トレード・オフ

大淀たわら

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第三章「トレード・オフ」

(6)トナカイは走る

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「何分古い車でな。暖房が効くまで時間がかかる。寒いだろうが我慢してくれ」
 私を、ペダルを踏む脚に力を込めた。一秒でも早く、暗闇の向こうへ。そう逸る心を理性で制止する。事故を起こせば元も子もない。車体の制御が可能な範囲で最大限の速度を保つ。追手が確実に見込まれる現状、それが取り得る最善だった。
「ここからたっぷり三十分は奴らの私有地。治外法権だ。捕まれば助かる道はない。だが抜ければいくらか手は緩む。そこまでが勝負だ」
 助手席の少女は何も答えなかった。今はそれを気にかける余裕もない。かじかむ両手でハンドルを切った。山道のカーブで車体が余分に旋回する。あわやガードレールに触れる寸前で車輪の制御を取り戻した。間髪入れずにアクセルを踏んだ。車は正常な進路へ戻る。一瞬遅れて、全身から汗が噴き出した。
 車体の制御とスピードの維持。数日前の私なら……感情を知らなかった私なら、もっと高いレベルでそれをこなせていたはずだ。仮に今のような無茶をやらかしても恐怖心など覚えなかったろう。だが今はこれが限界だった。できることをやるしかない。
 少女は、私の不細工な運転に振り回されていた。横目に見るとシートベルトを掴み、揺れる全身の支えにしていた。初めて見る、人間らしい仕草だった。
 やがて直線に入った。ひとときではあるがカーブのない時間が続く。
 今のうちに距離を稼いでおかなければ。
 気を引き締めようとした矢先、ぼそりと声が聞こえた。
「私、これから、どうなるんですか」
 一瞬、幻聴を疑った。少女は糸が切れたように首を傾けている。そんな彼女が発したものだとは思えなかった。だが目を見張る私の前で、彼女は唇を動かした。
「殺されるんじゃなかったんですか。それとも……今度はあなたの玩具にされるんですか。いいですよ別に。痛いのも。気持ち悪いのも。もう慣れましたから」
 やはり、どこか現実感なく聞こえた。
 それは恐らく……少女の意識がこの身体にはないからだろう。彼女は窓に向かって語りかけていた。まるで、そこに映る虚像こそが本物の自分なのだと信じているかのように。きっと、そうしなければ耐えられなかったのだ。私に命を奪われた者たちと同じく、自ら正気を手放さなければ耐えられなかった。
 だが、それはどこまでも虚像であり、窓の外には暗闇しかない。
 少女はここにいる。
 私は、私に語りかける彼女の意志を逃すつもりはなかった。
「君こそ、どうしたいのだ?」
 問い返した。彼女の顔を見据えて。
 少女は無視をしたが、構わずに続けた。
「これは予め断っておかなければならない事実だが」
 視線をルームミラーに戻した。追手の影は見えなかったが些かの安堵も覚えなかった。
 速度を上げた。
「今までの生活に戻るという選択肢は望めないだろう。私のところへ送られてきたということは、。それは君自身が一番よく分かっているはずだ。だが、もし君が望むのなら」
 さらに加速させる。
「全てを告発し、戦うという選択肢はある。それは困難を伴う道だ。あらゆる者を敵に回す。君自身の安全と、君自身の自由、時間、つまりは……人生を犠牲にしなければならない。戦争だ。だが望むのならそういう道もある。無論逃げるという選択もある。その場合、君は別人にならなければならない。日本にはいられない可能性が高いが、それなりに平穏な生活を送ることができるかも知れない。いずれにしろ……」
 言いかけて、ふと心に灯るものがあった。
 私は、少女に目をやった。着衣から伸びる手足を見た。痩せ枯れたそれらが冷気に曝され震えていた。いかにも弱々しく、頼りなかった。
 肺の奧が熱くなった。
「……今までつらかったな」
 少女が、初めて私を見た。
 目を見開き、それこそ、虚像でも確かめるように揺れ動いた。
 私は、口許に拳を当てた。
「私には君の絶望を理解してあげることはできない。その資格もない。できるのはせいぜい……道を繋ぐ程度だ。あとは君自身の力で進まなければならない」
 ハンドルを握る手に力を込めた。
「選ぶのは君だ」
 虚ろだった瞳に、微かに光が灯る。私はそれを見逃さなかった。
 紫色の唇が、すっと息を吸い込んだ。
「私は」
 そう口にした瞬間、破裂音が耳を貫いた。
「きゃあああああああああああああああ!」
 少女が、頭を抱えて絶叫する。私は今一度ルームミラーを見た。亀裂の奔ったリアガラス、その向こうでハイビームが強烈な光を放射していた。現れた黒塗りが猛烈な勢いで距離を詰めてくる。その助手席の窓からぬっと腕が伸びていた。そして風船が弾けるような音が響き、こちら側の車体に鈍い音が喰い込んだ。銃撃だ。
 後方で音が弾けるたびに、車体のどこかに弾が突き刺さる。
 阿南と小倉だろう。思った通り対応が速い。やはり阿南はこの事態を予期していたのだ。
「まったく。たかが解体屋ごときに……ご苦労なことだ!」
 私は、全力でアクセルを踏み込んだ。直線で捉えられたのは良くなかった。早く抜け出さなければ的になる。走行中の車両から狙って命中させられるものではないが偶然だろうと当たれば同じだ。相手もそれを承知で撃ってきている。
 この地形は、まだ一分は続く。背後を取られた状況下では、あまりにも長い。
 私は、背を屈める少女に叫んだ。
「ダッシュボードを開くことはできるか? 赤星が入っている」
「え?」
「銃だ。開けてみてくれ」
 彼女は、言われるがまま手を伸ばした。開き、実物を見て、硬直する。
 マカロフPM。ロシア製の中口径拳銃だ。有効射程はせいぜい二十五メートル。揺れる車内から素人が撃つのだから、そんな目安はないに等しい。だが牽制にはなる。牽制しなければならない。距離を詰められたら、それだけで終わる。
「弾は入っている。スライドを引いて左後部のレバーを下ろせ。その状態で引き金を引けば弾が飛ぶ。肘をドアで固定して、両手で構えろ」
 理解はできていないだろう。それでも言うしかなかった。
「照準は上部にある前後の突起で合わせられるが無理に当てようとしなくても構わない。とにかく奴らに向かって撃つことだけを考えてくれ。私の言っていることが、わかるか?」
 少女は、頷いたりはしなかった。
 眼前の鉄塊を凝視し、陸に挙げられた魚みたく胸を上下させている。
 その双眸に映るものは恐怖以外の何物でもなかった。それを手にすることでもたらされる結果。あるいは手にしなかったことで訪れる結末。つまりは突きつけられた現実に、只々戸惑い、慄いている。急かすのも無責任かも知れない。だが、その瞬間にも弾は次々と撃ち込まれてくる。リアを割り、ボディに喰い込み、そして、
「……もう一度問う」
 私は、喉を引き絞った。
「君は何を望む。何が欲しい? この砂漠のようにクソッタレな世界で、真実から手に入れたいものは一体何だ」
「私は……」
 少女は、瞼を閉じた。その裏側にある暗闇へ逃げ込むように、きつく閉ざした。
 それでも閉じ込められなかった感情の結晶が、隙間から溢れ、ぽろぽろと零れ落ちていた。その鮮やかな雫は、冷え切った彼女の手を濡らし、温め、肌を滑った。
 少女は、涙の筋が残る手で、鉄の塊を掴み取った。
「私は、生きたい!」
「よく言った!」
 冬の空の下、高々と銃声が鳴り響いた。
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