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第一章「無限の愛」
(9)呪い
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それでも表面的には僕たちの関係は継続し、付き合いが一年を過ぎた頃には同棲を始めた。
「これからは、ずっと一緒にいられるね」
香澄は無邪気に笑っていた。僕は、どうだったろう?
生活が楽になったことは確かだった。仕事は相変わらず多忙を極めたが家で香澄が待っていてくれるだけで気が楽だったし、何より晩飯のことを考えなくても良かった。彼女の料理は何でも美味しくバリエーションも豊かだった。望めば望むものを、温かく提供してくれる。料理を食べていると言うより願望を食べていると、そんなことを考えた。
そうした生活を日常と言い表せるようになった頃、徐々に頭をもたげ始めたものがあった。
死期だ。
自身が健康体であることを根拠に、なるだけ考えないよう注力していたが悪魔との契約は確かな効力を持っていた。
『あと三年と数か月で死ぬ』
恐怖が真綿のように心を締め付けてきた。
僕は彼女との間に子供を求めた。それは本能的な衝動だった。将来の予定……たとえば結婚や、僕がいなくなったあとの生活、生まれてくる子供のことなど、親として不可欠なことは何も考えていなかった。ただただ遺伝子を残すという身勝手を彼女に注ごうとした。彼女はやはり拒まなかった。
だが僕の独りよがりが実を結ぶことはなかった。
何度試しても、何を試しても駄目だった。一体どちらに原因があったのか。真実はどうあれ、僕は彼女に責任を転嫁する言葉を投げつけた。彼女はひどく傷つき、涙を流した。心の底から……本当に、傷付いたのだと思う。ひび割れるほどに。
それでも、そうなってしまっても、彼女は僕を憎んだりしなかった。
敵意も、そよ風のような怒りすら向けてこなかった。
「貴方は悪くないの」
そう繰り返し、涙を流すのだ。痛々しい笑みで顔面を歪めながら。
恐怖が僕を支配した。
香澄は、僕を愛し、僕を赦してくれる。どんな最低な行為も、どんな酷い言葉も、全てを優しく受け入れてくれる。何があったとしても。何が起きたとしても。それは、迫りくる死が絶対的に不可避であり、約定に基づき執行される予定に他ならないことの証明だった。
この愛は呪いだ。
そんな簡単な事実に、愚かしくもようやく気が付いた。
生活は次第に荒れた。
まず最初に会社を辞めた。残りの人生を糞みたいな時間で消費したくなかった。貯金の残高は心許なかったが知ったことではなかった。残された時間をとにかく有意義なものにしたい。その焦燥感だけに突き動かされた。しかし、いざ自由な時間を手にしてみると、その有意義というやつが思い浮かばなかった。何を考えても、何を計画しても、時間が無駄になる気がしてならないのだ。一度気晴らしのつもりで旅行に出かけたことがある。高い宿を取り、出来得る限りの贅沢を試してみた。だが契約の期限が頭から離れず、心から愉しめたものなど一つもなかった。
滑稽な話だった。独りで生きていた頃、僕は『死』をある種の救済のように考えていた。孤独に生きる寂しさも、展望が拓けない苦しみも、死ねばすべて終わる……楽になれるのだと憧れていた。これと言って特別な思想ではないはずだ。誰だって一度はそう考える。だが、それは一種の逃避に過ぎず、現実に死に直面すれば、人を見殺しにしてでも生にすがりつくだろうということは分かっていた。頭では分かっていたのだ。自分は冷静に物事が判断できる人間で、だからこそ命を材料に取引ができるのだと根拠もなく過信していた。だが違う。知っていることと、理解していることは、まるで違う。
僕は、知っていただけだ。
次の逃げ道は安易だった。酒だ。僕は目覚めてから眠るまで好きでもないアルコールを摂取し続けた。酒は頭の悪いやつが飲むものだ。だから頭の悪い僕にはぴったりだった。しかし酒には良いところもある。あれを飲んで判断力が低下している間は、十の不安を三程度にまで減らすことができるのだ。酒が切れたとき、その不安が倍以上に圧し掛かって死にたくなるのだが酒を切らさずに飲み続けることで、その欠点は克服した。本当に頭が悪かった。
そんな僕に香澄はどう接したか? 愚問だろう。彼女は赦した。仕事を辞め、家に篭り、彼女と、彼女の僅かな実入りに寄生するクズを赦したのだ。飲み過ぎは良くないだとか、言うまでもないことは言っていた気がするが本気で止めさせようとはしなかった。僕の苛立ちは頂点に達しつつあった。
僕は、ありとあらゆる場面で彼女を罵った。出勤前、僕を置いて出かけようとする彼女を嫌味たらしく皮肉り、帰りが五分でも遅ければ役立たずと怒鳴り散らした。酒が切れたときは空き缶を投げつけ、買って戻って来たときは愚図となじった。それは概ね恐怖と焦燥が促す行為ではあったが、どこかでやはり抵抗心があったのだと思う。死に対する抵抗だ。香澄が僕に愛想を尽かし、怒り、見限る。そうすれば契約が無効になるのではないかと、そう期待していた。
そうはならなかった。どんなに罵倒されても、どんなに泣いて目を腫らしても、彼女は最後には僕を赦した。僕は益々恐怖に駆られ力任せに彼女を犯した。香澄はそれすらも受け入れた。
そして……やはり認めざるを得ない。彼女がそうして赦してくれるとき、彼女が全身で抱き留めてくれるとき、僕は、僕に対する彼女の愛の深さを感じ取り、生も死も手放したくなるほど幸福な感情に支配されるのだ。麻薬に侵されるようだった。
「これからは、ずっと一緒にいられるね」
香澄は無邪気に笑っていた。僕は、どうだったろう?
