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1巻
1-1
しおりを挟む追憶
バース性がΩだと判明してから少しして、αの彼氏ができた。
千尋はそれが嬉しくて舞い上がっていた。初めてできた彼氏だ、そうならないほうがおかしい。
まだ学生である千尋達はお金をあまりかけないように日々デートを重ねていたが、ある時急に少し離れた場所にあるテーマパークに千尋は行きたくなった。
ちょうど夏休みが始まる前で、二人で楽しく計画を立てる。夏休みだし折角なら泊まりにしようと言ったのは彼だ。
きっとそういうことなのだろうと千尋は思った。彼の目には恥じらいの中にも、雄の欲望がチラついていたからだ。
幸せの最高潮はそこだったに違いない。
テーマパークに着き、絡めながら歩く手は互いに高揚感で汗ばんでいた。飲み物を買ってくると離れた彼を千尋は目で追い、この後のことを考える。
お互いに初めてだ。多少の怖さはある。
ネットで色々調べて手順も覚えた。
思い合いながらお互いに初めてを捧げ合うなんてロマンチックだ。将来は、番になってほしいなどと考えてしまう。
千尋が物思いに耽っていると、少し先のほうからどよめきが起こる。
何だ何だと人々はその中心に足を向けた。千尋も周りの人に倣って歩き、その先で信じられない光景を目の当たりにする。
「見つけた! 俺の運命の番‼」
大きな声で響いたその言葉に、周りの人達は一斉に祝福ムードになった。
歓声と割れんばかりの拍手が、人々の中心にいる彼らに送られている。着ぐるみのキャラクター達まで祝福していた。
そこにいたのは、先程まで千尋の隣にいた彼だ。
千尋に向けていたよりもずっと極上な笑みを浮かべ、相手も似たように幸せそうな顔で彼を見ていた。
暫くすると彼らはお互いに寄り添いその場を離れる。取り囲んでいた人達も、あんな場面に遭遇するなんてラッキーだったなどと口にしながら散り散りになっていった。
ただ一人、千尋だけは事態が呑み込めず、唖然としてその場に佇んでいた。
ふと気が付いた時には辺りは既に薄暗く、閉園の放送が流れていた。フラつく足を叱咤しながら、千尋はなんとかテーマパークを後にする。エントランスのキラキラと輝く光が、眩しく突き刺さった。
スマホを見ても彼からの連絡はない。
虚しさが心を占めるなか、滞在予定だったホテルに着いて部屋に入る。途端にむせ返るほどの濃厚なフェロモンと、淫らな喘ぎ声が聞こえてきた。
扉の前から一歩も動けないまま、耳だけが聞きたくもない声を拾う。
きっとあの後、彼らはここに来たに違いない。心がどんどん冷めていくのが分かった。
荷物を取りに奥まで行くのは躊躇われ、千尋はすぐに部屋から出た。
胃の辺りが冷たくなる感覚と共に、胃液が迫り上がる。口元を手で覆い必死に吐き気をやりすごす。
日中に夢見ていたことを恋人が自分以外の誰かとしているのだと思うと、悲しさと同時に腹立たしさが溢れる。
――何が運命の番だ。
憧れたことはある。誰だって一度は憧れる。実際にその相手がいるαやΩに生まれたならばなおさらだ。
お互いだけの唯一、それに出会う人は幸運だ。
運命の番に出会う確率は都市伝説並に低い。それはそうだろう。この世界には沢山の人間がいて、その中からたった一人に出会うというのだから。
なんて素敵で、残酷なことか。
置き捨てられた側はたまったものではない。
暗い気持ちを抱えながら、千尋は駅までの道をフラフラと歩く。両親には泊まりだと伝えている。こんな時間から帰ったら何を言われるか。
混乱する頭で考えていると、不意に誰かに腕を掴まれた。
「ねぇ君さ、そんな匂いさせながらこんな街中歩いて……もしかして誘ってる?」
「匂い?」
「混ざってるみたいだけど、フェロモンの匂いが凄いよ?」
きっとあの部屋に入ったせいに違いない。あの部屋には濃厚すぎるほどのフェロモンが充満していたのだから。
自分では気が付かなかった。そんな余裕などなかった、と言ったほうが正しいのだが。
「そんなことよりさ、これから俺とどう?」
