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第四章「花のように」
(2)色褪せた花
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「はよ出てけやぶっ殺すぞこんガキャァッ!」
廊下に怒声が響いた。次いで何かが砕け散る音。何人かの見舞客が各々の病室から顔を覗かせ何事かと目を見開いていた。一方廊下を歩く松葉杖の老人は「またか」と呆れ顔をする。俺はどちらかと言えば老人側だった。以後の展開も予想が着く。そしてその予想通りに事は進んだ。廊下の向こうから数人の看護師が駆けてきて叫び声のする部屋へなだれ込んでいく。彼らと入れ替わる形で一人の医師がふらりと部屋から退出した。病室では、最早言語とも形容し難い金切り声が途切れなく響いていた。俺は、部屋から逃れてきた医師に話しかけた。
「冬川先生」
その医者……冬川光司郎医師は、眼鏡のつるに触れ、苦笑いを浮かべた。
「やあ、優一くん。こんにちは。学校は終わったのかい?」
会釈し、先生が出て来た扉を見やった。
「またですか?」
「ああ、昼は機嫌が良かったんだけどね」
天気のようにそう表現する。病室からは耳障りな罵倒と唸り声が断続的に聞こえてきた。声の主は深井という老女だ。三か月ほど前から入院している。八十過ぎの困った婆さんで、院内で何かと騒動を起こしている。やれ看護師の態度が気に喰わないだの、やれコールを押したら十秒以内に走って来いだの理不尽な理由で暴れ始める。他の患者にも難癖を付け、時には病室まで押し掛けたこともあるらしい。聞けば昔から相当偏屈な人間だったそうで、役所やらスーパーに乗り込んでは身勝手なクレームを入れて喚き散らし、警察を呼ばれたことは一度や二度ではなかったという。隣人とのトラブルも絶えず、家の軒先は監視カメラだらけ。親しい知人など誰もいなかったそうだ。そんな変人の相手をしなければならない看護師たちが哀れになってくる。
そのねじ曲がった根性をぶん殴ってやりたいところだ。
「こら、そんなことを言うもんじゃないよ」
冬川先生が顔をしかめた。あまり迫力はなかったが。
その迫力のない顔が病室へ向いた。
「可哀想なひとなんだよ。世間はああいうひとにこそ手を差し伸べてあげなくちゃいけない。それが成熟した社会というものなんだ」
「それで周りが被害を受けてちゃ本末転倒でしょう。まあ、深井さんのことはいいです。母の様子はどうですか」
「今は調子が良いみたいだ。君が来るのを楽しみに待っているよ」
俺は、もう一度会釈し、騒ぎの場から離れることにした。数歩進んだところで「優一くん」と声をかけられた。肩越しに振り返る。
冬川先生が、気遣うように言った。
「君は、大した意味はないと言っていたけれどね。僕はそうは思っていないよ。幸運……と言えば君はまた怒るかも知れないが得難い時間であることは確かなんだ。それは誰もが得られるものではないんだよ。どうか大事にして欲しい」
先生は、そう締めくくった。
それは気遣っているようで全く気遣いになっていなかった。受け止め方によっては酷く残酷なことを口にしている。そして何より……誰に向かって言っているのだろう? そんなことは俺自身が一番よく分かっている。だからこうして毎日通い詰めているのではないか。
このひとは、俺の父がどうやって死んだのか覚えていないのだろうか。
苛立ちを表に出さず、無言でその場を後にした。
母の病室は他のそれと変わりがあるわけではなかった。平等に清潔で、平等に味気ない。平等に薬品の匂いが漂い、平等に退屈で満ちている。そんな無味乾燥を慰めるように枕元のキャビネットに花が活けられている。冬川先生が『植物園』から詰んできたものだ。母が好んだ白い花だが、今は射し込む夕陽で色も分からなくなっている。俺は、その花にもまた索然としたものを感じずにはいられなかった。
母は、そんな殺風景の中で、静かに横になっていた。
「いらっしゃい、優一」
カーテンに注がれていた眼がこちらに動く。俺は、力なく笑みを返した。
母は、まるで貴重なものでも眺めるみたいに、じっとこちらを見つめてくる。その心情……その視線がもたらす意味を考えたとき、俺はどうにもやり切れない気持ちになる。
少しでも楽になりたくて、安っぽい丸椅子に腰をかけた。母は穏やかに訊いてきた。
「学校は? 何か変わったことはあった?」
首を振った。
「ないよ。いつも通りだ」
「そう」
「母さんは?」
「うん、いつも通り。素敵な一日だった」
肺を絞って、ようやく絞り出せたような声だ。聞いているだけで胸が苦しくなる。
母は痩せた。骨と皮しか残っていない。いつの間にこんな姿になってしまったのか。俺にももうよく分からない。だが先日家を整理していたとき、ふとアルバムを開いて愕然とした。目に映ったのは一枚の写真。旅行先の遊園地で撮影したものだ。まだ歩くのも覚束ない俺の横に、相応に若い母が並んでいた。太陽のような笑顔でカメラに向かってピースをしていた。今とはまるで違う、エネルギーに満ち溢れた姿だった。
俺は、ひとり泣いた。
いつの間にこんなことになってしまったのか。どうしてこんなことになってしまったのか。
医師は「理由はない」と言った。母の病は、母の体質に起因するもので外に原因を見出すことはできないと、哀れみを込めてそう言った。
俺は、違うと思った。
