38 / 50
第四章「花のように」
(9)善きひとの花
しおりを挟む
契約を結ぼうとする前に深井の病室を覗いてみた。
深井の婆さんは個室でひとり寝息を立てていた。猿のように喚き散らし、誰彼構わず噛みついていた姿からは程遠い、静かな寝姿だった。
良い気なものだ。他人に散々迷惑をかけておいて自分はぐっすり眠りこけている。こんな醜い老人がいなくなったところで誰も哀しみはすまい。むしろ消えかけの命ひとつで人ひとりが助かるのなら、それが経済的というものではないか?
……そう冷徹に断じられたらどれ程楽だったろう。いざ老人を前にすると、そんな威勢はみるみるうちに萎んでいった。枯れて荒れ放題の頭髪。骨に皮が張り付いているだけの造作。朽ちて千切れそうな喉元からはひゅうひゅうと息が漏れている。いずれも老人の命が失われつつあることを証明していた。哀れだった。これが人間の末路かと思うとやるせなかった。
害虫のような存在だと思っていた。死んだところで喜ばれるだけの人間だと。その考えが拭え切れたわけではない。けれど同情と羞恥心を抑えることは難しかった。
俺は、途轍もなく身勝手なことをしようとしている。
それでも覚悟を決めるしかなかった。悪魔と契約を交わすというのは、そういうことだ。
母の病室へ向かった。扉を開けると片隅で悪魔が腕を抱えていた。俺を見るなり蛭のような唇に喜色を浮かべた。
「心が決まったのね」
黒い装丁の本を差し出してくる。聞けば表紙に血を染み込ませれば契約が交わされるのだという。
「婆さんのほうはどうするんだ。俺は何をすればいい」
「御心配なく。こちらで勝手にやらせて貰うわ」
「そうか。助かる」
心臓をえぐり出して持って来いと言われたら、流石に時間がかかっていたかも知れない。
本を受け取り母の前に立った。母の意識はもう二日も戻っていない。先生の診断ではあと一週間と保たないらしい。深井の婆さんと同じだ。婆さんと同じ、間もなく死んでいく人間の様相だ。だからこそ俺は、母を同じようにしたくない。
たとえこれが間違っていたとしても。
カッターの刃を伸ばし、本を掴む親指の背に当てた。あとは皮膚を裂くだけだ。
それだけで母は助かる。
それだけで、人の命が奪われる。
「どうしたの?」
刃先を当てたまま固まっていると背後で悪魔がくすりと嗤った。訳もなく焦りを覚えた。悪魔は、それを赦すとばかりに鷹揚に続けた。
「ええ、貴方は正しいわ。一方を救うために一方を犠牲にする。迷いなく他人を線路へ突き落とせるのは少数のイレギュラーだけ……。現実に他者と向き合い、他者の呼吸に触れた者で、それができる人間はそうはいない。けれど、そうした犠牲で紡がれてきたものが人類の歴史であることもまた事実。今現在も当たり前に繰り返されていることよ」
浮かんだのは父のことだ。まさしく父がそうだった。父は、会社とかいうあやふやな群れを生かすために死んだ。新聞記事にすらならなかった。社会のどこでも当たり前に見られる、有り触れた犠牲のひとつだった。
母だって、そんな最期は望んでないはずだ。
「そうよ。貴方は間違っていない。咎める人間は誰もいないわ」
そうだ。俺は間違っていない。皆当たり前にやっていることだ。誰もが清廉潔白に振る舞いながら知らない誰かを踏み躙っている。俺は、自覚的にそうするだけだ。大切なひとを守るために。
俺は、間違っていない。
心中で繰り返した。そのときだった。
「……え?」
何かが聞こえた。どこからともなく。
周囲を見回し、背後を振り返った。悪魔が小首を傾げていた。入口の扉は固く閉ざされている。他に誰もいるはずがない。ならば微かに聞こえた、あの声は?
