運命に抗え【第二部完結】

関鷹親

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1巻

1-3

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 明らかに精神状態がおかしいαアルファ相手に何をやっているのだと口を開きかけたが、千尋に目線で制され、レオは黙って成り行きを見ているしかなかった。

「俺を置いていかないでくれ千尋、お前までいなくなったら俺は……俺は……‼」
「置いていかないよ、約束したでしょ? だからほら、僕はちゃんと生きてるよ。あかねさんみたいになる君を置いていかないから」

 千尋が更に強くさせた匂いをいだ成瀬は、少しずつ落ち着きを取り戻していく。それでもうわ言のように、千尋に何度も問うていた。成瀬の頭をでる千尋の表情は、いとおしいと言わんばかりに慈愛に満ち溢れている。
 しばらくすると成瀬の息遣いが規則正しくなり、深い眠りに落ちたことを確認した千尋は、ようやくレオに意識を向けた。

「いきなりでビックリしましたよね?」
「成瀬のその状態は何だ? 精神がかなり不安定だし、そんな状態でフェロモンを出すなんてどうかしている。私は君の護衛だ。何かあったらそいつを拘束しなければならないし、最悪始末する対象だぞ? 運良く寝てしまったが、本来だったら確実に襲われるだろう。それとも昨日は否定していたが、やはり恋人なのか?」

 眉を下げ視線を成瀬に落とした千尋は首を左右に振り、レオの言葉を否定した。

「簡潔に言えば、なる君とは共依存なんですよ。お互いがいなければ生きていけない。兄弟としての親愛の情はありますけど、恋愛としては愛も情もありません。私達の間にあるのはそんな綺麗なものじゃないんです」

 過去の記憶を辿たどるように遠くを見る千尋に、レオは全て話せと視線でうながす。
 護衛対象のプライベートに必要以上に立ち入るなど、本来ならば問題があるが、この場合は例外だ。
 複数人で持ち回る通常の護衛とは違い、レオは一人で千尋を守らなければならない。
 プライベートなど最初からお互いにないのだから、資料に書かれていないことがあるなら、早々に把握しておかなければならなかった。


