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第一章「無限の愛」
(7)愛の模索
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「本当にありがとうございました。お金は必ずお返ししますので」
彼女は、恐縮した様子で頭を下げた。僕は「良いですよ別に」と手を振った。
「大した額ではないですから」
「いえ、そういうわけにもいきません。見ず知らずの方にこんな……。あの、良ければ御連絡先を教えていただけませんか? なるだけ早めにお返しに上がりますので」
彼女は、バッグからスマホを取り出した。
応じることを、僕は躊躇った。
これがそうなのだろうか?
僕は、それでも遠慮を示したが最終的には彼女に押し切られる形で連絡先を伝えることになった。その夜はそれで別れ、実際に連絡が入ったのは翌日の昼休みだった。借りた金を返したいから土曜日に会えないかという内容だった。断る理由は特になかった。
そして土曜日、僕たちは市内の喫茶で落ち合った。対面に座った彼女は律儀にも封筒入りで金を渡してきた。たかだか600円そこそこに大げさな。思わず吹き出してしまったのだが彼女も同じ気持ちだったらしい。「そうは思ったんですけど」と気恥ずかしそうにしていた。
その女性は、佐倉香澄を名乗った。年齢は二十四歳。市立図書館に勤務しているという。
「事務の非常勤です。本当は司書として働きたかったんですけど採用試験が難しくて。今は来年度に向けて勉強中です」
昔から本が好きなのだそうだ。
たとえばどういうものを読むのか。尋ねると彼女は有名な作家の名前を二、三挙げた。そして有名でない作家の名前を二、三挙げた。さらに昔の作家の名前を五ほど挙げ、海外作家の名前を五ほど挙げた。さらにその作家が影響を受けた作家を六ほど並べ、その作家が影響を与えた作家を七ほど連ねた。そういうひとらしい。
「最近だと、そうですね。朝霧桐さんとか和泉麗衣さんとか……あと安倉草一郎さんにも注目してます」
安倉草一郎。聞いたことのない名前だった。
「世間的には無名ですから。いえ、本好きの間でもそんなに注目されてなくて私が個人的に応援してるだけで……。でも何かこう、光るものがあると思うんです。来年の出版を目指して新作を書いてるそうなんですけど私これがもうホンっと楽しみで!」
そう声を弾ませる。
あとは蛇口を捻ったみたいだった。彼女は、時に身振りを、時に手振りを交えながら安倉某の魅力を熱っぽく語った。落語の演目を観ているみたいだった。通路を横切るウェイトレスが忍び笑いでこちらを見たが、僕も苦笑を返すしかなかった。
彼女は、珈琲がすっかり渇き切るぐらいの間、熱弁を振るっていた。しかし、あるとき不意に、
「あ」
と固まると、みるみるうちに赤くなった。
そして、耳まで茹で上がった顔を両手で隠し、消え入りそうな声で言った。
「……すみません、今のは忘れてください」
笑ってしまった。
そんなことはない。僕もフィクションが好きで、よく漫画を読んでいる。そうフォローしてあげると彼女は「そうなんですか?」と目を丸くした。彼女は漫画にも造詣があるようで僕が挙げたいくつかのタイトルに食い付いてきた。と言うより明らかに僕よりも詳しかった。安倉某のときと同じような勢いで語り始め、僕は押されながらもそれに応えた。ストーリーの解釈や演出意図、好きな登場人物から感銘を受けた台詞まで。同僚に話しても理解して貰えないような突っ込んだ話題にも彼女は難なく応じてきた。殊勝に感じたのは、彼女がこちらの意見を一度も否定しなかったことだ。僕が、彼女とは正反対の意見を述べ、時に明白に否定してみせても「そういう考えもありですね」と頷いてくれた。
僕たちは、たっぷり三時間近く話し込み、気付けば午後四時を過ぎていた。
別れ際、彼女はこんなことを提案してきた。
「あの……またお会いできませんか?」
空のカップを手で包み、照れ臭そうに続ける。
「普段、小説とか漫画のことでこんなに話す機会もなくて。その……今日はとても楽しかったです。小坂さんが嫌じゃなければ、また」
上目遣いでこちらを窺う。断る理由は特になかった。
佐倉香澄と再び会ったのは翌週の土曜日だった。夕方に待ち合わせ、食事を取りながら語り合った。お互いに酒が入ったこともあって前回以上に熱が入った。酔った勢いで多少下世話なことも言ってしまったが彼女は笑って聞き流してくれた。その晩、もう一度会う約束を交わし、彼女を家まで送り届けた。
三度目は車を借りて遠出をした。水族館や行楽地のイベントなど他愛のない場所を二人で巡り車内ではフィクションの話題に花を咲かせた。その他にも家族や職場の人間関係など個人的なこともいくらか話した。どちらかと言えば僕が愚痴を垂れていた時間のほうが長かった気がする。仕事や両親の愚痴だ。聞いても面白くないどころか甚だしく不愉快な話題ではなかったろうか。でも彼女は気分を害したりせず、穏やかに同情を示してくれた。夜は静かな店で食事を取り満腹になったあと唇を重ねた。そうしたい気分だった。多少強引な形になってしまったが彼女は僕を受け入れてくれた。
彼女は、恐縮した様子で頭を下げた。僕は「良いですよ別に」と手を振った。
「大した額ではないですから」
「いえ、そういうわけにもいきません。見ず知らずの方にこんな……。あの、良ければ御連絡先を教えていただけませんか? なるだけ早めにお返しに上がりますので」
彼女は、バッグからスマホを取り出した。
応じることを、僕は躊躇った。
これがそうなのだろうか?