恐る恐る視線を戻した。
母は、瞼を閉ざしたままだった。
けれど、なぜだろう。
その口許から目を離せなかった。
じっと動けないでいると、またひとつ声が響いた。
今度は、はっきりこう聞こえた。
『私たちは、間違っていないをなくさなきゃいけない』
鈴の音のように鳴り響いていた。
『本当に善いものを選ばなくてはいけない』
母の枕元に目をやった。キャビネットの上に、白く光るものが飾られていた。
白い、百合の花だった。
それは、いつか、母と一緒に眺めた――
「うぅ……」
指先から力が抜けた。薄っぺらな刃が指の隙間からするりと逃げた。足元のどこかでカタリと音が鳴り、次いで本が床で跳ねた。俺は、垂れ下がった腕を伸ばした。
「かあ、さん……」
膝を折り、痩せた母の手を握った。
「おかあさん……おかあさん、おかあさん、おかあさん!」
すがりついて泣いた。何度も呼びかけ、何度も叫んだ。母さんは応えてくれなかった。頭を撫でてはくれなかった。「なあに」と微笑んではくれなかった。目を覚ましてはくれなかった。静かに……花のように静かに、呼吸だけを繰り返していた。
母は、そのまま息を引き取った。
翌朝のことだった。
深井の婆さんは個室でひとり寝息を立てていた。猿のように喚き散らし、誰彼構わず噛みついていた姿からは程遠い、静かな寝姿だった。
良い気なものだ。他人に散々迷惑をかけておいて自分はぐっすり眠りこけている。こんな醜い老人がいなくなったところで誰も哀しみはすまい。むしろ消えかけの命ひとつで人ひとりが助かるのなら、それが経済的というものではないか?
……そう冷徹に断じられたらどれ程楽だったろう。いざ老人を前にすると、そんな威勢はみるみるうちに萎んでいった。枯れて荒れ放題の頭髪。骨に皮が張り付いているだけの造作。朽ちて千切れそうな喉元からはひゅうひゅうと息が漏れている。いずれも老人の命が失われつつあることを証明していた。哀れだった。これが人間の末路かと思うとやるせなかった。
害虫のような存在だと思っていた。死んだところで喜ばれるだけの人間だと。その考えが拭え切れたわけではない。けれど同情と羞恥心を抑えることは難しかった。
俺は、途轍もなく身勝手なことをしようとしている。
それでも覚悟を決めるしかなかった。悪魔と契約を交わすというのは、そういうことだ。
母の病室へ向かった。扉を開けると片隅で悪魔が腕を抱えていた。俺を見るなり蛭のような唇に喜色を浮かべた。
「心が決まったのね」
黒い装丁の本を差し出してくる。聞けば表紙に血を染み込ませれば契約が交わされるのだという。
「婆さんのほうはどうするんだ。俺は何をすればいい」
「御心配なく。こちらで勝手にやらせて貰うわ」
「そうか。助かる」
心臓をえぐり出して持って来いと言われたら、流石に時間がかかっていたかも知れない。
本を受け取り母の前に立った。母の意識はもう二日も戻っていない。先生の診断ではあと一週間と保たないらしい。深井の婆さんと同じだ。婆さんと同じ、間もなく死んでいく人間の様相だ。だからこそ俺は、母を同じようにしたくない。
たとえこれが間違っていたとしても。
カッターの刃を伸ばし、本を掴む親指の背に当てた。あとは皮膚を裂くだけだ。
それだけで母は助かる。
それだけで、人の命が奪われる。
「どうしたの?」
刃先を当てたまま固まっていると背後で悪魔がくすりと嗤った。訳もなく焦りを覚えた。悪魔は、それを赦すとばかりに鷹揚に続けた。
「ええ、貴方は正しいわ。一方を救うために一方を犠牲にする。迷いなく他人を線路へ突き落とせるのは少数のイレギュラーだけ……。現実に他者と向き合い、他者の呼吸に触れた者で、それができる人間はそうはいない。けれど、そうした犠牲で紡がれてきたものが人類の歴史であることもまた事実。今現在も当たり前に繰り返されていることよ」
浮かんだのは父のことだ。まさしく父がそうだった。父は、会社とかいうあやふやな群れを生かすために死んだ。新聞記事にすらならなかった。社会のどこでも当たり前に見られる、有り触れた犠牲のひとつだった。
母だって、そんな最期は望んでないはずだ。
「そうよ。貴方は間違っていない。咎める人間は誰もいないわ」
そうだ。俺は間違っていない。皆当たり前にやっていることだ。誰もが清廉潔白に振る舞いながら知らない誰かを踏み躙っている。俺は、自覚的にそうするだけだ。大切なひとを守るために。
俺は、間違っていない。
心中で繰り返した。そのときだった。
「……え?」
何かが聞こえた。どこからともなく。
周囲を見回し、背後を振り返った。悪魔が小首を傾げていた。入口の扉は固く閉ざされている。他に誰もいるはずがない。ならば微かに聞こえた、あの声は?
