9 / 50
第一章「無限の愛」
(8)幼年期の終わり
しおりを挟む
「望くん、ほら、あっちのも楽しそうですよ」
香澄は、絶叫系を指差しながら僕の手を引いた。他のアトラクション同様、長蛇の列が伸びている。時刻は二時過ぎ。剥き出しの太陽に汗が滲んだ。
拭い、愛想を作った。
「ごめん、ちょっと休んでていいかな?」
香澄は顔を曇らせた。心配そうに顔を覗き込んでくる。
「具合が悪いんですか? ごめんなさい。私、気が付かなくて」
「いや……歩き疲れただけだよ」
「でも」
「大丈夫。そこで座ってるから、飲み物でも買ってきてくれないかな」
香澄はなおも逡巡したが、直に微笑むと「じゃあ何か冷たいものでも買ってきますね」とスカートを翻した。子犬みたく駆けて行く彼女を見送ったあと木陰のベンチに腰を下ろした。
座面は硬く、生暖かい。
立ち昇る陽炎が、景色を朧げなものにしていた。
眺める意識もまた曖昧なものになっていく。
混濁の心地良さに呑まれぬよう瞳を閉ざした。息を吐き、思考を言葉に換えた。
「彼女は、何なんだ?」
質問に、質問が返ってくる。
「どういう意味かしら?」
黒髪の少女……見ているだけで暑苦しい衣装をまとったそれは、涼しげな瞳で僕と同じほうを見つめていた。手には何故か棒アイスが握られている。金を払って買ったのだろうか? 疑問には感じたがあえて口には出さなかった。それよりも癪に障ったのが、その態度だ。質問の意図をすっかりと理解していながら勿体ぶっている。すずりは、舌先でちろりとバニラを舐めた。
「取引に嘘はなかったでしょう? 貴方は寿命と引き換えに彼女を得た。悪魔というものは代金分の仕事はするものなの」
「ああ、そうだろうとも。そうだろうともさ。だが疑問に思っちゃいけない法はないだろう。教えてくれ。彼女は一体何なんだ? どうして僕に好意を向けてくる?」
愚かな質問だった。叶えたのは彼女。望んだのは僕だ。でも納得ができない。
どうして僕を愛してくれるのか?
佐倉香澄。二十四歳。父親は銀行員で、母親は弁護士。それなりに裕福な家庭で、それなりの教育を受けてきた。家族関係は良好かつ円満で、尊敬する人間は両親と公言して憚らない。趣味は読書で知識の幅はかなり広い。だが高慢なところは見受けられず性格は明るく、無邪気。どこか抜けているところもあり、友人は相応に多いらしい。現在は市立図書館に臨時職員として勤務しながら採用試験に向けて勉強中……。
こうしてプロフィールを並べると、益々違和感が強まってくる。
彼女と僕では、質が違い過ぎる。
好意を向けられる、要素がない。
僕は、すずりを見据えた。文字通り、悪魔の如く美しい少女。僕と香澄の関係にこの娘の介在があったことは確かだ。僕が望んだのだから当然だ。でも、それは一体どういう形で?
運命を操作したのだろうか。彼女の心を操ったのだろうか? ならば、その愛情の真贋は? 彼女の本心はどこにある?
「そもそも……本当に、実在する人間なのか? 君が造った人形なんじゃないのか?」
二か月間、押し留めていた疑念を口にした。
すずりは、唇を舐めた。
「……さあ? どうでもいいでしょう、そんなことは。大切なのは事実よ。彼女が貴方を愛しているという事実。違うかしら?」
返答に詰まった。すずりはアイスに歯を立て、喉のラインをこくりと蠢かせた。
一口が終わると、残りにゆっくりと舌を這わせる。蛇のように。
「流れに身を任せなさい。必要のないことは考えなくてもいいの。つまりは不安を覚えるとか、そういう類のことはね。私は完璧に仕事をする」
そう宣言し、食べかけの棒から指を離した。アイスは地面へ垂直に落下し、何が起きるでもなく、べちゃりと潰れた。すぐさま熱で溶けていくバニラを愉快そうに見下ろした。
「彼女は貴方を無限に愛し、無限に赦す。決して貴方を裏切らないし、見放すこともない。安心して良いの。貴方は赤ん坊のように安心して良いのよ」
前方へ視線を向ける。二人分のペットボトルを手にした香澄が小走りで戻ってきた。
すずりの姿はもうどこにもなかった。溶けたアイスが汚らしい跡を残しているだけだった。
無限に愛し、無限に赦す。
彼女の言葉通り、香澄は僕の存在を全面的に受け入れた。時間に遅れても怒らない。意見が割れても否定しない。無理を強いても不機嫌にならず、我儘を言っても許してくれる。僕の稚拙な漫画を大袈裟に褒め、慰めが欲しいときは肌を貸してくれた。
認めよう。香澄と過ごす時間は心地良かった。将来の展望も開けず、狭い部屋で緩やかに腐敗していた僕にとって、彼女の存在は救いだった。求めてきたものがようやく得られたのだと思えた。だが同時に不安を覚えていた。強く、強く、不安を覚えていた。
僕はこのまま、ゆりかごでまどろむような時間を過ごしてしまって良いのだろうか?
