3 / 98
1巻
1-3
しおりを挟む
明らかに精神状態がおかしいα相手に何をやっているのだと口を開きかけたが、千尋に目線で制され、レオは黙って成り行きを見ているしかなかった。
「俺を置いていかないでくれ千尋、お前までいなくなったら俺は……俺は……‼」
「置いていかないよ、約束したでしょ? だからほら、僕はちゃんと生きてるよ。茜さんみたいになる君を置いていかないから」
千尋が更に強くさせた匂いを嗅いだ成瀬は、少しずつ落ち着きを取り戻していく。それでもうわ言のように、千尋に何度も問うていた。成瀬の頭を撫でる千尋の表情は、愛おしいと言わんばかりに慈愛に満ち溢れている。
暫くすると成瀬の息遣いが規則正しくなり、深い眠りに落ちたことを確認した千尋は、漸くレオに意識を向けた。
「いきなりでビックリしましたよね?」
「成瀬のその状態は何だ? 精神がかなり不安定だし、そんな状態でフェロモンを出すなんてどうかしている。私は君の護衛だ。何かあったらそいつを拘束しなければならないし、最悪始末する対象だぞ? 運良く寝てしまったが、本来だったら確実に襲われるだろう。それとも昨日は否定していたが、やはり恋人なのか?」
眉を下げ視線を成瀬に落とした千尋は首を左右に振り、レオの言葉を否定した。
「簡潔に言えば、なる君とは共依存なんですよ。お互いがいなければ生きていけない。兄弟としての親愛の情はありますけど、恋愛としては愛も情もありません。私達の間にあるのはそんな綺麗なものじゃないんです」
過去の記憶を辿るように遠くを見る千尋に、レオは全て話せと視線で促す。
護衛対象のプライベートに必要以上に立ち入るなど、本来ならば問題があるが、この場合は例外だ。
複数人で持ち回る通常の護衛とは違い、レオは一人で千尋を守らなければならない。
プライベートなど最初からお互いにないのだから、資料に書かれていないことがあるなら、早々に把握しておかなければならなかった。
◇ ◇ ◇
――話は千尋のバース性がまだ判明していなかった頃に遡る。
千尋の両親は大多数を占めるβ同士の夫婦で、兄の千景もβだった。
そんな中で千尋だけは幼い頃より容姿が整い、頭も良く、家族は千尋をαではないかと考えていたのだ。
また、千尋は中学校で二つ上の先輩にあたる成瀬と出会い、意気投合。本当の兄弟のように仲良くなる。
成瀬はずっと弟が欲しかったため、懐く千尋を本当の弟のように可愛がり、千尋は千尋で実の兄の千景から嫌われていたため、成瀬を本当の兄のように慕った。
そしてその関係は、千尋のバース性が判明した後も変わらなかった。お互いに居心地のいい関係を変えるつもりがなかったのだ。
だが、兄である千景は、千尋に殊更辛く当たるようになる。
βにしては優秀だった千景はαに対して異様なコンプレックスを抱いていた。αかもしれない千尋に向けられる視線にはいつも妬みが込められる。しかし千尋のバース性はΩ。
そのため、千景の劣等感は更に煽られた。
千尋は兄に辛く当たられるのが苦しくなっていた。その頃には初めての恋人もいたが、彼には相談できず、成瀬に縋る。
そんなある日の夏。忘れもしないあの出来事が起こる。
幸せに溺れるはずだった時間は、恋人に運命の番が現れたことにより消え去った。
自暴自棄になり行きずりの相手と一夜を明かした翌朝。自身の浅はかな行動に恐怖した千尋が頼ったのは当然のように成瀬だった。
早朝にもかかわらず泣きながら電話をすると、彼は自身の父親を伴いすぐに千尋を迎えに来てくれた。帰る道すがら事情を聞かれることもなく、成瀬家に招かれる。
千尋は成瀬の部屋で二人きりになって初めて、一連の出来事をぽつりぽつりと話した。
成瀬家の面々は千尋の家庭環境を知っている。傷ついた千尋が家に戻ってもいいことはないだろうと、夏休み中、千尋を預かることに決めた。
一連の出来事は千尋のトラウマとなり、夜中に悪夢に魘されては飛び起きるということを繰り返す。その度に成瀬は千尋に優しく寄り添った。
そうして、夏休みが明ける頃には千尋も漸く落ち着きを取り戻す。同じ学校であった元恋人は、成瀬の牽制もあって近づいてこなかったし、千尋も近づこうとはしなかった。
一連の出来事に千尋が折り合いをつけられたのは一年たった頃だ。
少しでも前に進まなければと千尋は新たな恋人を作ったが、その恋人も運命の番と出会い千尋を置いていってしまう。
その後も千尋は恋人を作ったが、結局彼も千尋の目の前で運命の番に出会った。その時はもう、またか、と思うだけで、悲しみに暮れることはなかった。
代わりに千尋の中で、確信めいたものが生まれる。その確信をより明確なものにするために、千尋は成瀬の協力を取り付けα達と積極的に関わるようにした。
成瀬は大企業の創業者一族の一人だ。αの知り合いには事欠かない。
千尋と行動すると運命の番同士の出会いを度々目撃することに、彼は疑問を抱いていたようだが、何も聞かなかった。
一方、千尋は自身の能力に自信を持ち始めるのと同時に、自分のフェロモンを自在に操れるようになる。
そこに至って漸く千尋は、自分にはαの運命の番を見つける能力があるのだと、成瀬に打ち明けたのだ。
今までの不可解な現象に納得した成瀬は、その能力を仕事として使うことを提案し、それに千尋も乗った。
千景から、そして両親からの当たりが強くなっていたため、千尋は早く独り立ちがしたかったのだ。千尋の強い意思を成瀬も成瀬の家族も全面的に支持し、協力を惜しまなかった。
αであれば、誰もが大なり小なり運命の番に憧れを持っている。それが確実に手に入るのだ。
千尋が始めたビジネスは瞬く間に軌道に乗った。
だが時折り、千尋は虚しさに襲われる。そのことに気が付いた成瀬が少しでも励まそうと、ずっと千尋と一緒にいると約束してくれた。
そんな千尋の状況を面白く思わないのは兄の千景だ。ある時、金に困った千景がチンピラのようなα達を引き連れ、ヒート中の千尋の家に押し入った。
千尋のヒートは特殊で、錯乱したり我を忘れたりはしない。抑制剤さえ呑めば、いつもと変わらない。
変化があるとすれば、ヒート期間だけは完璧なフェロモンの制御ができなくなり、常にフェロモンが香ってしまうようになるところだろう。
千尋のフェロモンは慣れていない者には刺激が強く、αが少しでも嗅げば強制的にラット状態になる。
千景の連れてきたα達はその香りに当てられ、千尋に襲いかかった。
千尋は必死に抵抗し、パトロンに渡されていた警察直通の緊急アラートを鳴らしてスマホで成瀬に助けを求めた。間一髪のところで駆けつけた警官達によりα達は取り押さえられたが、千尋には恐怖が植え付けられる。