     ◇ ◇ ◇


 ――話は千尋のバース性がまだ判明していなかった頃にさかのぼる。
 千尋の両親は大多数を占めるβベータ同士の夫婦で、兄の千景ちかげβベータだった。
 そんな中で千尋だけは幼い頃より容姿が整い、頭も良く、家族は千尋をαアルファではないかと考えていたのだ。
 また、千尋は中学校で二つ上の先輩にあたる成瀬と出会い、意気投合。本当の兄弟のように仲良くなる。
 成瀬はずっと弟が欲しかったため、懐く千尋を本当の弟のように可愛がり、千尋は千尋で実の兄の千景から嫌われていたため、成瀬を本当の兄のように慕った。
 そしてその関係は、千尋のバース性が判明した後も変わらなかった。お互いに居心地のいい関係を変えるつもりがなかったのだ。
 だが、兄である千景は、千尋に殊更ことさらつらく当たるようになる。
 βベータにしては優秀だった千景はαアルファに対して異様なコンプレックスを抱いていた。αアルファかもしれない千尋に向けられる視線にはいつもねたみが込められる。しかし千尋のバース性はΩオメガ
 そのため、千景の劣等感は更にあおられた。
 千尋は兄につらく当たられるのが苦しくなっていた。その頃には初めての恋人もいたが、彼には相談できず、成瀬にすがる。
 そんなある日の夏。忘れもしないあの出来事が起こる。
 幸せにおぼれるはずだった時間は、恋人に運命のつがいが現れたことにより消え去った。
 自暴自棄になり行きずりの相手と一夜を明かした翌朝。自身の浅はかな行動に恐怖した千尋が頼ったのは当然のように成瀬だった。
 早朝にもかかわらず泣きながら電話をすると、彼は自身の父親を伴いすぐに千尋を迎えに来てくれた。帰る道すがら事情を聞かれることもなく、成瀬家に招かれる。
 千尋は成瀬の部屋で二人きりになって初めて、一連の出来事をぽつりぽつりと話した。
 成瀬家の面々は千尋の家庭環境を知っている。傷ついた千尋が家に戻ってもいいことはないだろうと、夏休み中、千尋を預かることに決めた。
 一連の出来事は千尋のトラウマとなり、夜中に悪夢にうなされては飛び起きるということを繰り返す。その度に成瀬は千尋に優しく寄り添った。
 そうして、夏休みが明ける頃には千尋もようやく落ち着きを取り戻す。同じ学校であった元恋人は、成瀬の牽制けんせいもあって近づいてこなかったし、千尋も近づこうとはしなかった。
 一連の出来事に千尋が折り合いをつけられたのは一年たった頃だ。
 少しでも前に進まなければと千尋は新たな恋人を作ったが、その恋人も運命のつがいと出会い千尋を置いていってしまう。
 その後も千尋は恋人を作ったが、結局彼も千尋の目の前で運命のつがいに出会った。その時はもう、またか、と思うだけで、悲しみに暮れることはなかった。
 代わりに千尋の中で、確信めいたものが生まれる。その確信をより明確なものにするために、千尋は成瀬の協力を取り付けαアルファ達と積極的に関わるようにした。
 成瀬は大企業の創業者一族の一人だ。αアルファの知り合いには事欠ことかかない。
 千尋と行動すると運命のつがい同士の出会いを度々目撃することに、彼は疑問を抱いていたようだが、何も聞かなかった。
 一方、千尋は自身の能力に自信を持ち始めるのと同時に、自分のフェロモンを自在に操れるようになる。
 そこに至ってようやく千尋は、自分にはαアルファの運命のつがいを見つける能力があるのだと、成瀬に打ち明けたのだ。
 今までの不可解な現象に納得した成瀬は、その能力を仕事として使うことを提案し、それに千尋も乗った。
 千景から、そして両親からの当たりが強くなっていたため、千尋は早く独り立ちがしたかったのだ。千尋の強い意思を成瀬も成瀬の家族も全面的に支持し、協力をしまなかった。
 αアルファであれば、誰もが大なり小なり運命のつがいに憧れを持っている。それが確実に手に入るのだ。
 千尋が始めたビジネスはまたたく間に軌道に乗った。
 だが時折り、千尋はむなしさに襲われる。そのことに気が付いた成瀬が少しでも励まそうと、ずっと千尋と一緒にいると約束してくれた。
 そんな千尋の状況を面白く思わないのは兄の千景だ。ある時、金に困った千景がチンピラのようなαアルファ達を引き連れ、ヒート中の千尋の家に押し入った。
 千尋のヒートは特殊で、錯乱したり我を忘れたりはしない。抑制剤さえ呑めば、いつもと変わらない。
 変化があるとすれば、ヒート期間だけは完璧なフェロモンの制御ができなくなり、常にフェロモンが香ってしまうようになるところだろう。
 千尋のフェロモンは慣れていない者には刺激が強く、αアルファが少しでもげば強制的にラット状態になる。
 千景の連れてきたαアルファ達はその香りに当てられ、千尋に襲いかかった。
 千尋は必死に抵抗し、パトロンに渡されていた警察直通の緊急アラートを鳴らしてスマホで成瀬に助けを求めた。間一髪のところで駆けつけた警官達によりαアルファ達は取り押さえられたが、千尋には恐怖が植え付けられる。
 駆け付けた成瀬を見た千尋は安堵あんどで止めどなく涙を流し、検査のための病院でも成瀬を離さなかった。
 実の兄の仕打ちに耐えられずすがる千尋を、成瀬も決して突き放さない。
 千尋は何度も成瀬に問うた。

