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第五章「月の川」
(3)答えのない問いの答え
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作家としてのデビューが決まったのは大学卒業の直前だった。
何かの賞を受賞したとかであれば、その後の仕事も今よりは順調だったろう。実態は凡人の俺に相応しい、落選からの拾い上げだった。もっとも高校の頃から応募と落選を繰り返していた俺にとって、それは垂らされた蜘蛛の糸だった。改稿作業があるため即出版とはいかなかったが、地獄の出口がそこにあると思えば地道な作業も苦ではなかった。
店頭の新刊コーナーで、自分の本が平積みされているのを前にしたときは糞を漏らしそうなほど興奮した。知る限りの本屋を巡っては、同じ光景があることにほくそ笑み、拳を握った。
俺は、作家として食べていける。
デビュー当時の俺にとって、それは約束された未来だった。
しかし、それが無根拠な夢物語だと気付くのに一月もかからなかった。初動の数字が良くなかったのだ。重版はかからず、書影は早々に店頭から消えた。
名もない新人の処女作など誰も手に取って読んでくれない。
そんな有り触れた現実から俺は姑息に目を逸らしていた。現実は売上という淡白な二文字によって突きつけられた。デビューなど、ただの入口に過ぎなかったのだ。
幸か不幸か続投の機会は与えて貰えた。購入者の評価、そして当時の編集者が俺に好意的だったからだ。俺は、期待に応えんと二作目を書いた。しかし結果は同じだった。次こそはという想いで書いた三作目も似たようなものだった。次も、その次も、その次の次も。
俺は、大学を卒業してからも定職に就いていなかった。そのうえ数か月を費やして書き上げたものが雀の涙にしかならない。生活は厳しかった。水しか飲めない日が続くこともあった。しかし何より苦しかったのはそれではない。そんな、腹の具合の問題ではない。
腕を組み、出窓越しの夜空を見上げた。
部屋は暗かった。電気を付けても微妙に光量が不足している。そう不満を抱き始めてからもう何年もたっていることに気付く。何年もこの安アパートで腐っている。書いては消し、書いては消しの繰り返し。執筆は孤独な作業だ。孤独にならざるを得ない。そして執筆以外の生活でも俺は孤独だった。学生時代の僅かな友人は、皆それぞれの生活を手に入れてしまった。俺だけが独り、誰に頼まれるでもなく、答えのない問いの答えを探し続けている。
彼は、何を求めて旅をするのか。
「約束なんて何もしなかったでしょう?」
思考から引き摺り出された。身を強張らせ振り返る。部屋の入口に影が佇んでいた。黒い、女の影だ。女は見透かしたように唇を裂いた。
「貴方は誰とも約束を交わさなかった。違うかしら?」
「……あんたか」
唾を呑み、呼吸を整える。同時に毒を吸い込んだような不快を覚えた。
何度見ても気味が悪かった。この世の者とは思えない。心臓を鷲掴みにされるほど美しいのに、どうしてだか蜘蛛を連想させる。獲物を貪らんと蠢く蜘蛛だ。そんなおぞましさが一層女の美しさを際立たせ、頭が狂いそうになる。
女はすずりを名乗った。願いを叶える悪魔だという。
畳に手を突き、膝を立てた。
「あんたに願うことはないと言っただろう。頼むから邪魔をしないでくれ」
「邪魔だなんて」
女は畳を一歩踏みしめた。床はみしりとも音を立てない。本当に存在しているのか疑わしくなってくる。俺の、病んだ心が生み出した妄想ではないかと。
その疑念を嘲笑い、女はこちらに近付いてくる。立ち上がり壁際に退いた。女は我が物顔で窓を開け放した。肌寒い空気が流れ込み、心細さを誘った。その隙間へ爪を刺し込むように、紅い瞳が俺を射抜いた。
「むしろ手助けと思って欲しい。こう見えてとても献身的なの」
「手助け?」
口許が歪んだ。
「俺の仕事を邪魔することが?」
「まさしく」
女から距離を取った。自然に立ち位置が逆転していた。女は出窓に腰を掛ける。その足元には座机とノートパソコン。俺は、身構えて立つことしかできない。風が吹き、女の黒髪が宙に広がった。まるで蜘蛛の巣だった。女は耳にかかるそれを優雅に撫でた。