駆け付けた成瀬を見た千尋は安堵で止めどなく涙を流し、検査のための病院でも成瀬を離さなかった。
実の兄の仕打ちに耐えられず縋る千尋を、成瀬も決して突き放さない。
千尋は何度も成瀬に問うた。
「家族は、兄だと思うのは、なる君しかいない。だからずっと一緒にいてほしい」
成瀬自身、千尋を手放す気は毛頭なく、裏切る気など欠片さえなかっただろう。だからいつも通りに言ったのだ。
「千尋は可愛い弟だから、ずっと一緒にいる。そう約束したじゃないか」
そして精神状態が落ち着くまではと、事件の日から千尋は個室に入院した。
成瀬は当然のように泊まり込みで千尋に付き合ったし、成瀬の家族も心配して頻繁に様子を見に訪れる。本来の家族である兄は主犯として捕まり、両親はΩである千尋が全て悪いのだと見舞いにすら来なかった。
千尋はそれを淀んだ気持ちで淡々と受け入れる。実の家族には心底愛想が尽きた。
成瀬がいればそれで良い……
「ねぇ、なる君知ってた? 看護師さんに聞いたんだけど、別の病棟の売店って小さい本屋さんがあるんだって。行ってみたいんだ。一緒に行ってくれる?」
病室から出ようとしなかった千尋が珍しく強請ったことで、成瀬は二つ返事で了承する。
千尋の能力を知っていたにもかかわらず、だ。
別館にある売店へあと少しというところで、成瀬は辺りをキョロキョロと見回し始める。
千尋など初めからいなかったように足を速め、一つの部屋の前で立ち止まった。
鼓動が痛いほど速まり、身体中から汗が噴き出し、この部屋の中にいる人物に早く会わねばと本能が告げていたそうだ。
成瀬が汗で湿る手で扉を開けると、中から言い知れぬ香りが全身を包み、脳が焼ききれんばかりに熱くなる。
成瀬はこの時出会ってしまったのだ。運命の番である斎藤茜という女性に。
成瀬は千尋の手を振り解いて室内に踏み入り、ベッドに横たわってこちらに手を伸ばす茜を抱きしめた。
「うそつき」
千尋はその光景を見ながら呟く。
悲痛なその声は、当然ながら運命の番を前にした成瀬には届かない。
慣れたと思っていたはずの千尋の心は悲鳴を上げ、静かに涙を流した。
◆ ◆ ◆
すっかり冷めてしまったコーヒーを啜りながら、千尋は微笑みを絶やすことなく成瀬の頭を撫でていた。
「成瀬にとっても千尋にとっても、お互いが大事であることは分かったが、成瀬には番がいるのだろう? 他のΩのフェロモンの匂いなんてさせていたら揉めるんじゃないのか?」
ましてや恋人としか思えないこんな様子では、尚更、成瀬の番は面白くないだろうとレオは思う。
αは番ができたとしても、Ωのように他の相手を受け付けなくなるという制約はない。
運命の番である場合のみαは相手に執着し、他には目もくれなくなるらしい。
今の成瀬の状況は、いかに共依存であろうとも不可解極まりなかった。
「なる君に番はいないんですよ」
そう言った千尋は目を細め、ゾッとするような笑みを浮かべレオを見る。
「私の能力は、αのフェロモンからその運命の番を見つけることです。それを仕事にしているほどに私の能力は正確なんです。レオは運命の番と出会える確率をご存知ですか?」
「約七十七億分の一だな」
「その通り。数多くの論文で運命の番はただ一人とされていて、それ故に尊ばれる……私が仕事を請け負った回数は資料に書いてあったでしょう? その決して少なくない人数分、全てに運命の番を見つけて引き合わせている、不思議に……いえ、おかしいと思いませんか?」
「何が言いたい」
話の行き先が分からず、レオは思わず千尋を鋭く見つめる。そんな視線にも臆する様子を見せず、千尋はにこりと微笑んだ。
「この世界には七十七億人もの人間がいるんですよ? その中の一人が、そんなに毎回近くにいるなんておかしいでしょう?」
クスクス笑いながら千尋は更に話していく。
「運命の番は必ず、複数人存在するんですよ」
その言葉にレオは驚愕した。
「私はαのフェロモンからその運命の番の場所と人数が全て分かります。仕事の時はいい印象を感じ、尚且つ依頼主から然程離れていない場所にいる運命の番を教えています……当然悪い印象を抱く場所もあるんですよ。なる君の運命の番はその場所にいたんです」
そこでレオはハッとする。成瀬と運命の番が出会った場所はどこだと言っていたか。
「お前、まさか……」
「私は……なる君を手放さないために、引き止めるために、試すために。死にかけている運命の番のもとへ連れていったんですよ」
実の兄に裏切られ両親にも見捨てられた千尋には、頼り縋れる人が、場所が、成瀬しか残っていなかった。
成瀬はずっと一緒にいてくれると言うが、家族でもましてや恋人でもない千尋にはその約束が酷く脆いものだと分かっていたのだ。
お互いを大事にしてはいるが、いつかは壊れるその約束を、千尋は確かなものにしたかった。
だから成瀬を試したのだ。
運命の番を前にしても千尋を選ぶかどうかを。
千尋は運命の番を見つけ、それに抗えた者を見たことがない。だから保険を掛けた。
成瀬が抗えれば文句はない。もし抗えなくても番が早くにこの世からいなくなれば、成瀬は千尋に堕ちるだろう。
どちらに転んでも、千尋は成瀬を手に入れることができる。
幸いなことに、最悪な印象を受ける成瀬の運命の番は近すぎるほど近くにいた。
「なる君の運命の番である茜さんは末期癌で、生きている時間も残りわずかでした。そんな体でヒートは起こせない。番になれないまま一か月後には茜さんは旅立ちました。その一か月間私を裏切ってしまった罪悪感と、番の死をただ待つだけだったことで、なる君は心が壊れてしまって。茜さんがいなくなってからのなる君はずっとこんな状態なんですよ。普段は大丈夫なんですけど、私に何かあったり暫く会えない期間が続くと立ち直るのに時間がかかるんです」
そう語る千尋の目は仄暗く澱んでいる。常に運命の女神と呼ばれるに相応しい容姿と立ち居振る舞いをする千尋だが、これが本来の姿に違いない。
ここ数日間の、神聖な雰囲気を纏う千尋とはまったくの別物。
蠱惑的であり、また悍ましさも感じさせるその姿にレオは……魅せられてしまった。
大概のαにとって、Ωは性欲処理や子供を産ませるための道具だ。
故にΩの地位が上がることはなく、扱いがよくなることもあまりない。
レオはブライアン達から任務の概要を伝えられた時、正直訳が分からなかった。如何に付加価値があろうとも、女神然としていようとも、レオの心は動かない。いつもと同じ任務の一つでしかなかった。
――たった今、目の前の千尋を見るまでは。
女神の名の通り神聖な雰囲気の時よりもずっと好ましい。千尋のドロドロに煮詰まったその感情と歪みは、実に人間臭かった。
