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第二章「ジュデッカ」
(10)ジュデッカ
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「ひッ!?」
僕は、呆気なく転倒した。
当たり前だ。不意に後ろから引っ張られて転ばない訓練なんて受けてない。尻餅を着いた衝撃がずしりとお腹に響いた。反射的に閉じた瞼を開いたとき、景色が一変したことに驚いた。周囲は暗く湿り、苔臭い臭いが鼻を衝く。視線の先には一筋の光。そこから覗く景色が先ほどまでいた歩道だった。
路地裏に連れ込まれた。
そう気付いた瞬間だった。
全身が硬い壁にぶつかった。
強打した頬骨に衝撃が奔った。肌に小石が喰い込む感触。砂を噛む不快感。意識は弾け飛び、視界にチカチカと火花が散った。次第にそれも収まってくると痛みと混乱が広がってきた。
一体、何が起こったのか? そうはっきり思考できたとは思えない。僕は本能的に壁から離れようともがいた。でも思うように手足が動かせなかった。それどころか壁は益々吸着力を強め、全身にひっついてくる。重力の方向が狂っている。そんな突拍子もない可能性が脳裏を掠めたとき、反対にひどく現実的な事実に辿り着いた。
壁じゃない。地面だ。僕は地面に倒れている。
「……てめえのせいだ」
震えた声が、頭上から吐きつけられた。
ずきりと頭の半分に痛みが奔った。左のこめかみか、その近く。焼けるような感覚がある。その付近を殴られたのだと思った。推測を裏付けるような衝撃が、今度は腰のあたりを襲った。何か金属製のもので殴りつけられている。反射で両脚がピンと伸びた。
「狩尾……てめえのせいだ。てめえのせいで俺は、てめえのせいで……」
伏せっているのでよく見えなかった。けれど、その声には懐かしいぐらい聞き覚えがあった。
「……佐前……くん」
彼は返事をしたりしなかった。もう一度「てめえのせいで」と叫ぶと、その勢いで何かを振った。今度は肩に痛みが奔った。そして背中。腕。また背中。腰。手加減の感じられない力が執拗に何度も叩きつけられてくる。何度も。何度も。
てめえのせいで俺は。あんなに良くしてやったのに。裏切りやがって。どうしてお前は俺を。どうして。どうしてだよ。信じてたのに。友達だと思ってたのに。俺を見捨てた。俺を裏切った。裏切り者。裏切り者。裏切り者。
間もなく身体の内側で何かの折れる感触がした。たぶん背骨だったと思う。激痛が迸り、喉から「ああああ」と声が漏れた。それ以降、両脚の感覚がなくなった。
暴力は途切れなく続く。そしてもう一つ身体に大きな違和感があった。左目だ。左目がぴくりとも動かせなかった。それに眼底の奧が異様なまでに熱くなっている。何かまずい気がする。朦朧とする意識のなか、欠けた視界に何かが映り込んでいることに気が付いた。無造作に地面に転がった、白くて丸い、お餅みたいなもの。
眼球だった。
ドブみたいな地面の上で、飛び出した目玉が泥だらけになっている……。
恐怖が全身を支配した。
欠けた左目。動かなくなった両脚。ぐしゃぐしゃになった腕。もう取り返しがつかない。取り返しのつかない大けがだった。僕はもう立って歩くことができない。ちゃんと物を見ることができない。自分では何もできない。ここで命を落とすかも知れない。嫌だ。嫌だった。やりたいことも、行ってみたいところも、まだまだたくさんあるのに!
「どうしてだよ狩尾ォッ」
彼はそう叫んで、足首を殴りつけた。
どうして? 僕が知りたい。どうして僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだ?