あからさまな誘いだ。この誘いに乗ればどうなるかなんて分かりきっている。
しかし、今から家に帰って両親や兄に口煩く言われたくない。どこかに泊まろうと考えていたのも事実。
――だったら、この男の誘いに乗っても良いのではないだろうか。
普段なら絶対に考えないことだったが、この時の千尋は普通ではなかった。
「いいよ」
夢は終わって、現実を見る時間だ。今すぐにでもあの出来事を多少なりとも忘れられるのならば何だって良かった。
その日、千尋は知らない男と体を重ねた。それはずっと思い描いていたものとは程遠い、とても苦しく辛いものだった。
特殊な能力
――はっと目が覚める。アイスコーヒーが入ったグラスは、一口も飲まれることなく、水滴でテーブルに水たまりを作っていた。
都内にあるアンティーク調の家具で統一された落ち着いた雰囲気のカフェで、千尋は今日の仕事相手である相馬和康と待ち合わせをしていた。うっかりうたた寝をしてしまったが、相馬はまだ来ていないらしく、少しほっとする。
それにしても、少しの時間でよくもまぁ嫌な記憶の夢を見たものである。
初めての彼氏を運命の番であるΩに取られてからというもの、千尋はある能力を覚醒させ散々な目にあってきた。
初めの頃は気付かなかったのだが、付き合った、または親しくなったαと行った先で彼らの運命の番と出会うことが頻繁にあったのだ。
運命の番と出会う確率を思わず調べたほど、偶然にしては出来すぎていた。
しかもおかしなことに、運命の番と出会うのは決まって千尋が唐突に「行きたい」と思った場所だ。
偶然とは呼べないソレに気付いてから、千尋はαの知人や友人の数を増やし検証した。
その結果、「αのフェロモンを嗅ぐと、そのαの運命の番の居場所が分かる」という特殊な力があるのが分かった。
その能力は次第にα達に知られ、界隈で千尋を「運命の女神」と呼び始める。
運命の番を得たαが噂を広め新たなαを呼び、今では国内外問わずセレブや要人達から「運命の番探し」の要請があるほどになった。
運命の番を得たαは皆感謝し、謝礼として金銭を渡したりパトロンを名乗り出たりする。
当初戸惑っていた千尋だが、上流社会にいるα達の助言により、今ではその能力を「αの番斡旋」というビジネスにしている。
そしてもう一つ。
能力を自覚し始めた辺りから、千尋は自身のフェロモンを完全に制御できるようになった。
一ミリとてΩのフェロモンを出さないことで神秘性が増したようで、α達の千尋への「女神信仰」に拍車がかかっている。
α達が山ほどいるパーティーに番がいないにもかかわらず頻繁に出席できる彼にとって、番斡旋ビジネスはまさに天職だ。
運命の番をよく思わない千尋には、なんとも皮肉なことなのだが。
Ωの就職率はいいとは言えず、貧困層が多い。
それを考えるとかなり恵まれていると思う。千尋のパトロンになりたい人は沢山いるし、ビジネスのおかげで使い切れないほどお金がある。
α達との社交も仕事の一つである千尋は、ランチやディナーを一人で食べることはあまりないし、度々プレゼントを貰うので、大きな金額の買い物はしなくて良い。
今住んでいる都内のマンションも、パトロンのαが購入して千尋に与えたものだ。
自身の能力でここまで成り上がりはしたが、千尋は常に虚しさを抱えていた。
何故ならこの能力を得た代償なのか、αに恋愛感情を持てなくなったからだ。
恋人になったαのフェロモンを嗅ぐと否応なくその人の運命の番の場所を知ってしまう。
何度か捨て置かれた経験がある千尋は、そんなことに耐え続けるなどできなかった。
だから諦めたのだ。
それなのに、運命の番と結婚したα達は皆、千尋を運命の女神として結婚式に呼ぶし、会食やパーティー等では彼らの番と共に会ったりするわけで。
目の前で自身が得られない幸せが繰り広げられるのだ。虚しさ以外に何があろうか。
けれどこのビジネスは今更止められないし、辞める気もない。
それはお金のことが勿論あるが、運命に抗えるαがいるのならば、見てみたいと思うからだ。
もしもそんな人物がいるならば、かつて捨て置かれた自分が多少なりとも救われる気がした。