そのギャップは凄まじい。この姿を千尋の信奉者達に見せることはないのだろう。
千尋に関わる人に会ったのはま僅かだが、皆、彼を神聖視していた。
つまり、この状態を見せても良いと思う程度には千尋の信頼を得られたということだ。
であれば、これほど嬉しいことはない。
込み上げてくるこの感情は何なのだろうか。愛ではないことは確実だ。
千尋という人間はそんなものを欲しているわけではないのだろうと、成瀬を横目で見ながらレオは思考を巡らせる。
いや、そんなものを捧げる気はそもそも起きない。
この日レオは初めて心から膝を折り忠誠を誓い、従属したい気持ちに駆られていた。
◇ ◇ ◇
「――本来の私は皆が言うような女神ではないんですよ。がっかりしましたか?」
目を見開いたまま固まったレオを見て、千尋は流石に引かれたかと考えながら、成瀬が起きないのをいいことに髪の毛をいじる。
自国にいる間護衛を付けたくなかった理由の一つが、成瀬だった。
こんな状態のαを見たら、どのような報告をされるか分かったものではない。下手をしたら仕事に支障が出る。
だがレオはどこにも所属しない護衛だ。経歴からして口は固いだろうし、どこにも報告義務がない。
成瀬のこの状態を見ても然程動揺せず質問してくる辺り流石だ。
ブライアンが選んだだけあって相性がいいのは分かっていたが、それはあくまで千尋が表の顔をしている時に限る。
内側まで曝け出した今の状態を受け入れることが、果たしてレオにできるのだろうか。
千尋は過去と能力のせいでαを心から好きにはなれない。
成瀬だけは特別だが、それはこの能力が分かる前からの関係があるおかげだ。能力が確かになって以来、千尋は他人に心を開けなくなっていた。
自衛は大事だ。運命の番に振り回され、ズタズタに精神を引き裂かれるのはもう嫌なのだ。
運命の女神という呼称は、本来の千尋の隠れ蓑に最適だった。皆が望むように振る舞えばいいだけだ。本来の千尋は歪んでしまい、純粋さも神聖さもない。
あるのは、ただただ酷く醜く汚いもの。
運命とαを羨み妬み、しかしそれを欲してしまう自身の浅ましさを嫌悪する。それを永遠に繰り返して煮詰まったヘドロのような感情。
それを知っているのは今の今まで成瀬だけだった。
けれどレオと接したこの数日間で、もしかしたらこちらに墜ちてくれるのではないか、という感覚を持ったのだ。
何故そう感じたのか千尋自身も分からないが、レオは他のαとは違う気がする。
さてどうなるかとレオを見ると、それまで微動だにしなかった彼がすっとソファから立ち上がった。まるで誘蛾灯に惹きつけられるかの如く目元を赤らめ微かに震えながら、ふらりと千尋の前で床に膝をついたのだ。
「嫌悪だなんてとんでもない、私は今の千尋のほうがよっぽど好ましい」
視線がバチリと合わさる。レオの目に歓喜の色が見て取れた。そんなレオの状態に千尋は満足して微笑んだ。
◆ ◆ ◆
早朝。レオは言い知れぬ興奮と共に目を覚ました。
軍人として上官達や国に何度となく忠誠を誓ってきたが、昨日のような奥底から湧き上がる気持ちになったことはない。
千尋の深淵に触れたあの時、ザワザワと血が騒めきたち熱が身体中を駆け巡ったのだ。
こんな感情は知らない。知るはずもなかったものが突如目の前に現れ、膝を折り首を垂れるのが当たり前であるかのように体が動いた。
Ωとしての千尋に惹かれたわけではない。あの底なしの感情の中に飛び込み、捕まりたいと願ったのだった。
千尋に搦め捕られ、浸り切った成瀬がどうしようもなく羨ましい。
αであるレオがΩに従属したいと思うなど、本来ならあり得ないことだ。だがそれは、沼に自ら足を突っ込んだレオには些細なこと。
今から考えねばならないのは、どうすれば千尋の信頼を勝ち取れるか、ということだけだ。
リビングへ行くと、カーテンが開いていた。そこには、ベランダにある椅子に腰掛け、ぼんやりと遠くを見ながら煙草を吹かす成瀬がいる。
「早いんだな」
虚な目をした彼は、レオを捉えて咥えた煙草を離しニヤリと笑いかけてきた。
「なんだお前、堕とされたのか」
「……分かるのか?」
「そりゃぁ分かるよ、目が違う」
違うと言われるほど自身の見た目が変わったとは思わないが、千尋に堕とされた者同士、何か感じるものがあるのかも知れない。
「ふぅん? 俺が寝ている間に千尋から何か聞いたのかな?」
「貴方と千尋のことを」
「それを聞いて墜ちたのか? おかしな奴だね、変な性癖でもあるのかい?」
「そういう目で見ているわけではないんだがな」
「だろうね。もしそうだったら俺がお前を殺すよ。護衛がそんな奴だなんて、千尋に良くないからね」
濁った目のまま煙を燻らせて笑う成瀬は、昨日の好青年然とした皮を脱ぎ捨てており、不気味な雰囲気を纏っていた。
これが番をなくし墜ち切った姿なのかと思うと、ゾッとする。
「千尋を裏切るなよ、レオ・デレンス。墜ちるなら最下層まで墜ちてくるんだね」
「裏切るなんてとんでもないし、言われずともそのつもりだ」
「……今の千尋は一度掴んだら離さないからね。そこが可愛いのだけど。何度も試されるだろうけど頑張ってくれ」
「君は墜ち切ったんだろう?」
「当たり前じゃないか、可愛い弟のためだからね。寧ろ絆が深まって良かったとさえ今では思うよ。抗えなかったことと番をなくす経験は辛かったけれどね。この状況に後悔なんてまったくないのに、今じゃこのザマだよ」
テーブルの隅に置いてあった錠剤のシートからパキパキと薬を何錠か取り出し、成瀬はそれを呑み下す。
精神状態が悪い時期は安定剤を呑まなければ日常生活に支障をきたし、夜は睡眠薬がなければ寝付けず、酷い時はそれすらも効かない。千尋が傍でフェロモンを出していれば精神が安定して薬がいらなくなるらしいが、常に一緒にいられるわけもなく、薬に頼る日々だと成瀬は言う。
「千尋が刺されただろう? すぐに駆けつけたかったのに、最悪なことに地方に出張中でね。下手に状況が分かればタガが外れて仕事どころじゃなくなるんで連絡もできないし……はぁ、生きた心地がしなかったよ」
肺いっぱいに煙を吸い込み、次の煙草に火をつけた成瀬に「吸うか?」と問われたが、レオはそれを断った。
「お前がいれば、あんなことは起こらない。そうだろう?」
「あぁ、いざとなれば別の奴を盾にして逃げるさ」
「へぇ、分かってるじゃないか。自分の命を賭して守るなんて言われたら、どうしようかと思ったよ」
その調子で頑張れと言い残し、成瀬は部屋に戻っていった。
もし目の前に運命の番が現れたとして、果たしてレオは抗えるだろうか?