僕が何をした? どこで何を間違った? ただ普通に生きていただけなのに。普通に学校に通っていただけなのに。一体いつ神さまの機嫌を損ねてしまったんだろう? 何をどうすれば良かったんだろう? 間違ったところがあるのなら教えて欲しかった。悔い改めろと叱って欲しかった。そしたらちゃんと直したのに。ちゃんと態度を改めたのに。それとも……理由なんてないんだろうか? 僕を苦しめたいから苦しめているだけで。理由なんて。
だったら、そんな、神さまなんて。
腐った地面が赤く染まっていく。ドロドロの液体で染め上げられていく。頭の裂け目から流れ出たものだった。こんなに血を失ってしまっては、もはや本格的に助からないかも知れない。
避けられない運命。それを強く意識したとき、視界の端に何かが映った。
黒い装丁の本だった。
倒れた拍子にバッグから飛び出したらしい。眼球から少し離れた位置でやはり無造作に転がっていた。その全体が、既に鮮血で浸されている。
僕は、悪魔の言葉を……彼女から教わった契約の方法を思い出していた。
血は特別な液体。流れ出た魂の一部が契約を不可逆なものとして成立させる。
願えばすぐにでも叶えられる。大切なものと引き換えに。
拳を握った。爪が喰い込まんばかりに握り締めた。握り締めていなければ零れ落ちてしまうと思った。僕の中を満たしていたものが。彼女の手から伝わってきたものが!
しかし、そうして固めた拳もまた……金属の一撃であっさり砕かれた。グシャグシャに壊れた指の骨が、皮膚を破って突き出していた。
大切なもの。大切なひと。その、魂。
――――君のためならば、命だって……
「た……」
最後の気力を振り絞って、肺腑の底から叫びを上げた。
「助けて、すずりさんッ!」
瞬間、僕の中からごっそりと何かが抜け落ちた。
「ええ」
そして声が舞い降りてくる。
空の上から、舞い降りてくる。
「必ず助けるわ」
すずり。少女の姿をした悪魔。あまりにも美しい、死の天使。
彼女は路地裏にふわりと爪先を下ろした。
僕は……我ながらそれをする余力があったことに驚いたのだが……首を起こし、彼女の姿に魅入っていた。佐前もまた、突如現れた黒衣の少女に目を奪われているようだった。悪魔は、恭しくスカートを摘まみ上げた。
「お初お目にかかります佐前空人。悪魔のすずりと申します。ごきげんよう。そして、さようなら」
悪魔は優雅に左手を持ち上げる。白い指先は天を示していた。
「カロン」
そんな言葉を発した。
「呼び声に応じなさい」
そこから先は一瞬だった。すずりさんが指差す先から、突如、巨大な手が現れた。猿のような、あるいは骨張った老人のような不気味な手だ。虚空から生えてきたそれは、呆気に取られる佐前の頭上まで伸びてくると、彼の頭部を器用に掴み、
「あ」
捻じり切った。
首を失った身体がばたりと倒れた。巨大な手は、千切れた頭部を掴んだまま再び空へと引っ込んでいく。そして、
「嫌だ! 狩尾! 助けてくれッ!!」
生首が叫んだ。背骨の垂れ下がった生首が。
悪魔は見上げ、冷笑を浮かべた。
「六文銭はサービスしてあげる。プレゲトーンの水底までしっかり案内して貰いなさい」
僕は、唖然として見ているしかなかった。
巨大な手が虚空に消えたあと首の捥がれた胴体を見やった。小さな、無数の影が群がっていた。尖った脚。伸びた羽。蝗だった。何百匹という蝗が……よく見れば頭部に人間の頭が付いている奇怪な蝗が、佐前の身体を猛烈な勢いで貪っていた。肉も、骨も。何もかも。やがて赤黒い染みだけが横たわった。蝗はその染みすら綺麗に舐め尽すと、そのまま地面に沈み込み、後には何も残らなかった。
言葉が出なかった。
「災難だったわね」
彼女は屈み、僕の頬に手を添えた。その手はやはり冷たかった。
見上げて問いかけた。
「彼は……佐前くんは、死んだんですか……?」
「いいえ? 死ねないわ。でも別に、構わないでしょう?」
肯定も、否定もできなかった。ただそれ以上のことは想像したくなかった。
身体の震えが止まらなかった。それが恐怖のせいなのか、血を失い過ぎたせいなのか、それとももっと他の理由なのか、僕にはもう分からなくなっていた。
悪魔は「さて」と立ち上がった。
「貴方は得た。貴方は失った。これからは失って得たものの価値を噛み締めながら有意義に生きることね」
長い髪を翻し、背を向けて立ち去っていく。
「これで契約は完了よ」
その姿は、一歩一歩地面へ沈み、やがて路地裏の陰と見分けがつかなくなった。
僕の意識もまた、次第に闇に呑まれていく。深く深く呑まれていく。
ぽつりと手の甲に何かが落ちた。雨粒だった。粒は徐々に数を増やし、やがて路地裏を覆い尽くした。
傘、持ってくればよかったな。
裏切られたような気分になりながら、まどろみの心地良さに身を浸した。
丘の上のベンチに座った。いつもより座面を固く感じた。そっと掌を押し当ててみる。無数の砂粒が付着していた。その小さな粒を眺めていると無性に虚しい気持ちになった。払い除け、柵の向こうに目をやった。
太陽が地平の彼方に沈もうとしていた。諦めたように落ち着いた色合いだった。景色は間もなく薄暗さに覆われる。同時にそれは宴の始まりでもある。通りに飾られた何千という灯篭が直に町を照らし出す。ここから眺める祭りの景色は、満天の夜空に劣らないほど美しいものになるだろう。けれど、今はもう何の価値も感じられない。
僕は失った。僕は得た。
何を?
