪が入って終わった。
その放課後、俺は、緊急で母親に連絡を取らなければならない状況にあった。通話は恐らく一度では済まず、少なくとも半日は連絡の取り合える状態にしておく必要があった。だが間が悪いことに俺は携帯のバッテリーを切らしていた。頼れる友人もおらず右往左往していたところに声をかけてくれたのが、教室の片隅で静かに本を開いていた女子だった。彼女は、自分の携帯を差し出してこう言った。
好きなように使って貰って構わない。気が向いたときに返してくれ、と。
「俺が中身を覗くとは考えないのか?」
問うと、その女子は些末なことだと皮肉っぽく笑った。
「どうせ姉と書店の番号ぐらいしか入っていない。ああ、美容院の連絡先もあったかな? いずれにせよ覗かれて困るものでもない」
それは携帯を受け取らせるための方便ではなく、俺の人間性を信頼できると見込んだからでもない。彼女はただ本当に覗かれても困らないから困らないと口にしているだけだった。変な奴だとは思ったが、俺は、その厚意に甘えることにした。
当然、借りた携帯は通話以外には使わず、翌々日には礼を言って返した。水無瀬は、中身は見たのかと問い質すようなことはしなかったし、俺も煩わしいやり取りは持ち出さなかった。お互いそんな淡白なところが気に入ったのかも知れない。俺たちは二人でよく話をするようになった。好きな作家のこと。哲学のこと。宇宙の始まりと終わりのこと。時空や精神、人間の存在意義について。特に小説を書いていると打ち明けられたときは大いに驚いた。同じクラスに俺のような変人がいるとは想像もしていなかったからだ。二週間で見切りを付けた文芸部には、そこまで本格的に活動しているやつはいなかった。俺と水無瀬は互いの作品を読み合い、批評を交わすようになった。そこに、くだらない見栄やおべっかはなかった。純粋に、感じ取ったものを語り合う夢のような時間。本当に楽しかった。
尤も俺と水無瀬ではレベルが違っていた。水無瀬が紡ぐ流麗な文体。そこに浮かぶ幻想的な色模様。孤独。悲哀。死と退廃。それでも未来を見据える一匙の意志。俺の凡庸な感性では到底辿り着けない次元に水無瀬はいた。プロの端くれとして十年書き続けてきた今でもその確信は揺るがない。それほどまでに水無瀬砂子の才能は、あのとき既に完成を見ていたのだ。
同じ文章を綴る者として嫉妬を覚えなかったと言えば嘘になる。けれど、そんな劣等感など水無瀬の描く世界を前にすれば塵芥に等しかった。俺は、水無瀬砂子という一人の作家にすっかり魅了されてしまっていたのだ。
将来、二人で作家になろう。
そう約束を交わしたわけではない。その点において、あの悪魔の指摘は全く正しい。それでも俺は、水無瀬はずっと文章を書いて生きていくものだと信じていたし、水無瀬もまた俺がそうやって生きていくものだと信じてくれていたはずだ。俺は、水無瀬が信じる俺を信じようと決めた。互いに別々の道を選択し、連絡を取り合うことがなくなっても、俺は文字を書き続けた。同期の連中が大学生活を謳歌するなか、部屋に篭って黙々と若さを捧げた。何度落選を繰り返しても、誰も何も読んでくれなくても、いつか胸を張って水無瀬と再会できる日が来ることを信じた。
やがて俺はプロの末席に名を連ねることができた。
じきに彼女の名も聞こえてくるだろうと期待した。
けれど、水無瀬砂子の名は、いつまで経っても耳に届いてくることはなかった。
「ちょっとあなた!? 聞いてます? 何なのさっきから。その態度……っ」
休憩が終わって間もなく、一人の客に絡まれた。スーツを着た中年女が、前よりも料理のボリュームが少なくなっているとクレームをつけてきたのだ。恐らく職場でもそれなりの立場にいる人間なのだろう。他者を叱ること、他者を威圧することが生活の一部になっているという態度だった。女の前には二人の部下らしき男がいたが「まあまあ」と半笑いで汗を拭くばかりで、制御する力量はなさそうだった。そんな彼らの様子を眺めていると、女は「こっちを見なさい」と益々不機嫌に声を荒げた。
俺の知る限りメニューの量が変わったという話は聞かない。だが変わっていないという話も聞かない。価格は据え置きで量を減らす。そんな詐欺のような値上げ措置が、気付かないうちに布かれていたのかも知れない。だとしたら女の怒りは正しいものだった。
失った分は何かが欲しい。代金に見合う利益が欲しい。何も得られないことが許せない。損をすることに耐えられない。実に正しい、健全な理屈だった。
ならば、俺はどうなのだ?
支払った分だけ……失った分だけ、何かを得ることができたのか?
自問自答は虚しかった。女の正当な金切り声が、俺の異常性を吊し上げていた。
彼は、何を求めて旅をするのか。
そのトラブルは、相手が土下座を求めてきたところで店長の謝罪が入って終わった。
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