成瀬の背を見ながら考える。
特殊な訓練で耐性を付けているレオにΩのフェロモンは効かない。だが、運命の番のフェロモンが普通のそれと違うのだとすれば。
抗える保証などどこにもない。
そんなレオを見た千尋はどうなってしまうだろうか……
それから数日間。成瀬は千尋の自宅に留まり、落ち着いてから自分の家に帰った。
成瀬がいなくなり、二人きりでの生活が改めて始まる。少しして、レオは千尋のヒート周期を聞いていなかったことを思い出した。
「千尋、ヒート周期はどうなっている? 千尋が他のΩのように錯乱することはないと言っていたが、α側は千尋のフェロモンでラット状態になると話していただろう? 何かあった時のシミュレーションをしておきたいんだが」
千尋はすっかり失念していたらしく、慌てて自身のスマホを操作してスケジュールを見る。
今までヒートの時期は仕事を入れず自宅で過ごしていたそうで、ヒート時に人が常に同じ空間にいるということに考えが及んでいなかったようだ。
「次は一か月後ですね。特にズレることはなく、三か月周期で来ます。抑制剤さえあればフェロモン以外は普段通りですけど……レオはフェロモンに耐性があるのでしょう? 私のフェロモンも効かないんじゃないですか?」
「確かにΩのフェロモンは効かないが、それが千尋にも当てはまるか分からない。万が一ということがあるからな。軍用の強力なα用抑制剤は常時携帯しているが、その特殊なフェロモンに効くかどうかも分からないだろう」
レオの言葉に、それもそうかと千尋は顎に手を添え何やら考え始めた。
千尋のフェロモンに慣れさえすればラット状態には陥らないというが、どの程度で慣れたと判断すればいいのかは未知だ。
成瀬とはそれこそ付き合いが長いため、千尋がヒートだろうが問題がない。そもそも兄弟としての感情が強く、フェロモンを浴びようとも、性的な痴態を晒されようとも、千尋にだけは一切反応しないのだとか。
「レオのフェロモン耐性はどうやって身につけたんですか? 生まれつきの能力ではないのでしょう?」
そう聞かれて、レオは自身がまだ十代だった頃を思い出し渋面を作った。
「どこの軍でもやっていることだ……特殊任務に従事する軍人や階級が上の者は、ハニートラップを仕掛けられやすい。だから耐性をつけなくてはいけないんだが……」
Ωのフェロモンへの耐性を一からつけるため、まずは擬似的に作り出されたあらゆるΩのフェロモンを嗅ぐ。
慣れれば次は、それをより濃くしたものを。それを何度となく繰り返し、Ω達の生のフェロモンに慣れ、次にヒート中のΩのフェロモンに徐々に慣れる。
それで大概の者は、ヒート中のフェロモンを嗅いでも軽いα用抑制剤を呑めば余裕で耐えられる程度の耐性を付ける。
しかしレオは途中から抑制剤を呑まなくても、Ωのフェロモンに耐えられるようになった。その特殊性でモルモットにされたレオは、完全な密室の中で頑丈な椅子にガッチリと固定された上で、ヒートを起こしたΩと一緒の部屋に閉じ込められたのだ。
どこまで耐えられるのかと、最終的に十人のΩ達と共に密室で過ごすことになり、今の能力を獲得したのだが……それはレオにとって決していい記憶とは言えなかった。
ガチガチに固定され一切の身動きができないまま、目の前で繰り広げられる自慰から目を逸らし耳を塞ぐこともできず、ネットリと絡み付くフェロモンを吸い込まないように鼻を塞ぐこともできない。
抑制剤を呑まない状態でΩの群れに身体をあちらこちらと弄られ刺激されようとも、ひたすら耐えるしかないのだ。
まさに地獄であり拷問。
まだ十代で性欲も人並みにある若者にとってこれほどの苦しみが他にあるだろうか。
脳の神経が焼き切れそうになっても、レオの意識はずっと正常だった。どんなに目が充血し血走ろうが、下半身が情けない状態になろうが、意識だけは正常を保っていたのだ。
他の同僚達のように意識を飛ばせれば、もしくは我を忘れてしまえれば、どんなに楽だろうか。
しかし一向にそんな気配はなかった。頭と下半身は沸騰したように熱くなり、鼻から血が流れ出る。それでも、レオが望むような状態には陥らなかった。
強制的にラット状態になる薬まで使われたが、レオは耐えた。強靱な精神力のせいなのか、はたまた元々の素質なのか定かではない。
レオと同じような実験をされた他のα達は発狂し、耐性を獲得できたのは現在もレオただ一人だ。
抑制剤なしで完全に本能を抑え付けた結果、手に入れた耐性が仕事上大いに役立ったことは言うまでもない。フェロモンアタックや媚薬などを使われた時でも、本能より理性が上回った。
レオの話を聞きながら何やら思案している様子だった千尋は、意地の悪い笑みを浮かべ、予想だにしないことを言う。
「レオ、軍で行った訓練を私とやりましょうか」
またもやレオの体内の血が騒めいた。これから試されるのかと思うと、言い知れぬ高揚感が湧き上がる。
それと同時に、千尋のフェロモンに果たして勝てるのか不安が過る。
ここで耐えられなければどうなるのだろうか。特殊任務であるため、護衛の任を解かれることはないが、千尋の信頼は得られなくなる。
成瀬のように堕ちたいと願うレオは、この難題を何としても乗り越えるしかなかった。
◇ ◇ ◇
千尋は普段着けているネックガードを外すと、自室から持ってきた箱を開けた。
過保護なパトロン達が、最新技術が詰め込まれたネックガードを度々送ってくるのだ。
それは市場に出回ることのない代物ばかりで、千尋のためだけに作られた謂わば枷でもあった。今日着けるのは、そんな中でも一番シンプルなものだ。
チタン合金を薄くのばして作られたそれは、頸部分を噛もうとした相手を一瞬で気絶させる強さの電気ショックを与える。
市販されているものの中にも似たようなものはあるが、これはそれの強化版だった。
千尋が準備をする傍ら、レオもまた準備に取り掛かる。彼は鞄から抑制剤を取り出していた。見たことがない薬に千尋が興味を惹かれていると、病院で処方されるものよりも更に強力な軍用の抑制剤だと説明してくれた。
「分かりましたけど、これは?」
薬と一緒に鞄から出てきた謎のものに更に興味を惹かれる。
「ハンドカフ――拘束用の結束バンドだ。流石にどうなるか分からないのに、拘束なしで試すなど無謀すぎる。これで俺を拘束して転がしておいてほしいんだ。抑制剤があるとはいえ、何が起きるか予想できないからな」
紙にサラサラと拘束部位を描いて指示するレオに、そこまで考えが到らなかった千尋は感心した。
椅子に座ったレオは足を片方ずつ椅子の脚に結束バンドで固定し、両腕を背後に回して千尋に結束バンドを渡す。千尋は普段ならあり得ない状況に僅かに高揚感を覚えながら、レオの支持通りに両手首を固定した後、両親指も別のバンドで縛った。
「さぁ千尋、俺が君のフェロモンに耐えられるか試してくれ」
にやりと笑ったレオに応えるように、千尋は自身のフェロモンを少しずつ出していく。
成瀬が来ていた時に常に纏わせていたフェロモンは許容範囲だったようで、レオは抑制剤を呑むことはなかった。
ならば今日はそれより上の状態から始めても良いかもしれない。千尋はフェロモンの量を増やす。
テレビに映るバラエティを気もそぞろに眺めながら、千尋は椅子に固定されたレオをチラリと横目で見る。今のところ、特に変化は見られない。
「まだ大丈夫ですか?」
「これくらいは何とも。もっと強くても大丈夫そうだ」
「そうですか」
千尋はコーヒーを淹れるため立ち上がると、キッチンに向かいながらフェロモンの量を増やした。
開始から既に二時間。すれ違いざま反応を見てみたが、やはりレオは涼しい顔をしている。
今、出しているフェロモン量をレオ以外の人間が嗅げば、既に興奮状態に陥っている。にもかかわらず、未だにレオは理性が上回っていた。
――面白くない。
そう千尋は思ってしまう。