「家族は、兄だと思うのは、なる君しかいない。だからずっと一緒にいてほしい」

 成瀬自身、千尋を手放す気は毛頭なく、裏切る気など欠片かけらさえなかっただろう。だからいつも通りに言ったのだ。

「千尋は可愛い弟だから、ずっと一緒にいる。そう約束したじゃないか」

 そして精神状態が落ち着くまではと、事件の日から千尋は個室に入院した。
 成瀬は当然のように泊まり込みで千尋に付き合ったし、成瀬の家族も心配して頻繁ひんぱんに様子を見に訪れる。本来の家族である兄は主犯として捕まり、両親はΩオメガである千尋が全て悪いのだと見舞いにすら来なかった。
 千尋はそれをよどんだ気持ちで淡々と受け入れる。実の家族には心底愛想が尽きた。
 成瀬がいればそれで良い……

「ねぇ、なる君知ってた? 看護師さんに聞いたんだけど、別の病棟の売店って小さい本屋さんがあるんだって。行ってみたいんだ。一緒に行ってくれる?」

 病室から出ようとしなかった千尋が珍しく強請ねだったことで、成瀬は二つ返事で了承する。
 千尋の能力を知っていたにもかかわらず、だ。
 別館にある売店へあと少しというところで、成瀬は辺りをキョロキョロと見回し始める。
 千尋など初めからいなかったように足を速め、一つの部屋の前で立ち止まった。
 鼓動が痛いほど速まり、身体中から汗が噴き出し、この部屋の中にいる人物に早く会わねばと本能が告げていたそうだ。
 成瀬が汗で湿る手で扉を開けると、中から言い知れぬ香りが全身を包み、脳が焼ききれんばかりに熱くなる。
 成瀬はこの時出会ってしまったのだ。運命のつがいである斎藤さいとう茜という女性に。
 成瀬は千尋の手を振り解いて室内に踏み入り、ベッドに横たわってこちらに手を伸ばす茜を抱きしめた。

「うそつき」

 千尋はその光景を見ながらつぶやく。
 悲痛なその声は、当然ながら運命のつがいを前にした成瀬には届かない。
 慣れたと思っていたはずの千尋の心は悲鳴を上げ、静かに涙を流した。


     ◆ ◆ ◆


 すっかり冷めてしまったコーヒーをすすりながら、千尋は微笑ほほえみを絶やすことなく成瀬の頭をでていた。

「成瀬にとっても千尋にとっても、お互いが大事であることは分かったが、成瀬にはつがいがいるのだろう? 他のΩオメガのフェロモンの匂いなんてさせていたらめるんじゃないのか?」

 ましてや恋人としか思えないこんな様子では、尚更、成瀬のつがいは面白くないだろうとレオは思う。
 αアルファつがいができたとしても、Ωオメガのように他の相手を受け付けなくなるという制約はない。
 運命のつがいである場合のみαアルファは相手に執着し、他には目もくれなくなるらしい。
 今の成瀬の状況は、いかに共依存であろうとも不可解極まりなかった。

「なる君につがいはいないんですよ」

 そう言った千尋は目を細め、ゾッとするような笑みを浮かべレオを見る。

「私の能力は、αアルファのフェロモンからその運命のつがいを見つけることです。それを仕事にしているほどに私の能力は正確なんです。レオは運命のつがいと出会える確率をご存知ですか?」
「約七十七億分の一だな」
「その通り。数多くの論文で運命のつがいはただ一人とされていて、それゆえに尊ばれる……私が仕事をった回数は資料に書いてあったでしょう? その決して少なくない人数分、全てに運命のつがいを見つけて引き合わせている、不思議に……いえ、おかしいと思いませんか?」
「何が言いたい」

 話の行き先が分からず、レオは思わず千尋を鋭く見つめる。そんな視線にもおくする様子を見せず、千尋はにこりと微笑ほほえんだ。

「この世界には七十七億人もの人間がいるんですよ? その中の一人が、そんなに毎回近くにいるなんておかしいでしょう?」

 クスクス笑いながら千尋は更に話していく。

「運命のつがいは必ず、複数人存在するんですよ」

 その言葉にレオは驚愕きょうがくした。

「私はαアルファのフェロモンからその運命のつがいの場所と人数が全て分かります。仕事の時はいい印象を感じ、尚且なおかつ依頼主から然程さほど離れていない場所にいる運命のつがいを教えています……当然悪い印象を抱く場所もあるんですよ。なる君の運命のつがいはその場所にいたんです」