何か……途轍もない代価を支払わなければならない気がして恐ろしかった。
一度、香澄との連絡を絶ってみたことがある。約束していた時間をすっぽかし、僕の身を案じる彼女のメッセージを無視し続けた。一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、スマホの通知が途絶えるのを見計らってから連絡を取ってみた。僕は、彼女が怒り狂い、謝罪を要求してくることを期待していた。絶対に許さないと罵ってくることを期待していた。だが彼女は僕の期待に応じてはくれなかった。ただただ「会いたい」とメッセージを寄越し、実際にそうしてやると僕を抱きしめ、涙を流した。唇を重ね、肌を舐め、股を開いた。
気持ちが悪かった。
香澄は、絶叫系を指差しながら僕の手を引いた。他のアトラクション同様、長蛇の列が伸びている。時刻は二時過ぎ。剥き出しの太陽に汗が滲んだ。
拭い、愛想を作った。
「ごめん、ちょっと休んでていいかな?」
香澄は顔を曇らせた。心配そうに顔を覗き込んでくる。
「具合が悪いんですか? ごめんなさい。私、気が付かなくて」
「いや……歩き疲れただけだよ」
「でも」
「大丈夫。そこで座ってるから、飲み物でも買ってきてくれないかな」
香澄はなおも逡巡したが、直に微笑むと「じゃあ何か冷たいものでも買ってきますね」とスカートを翻した。子犬みたく駆けて行く彼女を見送ったあと木陰のベンチに腰を下ろした。
座面は硬く、生暖かい。
立ち昇る陽炎が、景色を朧げなものにしていた。
眺める意識もまた曖昧なものになっていく。
混濁の心地良さに呑まれぬよう瞳を閉ざした。息を吐き、思考を言葉に換えた。
「彼女は、何なんだ?」
質問に、質問が返ってくる。
「どういう意味かしら?」
黒髪の少女……見ているだけで暑苦しい衣装をまとったそれは、涼しげな瞳で僕と同じほうを見つめていた。手には何故か棒アイスが握られている。金を払って買ったのだろうか? 疑問には感じたがあえて口には出さなかった。それよりも癪に障ったのが、その態度だ。質問の意図をすっかりと理解していながら勿体ぶっている。すずりは、舌先でちろりとバニラを舐めた。
「取引に嘘はなかったでしょう? 貴方は寿命と引き換えに彼女を得た。悪魔というものは代金分の仕事はするものなの」
「ああ、そうだろうとも。そうだろうともさ。だが疑問に思っちゃいけない法はないだろう。教えてくれ。彼女は一体何なんだ? どうして僕に好意を向けてくる?」
愚かな質問だった。叶えたのは彼女。望んだのは僕だ。でも納得ができない。
どうして僕を愛してくれるのか?
佐倉香澄。二十四歳。父親は銀行員で、母親は弁護士。それなりに裕福な家庭で、それなりの教育を受けてきた。家族関係は良好かつ円満で、尊敬する人間は両親と公言して憚らない。趣味は読書で知識の幅はかなり広い。だが高慢なところは見受けられず性格は明るく、無邪気。どこか抜けているところもあり、友人は相応に多いらしい。現在は市立図書館に臨時職員として勤務しながら採用試験に向けて勉強中……。
こうしてプロフィールを並べると、益々違和感が強まってくる。
彼女と僕では、質が違い過ぎる。
好意を向けられる、要素がない。
僕は、すずりを見据えた。文字通り、悪魔の如く美しい少女。僕と香澄の関係にこの娘の介在があったことは確かだ。僕が望んだのだから当然だ。でも、それは一体どういう形で?
運命を操作したのだろうか。彼女の心を操ったのだろうか? ならば、その愛情の真贋は? 彼女の本心はどこにある?