損なわれたはずの左目。砕けたはずの四肢の機能? そうかも知れない。まるで何事もなかったかのように元通りになったそれらが、僕の得たものなのかも知れない。あるいは……身の安全だろうか。少し違う気がする。
今一度ベンチを撫でた。彼女のいない景色に触れた。
それが僕の得たものだった。
誰に侵されることもない静謐の時間。
それは彼女を失ってまで手にすべきものだったのだろうか?
溜息を吐く。世界は緩慢に色褪せていく。
立ち上がり、足を踏み出した。
声が聞こえたのだ。彼女の声が。愚かな僕を、呆れた声で呼んでいた。
僕は「今行くよ」と応えた。彼女は「仕方がないな」と肩をすくめた。そうして二人で笑った。今この瞬間が堪らなく嬉しいというふうに。
何もないベンチに用はない。僕は、彼女に報いなければならない。
彼女のところまであと少し。
夕陽に向かって歩いて行く。
僕は、呆気なく転倒した。
当たり前だ。不意に後ろから引っ張られて転ばない訓練なんて受けてない。尻餅を着いた衝撃がずしりとお腹に響いた。反射的に閉じた瞼を開いたとき、景色が一変したことに驚いた。周囲は暗く湿り、苔臭い臭いが鼻を衝く。視線の先には一筋の光。そこから覗く景色が先ほどまでいた歩道だった。
路地裏に連れ込まれた。
そう気付いた瞬間だった。
全身が硬い壁にぶつかった。
強打した頬骨に衝撃が奔った。肌に小石が喰い込む感触。砂を噛む不快感。意識は弾け飛び、視界にチカチカと火花が散った。次第にそれも収まってくると痛みと混乱が広がってきた。
一体、何が起こったのか? そうはっきり思考できたとは思えない。僕は本能的に壁から離れようともがいた。でも思うように手足が動かせなかった。それどころか壁は益々吸着力を強め、全身にひっついてくる。重力の方向が狂っている。そんな突拍子もない可能性が脳裏を掠めたとき、反対にひどく現実的な事実に辿り着いた。
壁じゃない。地面だ。僕は地面に倒れている。
「……てめえのせいだ」
震えた声が、頭上から吐きつけられた。
ずきりと頭の半分に痛みが奔った。左のこめかみか、その近く。焼けるような感覚がある。その付近を殴られたのだと思った。推測を裏付けるような衝撃が、今度は腰のあたりを襲った。何か金属製のもので殴りつけられている。反射で両脚がピンと伸びた。
「狩尾……てめえのせいだ。てめえのせいで俺は、てめえのせいで……」
伏せっているのでよく見えなかった。けれど、その声には懐かしいぐらい聞き覚えがあった。
「……佐前……くん」
彼は返事をしたりしなかった。もう一度「てめえのせいで」と叫ぶと、その勢いで何かを振った。今度は肩に痛みが奔った。そして背中。腕。また背中。腰。手加減の感じられない力が執拗に何度も叩きつけられてくる。何度も。何度も。