 そこでレオはハッとする。成瀬と運命のつがいが出会った場所はどこだと言っていたか。

「お前、まさか……」
「私は……なる君を手放さないために、引き止めるために、試すために。死にかけている運命のつがいのもとへ連れていったんですよ」

 実の兄に裏切られ両親にも見捨てられた千尋には、頼りすがれる人が、場所が、成瀬しか残っていなかった。
 成瀬はずっと一緒にいてくれると言うが、家族でもましてや恋人でもない千尋にはその約束がひどもろいものだと分かっていたのだ。
 お互いを大事にしてはいるが、いつかは壊れるその約束を、千尋は確かなものにしたかった。
 だから成瀬を試したのだ。
 運命のつがいを前にしても千尋を選ぶかどうかを。
 千尋は運命のつがいを見つけ、それに抗えた者を見たことがない。だから保険を掛けた。
 成瀬が抗えれば文句はない。もし抗えなくてもつがいが早くにこの世からいなくなれば、成瀬は千尋にちるだろう。
 どちらに転んでも、千尋は成瀬を手に入れることができる。
 幸いなことに、最悪な印象を受ける成瀬の運命のつがいは近すぎるほど近くにいた。

「なる君の運命のつがいである茜さんは末期癌で、生きている時間も残りわずかでした。そんな体でヒートは起こせない。つがいになれないまま一か月後には茜さんは旅立ちました。その一か月間私を裏切ってしまった罪悪感と、つがいの死をただ待つだけだったことで、なる君は心が壊れてしまって。茜さんがいなくなってからのなる君はずっとこんな状態なんですよ。普段は大丈夫なんですけど、私に何かあったりしばらく会えない期間が続くと立ち直るのに時間がかかるんです」

 そう語る千尋の目はほのぐらよどんでいる。常に運命の女神と呼ばれるに相応ふさわしい容姿と立ち居振る舞いをする千尋だが、これが本来の姿に違いない。
 ここ数日間の、神聖な雰囲気をまとう千尋とはまったくの別物。
 蠱惑こわくてきであり、またおぞましさも感じさせるその姿にレオは……せられてしまった。
 大概のαアルファにとって、Ωオメガは性欲処理や子供を産ませるための道具だ。
 ゆえΩオメガの地位が上がることはなく、扱いがよくなることもあまりない。
 レオはブライアン達から任務の概要を伝えられた時、正直訳が分からなかった。如何いかに付加価値があろうとも、女神然としていようとも、レオの心は動かない。いつもと同じ任務の一つでしかなかった。
 ――たった今、目の前の千尋を見るまでは。
 女神の名の通り神聖な雰囲気の時よりもずっと好ましい。千尋のドロドロに煮詰につまったその感情とゆがみは、実に人間臭かった。
 そのギャップはすさまじい。この姿を千尋の信奉者達に見せることはないのだろう。
 千尋に関わる人に会ったのはまわずかだが、皆、彼を神聖視していた。
 つまり、この状態を見せても良いと思う程度には千尋の信頼を得られたということだ。
 であれば、これほど嬉しいことはない。
 込み上げてくるこの感情は何なのだろうか。愛ではないことは確実だ。
 千尋という人間はそんなものを欲しているわけではないのだろうと、成瀬を横目で見ながらレオは思考を巡らせる。
 いや、そんなものをささげる気はそもそも起きない。
 この日レオは初めて心から膝を折り忠誠を誓い、従属したい気持ちに駆られていた。