「そもそも……本当に、実在する人間なのか? 君が造った人形なんじゃないのか?」
二か月間、押し留めていた疑念を口にした。
すずりは、唇を舐めた。
「……さあ? どうでもいいでしょう、そんなことは。大切なのは事実よ。彼女が貴方を愛しているという事実。違うかしら?」
返答に詰まった。すずりはアイスに歯を立て、喉のラインをこくりと蠢かせた。
一口が終わると、残りにゆっくりと舌を這わせる。蛇のように。
「流れに身を任せなさい。必要のないことは考えなくてもいいの。つまりは不安を覚えるとか、そういう類のことはね。私は完璧に仕事をする」
そう宣言し、食べかけの棒から指を離した。アイスは地面へ垂直に落下し、何が起きるでもなく、べちゃりと潰れた。すぐさま熱で溶けていくバニラを愉快そうに見下ろした。
「彼女は貴方を無限に愛し、無限に赦す。決して貴方を裏切らないし、見放すこともない。安心して良いの。貴方は赤ん坊のように安心して良いのよ」
前方へ視線を向ける。二人分のペットボトルを手にした香澄が小走りで戻ってきた。
すずりの姿はもうどこにもなかった。溶けたアイスが汚らしい跡を残しているだけだった。
無限に愛し、無限に赦す。
彼女の言葉通り、香澄は僕の存在を全面的に受け入れた。時間に遅れても怒らない。意見が割れても否定しない。無理を強いても不機嫌にならず、我儘を言っても許してくれる。僕の稚拙な漫画を大袈裟に褒め、慰めが欲しいときは肌を貸してくれた。
認めよう。香澄と過ごす時間は心地良かった。将来の展望も開けず、狭い部屋で緩やかに腐敗していた僕にとって、彼女の存在は救いだった。求めてきたものがようやく得られたのだと思えた。だが同時に不安を覚えていた。強く、強く、不安を覚えていた。
僕はこのまま、ゆりかごでまどろむような時間を過ごしてしまって良いのだろうか?
何か……途轍もない代価を支払わなければならない気がして恐ろしかった。
一度、香澄との連絡を絶ってみたことがある。約束していた時間をすっぽかし、僕の身を案じる彼女のメッセージを無視し続けた。一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、スマホの通知が途絶えるのを見計らってから連絡を取ってみた。僕は、彼女が怒り狂い、謝罪を要求してくることを期待していた。絶対に許さないと罵ってくることを期待していた。だが彼女は僕の期待に応じてはくれなかった。ただただ「会いたい」とメッセージを寄越し、実際にそうしてやると僕を抱きしめ、涙を流した。唇を重ね、肌を舐め、股を開いた。
気持ちが悪かった。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
『霧原村』~少女達の遊戯が幽から土地に纏わる怪異を起こす~転校生渉の怪異事変~
潮ノ海月
ホラー
とある年の五月の中旬、都会から来た転校生、神代渉が霧野川高校の教室に現れる。彼の洗練された姿に女子たちは興味を示し、一部の男子は不満を抱く。その中、主人公の森月和也は、渉の涼やかな笑顔の裏に冷たさを感じ、彼に違和感を感じた。
渉の編入から一週間が過ぎ、男子達も次第に渉を受け入れ、和也の友人の野風雄二も渉の魅力に引き込まれ、彼の友人となった。転校生騒ぎが終息しかけたある日の学校の昼休み、女子二人が『こっくりさん』で遊び始め、突然の悲鳴が教室に響く。そしてその翌日、同じクラスの女子、清水莉子が体調不良で休み、『こっくりさん』の祟りという噂が学校中に広まっていく。その次の日の放課後、莉子を心配したと斉藤凪紗は、彼女の友人である和也、雄二、凪沙、葵、渉の五人と共に莉子の家を訪れる。すると莉子の家は重苦しい雰囲気に包まれ、莉子の母親は憔悴した姿に変わっていた。その異変に気づいた渉と和也が莉子の部屋へ入ると、彼女は霊障によって変わり果てた姿に。しかし、彼女の霊障は始まりでしかなく、その後に起こる霊障、怪異。そして元霧原村に古くから伝わる因習、忌み地にまつわる闇、恐怖の怪異へと続く序章に過ぎなかった。
《主人公は和也(語り部)となります。ライトノベルズ風のホラー物語です》
奇怪未解世界
五月 病
ホラー
突如大勢の人間が消えるという事件が起きた。
学内にいた人間の中で唯一生存した女子高生そよぎは自身に降りかかる怪異を退け、消えた友人たちを取り戻すために「怪人アンサー」に助けを求める。
奇妙な契約関係になった怪人アンサーとそよぎは学校の人間が消えた理由を見つけ出すため夕刻から深夜にかけて調査を進めていく。