恐る恐る視線を戻した。
母は、瞼を閉ざしたままだった。
けれど、なぜだろう。
その口許から目を離せなかった。
じっと動けないでいると、またひとつ声が響いた。
今度は、はっきりこう聞こえた。
『私たちは、間違っていないをなくさなきゃいけない』
鈴の音のように鳴り響いていた。
『本当に善いものを選ばなくてはいけない』
母の枕元に目をやった。キャビネットの上に、白く光るものが飾られていた。
白い、百合の花だった。
それは、いつか、母と一緒に眺めた――
「うぅ……」
指先から力が抜けた。薄っぺらな刃が指の隙間からするりと逃げた。足元のどこかでカタリと音が鳴り、次いで本が床で跳ねた。俺は、垂れ下がった腕を伸ばした。
「かあ、さん……」
膝を折り、痩せた母の手を握った。
「おかあさん……おかあさん、おかあさん、おかあさん!」
すがりついて泣いた。何度も呼びかけ、何度も叫んだ。母さんは応えてくれなかった。頭を撫でてはくれなかった。「なあに」と微笑んではくれなかった。目を覚ましてはくれなかった。静かに……花のように静かに、呼吸だけを繰り返していた。
母は、そのまま息を引き取った。
翌朝のことだった。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
視える私と視えない君と
赤羽こうじ
ホラー
前作の海の家の事件から数週間後、叶は自室で引越しの準備を進めていた。
「そろそろ連絡ぐらいしないとな」
そう思い、仕事の依頼を受けていた陸奥方志保に連絡を入れる。
「少しは落ち着いたんで」
そう言って叶は斗弥陀《とみだ》グループが買ったいわく付きの廃病院の調査を引き受ける事となった。
しかし「俺達も同行させてもらうから」そう言って叶の調査に斗弥陀の御曹司達も加わり、廃病院の調査は肝試しのような様相を呈してくる。
廃病院の怪異を軽く考える御曹司達に頭を抱える叶だったが、廃病院の怪異は容赦なくその牙を剥く。
一方、恋人である叶から連絡が途絶えた幸太はいても立ってもいられなくなり廃病院のある京都へと向かった。
そこで幸太は陸奥方志穂と出会い、共に叶の捜索に向かう事となる。
やがて叶や幸太達は斗弥陀家で渦巻く不可解な事件へと巻き込まれていく。
前作、『夏の日の出会いと別れ』より今回は美しき霊能者、鬼龍叶を主人公に迎えた作品です。
もちろん前作未読でもお楽しみ頂けます。
※この作品は他にエブリスタ、小説家になろう、でも公開しています。

【完結】限界離婚
仲 奈華 (nakanaka)
大衆娯楽
もう限界だ。
「離婚してください」
丸田広一は妻にそう告げた。妻は激怒し、言い争いになる。広一は頭に鈍器で殴られたような衝撃を受け床に倒れ伏せた。振り返るとそこには妻がいた。広一はそのまま意識を失った。
丸田広一の息子の嫁、鈴奈はもう耐える事ができなかった。体調を崩し病院へ行く。医師に告げられた言葉にショックを受け、夫に連絡しようとするが、SNSが既読にならず、電話も繋がらない。もう諦め離婚届だけを置いて実家に帰った。
丸田広一の妻、京香は手足の違和感を感じていた。自分が家族から嫌われている事は知っている。高齢な姑、離婚を仄めかす夫、可愛くない嫁、誰かが私を害そうとしている気がする。渡されていた離婚届に署名をして役所に提出した。もう私は自由の身だ。あの人の所へ向かった。
広一の母、文は途方にくれた。大事な物が無くなっていく。今日は通帳が無くなった。いくら探しても見つからない。まさかとは思うが最近様子が可笑しいあの女が盗んだのかもしれない。衰えた体を動かして、家の中を探し回った。
出張からかえってきた広一の息子、良は家につき愕然とした。信じていた安心できる場所がガラガラと崩れ落ちる。後始末に追われ、いなくなった妻の元へ向かう。妻に頭を下げて別れたくないと懇願した。
平和だった丸田家に襲い掛かる不幸。どんどん倒れる家族。
信じていた家族の形が崩れていく。
倒されたのは誰のせい?
倒れた達磨は再び起き上がる。
丸田家の危機と、それを克服するまでの物語。
丸田 広一…65歳。定年退職したばかり。
丸田 京香…66歳。半年前に退職した。
丸田 良…38歳。営業職。出張が多い。
丸田 鈴奈…33歳。
丸田 勇太…3歳。
丸田 文…82歳。専業主婦。
麗奈…広一が定期的に会っている女。
※7月13日初回完結
※7月14日深夜 忘れたはずの思い~エピローグまでを加筆修正して投稿しました。話数も増やしています。
※7月15日【裏】登場人物紹介追記しました。
※7月22日第2章完結。
※カクヨムにも投稿しています。
こわくて、怖くて、ごめんなさい話
くぼう無学
ホラー
怖い話を読んで、涼しい夜をお過ごしになってはいかがでしょう。
本当にあった怖い話、背筋の凍るゾッとした話などを中心に、
幾つかご紹介していきたいと思います。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる