トレード・オフ

大淀たわら

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第二章「ジュデッカ」

(5)主は与え、主は奪う

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『これはヘブライ語だね』
 家鈴さんから、そんな答えが返ってきた。スマホを翳したままベッドに仰向けになる。顔の真横で黒い塊が揺れた。僕は、それをぼうっと見つめた。
 黒い装丁の本。中を開いてもタイトルを特定するための情報は何一つなかった。正確には意味不明な記号が羅列しているばかりで内容がさっぱり理解できなかった。外国の本なのは間違いない。ただ正規のルートで出版されたものではないのかも知れなかった。なにしろ途中から印刷が途切れている。落丁にしてはあまりに酷い。
 これは一体何だろう?
 ひとまずカウンターで訊いてみることにした。するとさらに奇妙なことに、これは図書館の本ではないと言う。
「……誰かが、勝手に置いてっちゃったんじゃないかな?」
 受付の、あの優しそうなお姉さんは首を傾けて苦笑した。
「たぶん寄贈を断った本だと思う。図書館としても……ほら? 全部を全部受け入れるわけにはいかないでしょう?」
 書架には限りがあるのだから当然だ。持ち出しても構わないかと尋ねると、お姉さんは「別に図書館の本じゃないから」とあっさりだった。そして、
「君がその本を見つけたってことは、今の君がその本を必要としてるってことだと思う」
 そんな不思議なことを口にした。
「必要? これが僕に必要なんですか?」
「うん。世の中っていうのはね。大抵そういうふうにできてるの。人でも。物でも。何でも」
 オカルト染みた運命論だった。ひょっとしてからかわれているのだろうか?
 お姉さんの顔は至極真面目だった。見つめられているだけで吸い込まれそうになる。 
 そういうものなのかも知れない。
 僕は、お姉さんに頭を下げたあと、黒い本を自宅に持ち帰った。
 でも冷静になって考えてみると、やはり上手くあしらわれた気がしないでもなかった。僕にとって必要なもの。……と言われても中身が読めないのでは仕様がない。とりあえず本の一部を写真に収め、家鈴さんに送ってみることにした。博識な彼女なら何か知っているかも知れない。
 返信は翌日、土曜日の晩に返ってきた。彼女はこの言語はヘブライ語だと教えてくれた。
『ユダヤ人が使っていた言葉だよ。現代ではイスラエルの公用語にもなっているね。でも、ここに書かれてあるのはそれよりも古い、古典ヘブライ語みたいだ』
『何が書かれてあるのか、わかる?』
『そういうと思って調べてみた。でもさっぱりだね。単語の意味がいくつか拾えたぐらいだ』
『意味の分かる言葉があったの?』
『ちょっとだけ。でも文章の意味までは分からないよ。いや、そもそも意味のある文字列なのかな? 並んでいる言葉に脈絡がなさ過ぎて、まるでデタラメを書いてる気がする』
『たとえば?』
『一番上の行には『眼球』それから『音楽』という単語がある。三行下ると『舌』と『財産』、その二行下は『魂』と『権力』 ほら? ワケわからないだろ?』
『昔の医学の本じゃないかな? 魂は寿命って考えることもできるし』
『かも知れないね。でも扉に書かれてある文字だけはちゃんと意味が分かったよ。参考にした文献にまるっきり同じものがあったんだ』
『どういう意味なの?』
 次の返信には少し時間がかかった。参考にした文献とやらをもう一度見返していたのかも知れない。雨の音に意識を奪われそうになった頃スマホが短く通知を鳴らした。
『主は与え、主は奪う』
「……主は与え、主は奪う」
 口に出して繰り返していた。
『旧約聖書のヨブ記に出てくる有名な言葉だね。善良で高潔な男だったヨブがサタンによってその信仰心を試されるという物語だ。サタンはヨブの財産や家族を奪い、彼の信仰が揺らぐことを狙うけど、ヨブはその苦難すら神が与えてくれたものとして受け入れるんだ。そこで彼が口にする言葉がそれだ』
 主は与え、主は奪う。
 幸福は神様が与えてくれたもの。たとえそれが奪われても神様の意志だから仕方がない。
 そういう意味だろうか?
 そんなの……何だか身勝手だ。残酷な理屈じゃないか。
 どうせ奪ってしまうのなら、最初から与えなければ良いのに。
『その言葉が出てくるということはユダヤかキリスト絡みの……少なくともそれを意識した本なんだろうね。もう少し調べてみるよ。でも期待はしないで。自分はそこまで語学に精通してるわけじゃないから』
 それからは普段通りの会話に戻った。彼女は、彼女が好きな作家の新刊について熱心に語っていた。安倉草一郎という作家だ。前に二冊ほど借りて読んだが、あまり面白いとも思わなかった。家鈴さんにも僕の感想は控えめに伝えてある。けれど彼女に言わせれば今までとはまるで出来が違うらしい。悪魔に魂を売ったみたいに面白くなっているから是非と薦められた。『月の川』というタイトルだそうだ。彼女とは基本的には趣味が合う。けれどこの作家に関しては必ずしもそうではなかった。あまり気乗りはしない。……いや、恐らく今は何を薦められても心惹かれたりはしないだろう。
 主は与え、主は奪う。
 その一文が、僕の心に暗い影を落としていた。表紙を開き、扉の言葉を眺め下ろした。
 蛇が鎌首をもたげている。
 文字の形がそんなふうに見えた。
 そのときだ。
 誰かに、手首を絡めとられていた。
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