その過程で様々な怪異に遭遇していくことになっていくが……。
【商業企画進行中・取り下げ予定】さようなら、私の初恋。
ごろごろみかん。
ファンタジー
結婚式の夜、私はあなたに殺された。
彼に嫌悪されているのは知っていたけど、でも、殺されるほどだとは思っていなかった。
「誰も、お前なんか必要としていない」
最期の時に言われた言葉。彼に嫌われていても、彼にほかに愛するひとがいても、私は彼の婚約者であることをやめなかった。やめられなかった。私には責務があるから。
だけどそれも、意味のないことだったのだ。
彼に殺されて、気がつけば彼と結婚する半年前に戻っていた。
なぜ時が戻ったのかは分からない。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。
私は、私の生きたいように生きます。

婚約者の形見としてもらった日記帳が気持ち悪い
七辻ゆゆ
ファンタジー
好きでもないが政略として婚約していた王子が亡くなり、王妃に押し付けられるように形見の日記帳を受け取ったルアニッチェ。
その内容はルアニッチェに執着する気持ちの悪いもので、手元から離そうとするのに、何度も戻ってきてしまう。そんなとき、王子の愛人だった女性が訪ねてきて、王子の形見が欲しいと言う。
(※ストーリーはホラーですが、異世界要素があるものはカテゴリエラーになるとのことなので、ファンタジーカテゴリにしています)
霊感不動産・グッドバイの無特記物件怪奇レポート
竹原 穂
ホラー
◾️あらすじ
不動産会社「グッドバイ」の新人社員である朝前夕斗(あさまえ ゆうと)は、壊滅的な営業不振のために勤めだして半年も経たないうちに辺境の遺志留(いしどめ)支店に飛ばされてしまう。
所長・里見大数(さとみ ひろかず)と二人きりの遺志留支店は、特に事件事故が起きたわけではないのに何故か借り手のつかないワケあり物件(通称:『無特記物件』)ばかり取り扱う特殊霊能支社だった!
原因を調査するのが主な業務だと聞かされるが、所長の霊感はほとんどない上に朝前は取り憑かれるだけしか能がないポンコツっぷり。
凸凹コンビならぬ凹凹コンビが挑む、あなたのお部屋で起こるかもしれないホラー!
事件なき怪奇現象の謎を暴け!!
【第三回ホラー・ミステリー大賞】で特別賞をいただきました!
ありがとうございました。
■登場人物
朝前夕斗(あさまえ ゆうと)
不動産会社「グッドバイ」の新人社員。
壊滅的な営業成績不振のために里見のいる遺志留支店に飛ばされた。 無自覚にいろんなものを引きつけてしまうが、なにもできないぽんこつ霊感体質。
里見大数(さとみ ひろかず)
グッドバイ遺志留支社の所長。
霊能力があるが、力はかなり弱い。
煙草とお酒とAV鑑賞が好き。
番場怜子(ばんば れいこ)
大手不動産会社水和不動産の社員。
優れた霊感を持つ。
里見とは幼馴染。

無能妃候補は辞退したい
水綴(ミツヅリ)
恋愛
貴族の嗜み・教養がとにかく身に付かず、社交会にも出してもらえない無能侯爵令嬢メイヴィス・ラングラーは、死んだ姉の代わりに15歳で王太子妃候補として王宮へ迎え入れられる。
しかし王太子サイラスには許嫁の公爵令嬢クリスタがおり、王太子妃候補とは名ばかりの茶番レース。
メイヴィスはサイラスとクリスタが正式に婚約を発表する3年後までひっそりと王宮で過ごすことに。
誰もが不出来な自分を見下す中、誰とも関わりたくないメイヴィスはサイラスとも他の王太子妃候補たちとも距離を取るが……。
果たしてメイヴィスは王宮を出られるのか?
誰にも愛されないひとりぼっちの無気力令嬢が愛を得るまでの話。
この作品は「小説家になろう」「カクヨム」にも掲載しています。
怪奇短篇書架 〜呟怖〜
縁代まと
ホラー
137文字以内の手乗り怪奇小話群。
Twitterで呟いた『呟怖』のまとめです。
ホラーから幻想系、不思議な話など。
貴方の心に引っ掛かる、お気に入りの一篇が見つかると大変嬉しいです。
※纏めるにあたり一部改行を足している部分があります
呟怖の都合上、文頭の字下げは意図的に省いたり普段は避ける変換をしたり、三点リーダを一個奇数にしていることがあります
※カクヨムにも掲載しています(あちらとは話の順番を組み替えてあります)
※それぞれ独立した話ですが、関西弁の先輩と敬語の後輩の組み合わせの時は同一人物です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる