トレード・オフ

大淀たわら

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第四章「花のように」

(7)不吉の花

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「つまり、それが貴方の願いなのね?」
 その女は花のひとつに触れながら薄笑いを浮かべていた。女の背丈ほどもある大きな植物で、女の瞳と同じ色の花を咲かせていた。
 鮮やかで、不吉な色だ。
 俺は、如何ともしがたい気味の悪さに強張りながらも女の指先から目を離せないでいた。
 女は、本の中から現れた。文字の途切れた頁の中から突然手を伸ばしてきたのだ。俺は、仰け反り、振り払おうと腕を振るった。そこまでは記憶している。しかし気付いたら俺は植物園のベンチに腰かけていた。白い腕が何をして、どういう経緯でここへ来たのか。記憶していることは何もなかった。まず目に映ったのは膝の上に置かれた本。そして眼前の黒い女。
 女は、悪魔のすずりを名乗った。
 人間の願望を叶えてくれると言う。
 俺は、大きく頷いた。
「こんな理不尽があって良いはずがない。俺たちは何も悪いことはしちゃいないんだ」
 女は、微笑ましそうに観賞を続けた。
「報いを信じているのね。それが在って然るべきだと」
「代償は何だ? 俺の魂か」
 紅い瞳がこちらを捉えた。心臓を掴まれたような怖気を覚えた。俺は、速まる鼓動を抑えようと理性に働きかけた。
 悪魔を召喚する書物。診察室にどうしてそんなものが置いてあったのか分からない。ましてや、あの冬川先生の机に。でも理由なんかどうでもいい。重要なことはたったひとつだ。
 女は人間ではない。
 願いを叶えるという売り文句も、あながち法螺ではないはずだ。
 ならば、ここで逃げ出す道理はない。たとえ魂を奪われようとも。
 立ち上がり自棄糞で睨み返してやった。女はどこまでも涼しげだった。花弁から手を離し、花開く前の蕾に触れた。そして、
「涙の国の君主、というものを知っているかしら?」
 そんな訳の分からないことを訊いてきた。俺の困惑を余所に女は艶めかしく指を這わせた。
「母親の涙と、子供の血に塗れた王とも呼ばれているわね。古代パレスチナにおけるアンモン人の神よ。彼らは牡牛の頭を持つその神を、豊作をもたらす者として崇めていたわ。神の像を造り、神が求める供物を捧げた。小麦。雉鳩。牝羊。牝山羊。子牛。牡牛。そして生まれ立ての赤ん坊」
 赤ん坊。
 悪魔は嗤い、手の内に蕾を包んだ。
「生贄として赤ん坊を捧げたのよ。赤ん坊は、像の中で生きたまま焼き殺された。母親の助けが得られない絶望に犯されながら、何も知らないまま、生きたまま。憐れな犠牲者は喉が焼け切れるまで叫び続けた。しかしその絶叫すら信奉者が打ち鳴らすシンバルによって掻き消された。神に捧げる、神のための楽曲。それは犠牲者の叫びから耳を逸らすための巧妙な欺瞞だった」
 思い出したのは、友達の家で見せて貰った赤ん坊だった。
 餅のような肌。無邪気な笑顔。愛くるしい寝顔には幸せの全てが詰まっていた。
 それを生きたまま焼き殺す。
 悪魔は口許を歪めた。
「血塗られたその神の名をモロクという」
「モロク……」
 悪魔が掌を開けたとき、蕾は見事に花を咲かせていた。凄惨にすら感じられるほど真っ赤な花を。
 呆気に取られる俺を見て悪魔は満足を露わにした。そして無造作に花を毟り取ると、そのまま左手で握り潰した。花弁が鮮血のように溢れた。
「赤ん坊は生者の利得のために、母親の幸福のために生贄となった。貴方の言葉を聞いて、そんなことを思い出したわ」
 零れた花びら。その一枚が流れ、俺の靴に張り付いた。俺は、自分の脚が震えていることを知った。腿を掴んでも収まりそうになかった。息を吐き、顔を上げた。
「……回りくどいのは嫌いなんだ。殺すなら殺すと言ってくれ」
 その虚勢が滑稽に映ったのだろう。悪魔は弓なりに目を細めた。
「それも一興とは思うのだけれど」
 左手を開いた。すべての花弁が宙へ舞った。解き放たれたそれらは庭園を彩り、やがて石畳を紅く染めた。
 悪魔は、首を振った。
「やめておくわ。それは貴方の正しさに適うものでしょう? 貴方は母親のためならば命を惜しまない。恐れはするけれど躊躇はしない。貴方は何も失わない」
「……? だったら、どうすればいいんだ」
 悪魔は「そうね」と視線を下げた。指の隙間に一枚の花弁が残っていた。
 摘まみ、掲げ、愉快そうに眺めた。
「誰でも良いわ」
「誰でも……?」
「ええ、この病院にいる人間なら、誰でも」
 花びらに舌を這わせる。悪魔は、その味を吟味するように虚空を見上げた。だが程なくしてぞんざいに指を振るった。花弁は堕ち、他のそれらと見分けがつかなくなった。
「ひとり選びなさい。祭壇に捧げられる哀れな魂を。貴方は生贄ではなく祭司になるの。神に供物を捧げる祭司に。それは貴方の正しさに適うものかしら?」
 悪魔の眼が再びこちらを捉えた。蛇のようなその目つき。
 手に、汗が滲んだ。
 母さんを助ける。
 代わりに誰か犠牲にする。
 この世に一人しかいない母親と、赤の他人。一見して簡単な比較のように思える。母のことは誰よりも大事だ。大切に想っている。知らない誰かとは比べるまでもない。けれど、それは、その誰かを踏み躙っても構わないことを意味するのだろうか?
 悪魔は、薄く笑みを浮かべた。
「安心なさい。これは儀式ではない。相応の対価さえ支払って貰えれば相応の労役を提供する。確実な取引の話をしているの。対価は貴方のよ」
 俺の、正しさ。
 制服の胸元を掴んだ。胸骨の下で心臓が脈打っていた。早鐘を打ち鳴らしながら、それでも規則正しく、一定のリズムで。その動きが、俺の存在を形作っている気さえした。
 俺が、俺の正しさとやらを失ったとき、その形はどうなってしまうのだろう?
「……わからない。こんな取引に何の意味があるんだ。あんたに何の得があるんだ?」
 悪魔は、一瞬きょとりとした。そんなことを訊かれるとは思わなかった。そんなふうな貌だった。やがて悪魔はくつくつ嗤うと、その余韻を引き摺ったまま眉を下げた。
「私はプラエスティギアトレス。奇跡の模倣者。代価がなければ奇跡を提供することもできない。そんな凡庸な存在なのよ」
 紅い瞳が天窓を仰いだ。
 欠けた月が、女の横顔を照らしていた。
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