     ◇ ◇ ◇


「――本来の私は皆が言うような女神ではないんですよ。がっかりしましたか?」

 目を見開いたまま固まったレオを見て、千尋は流石さすがに引かれたかと考えながら、成瀬が起きないのをいいことに髪の毛をいじる。
 自国にいる間護衛を付けたくなかった理由の一つが、成瀬だった。
 こんな状態のαアルファを見たら、どのような報告をされるか分かったものではない。下手をしたら仕事に支障が出る。
 だがレオはどこにも所属しない護衛だ。経歴からして口は固いだろうし、どこにも報告義務がない。
 成瀬のこの状態を見ても然程さほど動揺せず質問してくる辺り流石さすがだ。
 ブライアンが選んだだけあって相性がいいのは分かっていたが、それはあくまで千尋が表の顔をしている時に限る。
 内側までさらした今の状態を受け入れることが、果たしてレオにできるのだろうか。
 千尋は過去と能力のせいでαアルファを心から好きにはなれない。
 成瀬だけは特別だが、それはこの能力が分かる前からの関係があるおかげだ。能力が確かになって以来、千尋は他人に心を開けなくなっていた。
 自衛は大事だ。運命のつがいに振り回され、ズタズタに精神を引き裂かれるのはもう嫌なのだ。
 運命の女神という呼称は、本来の千尋のかくみのに最適だった。皆が望むように振る舞えばいいだけだ。本来の千尋はゆがんでしまい、純粋さも神聖さもない。
 あるのは、ただただひどみにくく汚いもの。
 運命とαアルファうらやねたみ、しかしそれを欲してしまう自身の浅ましさを嫌悪する。それを永遠に繰り返して煮詰につまったヘドロのような感情。
 それを知っているのは今の今まで成瀬だけだった。
 けれどレオと接したこの数日間で、もしかしたらこちらにちてくれるのではないか、という感覚を持ったのだ。
 何故なぜそう感じたのか千尋自身も分からないが、レオは他のαアルファとは違う気がする。
 さてどうなるかとレオを見ると、それまで微動だにしなかった彼がすっとソファから立ち上がった。まるで誘蛾灯ゆうがとうきつけられるかのごとく目元を赤らめかすかに震えながら、ふらりと千尋の前で床に膝をついたのだ。

「嫌悪だなんてとんでもない、私は今の千尋のほうがよっぽど好ましい」

 視線がバチリと合わさる。レオの目に歓喜の色が見て取れた。そんなレオの状態に千尋は満足して微笑ほほえんだ。


     ◆ ◆ ◆


 早朝。レオは言い知れぬ興奮と共に目を覚ました。
 軍人として上官達や国に何度となく忠誠を誓ってきたが、昨日のような奥底から湧き上がる気持ちになったことはない。
 千尋の深淵に触れたあの時、ザワザワと血がざわめきたち熱が身体中を駆け巡ったのだ。
 こんな感情は知らない。知るはずもなかったものが突如目の前に現れ、膝を折りこうべを垂れるのが当たり前であるかのように体が動いた。
 Ωオメガとしての千尋にかれたわけではない。あの底なしの感情の中に飛び込み、捕まりたいと願ったのだった。
 千尋にからられ、ひたり切った成瀬がどうしようもなくうらやましい。
 αアルファであるレオがΩオメガに従属したいと思うなど、本来ならあり得ないことだ。だがそれは、沼に自ら足を突っ込んだレオには些細ささいなこと。
 今から考えねばならないのは、どうすれば千尋の信頼を勝ち取れるか、ということだけだ。
 リビングへ行くと、カーテンが開いていた。そこには、ベランダにある椅子に腰掛け、ぼんやりと遠くを見ながら煙草を吹かす成瀬がいる。

「早いんだな」

 うつろな目をした彼は、レオをとらえてくわえた煙草を離しニヤリと笑いかけてきた。

「なんだお前、とされたのか」
「……分かるのか?」
「そりゃぁ分かるよ、目が違う」

 違うと言われるほど自身の見た目が変わったとは思わないが、千尋にとされた者同士、何か感じるものがあるのかも知れない。

「ふぅん? 俺が寝ている間に千尋から何か聞いたのかな?」
「貴方と千尋のことを」
「それを聞いてちたのか? おかしな奴だね、変な性癖でもあるのかい?」
「そういう目で見ているわけではないんだがな」
「だろうね。もしそうだったら俺がお前を殺すよ。護衛がそんな奴だなんて、千尋に良くないからね」