もっとも未だにそんな人物には出会っていないのだが……
「――千尋君? 大丈夫かい?」
思考の海に潜っていると、不意に話しかけられた。相馬がいつの間にか到着していたらしい。
「仕事のしすぎで疲れてるのかな? すまないね、呼び出したのに待たせてしまって。色々な人から怒られそうだ」
眉を少し下げ申し訳なさそうに苦笑しながら言う相馬が向かい側に座り、手早く自身と千尋のコーヒーを注文した。
余程急いできたのか、少し汗ばむ首に目が行く。上品なスーツを身につけ落ち着いた大人の色気を纏う相馬に、周りの客や店員達がチラチラと視線を投げていた。
「相馬さんはお忙しいじゃないですか、誰も怒りませんよ」
「僕が言えたことではないけれど、君のパトロンは皆、過保護だからね。知られたら、きっと僕のスマホにお小言の電話とメールがひっきりなしに来てしまうよ」
その様子がありありと想像でき、千尋は苦笑するしかない。
彼のパトロン達は相馬も含め全員、上級のαである。普通ならば番でもないΩの千尋など気に掛けはしない。
だが、運命の相手を見つけ出してくれたことに加え、Ωである故の儚気な美貌もあいまって、庇護欲がそそられるようなのだ。
海外では仕事相手やパーティーの主催者、またはその国にいるパトロンから必ず護衛をつけられる。
某国の王族との仕事の際は、彼らより千尋の警護のほうが厳重で、呆れを通り越してドン引きしたくらいだ。
国内にいる時だけは護衛は要らないと突っぱねているので比較的自由だが、パトロン達からは護衛をつけろと日々せっつかれている。
「では二人の秘密ということにしましょう?」
悪戯っぽく笑いながら人差し指を口に当てしーっとポーズを取ると、相馬も心得たとばかりに同じポーズを返した。その様子に周りから息を呑む音が聞こえる。
運ばれてきた新しいコーヒーを飲み終え、二人はカフェを出て相馬の車に乗り込んだ。
その車内で、千尋は相馬から仕事の内容を聞く。
今回は大人のαではなく生まれたばかりの赤ん坊のバース性の確認だ。
思春期になるまでバース性は分からないというのが、常識である。だが千尋はその能力のおかげか、赤ん坊だとしてもαであればその運命の番の場所が分かるのだ。
それに気が付いたのは、以前、運命の相手との子供ができた夫婦のお祝いパーティーに行った際だった。抱かせてもらった赤ん坊から不意に運命の番の場所を知り、その赤ん坊がαであることを知った。
その時の周りの反応は凄まじく、お祝いパーティーは新たなα誕生祝いになり、まだバース検査を受けられない子を持つ人達から「是非うちの子に会ってαかどうか確かめてくれ」と声が掛かって大変なことになったのだ。
それからは運命の番探しと共に、子供のバース判定も仕事の一つになった。
それはともかく、相馬の遠縁に当たるその夫婦はβ同士であるらしい。通常、生まれてくる子供は殆どβであるのだが、父親の曽祖父がαであり、多少なりともαである可能性があるため、本家である相馬家からバース性の確認を申し出たという経緯なのだとか。
いきなりの話に夫婦は渋ったらしいが、本家からの要請を断われず、最後は渋々受け入れたようだ。
夫婦の家に着くと、そこには夫婦以外に彼らの両親も来ていた。皆一様に困惑した表情だ。α然とした相馬がいるせいで緊張もしている。
新築の匂いが微かに残るリビングに通され、ソファに相馬と二人で座った。αである相馬が千尋に恭しく接する様子に、不思議そうな顔をされる。
そんなことには慣れているので、千尋はサラリと流す。
「初めまして早川千尋です」
挨拶を交わし、数枚名刺を手渡された。だが生憎、千尋は名刺を持っていない。仕事は完全紹介制になっていて、無闇に名刺など渡せないのだ。
それは過保護なパトロン達から課せられた制約の一つでもある。
「生まれたばかりの子のバース性が分かると伺ったんですが、本当でしょうか?」
緊張しておずおずと話しかけてくる母親に、千尋は努めて柔らかく笑んだ。
「α限定ではありますが分かりますよ」