早々にレオが痴態を晒せば、それはそれで面白くなかっただろうが。
要は千尋の我が儘なのだ。
果たしてレオは、成瀬みたいに千尋の全てを受け止められるようになるだろうか。
「俺を置いていかないでくれ千尋、お前までいなくなったら俺は……俺は……‼」
「置いていかないよ、約束したでしょ? だからほら、僕はちゃんと生きてるよ。茜さんみたいになる君を置いていかないから」
千尋が更に強くさせた匂いを嗅いだ成瀬は、少しずつ落ち着きを取り戻していく。それでもうわ言のように、千尋に何度も問うていた。成瀬の頭を撫でる千尋の表情は、愛おしいと言わんばかりに慈愛に満ち溢れている。
暫くすると成瀬の息遣いが規則正しくなり、深い眠りに落ちたことを確認した千尋は、漸くレオに意識を向けた。
「いきなりでビックリしましたよね?」
「成瀬のその状態は何だ? 精神がかなり不安定だし、そんな状態でフェロモンを出すなんてどうかしている。私は君の護衛だ。何かあったらそいつを拘束しなければならないし、最悪始末する対象だぞ? 運良く寝てしまったが、本来だったら確実に襲われるだろう。それとも昨日は否定していたが、やはり恋人なのか?」
眉を下げ視線を成瀬に落とした千尋は首を左右に振り、レオの言葉を否定した。
「簡潔に言えば、なる君とは共依存なんですよ。お互いがいなければ生きていけない。兄弟としての親愛の情はありますけど、恋愛としては愛も情もありません。私達の間にあるのはそんな綺麗なものじゃないんです」
過去の記憶を辿るように遠くを見る千尋に、レオは全て話せと視線で促す。
護衛対象のプライベートに必要以上に立ち入るなど、本来ならば問題があるが、この場合は例外だ。
複数人で持ち回る通常の護衛とは違い、レオは一人で千尋を守らなければならない。
プライベートなど最初からお互いにないのだから、資料に書かれていないことがあるなら、早々に把握しておかなければならなかった。
◇ ◇ ◇
――話は千尋のバース性がまだ判明していなかった頃に遡る。
千尋の両親は大多数を占めるβ同士の夫婦で、兄の千景もβだった。
そんな中で千尋だけは幼い頃より容姿が整い、頭も良く、家族は千尋をαではないかと考えていたのだ。
また、千尋は中学校で二つ上の先輩にあたる成瀬と出会い、意気投合。本当の兄弟のように仲良くなる。
成瀬はずっと弟が欲しかったため、懐く千尋を本当の弟のように可愛がり、千尋は千尋で実の兄の千景から嫌われていたため、成瀬を本当の兄のように慕った。
そしてその関係は、千尋のバース性が判明した後も変わらなかった。お互いに居心地のいい関係を変えるつもりがなかったのだ。
だが、兄である千景は、千尋に殊更辛く当たるようになる。
βにしては優秀だった千景はαに対して異様なコンプレックスを抱いていた。αかもしれない千尋に向けられる視線にはいつも妬みが込められる。しかし千尋のバース性はΩ。
そのため、千景の劣等感は更に煽られた。
千尋は兄に辛く当たられるのが苦しくなっていた。その頃には初めての恋人もいたが、彼には相談できず、成瀬に縋る。
そんなある日の夏。忘れもしないあの出来事が起こる。
幸せに溺れるはずだった時間は、恋人に運命の番が現れたことにより消え去った。
自暴自棄になり行きずりの相手と一夜を明かした翌朝。自身の浅はかな行動に恐怖した千尋が頼ったのは当然のように成瀬だった。
早朝にもかかわらず泣きながら電話をすると、彼は自身の父親を伴いすぐに千尋を迎えに来てくれた。帰る道すがら事情を聞かれることもなく、成瀬家に招かれる。
千尋は成瀬の部屋で二人きりになって初めて、一連の出来事をぽつりぽつりと話した。
成瀬家の面々は千尋の家庭環境を知っている。傷ついた千尋が家に戻ってもいいことはないだろうと、夏休み中、千尋を預かることに決めた。
一連の出来事は千尋のトラウマとなり、夜中に悪夢に魘されては飛び起きるということを繰り返す。その度に成瀬は千尋に優しく寄り添った。
そうして、夏休みが明ける頃には千尋も漸く落ち着きを取り戻す。同じ学校であった元恋人は、成瀬の牽制もあって近づいてこなかったし、千尋も近づこうとはしなかった。
一連の出来事に千尋が折り合いをつけられたのは一年たった頃だ。
少しでも前に進まなければと千尋は新たな恋人を作ったが、その恋人も運命の番と出会い千尋を置いていってしまう。
その後も千尋は恋人を作ったが、結局彼も千尋の目の前で運命の番に出会った。その時はもう、またか、と思うだけで、悲しみに暮れることはなかった。
代わりに千尋の中で、確信めいたものが生まれる。その確信をより明確なものにするために、千尋は成瀬の協力を取り付けα達と積極的に関わるようにした。
成瀬は大企業の創業者一族の一人だ。αの知り合いには事欠かない。
千尋と行動すると運命の番同士の出会いを度々目撃することに、彼は疑問を抱いていたようだが、何も聞かなかった。
一方、千尋は自身の能力に自信を持ち始めるのと同時に、自分のフェロモンを自在に操れるようになる。
そこに至って漸く千尋は、自分にはαの運命の番を見つける能力があるのだと、成瀬に打ち明けたのだ。
今までの不可解な現象に納得した成瀬は、その能力を仕事として使うことを提案し、それに千尋も乗った。
千景から、そして両親からの当たりが強くなっていたため、千尋は早く独り立ちがしたかったのだ。千尋の強い意思を成瀬も成瀬の家族も全面的に支持し、協力を惜しまなかった。
αであれば、誰もが大なり小なり運命の番に憧れを持っている。それが確実に手に入るのだ。
千尋が始めたビジネスは瞬く間に軌道に乗った。
だが時折り、千尋は虚しさに襲われる。そのことに気が付いた成瀬が少しでも励まそうと、ずっと千尋と一緒にいると約束してくれた。
そんな千尋の状況を面白く思わないのは兄の千景だ。ある時、金に困った千景がチンピラのようなα達を引き連れ、ヒート中の千尋の家に押し入った。
千尋のヒートは特殊で、錯乱したり我を忘れたりはしない。抑制剤さえ呑めば、いつもと変わらない。
変化があるとすれば、ヒート期間だけは完璧なフェロモンの制御ができなくなり、常にフェロモンが香ってしまうようになるところだろう。
千尋のフェロモンは慣れていない者には刺激が強く、αが少しでも嗅げば強制的にラット状態になる。
千景の連れてきたα達はその香りに当てられ、千尋に襲いかかった。
千尋は必死に抵抗し、パトロンに渡されていた警察直通の緊急アラートを鳴らしてスマホで成瀬に助けを求めた。間一髪のところで駆けつけた警官達によりα達は取り押さえられたが、千尋には恐怖が植え付けられる。
駆け付けた成瀬を見た千尋は安堵で止めどなく涙を流し、検査のための病院でも成瀬を離さなかった。
実の兄の仕打ちに耐えられず縋る千尋を、成瀬も決して突き放さない。
千尋は何度も成瀬に問うた。
「家族は、兄だと思うのは、なる君しかいない。だからずっと一緒にいてほしい」
成瀬自身、千尋を手放す気は毛頭なく、裏切る気など欠片さえなかっただろう。だからいつも通りに言ったのだ。
「千尋は可愛い弟だから、ずっと一緒にいる。そう約束したじゃないか」
そして精神状態が落ち着くまではと、事件の日から千尋は個室に入院した。
成瀬は当然のように泊まり込みで千尋に付き合ったし、成瀬の家族も心配して頻繁に様子を見に訪れる。本来の家族である兄は主犯として捕まり、両親はΩである千尋が全て悪いのだと見舞いにすら来なかった。
千尋はそれを淀んだ気持ちで淡々と受け入れる。実の家族には心底愛想が尽きた。
成瀬がいればそれで良い……
「ねぇ、なる君知ってた? 看護師さんに聞いたんだけど、別の病棟の売店って小さい本屋さんがあるんだって。行ってみたいんだ。一緒に行ってくれる?」
病室から出ようとしなかった千尋が珍しく強請ったことで、成瀬は二つ返事で了承する。
千尋の能力を知っていたにもかかわらず、だ。