 にごった目のまま煙をくゆらせて笑う成瀬は、昨日の好青年然とした皮を脱ぎ捨てており、不気味な雰囲気をまとっていた。
 これがつがいをなくしった姿なのかと思うと、ゾッとする。

「千尋を裏切るなよ、レオ・デレンス。ちるなら最下層までちてくるんだね」
「裏切るなんてとんでもないし、言われずともそのつもりだ」
「……今の千尋は一度掴んだら離さないからね。そこが可愛いのだけど。何度も試されるだろうけど頑張ってくれ」
「君はったんだろう?」
「当たり前じゃないか、可愛い弟のためだからね。むしきずなが深まって良かったとさえ今では思うよ。抗えなかったこととつがいをなくす経験はつらかったけれどね。この状況に後悔なんてまったくないのに、今じゃこのザマだよ」

 テーブルの隅に置いてあった錠剤のシートからパキパキと薬を何錠か取り出し、成瀬はそれを呑み下す。
 精神状態が悪い時期は安定剤を呑まなければ日常生活に支障をきたし、夜は睡眠薬がなければ寝付けず、ひどい時はそれすらも効かない。千尋がそばでフェロモンを出していれば精神が安定して薬がいらなくなるらしいが、常に一緒にいられるわけもなく、薬に頼る日々だと成瀬は言う。

「千尋が刺されただろう? すぐに駆けつけたかったのに、最悪なことに地方に出張中でね。下手に状況が分かればタガが外れて仕事どころじゃなくなるんで連絡もできないし……はぁ、生きた心地がしなかったよ」

 肺いっぱいに煙を吸い込み、次の煙草に火をつけた成瀬に「吸うか?」と問われたが、レオはそれを断った。

「お前がいれば、あんなことは起こらない。そうだろう?」
「あぁ、いざとなれば別の奴を盾にして逃げるさ」
「へぇ、分かってるじゃないか。自分の命をして守るなんて言われたら、どうしようかと思ったよ」

 その調子で頑張れと言い残し、成瀬は部屋に戻っていった。
 もし目の前に運命のつがいが現れたとして、果たしてレオは抗えるだろうか?
 成瀬の背を見ながら考える。
 特殊な訓練で耐性を付けているレオにΩオメガのフェロモンは効かない。だが、運命のつがいのフェロモンが普通のそれと違うのだとすれば。
 抗える保証などどこにもない。
 そんなレオを見た千尋はどうなってしまうだろうか……


 それから数日間。成瀬は千尋の自宅に留まり、落ち着いてから自分の家に帰った。
 成瀬がいなくなり、二人きりでの生活が改めて始まる。少しして、レオは千尋のヒート周期を聞いていなかったことを思い出した。

「千尋、ヒート周期はどうなっている? 千尋が他のΩオメガのように錯乱することはないと言っていたが、αアルファ側は千尋のフェロモンでラット状態になると話していただろう? 何かあった時のシミュレーションをしておきたいんだが」

 千尋はすっかり失念していたらしく、慌てて自身のスマホを操作してスケジュールを見る。
 今までヒートの時期は仕事を入れず自宅で過ごしていたそうで、ヒート時に人が常に同じ空間にいるということに考えが及んでいなかったようだ。

「次は一か月後ですね。特にズレることはなく、三か月周期で来ます。抑制剤さえあればフェロモン以外は普段通りですけど……レオはフェロモンに耐性があるのでしょう? 私のフェロモンも効かないんじゃないですか?」
「確かにΩオメガのフェロモンは効かないが、それが千尋にも当てはまるか分からない。万が一ということがあるからな。軍用の強力なαアルファ用抑制剤は常時携帯しているが、その特殊なフェロモンに効くかどうかも分からないだろう」

