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第二部-失意の先の楽園
02 代償と日常
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歴史を感じさせるビルが建ち並ぶオフィス街の一角。黒塗りの頑丈そうな車が一台、黄色いタクシーの群れを追い越しながら進んでいた。
街の喧騒が届かない静かな車内で、千尋はタブレットで開いた仕事の資料を眺めていたのだが、いくら目を凝らしても目が滑り脳が文字を受け取ってくれない。
小さく溜息を吐いた千尋は、諦めてタブレットの電源を落とすと背凭れに体を預けた。
「千尋、やっぱり顔色が悪いよ」
眉を垂らし心配そうに顔を覗き込んできた成瀬が、素早く千尋の額に手を当て熱を測る。
成瀬がこうして千尋の仕事に同行するのは初めてだった。今回の案件は千尋にとっては今までにない大きなもので、長期間拘束されることになっている。
長期間千尋が帰国しないことに耐えられない成瀬は、運良く舞い込んだ出張と有給も併せて、一週間ほど千尋に着いてきていた。
今日がその最終日で、成瀬はこれから仕事へ向かう千尋とは逆に、帰国するために空港へと向かう。
そんな日に限って千尋は悪夢に苛まれ、兄がわりである過保護な成瀬に心配をかけてしまい、自身の弱さに力なく笑むしかなかった。
体温が低く少しひやりとする成瀬の手の心地よさに息を吐けば、対面に座るレオも成瀬と同じような心配する視線を向けていた。
「やはり寝られていないのが原因だろう。成瀬、安定剤を」
わかっているとばかりに視線を一瞬鋭くレオに向けた成瀬が、ピルケースを取り出し千尋に手渡す。
それと同時にレオのフェロモンが僅かに解放されて、揺らぐ脳が徐々に落ち着きを取り戻していった。
成瀬の肩にもたれ掛かり目を瞑る千尋は夢での出来事を思い出す。
決して忘れさせてはくれない忌々しい運命の亡霊に、千尋は奥歯を僅かに噛みしめるしかなかった。
本能は一度出会ってしまった運命の番をどこまでも追い求めて彷徨い続けてしまう。
相手が番えばブライアンのように何も感じなくなるが、そうでなければ成瀬と同じように死してなお、運命の番はどこまでも付きまとうのだ。
だがこの状態はまだ軽いものだと言える。
もし運命の番と番ってから相手が死んだとなれば、残された方は精神的なダメージを深く負い、廃人となってしまう。
千尋と成瀬がこうして多少の不安定さだけで生活できているのは、お互いの存在があるからではあるが、運命と番っていなかったということが大きかった。
――唯一無二でもないくせに。
そう悪態すら吐きたくなるほど、ここ数週間の夢見は最悪だった。
こうした症状はヒートの前後の不安定になりやすい時期か、多忙を極め体調が悪くなる一歩手前で起きることが多く、数日に一回はこうして悪夢に魘され碌に眠れない。
運命の番を失ってから随分と経っている成瀬も、未だに千尋と似たような症状に悩まされているという。
そう考えると千尋の状態はまだ軽い方だと言えた。それもこれも成瀬が、そしてレオが堕ちてくれたお陰だ。
レオは既に自身の運命を幾つも切り離したが、千尋や成瀬のような症状は見られなかった。
最初の運命を葬り去って以降、その強靭な精神力と千尋のフェロモンだけでレオは亡霊から逃げきっているのだ。
そのことが心底羨ましい。
αとしての高い能力値と、軍人として様々な死線を潜り抜けることで鍛え上げられた常人が持ちえない精神力のお陰だろうというのがレオの見解だ。
そしてもう一つ、千尋がレオにぶつけた運命の番が一番良いものであったと言うのも大きいのかもしれない。
それを乗り越え耐性を獲得した可能性があるとレオは言うのだ。
千尋はΩとしてはずば抜けた能力を持っているが、それだけだった。レオのような強い精神力があるわけではない。
あるのは深く溜まる業と罪悪感。
それらを完璧に割り切れる程の精神力があれば、千尋もレオのようになれたかもしれないのだが、性格上の問題はどうしようもない。
それに加え、運命の番の場所を千尋は自分自身では把握できない、と言いうこともあるのだろう。
αのフェロモンからしか運命の相手が見えないのだから当然だ。
故に、レオのように一番良い運命を断ち切ろうにも、居場所を知らないので出来るはずもなく。耐性を獲得するなど夢のまた夢だった。
何度か深呼吸をしながら、ゆっくりとレオと成瀬のフェロモンを体内に取り込んでいく。この二人が傍にいなければ今の千尋は穏やかに過ごせはしない。
運命を切り離しても、手放しに喜べる幸せはどこにもなく、その代償はとても大きかった。
薬とフェロモンが体内に回りきれば、少しの間睡眠を取る。ゆっくりと進んでいく車内で目が覚めれば、頭はすっかりと冴えわたりいつもの調子を取り戻した。
暫くすると、黒塗りの車は古い高層ビルの地下駐車場へ降りていく。
「大丈夫か千尋」
「えぇ、すっかり回復しました。なる君も肩貸してくれてありがとう」
「これぐらいお安い御用だよ」
「なる君、気を付けて帰ってね?」
「あぁ、千尋が帰って来るのを待ってるよ。レオ、頼んだぞ」
手早く身支度を整えれば、レオが先に車から降りて辺りを鋭い目つきで見渡し、安全を確認をしてから千尋を外へ促す。
「お待ちしておりました、我らが女神。ご案内いたします」
降りた先で待ち構えていたのは、上質なスーツに身を包んだ老齢の男で、頭を深々と下げて千尋達を出迎える。