医学的にはそうなのかも知れないが、病状の進行を抑えられなかったことには明確な理由があると考えた。元を辿れば、全ての発端は父の死にあった。
廊下に怒声が響いた。次いで何かが砕け散る音。何人かの見舞客が各々の病室から顔を覗かせ何事かと目を見開いていた。一方廊下を歩く松葉杖の老人は「またか」と呆れ顔をする。俺はどちらかと言えば老人側だった。以後の展開も予想が着く。そしてその予想通りに事は進んだ。廊下の向こうから数人の看護師が駆けてきて叫び声のする部屋へなだれ込んでいく。彼らと入れ替わる形で一人の医師がふらりと部屋から退出した。病室では、最早言語とも形容し難い金切り声が途切れなく響いていた。俺は、部屋から逃れてきた医師に話しかけた。
「冬川先生」
その医者……冬川光司郎医師は、眼鏡のつるに触れ、苦笑いを浮かべた。
「やあ、優一くん。こんにちは。学校は終わったのかい?」
会釈し、先生が出て来た扉を見やった。
「またですか?」
「ああ、昼は機嫌が良かったんだけどね」
天気のようにそう表現する。病室からは耳障りな罵倒と唸り声が断続的に聞こえてきた。声の主は深井という老女だ。三か月ほど前から入院している。八十過ぎの困った婆さんで、院内で何かと騒動を起こしている。やれ看護師の態度が気に喰わないだの、やれコールを押したら十秒以内に走って来いだの理不尽な理由で暴れ始める。他の患者にも難癖を付け、時には病室まで押し掛けたこともあるらしい。聞けば昔から相当偏屈な人間だったそうで、役所やらスーパーに乗り込んでは身勝手なクレームを入れて喚き散らし、警察を呼ばれたことは一度や二度ではなかったという。隣人とのトラブルも絶えず、家の軒先は監視カメラだらけ。親しい知人など誰もいなかったそうだ。そんな変人の相手をしなければならない看護師たちが哀れになってくる。
そのねじ曲がった根性をぶん殴ってやりたいところだ。
「こら、そんなことを言うもんじゃないよ」
冬川先生が顔をしかめた。あまり迫力はなかったが。
その迫力のない顔が病室へ向いた。
「可哀想なひとなんだよ。世間はああいうひとにこそ手を差し伸べてあげなくちゃいけない。それが成熟した社会というものなんだ」
「それで周りが被害を受けてちゃ本末転倒でしょう。まあ、深井さんのことはいいです。母の様子はどうですか」
「今は調子が良いみたいだ。君が来るのを楽しみに待っているよ」
俺は、もう一度会釈し、騒ぎの場から離れることにした。数歩進んだところで「優一くん」と声をかけられた。肩越しに振り返る。
冬川先生が、気遣うように言った。
「君は、大した意味はないと言っていたけれどね。僕はそうは思っていないよ。幸運……と言えば君はまた怒るかも知れないが得難い時間であることは確かなんだ。それは誰もが得られるものではないんだよ。どうか大事にして欲しい」
先生は、そう締めくくった。
それは気遣っているようで全く気遣いになっていなかった。受け止め方によっては酷く残酷なことを口にしている。そして何より……誰に向かって言っているのだろう? そんなことは俺自身が一番よく分かっている。だからこうして毎日通い詰めているのではないか。
このひとは、俺の父がどうやって死んだのか覚えていないのだろうか。
苛立ちを表に出さず、無言でその場を後にした。
母の病室は他のそれと変わりがあるわけではなかった。平等に清潔で、平等に味気ない。平等に薬品の匂いが漂い、平等に退屈で満ちている。そんな無味乾燥を慰めるように枕元のキャビネットに花が活けられている。冬川先生が『植物園』から詰んできたものだ。母が好んだ白い花だが、今は射し込む夕陽で色も分からなくなっている。俺は、その花にもまた索然としたものを感じずにはいられなかった。
母は、そんな殺風景の中で、静かに横になっていた。
「いらっしゃい、優一」
カーテンに注がれていた眼がこちらに動く。俺は、力なく笑みを返した。
母は、まるで貴重なものでも眺めるみたいに、じっとこちらを見つめてくる。その心情……その視線がもたらす意味を考えたとき、俺はどうにもやり切れない気持ちになる。
少しでも楽になりたくて、安っぽい丸椅子に腰をかけた。母は穏やかに訊いてきた。
「学校は? 何か変わったことはあった?」
首を振った。
「ないよ。いつも通りだ」
「そう」
「母さんは?」
「うん、いつも通り。素敵な一日だった」
肺を絞って、ようやく絞り出せたような声だ。聞いているだけで胸が苦しくなる。
母は痩せた。骨と皮しか残っていない。いつの間にこんな姿になってしまったのか。俺にももうよく分からない。だが先日家を整理していたとき、ふとアルバムを開いて愕然とした。目に映ったのは一枚の写真。旅行先の遊園地で撮影したものだ。まだ歩くのも覚束ない俺の横に、相応に若い母が並んでいた。太陽のような笑顔でカメラに向かってピースをしていた。今とはまるで違う、エネルギーに満ち溢れた姿だった。
俺は、ひとり泣いた。
いつの間にこんなことになってしまったのか。どうしてこんなことになってしまったのか。
医師は「理由はない」と言った。母の病は、母の体質に起因するもので外に原因を見出すことはできないと、哀れみを込めてそう言った。
俺は、違うと思った。
医学的にはそうなのかも知れないが、病状の進行を抑えられなかったことには明確な理由があると考えた。元を辿れば、全ての発端は父の死にあった。
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