僕は、それでも遠慮を示したが最終的には彼女に押し切られる形で連絡先を伝えることになった。その夜はそれで別れ、実際に連絡が入ったのは翌日の昼休みだった。借りた金を返したいから土曜日に会えないかという内容だった。断る理由は特になかった。
そして土曜日、僕たちは市内の喫茶で落ち合った。対面に座った彼女は律儀にも封筒入りで金を渡してきた。たかだか600円そこそこに大げさな。思わず吹き出してしまったのだが彼女も同じ気持ちだったらしい。「そうは思ったんですけど」と気恥ずかしそうにしていた。
その女性は、佐倉香澄を名乗った。年齢は二十四歳。市立図書館に勤務しているという。
「事務の非常勤です。本当は司書として働きたかったんですけど採用試験が難しくて。今は来年度に向けて勉強中です」
昔から本が好きなのだそうだ。
たとえばどういうものを読むのか。尋ねると彼女は有名な作家の名前を二、三挙げた。そして有名でない作家の名前を二、三挙げた。さらに昔の作家の名前を五ほど挙げ、海外作家の名前を五ほど挙げた。さらにその作家が影響を受けた作家を六ほど並べ、その作家が影響を与えた作家を七ほど連ねた。そういうひとらしい。
「最近だと、そうですね。朝霧桐さんとか和泉麗衣さんとか……あと安倉草一郎さんにも注目してます」
安倉草一郎。聞いたことのない名前だった。
「世間的には無名ですから。いえ、本好きの間でもそんなに注目されてなくて私が個人的に応援してるだけで……。でも何かこう、光るものがあると思うんです。来年の出版を目指して新作を書いてるそうなんですけど私これがもうホンっと楽しみで!」
そう声を弾ませる。
あとは蛇口を捻ったみたいだった。彼女は、時に身振りを、時に手振りを交えながら安倉某の魅力を熱っぽく語った。落語の演目を観ているみたいだった。通路を横切るウェイトレスが忍び笑いでこちらを見たが、僕も苦笑を返すしかなかった。
彼女は、珈琲がすっかり渇き切るぐらいの間、熱弁を振るっていた。しかし、あるとき不意に、
「あ」
と固まると、みるみるうちに赤くなった。
そして、耳まで茹で上がった顔を両手で隠し、消え入りそうな声で言った。
「……すみません、今のは忘れてください」
笑ってしまった。
そんなことはない。僕もフィクションが好きで、よく漫画を読んでいる。そうフォローしてあげると彼女は「そうなんですか?」と目を丸くした。彼女は漫画にも造詣があるようで僕が挙げたいくつかのタイトルに食い付いてきた。と言うより明らかに僕よりも詳しかった。安倉某のときと同じような勢いで語り始め、僕は押されながらもそれに応えた。ストーリーの解釈や演出意図、好きな登場人物から感銘を受けた台詞まで。同僚に話しても理解して貰えないような突っ込んだ話題にも彼女は難なく応じてきた。殊勝に感じたのは、彼女がこちらの意見を一度も否定しなかったことだ。僕が、彼女とは正反対の意見を述べ、時に明白に否定してみせても「そういう考えもありですね」と頷いてくれた。
僕たちは、たっぷり三時間近く話し込み、気付けば午後四時を過ぎていた。
別れ際、彼女はこんなことを提案してきた。
「あの……またお会いできませんか?」
空のカップを手で包み、照れ臭そうに続ける。
「普段、小説とか漫画のことでこんなに話す機会もなくて。その……今日はとても楽しかったです。小坂さんが嫌じゃなければ、また」
上目遣いでこちらを窺う。断る理由は特になかった。
佐倉香澄と再び会ったのは翌週の土曜日だった。夕方に待ち合わせ、食事を取りながら語り合った。お互いに酒が入ったこともあって前回以上に熱が入った。酔った勢いで多少下世話なことも言ってしまったが彼女は笑って聞き流してくれた。その晩、もう一度会う約束を交わし、彼女を家まで送り届けた。
三度目は車を借りて遠出をした。水族館や行楽地のイベントなど他愛のない場所を二人で巡り車内ではフィクションの話題に花を咲かせた。その他にも家族や職場の人間関係など個人的なこともいくらか話した。どちらかと言えば僕が愚痴を垂れていた時間のほうが長かった気がする。仕事や両親の愚痴だ。聞いても面白くないどころか甚だしく不愉快な話題ではなかったろうか。でも彼女は気分を害したりせず、穏やかに同情を示してくれた。夜は静かな店で食事を取り満腹になったあと唇を重ねた。そうしたい気分だった。多少強引な形になってしまったが彼女は僕を受け入れてくれた。
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