てめえのせいで俺は。あんなに良くしてやったのに。裏切りやがって。どうしてお前は俺を。どうして。どうしてだよ。信じてたのに。友達だと思ってたのに。俺を見捨てた。俺を裏切った。裏切り者。裏切り者。裏切り者。
間もなく身体の内側で何かの折れる感触がした。たぶん背骨だったと思う。激痛が迸り、喉から「ああああ」と声が漏れた。それ以降、両脚の感覚がなくなった。
暴力は途切れなく続く。そしてもう一つ身体に大きな違和感があった。左目だ。左目がぴくりとも動かせなかった。それに眼底の奧が異様なまでに熱くなっている。何かまずい気がする。朦朧とする意識のなか、欠けた視界に何かが映り込んでいることに気が付いた。無造作に地面に転がった、白くて丸い、お餅みたいなもの。
眼球だった。
ドブみたいな地面の上で、飛び出した目玉が泥だらけになっている……。
恐怖が全身を支配した。
欠けた左目。動かなくなった両脚。ぐしゃぐしゃになった腕。もう取り返しがつかない。取り返しのつかない大けがだった。僕はもう立って歩くことができない。ちゃんと物を見ることができない。自分では何もできない。ここで命を落とすかも知れない。嫌だ。嫌だった。やりたいことも、行ってみたいところも、まだまだたくさんあるのに!
「どうしてだよ狩尾ォッ」
彼はそう叫んで、足首を殴りつけた。
どうして? 僕が知りたい。どうして僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだ?
僕が何をした? どこで何を間違った? ただ普通に生きていただけなのに。普通に学校に通っていただけなのに。一体いつ神さまの機嫌を損ねてしまったんだろう? 何をどうすれば良かったんだろう? 間違ったところがあるのなら教えて欲しかった。悔い改めろと叱って欲しかった。そしたらちゃんと直したのに。ちゃんと態度を改めたのに。それとも……理由なんてないんだろうか? 僕を苦しめたいから苦しめているだけで。理由なんて。
だったら、そんな、神さまなんて。
腐った地面が赤く染まっていく。ドロドロの液体で染め上げられていく。頭の裂け目から流れ出たものだった。こんなに血を失ってしまっては、もはや本格的に助からないかも知れない。
避けられない運命。それを強く意識したとき、視界の端に何かが映った。
黒い装丁の本だった。
倒れた拍子にバッグから飛び出したらしい。眼球から少し離れた位置でやはり無造作に転がっていた。その全体が、既に鮮血で浸されている。
僕は、悪魔の言葉を……彼女から教わった契約の方法を思い出していた。
血は特別な液体。流れ出た魂の一部が契約を不可逆なものとして成立させる。
願えばすぐにでも叶えられる。大切なものと引き換えに。
拳を握った。爪が喰い込まんばかりに握り締めた。握り締めていなければ零れ落ちてしまうと思った。僕の中を満たしていたものが。彼女の手から伝わってきたものが!