「まさしく貴方が言った通りよ。貴方には願いがない。望むものなど何もない。それなのに勝手に独りで苦しんでいる。誰に頼まれたわけでもないのに」
女は、厭らしい貌をした。
「執筆は孤独な作業ね? 書いては消し、書いては消しの繰り返し。そうして書き上げたものが……正しいと信じて積み上げてきたものが誰の目にも止まらなかったとき、自分の全てを否定されたような苦痛を感じるでしょう? 魂を凌辱されたような虚しさを味わうでしょう? それなのに貴方には、その汚辱に相応しいだけの望みがない。引き換えにするだけの願いがない。だとしたら何のためにそんな馬鹿馬鹿しい真似を続けなければならないのかしら?」
俺は。
浅く息を継いだ。
「俺は、彼女と……」
「彼女? 水無瀬砂子のこと?」
悪魔が、軽々にその名を口にした。取るに足らないと言わんばかりに。
なぜ彼女のことを知っているのか。驚きと共に焦りを覚えた。大切なものを取り上げられてしまったかのような焦りだ。そして予感は正しかった。女は、絡め取ったそれを大いに嘲った。
「滑稽ね。貴方は彼女とは何の約束も交わしていない。不甲斐ない貴方は、あのとき何も答えられなかった。でも心の中では誓ったのよね? 彼女と一緒に夢を追いかけようって。勝手に誓いを立て、勝手にそんな気になった。……自慰に等しい独りよがりよ。ねえ、それって気持ちいいの?」
耳が、羞恥に熱くなった。
女は、くつくつと引き攣ったような音を立てた。
「交わしてすらいない約束に縛られる必要がどこに在るというのか。その後ろめたさゆえに苦しみに耐えなければならないのだとしたら、そんなものはもはや契約ですらない。ただの呪いよ」
ぼたりと何かが垂れ落ちた気がした。女が握り潰した残骸のようなものが。
拾い集めて元の形に戻さなければ。
言い返そうと口を開いたが卑屈な笑みが浮かんだだけだった。唇を噛む俺を見て、女は嘲笑を大きく広げた。
ひとしきり嗤ったあと、瞳を歪めた。
「答えなど探すまでもない。貴方の憧れた水無瀬砂子は今どこで何をしているの?」
悪魔は、返答を待たず忽然と姿を消した。
俺の抵抗は行き場を失った。そもそも……返せるものは何もなかった。
窓は黒で塗り潰され、光ひとつ見出すことはできなかった。
何かの賞を受賞したとかであれば、その後の仕事も今よりは順調だったろう。実態は凡人の俺に相応しい、落選からの拾い上げだった。もっとも高校の頃から応募と落選を繰り返していた俺にとって、それは垂らされた蜘蛛の糸だった。改稿作業があるため即出版とはいかなかったが、地獄の出口がそこにあると思えば地道な作業も苦ではなかった。
店頭の新刊コーナーで、自分の本が平積みされているのを前にしたときは糞を漏らしそうなほど興奮した。知る限りの本屋を巡っては、同じ光景があることにほくそ笑み、拳を握った。
俺は、作家として食べていける。
デビュー当時の俺にとって、それは約束された未来だった。
しかし、それが無根拠な夢物語だと気付くのに一月もかからなかった。初動の数字が良くなかったのだ。重版はかからず、書影は早々に店頭から消えた。
名もない新人の処女作など誰も手に取って読んでくれない。
そんな有り触れた現実から俺は姑息に目を逸らしていた。現実は売上という淡白な二文字によって突きつけられた。デビューなど、ただの入口に過ぎなかったのだ。
幸か不幸か続投の機会は与えて貰えた。購入者の評価、そして当時の編集者が俺に好意的だったからだ。俺は、期待に応えんと二作目を書いた。しかし結果は同じだった。次こそはという想いで書いた三作目も似たようなものだった。次も、その次も、その次の次も。
俺は、大学を卒業してからも定職に就いていなかった。そのうえ数か月を費やして書き上げたものが雀の涙にしかならない。生活は厳しかった。水しか飲めない日が続くこともあった。しかし何より苦しかったのはそれではない。そんな、腹の具合の問題ではない。
腕を組み、出窓越しの夜空を見上げた。
部屋は暗かった。電気を付けても微妙に光量が不足している。そう不満を抱き始めてからもう何年もたっていることに気付く。何年もこの安アパートで腐っている。書いては消し、書いては消しの繰り返し。執筆は孤独な作業だ。孤独にならざるを得ない。そして執筆以外の生活でも俺は孤独だった。学生時代の僅かな友人は、皆それぞれの生活を手に入れてしまった。俺だけが独り、誰に頼まれるでもなく、答えのない問いの答えを探し続けている。