別館にある売店へあと少しというところで、成瀬は辺りをキョロキョロと見回し始める。
千尋など初めからいなかったように足を速め、一つの部屋の前で立ち止まった。
鼓動が痛いほど速まり、身体中から汗が噴き出し、この部屋の中にいる人物に早く会わねばと本能が告げていたそうだ。
成瀬が汗で湿る手で扉を開けると、中から言い知れぬ香りが全身を包み、脳が焼ききれんばかりに熱くなる。
成瀬はこの時出会ってしまったのだ。運命の番である斎藤茜という女性に。
成瀬は千尋の手を振り解いて室内に踏み入り、ベッドに横たわってこちらに手を伸ばす茜を抱きしめた。
「うそつき」
千尋はその光景を見ながら呟く。
悲痛なその声は、当然ながら運命の番を前にした成瀬には届かない。
慣れたと思っていたはずの千尋の心は悲鳴を上げ、静かに涙を流した。
◆ ◆ ◆
すっかり冷めてしまったコーヒーを啜りながら、千尋は微笑みを絶やすことなく成瀬の頭を撫でていた。
「成瀬にとっても千尋にとっても、お互いが大事であることは分かったが、成瀬には番がいるのだろう? 他のΩのフェロモンの匂いなんてさせていたら揉めるんじゃないのか?」
ましてや恋人としか思えないこんな様子では、尚更、成瀬の番は面白くないだろうとレオは思う。
αは番ができたとしても、Ωのように他の相手を受け付けなくなるという制約はない。
運命の番である場合のみαは相手に執着し、他には目もくれなくなるらしい。
今の成瀬の状況は、いかに共依存であろうとも不可解極まりなかった。
「なる君に番はいないんですよ」
そう言った千尋は目を細め、ゾッとするような笑みを浮かべレオを見る。
「私の能力は、αのフェロモンからその運命の番を見つけることです。それを仕事にしているほどに私の能力は正確なんです。レオは運命の番と出会える確率をご存知ですか?」
「約七十七億分の一だな」
「その通り。数多くの論文で運命の番はただ一人とされていて、それ故に尊ばれる……私が仕事を請け負った回数は資料に書いてあったでしょう? その決して少なくない人数分、全てに運命の番を見つけて引き合わせている、不思議に……いえ、おかしいと思いませんか?」
「何が言いたい」
話の行き先が分からず、レオは思わず千尋を鋭く見つめる。そんな視線にも臆する様子を見せず、千尋はにこりと微笑んだ。
「この世界には七十七億人もの人間がいるんですよ? その中の一人が、そんなに毎回近くにいるなんておかしいでしょう?」
クスクス笑いながら千尋は更に話していく。
「運命の番は必ず、複数人存在するんですよ」
その言葉にレオは驚愕した。
「私はαのフェロモンからその運命の番の場所と人数が全て分かります。仕事の時はいい印象を感じ、尚且つ依頼主から然程離れていない場所にいる運命の番を教えています……当然悪い印象を抱く場所もあるんですよ。なる君の運命の番はその場所にいたんです」
そこでレオはハッとする。成瀬と運命の番が出会った場所はどこだと言っていたか。
「お前、まさか……」
「私は……なる君を手放さないために、引き止めるために、試すために。死にかけている運命の番のもとへ連れていったんですよ」
実の兄に裏切られ両親にも見捨てられた千尋には、頼り縋れる人が、場所が、成瀬しか残っていなかった。
成瀬はずっと一緒にいてくれると言うが、家族でもましてや恋人でもない千尋にはその約束が酷く脆いものだと分かっていたのだ。
お互いを大事にしてはいるが、いつかは壊れるその約束を、千尋は確かなものにしたかった。
だから成瀬を試したのだ。
運命の番を前にしても千尋を選ぶかどうかを。
千尋は運命の番を見つけ、それに抗えた者を見たことがない。だから保険を掛けた。
成瀬が抗えれば文句はない。もし抗えなくても番が早くにこの世からいなくなれば、成瀬は千尋に堕ちるだろう。
どちらに転んでも、千尋は成瀬を手に入れることができる。
幸いなことに、最悪な印象を受ける成瀬の運命の番は近すぎるほど近くにいた。
「なる君の運命の番である茜さんは末期癌で、生きている時間も残りわずかでした。そんな体でヒートは起こせない。番になれないまま一か月後には茜さんは旅立ちました。その一か月間私を裏切ってしまった罪悪感と、番の死をただ待つだけだったことで、なる君は心が壊れてしまって。茜さんがいなくなってからのなる君はずっとこんな状態なんですよ。普段は大丈夫なんですけど、私に何かあったり暫く会えない期間が続くと立ち直るのに時間がかかるんです」
そう語る千尋の目は仄暗く澱んでいる。常に運命の女神と呼ばれるに相応しい容姿と立ち居振る舞いをする千尋だが、これが本来の姿に違いない。
ここ数日間の、神聖な雰囲気を纏う千尋とはまったくの別物。
蠱惑的であり、また悍ましさも感じさせるその姿にレオは……魅せられてしまった。
大概のαにとって、Ωは性欲処理や子供を産ませるための道具だ。
故にΩの地位が上がることはなく、扱いがよくなることもあまりない。
レオはブライアン達から任務の概要を伝えられた時、正直訳が分からなかった。如何に付加価値があろうとも、女神然としていようとも、レオの心は動かない。いつもと同じ任務の一つでしかなかった。
――たった今、目の前の千尋を見るまでは。
女神の名の通り神聖な雰囲気の時よりもずっと好ましい。千尋のドロドロに煮詰まったその感情と歪みは、実に人間臭かった。
そのギャップは凄まじい。この姿を千尋の信奉者達に見せることはないのだろう。
千尋に関わる人に会ったのはま僅かだが、皆、彼を神聖視していた。
つまり、この状態を見せても良いと思う程度には千尋の信頼を得られたということだ。
であれば、これほど嬉しいことはない。
込み上げてくるこの感情は何なのだろうか。愛ではないことは確実だ。
千尋という人間はそんなものを欲しているわけではないのだろうと、成瀬を横目で見ながらレオは思考を巡らせる。
いや、そんなものを捧げる気はそもそも起きない。
この日レオは初めて心から膝を折り忠誠を誓い、従属したい気持ちに駆られていた。
◇ ◇ ◇
「――本来の私は皆が言うような女神ではないんですよ。がっかりしましたか?」
目を見開いたまま固まったレオを見て、千尋は流石に引かれたかと考えながら、成瀬が起きないのをいいことに髪の毛をいじる。
自国にいる間護衛を付けたくなかった理由の一つが、成瀬だった。
こんな状態のαを見たら、どのような報告をされるか分かったものではない。下手をしたら仕事に支障が出る。
だがレオはどこにも所属しない護衛だ。経歴からして口は固いだろうし、どこにも報告義務がない。
成瀬のこの状態を見ても然程動揺せず質問してくる辺り流石だ。
ブライアンが選んだだけあって相性がいいのは分かっていたが、それはあくまで千尋が表の顔をしている時に限る。
内側まで曝け出した今の状態を受け入れることが、果たしてレオにできるのだろうか。
千尋は過去と能力のせいでαを心から好きにはなれない。
成瀬だけは特別だが、それはこの能力が分かる前からの関係があるおかげだ。能力が確かになって以来、千尋は他人に心を開けなくなっていた。
自衛は大事だ。運命の番に振り回され、ズタズタに精神を引き裂かれるのはもう嫌なのだ。
運命の女神という呼称は、本来の千尋の隠れ蓑に最適だった。皆が望むように振る舞えばいいだけだ。本来の千尋は歪んでしまい、純粋さも神聖さもない。
あるのは、ただただ酷く醜く汚いもの。
運命とαを羨み妬み、しかしそれを欲してしまう自身の浅ましさを嫌悪する。それを永遠に繰り返して煮詰まったヘドロのような感情。
それを知っているのは今の今まで成瀬だけだった。
けれどレオと接したこの数日間で、もしかしたらこちらに墜ちてくれるのではないか、という感覚を持ったのだ。
何故そう感じたのか千尋自身も分からないが、レオは他のαとは違う気がする。