しかし、そうして固めた拳もまた……金属の一撃であっさり砕かれた。グシャグシャに壊れた指の骨が、皮膚を破って突き出していた。
大切なもの。大切なひと。その、魂。
――――君のためならば、命だって……
「た……」
最後の気力を振り絞って、肺腑の底から叫びを上げた。
「助けて、すずりさんッ!」
瞬間、僕の中からごっそりと何かが抜け落ちた。
「ええ」
そして声が舞い降りてくる。
空の上から、舞い降りてくる。
「必ず助けるわ」
すずり。少女の姿をした悪魔。あまりにも美しい、死の天使。
彼女は路地裏にふわりと爪先を下ろした。
僕は……我ながらそれをする余力があったことに驚いたのだが……首を起こし、彼女の姿に魅入っていた。佐前もまた、突如現れた黒衣の少女に目を奪われているようだった。悪魔は、恭しくスカートを摘まみ上げた。
「お初お目にかかります佐前空人。悪魔のすずりと申します。ごきげんよう。そして、さようなら」
悪魔は優雅に左手を持ち上げる。白い指先は天を示していた。
「カロン」
そんな言葉を発した。
「呼び声に応じなさい」
そこから先は一瞬だった。すずりさんが指差す先から、突如、巨大な手が現れた。猿のような、あるいは骨張った老人のような不気味な手だ。虚空から生えてきたそれは、呆気に取られる佐前の頭上まで伸びてくると、彼の頭部を器用に掴み、
「あ」
捻じり切った。
首を失った身体がばたりと倒れた。巨大な手は、千切れた頭部を掴んだまま再び空へと引っ込んでいく。そして、
「嫌だ! 狩尾! 助けてくれッ!!」
生首が叫んだ。背骨の垂れ下がった生首が。
悪魔は見上げ、冷笑を浮かべた。
「六文銭はサービスしてあげる。プレゲトーンの水底までしっかり案内して貰いなさい」
僕は、唖然として見ているしかなかった。
巨大な手が虚空に消えたあと首の捥がれた胴体を見やった。小さな、無数の影が群がっていた。尖った脚。伸びた羽。蝗だった。何百匹という蝗が……よく見れば頭部に人間の頭が付いている奇怪な蝗が、佐前の身体を猛烈な勢いで貪っていた。肉も、骨も。何もかも。やがて赤黒い染みだけが横たわった。蝗はその染みすら綺麗に舐め尽すと、そのまま地面に沈み込み、後には何も残らなかった。
言葉が出なかった。
「災難だったわね」
彼女は屈み、僕の頬に手を添えた。その手はやはり冷たかった。
見上げて問いかけた。
「彼は……佐前くんは、死んだんですか……?」
「いいえ? 死ねないわ。でも別に、構わないでしょう?」
肯定も、否定もできなかった。ただそれ以上のことは想像したくなかった。
身体の震えが止まらなかった。それが恐怖のせいなのか、血を失い過ぎたせいなのか、それとももっと他の理由なのか、僕にはもう分からなくなっていた。
悪魔は「さて」と立ち上がった。
「貴方は得た。貴方は失った。これからは失って得たものの価値を噛み締めながら有意義に生きることね」
長い髪を翻し、背を向けて立ち去っていく。
「これで契約は完了よ」
その姿は、一歩一歩地面へ沈み、やがて路地裏の陰と見分けがつかなくなった。
僕の意識もまた、次第に闇に呑まれていく。深く深く呑まれていく。
ぽつりと手の甲に何かが落ちた。雨粒だった。粒は徐々に数を増やし、やがて路地裏を覆い尽くした。
傘、持ってくればよかったな。
裏切られたような気分になりながら、まどろみの心地良さに身を浸した。
丘の上のベンチに座った。いつもより座面を固く感じた。そっと掌を押し当ててみる。無数の砂粒が付着していた。その小さな粒を眺めていると無性に虚しい気持ちになった。払い除け、柵の向こうに目をやった。
太陽が地平の彼方に沈もうとしていた。諦めたように落ち着いた色合いだった。景色は間もなく薄暗さに覆われる。同時にそれは宴の始まりでもある。通りに飾られた何千という灯篭が直に町を照らし出す。ここから眺める祭りの景色は、満天の夜空に劣らないほど美しいものになるだろう。けれど、今はもう何の価値も感じられない。
僕は失った。僕は得た。
何を?
損なわれたはずの左目。砕けたはずの四肢の機能? そうかも知れない。まるで何事もなかったかのように元通りになったそれらが、僕の得たものなのかも知れない。あるいは……身の安全だろうか。少し違う気がする。
今一度ベンチを撫でた。彼女のいない景色に触れた。
それが僕の得たものだった。
誰に侵されることもない静謐の時間。
それは彼女を失ってまで手にすべきものだったのだろうか?
溜息を吐く。世界は緩慢に色褪せていく。
立ち上がり、足を踏み出した。
声が聞こえたのだ。彼女の声が。愚かな僕を、呆れた声で呼んでいた。
僕は「今行くよ」と応えた。彼女は「仕方がないな」と肩をすくめた。そうして二人で笑った。今この瞬間が堪らなく嬉しいというふうに。
何もないベンチに用はない。僕は、彼女に報いなければならない。
彼女のところまであと少し。
夕陽に向かって歩いて行く。
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