彼は、何を求めて旅をするのか。
「約束なんて何もしなかったでしょう?」
思考から引き摺り出された。身を強張らせ振り返る。部屋の入口に影が佇んでいた。黒い、女の影だ。女は見透かしたように唇を裂いた。
「貴方は誰とも約束を交わさなかった。違うかしら?」
「……あんたか」
唾を呑み、呼吸を整える。同時に毒を吸い込んだような不快を覚えた。
何度見ても気味が悪かった。この世の者とは思えない。心臓を鷲掴みにされるほど美しいのに、どうしてだか蜘蛛を連想させる。獲物を貪らんと蠢く蜘蛛だ。そんなおぞましさが一層女の美しさを際立たせ、頭が狂いそうになる。
女はすずりを名乗った。願いを叶える悪魔だという。
畳に手を突き、膝を立てた。
「あんたに願うことはないと言っただろう。頼むから邪魔をしないでくれ」
「邪魔だなんて」
女は畳を一歩踏みしめた。床はみしりとも音を立てない。本当に存在しているのか疑わしくなってくる。俺の、病んだ心が生み出した妄想ではないかと。
その疑念を嘲笑い、女はこちらに近付いてくる。立ち上がり壁際に退いた。女は我が物顔で窓を開け放した。肌寒い空気が流れ込み、心細さを誘った。その隙間へ爪を刺し込むように、紅い瞳が俺を射抜いた。
「むしろ手助けと思って欲しい。こう見えてとても献身的なの」
「手助け?」
口許が歪んだ。
「俺の仕事を邪魔することが?」
「まさしく」
女から距離を取った。自然に立ち位置が逆転していた。女は出窓に腰を掛ける。その足元には座机とノートパソコン。俺は、身構えて立つことしかできない。風が吹き、女の黒髪が宙に広がった。まるで蜘蛛の巣だった。女は耳にかかるそれを優雅に撫でた。
「まさしく貴方が言った通りよ。貴方には願いがない。望むものなど何もない。それなのに勝手に独りで苦しんでいる。誰に頼まれたわけでもないのに」
女は、厭らしい貌をした。
「執筆は孤独な作業ね? 書いては消し、書いては消しの繰り返し。そうして書き上げたものが……正しいと信じて積み上げてきたものが誰の目にも止まらなかったとき、自分の全てを否定されたような苦痛を感じるでしょう? 魂を凌辱されたような虚しさを味わうでしょう? それなのに貴方には、その汚辱に相応しいだけの望みがない。引き換えにするだけの願いがない。だとしたら何のためにそんな馬鹿馬鹿しい真似を続けなければならないのかしら?」
俺は。
浅く息を継いだ。
「俺は、彼女と……」
「彼女? 水無瀬砂子のこと?」
悪魔が、軽々にその名を口にした。取るに足らないと言わんばかりに。
なぜ彼女のことを知っているのか。驚きと共に焦りを覚えた。大切なものを取り上げられてしまったかのような焦りだ。そして予感は正しかった。女は、絡め取ったそれを大いに嘲った。
「滑稽ね。貴方は彼女とは何の約束も交わしていない。不甲斐ない貴方は、あのとき何も答えられなかった。でも心の中では誓ったのよね? 彼女と一緒に夢を追いかけようって。勝手に誓いを立て、勝手にそんな気になった。……自慰に等しい独りよがりよ。ねえ、それって気持ちいいの?」
耳が、羞恥に熱くなった。
女は、くつくつと引き攣ったような音を立てた。
「交わしてすらいない約束に縛られる必要がどこに在るというのか。その後ろめたさゆえに苦しみに耐えなければならないのだとしたら、そんなものはもはや契約ですらない。ただの呪いよ」
ぼたりと何かが垂れ落ちた気がした。女が握り潰した残骸のようなものが。
拾い集めて元の形に戻さなければ。
言い返そうと口を開いたが卑屈な笑みが浮かんだだけだった。唇を噛む俺を見て、女は嘲笑を大きく広げた。
ひとしきり嗤ったあと、瞳を歪めた。
「答えなど探すまでもない。貴方の憧れた水無瀬砂子は今どこで何をしているの?」
悪魔は、返答を待たず忽然と姿を消した。
俺の抵抗は行き場を失った。そもそも……返せるものは何もなかった。
窓は黒で塗り潰され、光ひとつ見出すことはできなかった。
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