 レオの言葉に、それもそうかと千尋はあごに手を添え何やら考え始めた。
 千尋のフェロモンに慣れさえすればラット状態にはおちいらないというが、どの程度で慣れたと判断すればいいのかは未知だ。
 成瀬とはそれこそ付き合いが長いため、千尋がヒートだろうが問題がない。そもそも兄弟としての感情が強く、フェロモンを浴びようとも、性的な痴態をさらされようとも、千尋にだけは一切反応しないのだとか。

「レオのフェロモン耐性はどうやって身につけたんですか? 生まれつきの能力ではないのでしょう?」

 そう聞かれて、レオは自身がまだ十代だった頃を思い出し渋面を作った。

「どこの軍でもやっていることだ……特殊任務に従事する軍人や階級が上の者は、ハニートラップを仕掛けられやすい。だから耐性をつけなくてはいけないんだが……」

 Ωオメガのフェロモンへの耐性を一からつけるため、まずは擬似的に作り出されたあらゆるΩオメガのフェロモンをぐ。
 慣れれば次は、それをより濃くしたものを。それを何度となく繰り返し、Ωオメガ達の生のフェロモンに慣れ、次にヒート中のΩオメガのフェロモンに徐々に慣れる。
 それで大概の者は、ヒート中のフェロモンをいでも軽いαアルファ用抑制剤を呑めば余裕で耐えられる程度の耐性を付ける。
 しかしレオは途中から抑制剤を呑まなくても、Ωオメガのフェロモンに耐えられるようになった。その特殊性でモルモットにされたレオは、完全な密室の中で頑丈な椅子にガッチリと固定された上で、ヒートを起こしたΩオメガと一緒の部屋に閉じ込められたのだ。
 どこまで耐えられるのかと、最終的に十人のΩオメガ達と共に密室で過ごすことになり、今の能力を獲得したのだが……それはレオにとって決していい記憶とは言えなかった。
 ガチガチに固定され一切の身動きができないまま、目の前で繰り広げられる自慰から目をらし耳をふさぐこともできず、ネットリと絡み付くフェロモンを吸い込まないように鼻をふさぐこともできない。
 抑制剤を呑まない状態でΩオメガの群れに身体をあちらこちらといじられ刺激されようとも、ひたすら耐えるしかないのだ。
 まさに地獄であり拷問。
 まだ十代で性欲も人並みにある若者にとってこれほどの苦しみが他にあるだろうか。
 脳の神経が焼き切れそうになっても、レオの意識はずっと正常だった。どんなに目が充血し血走ろうが、下半身が情けない状態になろうが、意識だけは正常を保っていたのだ。
 他の同僚達のように意識を飛ばせれば、もしくは我を忘れてしまえれば、どんなに楽だろうか。
 しかし一向にそんな気配はなかった。頭と下半身は沸騰ふっとうしたように熱くなり、鼻から血が流れ出る。それでも、レオが望むような状態にはおちいらなかった。
 強制的にラット状態になる薬まで使われたが、レオは耐えた。強靱きょうじんな精神力のせいなのか、はたまた元々の素質なのか定かではない。
 レオと同じような実験をされた他のαアルファ達は発狂し、耐性を獲得できたのは現在もレオただ一人だ。
 抑制剤なしで完全に本能を抑え付けた結果、手に入れた耐性が仕事上大いに役立ったことは言うまでもない。フェロモンアタックや媚薬などを使われた時でも、本能より理性が上回った。
 レオの話を聞きながら何やら思案している様子だった千尋は、意地の悪い笑みを浮かべ、予想だにしないことを言う。

「レオ、軍で行った訓練を私とやりましょうか」

 またもやレオの体内の血がざわめいた。これから試されるのかと思うと、言い知れぬ高揚感が湧き上がる。
 それと同時に、千尋のフェロモンに果たして勝てるのか不安がよぎる。
 ここで耐えられなければどうなるのだろうか。特殊任務であるため、護衛の任を解かれることはないが、千尋の信頼は得られなくなる。
 成瀬のようにちたいと願うレオは、この難題を何としても乗り越えるしかなかった。