さてどうなるかとレオを見ると、それまで微動だにしなかった彼がすっとソファから立ち上がった。まるで誘蛾灯に惹きつけられるかの如く目元を赤らめ微かに震えながら、ふらりと千尋の前で床に膝をついたのだ。
「嫌悪だなんてとんでもない、私は今の千尋のほうがよっぽど好ましい」
視線がバチリと合わさる。レオの目に歓喜の色が見て取れた。そんなレオの状態に千尋は満足して微笑んだ。
◆ ◆ ◆
早朝。レオは言い知れぬ興奮と共に目を覚ました。
軍人として上官達や国に何度となく忠誠を誓ってきたが、昨日のような奥底から湧き上がる気持ちになったことはない。
千尋の深淵に触れたあの時、ザワザワと血が騒めきたち熱が身体中を駆け巡ったのだ。
こんな感情は知らない。知るはずもなかったものが突如目の前に現れ、膝を折り首を垂れるのが当たり前であるかのように体が動いた。
Ωとしての千尋に惹かれたわけではない。あの底なしの感情の中に飛び込み、捕まりたいと願ったのだった。
千尋に搦め捕られ、浸り切った成瀬がどうしようもなく羨ましい。
αであるレオがΩに従属したいと思うなど、本来ならあり得ないことだ。だがそれは、沼に自ら足を突っ込んだレオには些細なこと。
今から考えねばならないのは、どうすれば千尋の信頼を勝ち取れるか、ということだけだ。
リビングへ行くと、カーテンが開いていた。そこには、ベランダにある椅子に腰掛け、ぼんやりと遠くを見ながら煙草を吹かす成瀬がいる。
「早いんだな」
虚な目をした彼は、レオを捉えて咥えた煙草を離しニヤリと笑いかけてきた。
「なんだお前、堕とされたのか」
「……分かるのか?」
「そりゃぁ分かるよ、目が違う」
違うと言われるほど自身の見た目が変わったとは思わないが、千尋に堕とされた者同士、何か感じるものがあるのかも知れない。
「ふぅん? 俺が寝ている間に千尋から何か聞いたのかな?」
「貴方と千尋のことを」
「それを聞いて墜ちたのか? おかしな奴だね、変な性癖でもあるのかい?」
「そういう目で見ているわけではないんだがな」
「だろうね。もしそうだったら俺がお前を殺すよ。護衛がそんな奴だなんて、千尋に良くないからね」
濁った目のまま煙を燻らせて笑う成瀬は、昨日の好青年然とした皮を脱ぎ捨てており、不気味な雰囲気を纏っていた。
これが番をなくし墜ち切った姿なのかと思うと、ゾッとする。
「千尋を裏切るなよ、レオ・デレンス。墜ちるなら最下層まで墜ちてくるんだね」
「裏切るなんてとんでもないし、言われずともそのつもりだ」
「……今の千尋は一度掴んだら離さないからね。そこが可愛いのだけど。何度も試されるだろうけど頑張ってくれ」
「君は墜ち切ったんだろう?」
「当たり前じゃないか、可愛い弟のためだからね。寧ろ絆が深まって良かったとさえ今では思うよ。抗えなかったことと番をなくす経験は辛かったけれどね。この状況に後悔なんてまったくないのに、今じゃこのザマだよ」
テーブルの隅に置いてあった錠剤のシートからパキパキと薬を何錠か取り出し、成瀬はそれを呑み下す。
精神状態が悪い時期は安定剤を呑まなければ日常生活に支障をきたし、夜は睡眠薬がなければ寝付けず、酷い時はそれすらも効かない。千尋が傍でフェロモンを出していれば精神が安定して薬がいらなくなるらしいが、常に一緒にいられるわけもなく、薬に頼る日々だと成瀬は言う。
「千尋が刺されただろう? すぐに駆けつけたかったのに、最悪なことに地方に出張中でね。下手に状況が分かればタガが外れて仕事どころじゃなくなるんで連絡もできないし……はぁ、生きた心地がしなかったよ」
肺いっぱいに煙を吸い込み、次の煙草に火をつけた成瀬に「吸うか?」と問われたが、レオはそれを断った。
「お前がいれば、あんなことは起こらない。そうだろう?」
「あぁ、いざとなれば別の奴を盾にして逃げるさ」
「へぇ、分かってるじゃないか。自分の命を賭して守るなんて言われたら、どうしようかと思ったよ」
その調子で頑張れと言い残し、成瀬は部屋に戻っていった。
もし目の前に運命の番が現れたとして、果たしてレオは抗えるだろうか?
成瀬の背を見ながら考える。
特殊な訓練で耐性を付けているレオにΩのフェロモンは効かない。だが、運命の番のフェロモンが普通のそれと違うのだとすれば。
抗える保証などどこにもない。
そんなレオを見た千尋はどうなってしまうだろうか……
それから数日間。成瀬は千尋の自宅に留まり、落ち着いてから自分の家に帰った。
成瀬がいなくなり、二人きりでの生活が改めて始まる。少しして、レオは千尋のヒート周期を聞いていなかったことを思い出した。
「千尋、ヒート周期はどうなっている? 千尋が他のΩのように錯乱することはないと言っていたが、α側は千尋のフェロモンでラット状態になると話していただろう? 何かあった時のシミュレーションをしておきたいんだが」
千尋はすっかり失念していたらしく、慌てて自身のスマホを操作してスケジュールを見る。
今までヒートの時期は仕事を入れず自宅で過ごしていたそうで、ヒート時に人が常に同じ空間にいるということに考えが及んでいなかったようだ。
「次は一か月後ですね。特にズレることはなく、三か月周期で来ます。抑制剤さえあればフェロモン以外は普段通りですけど……レオはフェロモンに耐性があるのでしょう? 私のフェロモンも効かないんじゃないですか?」
「確かにΩのフェロモンは効かないが、それが千尋にも当てはまるか分からない。万が一ということがあるからな。軍用の強力なα用抑制剤は常時携帯しているが、その特殊なフェロモンに効くかどうかも分からないだろう」
レオの言葉に、それもそうかと千尋は顎に手を添え何やら考え始めた。
千尋のフェロモンに慣れさえすればラット状態には陥らないというが、どの程度で慣れたと判断すればいいのかは未知だ。
成瀬とはそれこそ付き合いが長いため、千尋がヒートだろうが問題がない。そもそも兄弟としての感情が強く、フェロモンを浴びようとも、性的な痴態を晒されようとも、千尋にだけは一切反応しないのだとか。
「レオのフェロモン耐性はどうやって身につけたんですか? 生まれつきの能力ではないのでしょう?」
そう聞かれて、レオは自身がまだ十代だった頃を思い出し渋面を作った。
「どこの軍でもやっていることだ……特殊任務に従事する軍人や階級が上の者は、ハニートラップを仕掛けられやすい。だから耐性をつけなくてはいけないんだが……」
Ωのフェロモンへの耐性を一からつけるため、まずは擬似的に作り出されたあらゆるΩのフェロモンを嗅ぐ。
慣れれば次は、それをより濃くしたものを。それを何度となく繰り返し、Ω達の生のフェロモンに慣れ、次にヒート中のΩのフェロモンに徐々に慣れる。
それで大概の者は、ヒート中のフェロモンを嗅いでも軽いα用抑制剤を呑めば余裕で耐えられる程度の耐性を付ける。
しかしレオは途中から抑制剤を呑まなくても、Ωのフェロモンに耐えられるようになった。その特殊性でモルモットにされたレオは、完全な密室の中で頑丈な椅子にガッチリと固定された上で、ヒートを起こしたΩと一緒の部屋に閉じ込められたのだ。
どこまで耐えられるのかと、最終的に十人のΩ達と共に密室で過ごすことになり、今の能力を獲得したのだが……それはレオにとって決していい記憶とは言えなかった。
ガチガチに固定され一切の身動きができないまま、目の前で繰り広げられる自慰から目を逸らし耳を塞ぐこともできず、ネットリと絡み付くフェロモンを吸い込まないように鼻を塞ぐこともできない。
抑制剤を呑まない状態でΩの群れに身体をあちらこちらと弄られ刺激されようとも、ひたすら耐えるしかないのだ。
まさに地獄であり拷問。
まだ十代で性欲も人並みにある若者にとってこれほどの苦しみが他にあるだろうか。
