トレード・オフ

大淀たわら

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第一章「無限の愛」

(6)660円の運命

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「全冊で660円になります。宜しいでしょうか?」
 積まれた本の前で彼女は言った。
 数十冊でこの値段は……と愚図ついたが妥当な価格が分からない。黙って頷くと彼女は「ありがとうございます」とレジを打った。引き出しから小銭を摘まみ「660円です」と差し出してくる。僕は、その手をじっと見つめた。
 この古本屋には何度か本を売りにきたことがあった。レジで応対してくれるのは決まってこの若い女性で、齢から言っても経営者とは考えづらいのだが他の店員の姿を見たことがない。店長の娘か孫だろうか。人付き合いの苦手な本の虫がやむを得ず愛嬌を振り撒いている、という雰囲気が如実に伝わってきて微笑ましかった。
 無言で観察していると彼女はことりと首を傾けた。慌てて代金を受け取り、そのままポケットに突っ込む。やり取りはそれで終わった。店を出るとき一度振り返ってみたが、そのひとは何事もなく書棚の整理に戻っていた。
 彼女ではないのだろうか?
 
「要らない本を売ってみなさいな」
 一体どういう形で願いが叶うのか。
 その質問に対する答えがそれだった。表紙に押し当てた手を握ったり開いたりしたあと悪魔が指し示すほうへ目を向けた。
 意味が分からない。
「僕は寿命だけでなくコレクションまで失うのか?」
 彼女は、ゆっくりと頭を振る。
「何かを得るためには」
「何かを犠牲にしなければならない? わかったよ。選別する。どのみち整理をする必要はあったんだ」
 半ば投げやりな気持ちで書棚に向き合う。コレクションに加えるには至らないもの。単に書棚に突っ込んであるもの。そういう作品に当たりを付ける。棚に余裕がないときはいつもそうやってスペースを確保していた。
(電子書籍にしたほうが良いんだろうけどな)
 日に焼けたページをぱらぱらとめくった。紙はどうしても場所を取る。劣化する。所有するという感覚が好きで未だに本に拘っているがデメリットが大きいことは明らかだった。今後も多くを読んでいくのなら、いつかの段階で電子媒体に移行したほうが賢明だろう。
 そこまで考え、気付く。
 今後のことなど、もう気にしなくても構わないのだと。
「なあ、すずりさん」
「うん?」
「僕は苦しまずに死ねるのか?」
 顔を伏せたまま尋ねる。とある漫画の最終巻、主人公は新天地へ向かって旅立っていく。苦しいことはたくさんあったが希望に満ち溢れた最後だった。
「さあ? 私はあなたの死には何も関知しない」
 僕は、そうかと呟き、頁を閉じた。
 
 悪魔の、その奇妙な提案を受け入れたのは、まっさきに古本屋の彼女のことを思い浮かべたからだ。別に彼女に対して恋愛感情を抱いていたわけではない。綺麗なひとだとは思っていたが、それは世間の男たちが皆そうであるように、本能的に美人に見惚れていただけだ。僕と彼女はどこまでも他人だった。
 だが契約が成立した今なら、あるいは。
 俄かにそう考えたのだが、どうも違うらしい。
「全部嘘っぱちなんじゃないだろうな」
 ポケットに突っ込んだ小銭を握る。そして否と結論付ける。
 嘘でも。幻でもない。。黒い本の表紙に触れたときの、あの感覚。自分の中から何かがごっそり抜け落ちていくような喪失感。強烈な虚脱。それは寿命であるとか、生命力であるとか、そういうエネルギーめいたものではなく、もっと精神的な……意志、あるいは心の強度のような、そんなものが削ぎ落されたような……。とにかく『失った』としか言えないものだった。
 本当にこれで良かったのだろうか?
(……いや)
 得たのだと考えなければならない。
 失ったのではなく得たのだと。
 不安も、後悔もその裏返しに過ぎない。
(でも、本当にどういう形で叶うんだ?)
 契約する前に訊いておくべきだったと、手順の悪さこそを悔いる。
 コンビニに入った。漫画雑誌をパラパラめくり今週の展開を把握する。それから美味そうに見えるだけの弁当を適当に選びレジへ向かった。お決まりの質問には「ハイ」と答え、弁当が温まるのをぼんやりと待った。
 店内には会社帰りという体のひとが数人いた。あまり見ることができない光景だ。僕が普段帰宅する頃には働いているかも怪しい連中の姿しかない。今日は用事があると言って定時で切り上げたのだが、亡くなった彼のことがあるからだろう。上司や同僚もうるさくは言わなかった。しばらくはそういう雰囲気が続くのかも知れない。彼の死の恩恵を受けている。そんな軽率が浮かんだが自戒する気も起きなかった。楽になるのは間違いないからだ。
「うそ!?」
 突然声が響いた。
 隣のカウンターを見やる。会計中の女性とばっちり目が合った。僕よりも二、三歳年下だろうか。ブラウスを着たその女性は「あ」と間抜けに口を開いた。そのまま数秒。やがて頬を朱に染めると、ぎこちない動作で会釈をしてきた。訳が分からないまま会釈を返す。それから彼女はスマホとレジの数字を交互に見比べた。財布の小銭入れを開いて「ああ」と嘆き、札入れを開いて同じように嘆く。もう一度金額を確認し、もう一度同じ動作を繰り返した。後ろに並んだ会社員ふうの中年が苛立たし気に腕時計を覗いた。
 状況はわかった。首を伸ばし、彼女を困らせている金額を確認する。
(660円)
 ポケットの手を握りしめた。硬貨がジャラリと擦れ合う。
 660円。
 喉をごくりと鳴らし、ポケットから手を引き抜いた。
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