     ◇ ◇ ◇


 千尋は普段着けているネックガードを外すと、自室から持ってきた箱を開けた。
 過保護なパトロン達が、最新技術がまれたネックガードを度々送ってくるのだ。
 それは市場に出回ることのない代物しろものばかりで、千尋のためだけに作られたわばかせでもあった。今日着けるのは、そんな中でも一番シンプルなものだ。
 チタン合金を薄くのばして作られたそれは、うなじ部分を噛もうとした相手を一瞬で気絶させる強さの電気ショックを与える。
 市販されているものの中にも似たようなものはあるが、これはそれの強化版だった。
 千尋が準備をするかたわら、レオもまた準備に取り掛かる。彼はかばんから抑制剤を取り出していた。見たことがない薬に千尋が興味をかれていると、病院で処方されるものよりも更に強力な軍用の抑制剤だと説明してくれた。

「分かりましたけど、これは?」

 薬と一緒にかばんから出てきた謎のものに更に興味をかれる。

「ハンドカフ――拘束用の結束バンドだ。流石さすがにどうなるか分からないのに、拘束なしで試すなど無謀すぎる。これで俺を拘束して転がしておいてほしいんだ。抑制剤があるとはいえ、何が起きるか予想できないからな」

 紙にサラサラと拘束部位を描いて指示するレオに、そこまで考えが到らなかった千尋は感心した。
 椅子に座ったレオは足を片方ずつ椅子の脚に結束バンドで固定し、両腕を背後に回して千尋に結束バンドを渡す。千尋は普段ならあり得ない状況にわずかに高揚感を覚えながら、レオの支持通りに両手首を固定した後、両親指も別のバンドで縛った。

「さぁ千尋、俺が君のフェロモンに耐えられるか試してくれ」

 にやりと笑ったレオにこたえるように、千尋は自身のフェロモンを少しずつ出していく。
 成瀬が来ていた時に常にまとわせていたフェロモンは許容範囲だったようで、レオは抑制剤を呑むことはなかった。
 ならば今日はそれより上の状態から始めても良いかもしれない。千尋はフェロモンの量を増やす。
 テレビに映るバラエティを気もそぞろに眺めながら、千尋は椅子に固定されたレオをチラリと横目で見る。今のところ、特に変化は見られない。

「まだ大丈夫ですか?」
「これくらいは何とも。もっと強くても大丈夫そうだ」
「そうですか」

 千尋はコーヒーをれるため立ち上がると、キッチンに向かいながらフェロモンの量を増やした。
 開始からすでに二時間。すれ違いざま反応を見てみたが、やはりレオは涼しい顔をしている。
 今、出しているフェロモン量をレオ以外の人間がげば、すでに興奮状態におちいっている。にもかかわらず、未だにレオは理性が上回っていた。
 ――面白くない。
 そう千尋は思ってしまう。
 早々にレオが痴態をさらせば、それはそれで面白くなかっただろうが。
 要は千尋のままなのだ。
 果たしてレオは、成瀬みたいに千尋の全てを受け止められるようになるだろうか。


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白石湊(しらいし みなと)は、大学生のΩだ。αの番がいて同棲までしている。最近湊は、番である森颯真(もり そうま)の衣服を集めることがやめられない。気づかれないように少しずつ集めていくが―― ※他サイトにも掲載

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

花いちもんめ

月夜野レオン
BL
樹は小さい頃から涼が好きだった。でも涼は、花いちもんめでは真っ先に指名される人気者で、自分は最後まで指名されない不人気者。 ある事件から対人恐怖症になってしまい、遠くから涼をそっと見つめるだけの日々。 大学生になりバイトを始めたカフェで夏樹はアルファの男にしつこく付きまとわれる。 涼がアメリカに婚約者と渡ると聞き、絶望しているところに男が大学にまで押しかけてくる。 「孕めないオメガでいいですか?」に続く、オメガバース第二弾です。

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