脳の神経が焼き切れそうになっても、レオの意識はずっと正常だった。どんなに目が充血し血走ろうが、下半身が情けない状態になろうが、意識だけは正常を保っていたのだ。
他の同僚達のように意識を飛ばせれば、もしくは我を忘れてしまえれば、どんなに楽だろうか。
しかし一向にそんな気配はなかった。頭と下半身は沸騰したように熱くなり、鼻から血が流れ出る。それでも、レオが望むような状態には陥らなかった。
強制的にラット状態になる薬まで使われたが、レオは耐えた。強靱な精神力のせいなのか、はたまた元々の素質なのか定かではない。
レオと同じような実験をされた他のα達は発狂し、耐性を獲得できたのは現在もレオただ一人だ。
抑制剤なしで完全に本能を抑え付けた結果、手に入れた耐性が仕事上大いに役立ったことは言うまでもない。フェロモンアタックや媚薬などを使われた時でも、本能より理性が上回った。
レオの話を聞きながら何やら思案している様子だった千尋は、意地の悪い笑みを浮かべ、予想だにしないことを言う。
「レオ、軍で行った訓練を私とやりましょうか」
またもやレオの体内の血が騒めいた。これから試されるのかと思うと、言い知れぬ高揚感が湧き上がる。
それと同時に、千尋のフェロモンに果たして勝てるのか不安が過る。
ここで耐えられなければどうなるのだろうか。特殊任務であるため、護衛の任を解かれることはないが、千尋の信頼は得られなくなる。
成瀬のように堕ちたいと願うレオは、この難題を何としても乗り越えるしかなかった。
◇ ◇ ◇
千尋は普段着けているネックガードを外すと、自室から持ってきた箱を開けた。
過保護なパトロン達が、最新技術が詰め込まれたネックガードを度々送ってくるのだ。
それは市場に出回ることのない代物ばかりで、千尋のためだけに作られた謂わば枷でもあった。今日着けるのは、そんな中でも一番シンプルなものだ。
チタン合金を薄くのばして作られたそれは、頸部分を噛もうとした相手を一瞬で気絶させる強さの電気ショックを与える。
市販されているものの中にも似たようなものはあるが、これはそれの強化版だった。
千尋が準備をする傍ら、レオもまた準備に取り掛かる。彼は鞄から抑制剤を取り出していた。見たことがない薬に千尋が興味を惹かれていると、病院で処方されるものよりも更に強力な軍用の抑制剤だと説明してくれた。
「分かりましたけど、これは?」
薬と一緒に鞄から出てきた謎のものに更に興味を惹かれる。
「ハンドカフ――拘束用の結束バンドだ。流石にどうなるか分からないのに、拘束なしで試すなど無謀すぎる。これで俺を拘束して転がしておいてほしいんだ。抑制剤があるとはいえ、何が起きるか予想できないからな」
紙にサラサラと拘束部位を描いて指示するレオに、そこまで考えが到らなかった千尋は感心した。
椅子に座ったレオは足を片方ずつ椅子の脚に結束バンドで固定し、両腕を背後に回して千尋に結束バンドを渡す。千尋は普段ならあり得ない状況に僅かに高揚感を覚えながら、レオの支持通りに両手首を固定した後、両親指も別のバンドで縛った。
「さぁ千尋、俺が君のフェロモンに耐えられるか試してくれ」
にやりと笑ったレオに応えるように、千尋は自身のフェロモンを少しずつ出していく。
成瀬が来ていた時に常に纏わせていたフェロモンは許容範囲だったようで、レオは抑制剤を呑むことはなかった。
ならば今日はそれより上の状態から始めても良いかもしれない。千尋はフェロモンの量を増やす。
テレビに映るバラエティを気もそぞろに眺めながら、千尋は椅子に固定されたレオをチラリと横目で見る。今のところ、特に変化は見られない。
「まだ大丈夫ですか?」
「これくらいは何とも。もっと強くても大丈夫そうだ」
「そうですか」
千尋はコーヒーを淹れるため立ち上がると、キッチンに向かいながらフェロモンの量を増やした。
開始から既に二時間。すれ違いざま反応を見てみたが、やはりレオは涼しい顔をしている。
今、出しているフェロモン量をレオ以外の人間が嗅げば、既に興奮状態に陥っている。にもかかわらず、未だにレオは理性が上回っていた。
――面白くない。
そう千尋は思ってしまう。
早々にレオが痴態を晒せば、それはそれで面白くなかっただろうが。
要は千尋の我が儘なのだ。
果たしてレオは、成瀬みたいに千尋の全てを受け止められるようになるだろうか。
0
お気に入りに追加
1,634
あなたにおすすめの小説
孕めないオメガでもいいですか?
月夜野レオン
BL
病院で子供を孕めない体といきなり診断された俺は、どうして良いのか判らず大好きな幼馴染の前から消える選択をした。不完全なオメガはお前に相応しくないから……
オメガバース作品です。
白い部屋で愛を囁いて
氷魚彰人
BL
幼馴染でありお腹の子の父親であるαの雪路に「赤ちゃんができた」と告げるが、不機嫌に「誰の子だ」と問われ、ショックのあまりもう一人の幼馴染の名前を出し嘘を吐いた葵だったが……。
シリアスな内容です。Hはないのでお求めの方、すみません。
※某BL小説投稿サイトのオメガバースコンテストにて入賞した作品です。
獣人王と番の寵妃
沖田弥子
BL
オメガの天は舞手として、獣人王の後宮に参内する。だがそれは妃になるためではなく、幼い頃に翡翠の欠片を授けてくれた獣人を捜すためだった。宴で粗相をした天を、エドと名乗るアルファの獣人が庇ってくれた。彼に不埒な真似をされて戸惑うが、後日川辺でふたりは再会を果たす。以来、王以外の獣人と会うことは罪と知りながらも逢瀬を重ねる。エドに灯籠流しの夜に会おうと告げられ、それを最後にしようと決めるが、逢引きが告発されてしまう。天は懲罰として刑務庭送りになり――
【完結】幼馴染から離れたい。
June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。
βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。
番外編 伊賀崎朔視点もあります。
(12月:改正版)
【完結】あなたの恋人(Ω)になれますか?〜後天性オメガの僕〜
MEIKO
BL
この世界には3つの性がある。アルファ、ベータ、オメガ。その中でもオメガは希少な存在で。そのオメガで更に希少なのは┉僕、後天性オメガだ。ある瞬間、僕は恋をした!その人はアルファでオメガに対して強い拒否感を抱いている┉そんな人だった。もちろん僕をあなたの恋人(Ω)になんてしてくれませんよね?
前作「あなたの妻(Ω)辞めます!」スピンオフ作品です。こちら単独でも内容的には大丈夫です。でも両方読む方がより楽しんでいただけると思いますので、未読の方はそちらも読んでいただけると嬉しいです!
後天性オメガの平凡受け✕心に傷ありアルファの恋愛
※独自のオメガバース設定有り
僕の番
結城れい
BL
白石湊(しらいし みなと)は、大学生のΩだ。αの番がいて同棲までしている。最近湊は、番である森颯真(もり そうま)の衣服を集めることがやめられない。気づかれないように少しずつ集めていくが――
※他サイトにも掲載
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
花いちもんめ
月夜野レオン
BL
樹は小さい頃から涼が好きだった。でも涼は、花いちもんめでは真っ先に指名される人気者で、自分は最後まで指名されない不人気者。
ある事件から対人恐怖症になってしまい、遠くから涼をそっと見つめるだけの日々。
大学生になりバイトを始めたカフェで夏樹はアルファの男にしつこく付きまとわれる。
涼がアメリカに婚約者と渡ると聞き、絶望しているところに男が大学にまで押しかけてくる。
「孕めないオメガでいいですか?」に続く、オメガバース第二弾です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。