未だに心配そうに眉を下げる成瀬に窓越しに目配せすると、軽く目を閉じてから背筋を伸ばす。
姿勢を正した千尋は、彼らが望む女神の仮面を被ると優雅に微笑んだ。
街の喧騒が届かない静かな車内で、千尋はタブレットで開いた仕事の資料を眺めていたのだが、いくら目を凝らしても目が滑り脳が文字を受け取ってくれない。
小さく溜息を吐いた千尋は、諦めてタブレットの電源を落とすと背凭れに体を預けた。
「千尋、やっぱり顔色が悪いよ」
眉を垂らし心配そうに顔を覗き込んできた成瀬が、素早く千尋の額に手を当て熱を測る。
成瀬がこうして千尋の仕事に同行するのは初めてだった。今回の案件は千尋にとっては今までにない大きなもので、長期間拘束されることになっている。
長期間千尋が帰国しないことに耐えられない成瀬は、運良く舞い込んだ出張と有給も併せて、一週間ほど千尋に着いてきていた。
今日がその最終日で、成瀬はこれから仕事へ向かう千尋とは逆に、帰国するために空港へと向かう。
そんな日に限って千尋は悪夢に苛まれ、兄がわりである過保護な成瀬に心配をかけてしまい、自身の弱さに力なく笑むしかなかった。
体温が低く少しひやりとする成瀬の手の心地よさに息を吐けば、対面に座るレオも成瀬と同じような心配する視線を向けていた。
「やはり寝られていないのが原因だろう。成瀬、安定剤を」
わかっているとばかりに視線を一瞬鋭くレオに向けた成瀬が、ピルケースを取り出し千尋に手渡す。
それと同時にレオのフェロモンが僅かに解放されて、揺らぐ脳が徐々に落ち着きを取り戻していった。
成瀬の肩にもたれ掛かり目を瞑る千尋は夢での出来事を思い出す。
決して忘れさせてはくれない忌々しい運命の亡霊に、千尋は奥歯を僅かに噛みしめるしかなかった。
本能は一度出会ってしまった運命の番をどこまでも追い求めて彷徨い続けてしまう。
相手が番えばブライアンのように何も感じなくなるが、そうでなければ成瀬と同じように死してなお、運命の番はどこまでも付きまとうのだ。
だがこの状態はまだ軽いものだと言える。
もし運命の番と番ってから相手が死んだとなれば、残された方は精神的なダメージを深く負い、廃人となってしまう。
千尋と成瀬がこうして多少の不安定さだけで生活できているのは、お互いの存在があるからではあるが、運命と番っていなかったということが大きかった。
――唯一無二でもないくせに。
そう悪態すら吐きたくなるほど、ここ数週間の夢見は最悪だった。
こうした症状はヒートの前後の不安定になりやすい時期か、多忙を極め体調が悪くなる一歩手前で起きることが多く、数日に一回はこうして悪夢に魘され碌に眠れない。
運命の番を失ってから随分と経っている成瀬も、未だに千尋と似たような症状に悩まされているという。
そう考えると千尋の状態はまだ軽い方だと言えた。それもこれも成瀬が、そしてレオが堕ちてくれたお陰だ。
レオは既に自身の運命を幾つも切り離したが、千尋や成瀬のような症状は見られなかった。
最初の運命を葬り去って以降、その強靭な精神力と千尋のフェロモンだけでレオは亡霊から逃げきっているのだ。
そのことが心底羨ましい。
αとしての高い能力値と、軍人として様々な死線を潜り抜けることで鍛え上げられた常人が持ちえない精神力のお陰だろうというのがレオの見解だ。
そしてもう一つ、千尋がレオにぶつけた運命の番が一番良いものであったと言うのも大きいのかもしれない。
それを乗り越え耐性を獲得した可能性があるとレオは言うのだ。
千尋はΩとしてはずば抜けた能力を持っているが、それだけだった。レオのような強い精神力があるわけではない。
あるのは深く溜まる業と罪悪感。
それらを完璧に割り切れる程の精神力があれば、千尋もレオのようになれたかもしれないのだが、性格上の問題はどうしようもない。
それに加え、運命の番の場所を千尋は自分自身では把握できない、と言いうこともあるのだろう。
αのフェロモンからしか運命の相手が見えないのだから当然だ。
故に、レオのように一番良い運命を断ち切ろうにも、居場所を知らないので出来るはずもなく。耐性を獲得するなど夢のまた夢だった。
何度か深呼吸をしながら、ゆっくりとレオと成瀬のフェロモンを体内に取り込んでいく。この二人が傍にいなければ今の千尋は穏やかに過ごせはしない。
運命を切り離しても、手放しに喜べる幸せはどこにもなく、その代償はとても大きかった。
薬とフェロモンが体内に回りきれば、少しの間睡眠を取る。ゆっくりと進んでいく車内で目が覚めれば、頭はすっかりと冴えわたりいつもの調子を取り戻した。
暫くすると、黒塗りの車は古い高層ビルの地下駐車場へ降りていく。
「大丈夫か千尋」
「えぇ、すっかり回復しました。なる君も肩貸してくれてありがとう」
「これぐらいお安い御用だよ」
「なる君、気を付けて帰ってね?」
「あぁ、千尋が帰って来るのを待ってるよ。レオ、頼んだぞ」
手早く身支度を整えれば、レオが先に車から降りて辺りを鋭い目つきで見渡し、安全を確認をしてから千尋を外へ促す。
「お待ちしておりました、我らが女神。ご案内いたします」
降りた先で待ち構えていたのは、上質なスーツに身を包んだ老齢の男で、頭を深々と下げて千尋達を出迎える。
未だに心配そうに眉を下げる成瀬に窓越しに目配せすると、軽く目を閉じてから背筋を伸ばす。
姿勢を正した千尋は、彼らが望む女神の仮面を被ると優雅に微笑んだ。
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