生活が楽になったことは確かだった。仕事は相変わらず多忙を極めたが家で香澄が待っていてくれるだけで気が楽だったし、何より晩飯のことを考えなくても良かった。彼女の料理は何でも美味しくバリエーションも豊かだった。望めば望むものを、温かく提供してくれる。料理を食べていると言うより願望を食べていると、そんなことを考えた。
そうした生活を日常と言い表せるようになった頃、徐々に頭をもたげ始めたものがあった。
死期だ。
自身が健康体であることを根拠に、なるだけ考えないよう注力していたが悪魔との契約は確かな効力を持っていた。
『あと三年と数か月で死ぬ』
恐怖が真綿のように心を締め付けてきた。
僕は彼女との間に子供を求めた。それは本能的な衝動だった。将来の予定……たとえば結婚や、僕がいなくなったあとの生活、生まれてくる子供のことなど、親として不可欠なことは何も考えていなかった。ただただ遺伝子を残すという身勝手を彼女に注ごうとした。彼女はやはり拒まなかった。
だが僕の独りよがりが実を結ぶことはなかった。
何度試しても、何を試しても駄目だった。一体どちらに原因があったのか。真実はどうあれ、僕は彼女に責任を転嫁する言葉を投げつけた。彼女はひどく傷つき、涙を流した。心の底から……本当に、傷付いたのだと思う。ひび割れるほどに。
それでも、そうなってしまっても、彼女は僕を憎んだりしなかった。
敵意も、そよ風のような怒りすら向けてこなかった。
「貴方は悪くないの」
そう繰り返し、涙を流すのだ。痛々しい笑みで顔面を歪めながら。
恐怖が僕を支配した。
香澄は、僕を愛し、僕を赦してくれる。どんな最低な行為も、どんな酷い言葉も、全てを優しく受け入れてくれる。何があったとしても。何が起きたとしても。それは、迫りくる死が絶対的に不可避であり、約定に基づき執行される予定に他ならないことの証明だった。
この愛は呪いだ。
そんな簡単な事実に、愚かしくもようやく気が付いた。
生活は次第に荒れた。
まず最初に会社を辞めた。残りの人生を糞みたいな時間で消費したくなかった。貯金の残高は心許なかったが知ったことではなかった。残された時間をとにかく有意義なものにしたい。その焦燥感だけに突き動かされた。しかし、いざ自由な時間を手にしてみると、その有意義というやつが思い浮かばなかった。何を考えても、何を計画しても、時間が無駄になる気がしてならないのだ。一度気晴らしのつもりで旅行に出かけたことがある。高い宿を取り、出来得る限りの贅沢を試してみた。だが契約の期限が頭から離れず、心から愉しめたものなど一つもなかった。
滑稽な話だった。独りで生きていた頃、僕は『死』をある種の救済のように考えていた。孤独に生きる寂しさも、展望が拓けない苦しみも、死ねばすべて終わる……楽になれるのだと憧れていた。これと言って特別な思想ではないはずだ。誰だって一度はそう考える。だが、それは一種の逃避に過ぎず、現実に死に直面すれば、人を見殺しにしてでも生にすがりつくだろうということは分かっていた。頭では分かっていたのだ。自分は冷静に物事が判断できる人間で、だからこそ命を材料に取引ができるのだと根拠もなく過信していた。だが違う。知っていることと、理解していることは、まるで違う。
僕は、知っていただけだ。
次の逃げ道は安易だった。酒だ。僕は目覚めてから眠るまで好きでもないアルコールを摂取し続けた。酒は頭の悪いやつが飲むものだ。だから頭の悪い僕にはぴったりだった。しかし酒には良いところもある。あれを飲んで判断力が低下している間は、十の不安を三程度にまで減らすことができるのだ。酒が切れたとき、その不安が倍以上に圧し掛かって死にたくなるのだが酒を切らさずに飲み続けることで、その欠点は克服した。本当に頭が悪かった。
そんな僕に香澄はどう接したか? 愚問だろう。彼女は赦した。仕事を辞め、家に篭り、彼女と、彼女の僅かな実入りに寄生するクズを赦したのだ。飲み過ぎは良くないだとか、言うまでもないことは言っていた気がするが本気で止めさせようとはしなかった。僕の苛立ちは頂点に達しつつあった。
僕は、ありとあらゆる場面で彼女を罵った。出勤前、僕を置いて出かけようとする彼女を嫌味たらしく皮肉り、帰りが五分でも遅ければ役立たずと怒鳴り散らした。酒が切れたときは空き缶を投げつけ、買って戻って来たときは愚図となじった。それは概ね恐怖と焦燥が促す行為ではあったが、どこかでやはり抵抗心があったのだと思う。死に対する抵抗だ。香澄が僕に愛想を尽かし、怒り、見限る。そうすれば契約が無効になるのではないかと、そう期待していた。
そうはならなかった。どんなに罵倒されても、どんなに泣いて目を腫らしても、彼女は最後には僕を赦した。僕は益々恐怖に駆られ力任せに彼女を犯した。香澄はそれすらも受け入れた。
そして……やはり認めざるを得ない。彼女がそうして赦してくれるとき、彼女が全身で抱き留めてくれるとき、僕は、僕に対する彼女の愛の深さを感じ取り、生も死も手放したくなるほど幸福な感情に支配されるのだ。麻薬に侵されるようだった。
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