「病院とかで検査をするんですか? あの、まだ生まれたばかりだから、この子に負担がかかるようなことはしたくないのですが……」
「負担がかかることは一切いたしません。お子様を抱かせていただくだけで終わりますので」
不審な者を見る素振りをする夫婦に、それはそうだろうと千尋は思う。
千尋の名は上流階級のα界隈と、ごく一部の権力者の中でしか知られていない。
何も知らない一般人からすれば怪しい宗教のように感じるに違いない。実際に、αに執着する人達を食いものにする悪徳宗教も存在するのだから、千尋を警戒して然るべきだ。
特に生まれたばかりの子を持つ母親の警戒心は強い。本家の相馬からの話でなければ家に上がることすらできないはずだ。
なかなか動かない夫婦に、相馬がピリッとした空気を纏う。
「ダメですよ、相馬さん。母親が警戒するのは当然なんですから」
「それはそうだが」
「お母様、少しだけですのでお子様を宜しいですか?」
相馬を窘め、警戒心を解かせるように笑いかけながら言うと、母親は「少しだけなら」と赤ん坊を差し出した。
「ふふっすごく軽いですね。あぁ目元はお母様に似てますね、そっくりだ」
ふにゃふにゃとした赤ん坊は、千尋に抱かれてキャッキャと嬉しそうにはしゃぎだす。
ぎゅっと赤ん坊を抱きしめ首筋の匂いを手早く嗅ぐ。赤ん坊特有の甘いミルクの香りと共に微かにαのフェロモンを感じ、運命の番の場所が頭に浮かぶ。
「どうかな千尋君」
不安そうにこちらを見る母親に赤ん坊を返すと、千尋は再び相馬の隣に腰を下ろす。
「αで間違いありません。赤ん坊なので、どの程度の強さのαかはまだ分かりませんが。一歳くらいなら確実に分かるんですけど……もしその辺りの判定もするなら、その時にまた呼んでいただければ」
「だそうだ。αであることが確定したので、相馬家からこの子にかかる教育費をある程度援助させてもらおう」
突然の申し出とバース性の確定に慌て出す面々に、相馬が鞄から書類を出してこれからのことを説明していく。夫婦とその両親達は目を白黒させながらその説明を聞いていた。
これは所謂αの青田買いのようなものだ。同じ家系からαが出たら早めに囲い込み、将来の手駒の数を増やす。
α同士、または片方がαである夫婦ならば金銭的に余裕があるが、β同士となると多くは普通の中流家庭か、それ以下だ。
そんな両親の子に生まれたαは必要最低限の教育しか受けられず、大体はβの両親と同程度の経済状況になる。
それでも別に問題はないのに、優秀な手駒が欲しいα達は、こうして援助という恩を売って優秀な者を作り出そうとする。
援助する側は将来優秀な手駒を増やすための先行投資となり、親は子に掛かる金銭が援助され経済的に楽になるのだ。
子供は将来をほぼ決められてしまうが、ある程度の自由はあるのでwin‐winな取引だ。
そんなαの青田買いは、今まで検査でバース性が確定してからのものだった。
それが千尋のおかげで早まったというわけだ。
話が纏まった。まだ現実感が湧かないらしい夫婦達を他所に、αの赤ん坊は母親の腕の中ですよすよと寝息を立ている。
自身には訪れそうにない幸せな家庭を羨ましく思いながら、千尋は静かに微笑んだ。
再び都内に戻って来た千尋は、家まで送るという相馬の誘いを断った。この後は別のαである桐ヶ谷とディナーの予定が入っている。
一人にするのは心配だと言う相馬を、待ち合わせは一時間後だから大丈夫だと説得した。
もういい歳だし、そこまで過保護になる必要はないのに、周りはそう思ってくれない。
運命の番を見つけられる貴重な存在だからというのは理解できるが、ここは日本だ。滅多な事は起こらない。街を歩いてもすれ違い様に見られることはあるけれど、声を掛けてくる人などいなかった。
海外では流石に護衛も受け入れるし、一人でふらふら出歩くこともしない。
だから安全な国にいる間は、千尋は自由でいたかった。
千尋ははやる心を窘めつつ、書店へ足を伸ばす。小説から始まり、興味を惹かれた専門書などを吟味しながら選んでいった。
この後を考えるとあまり冊数を買えないことにがっかりしつつ、気になった本をスマホにメモする。結局あまり分厚くない三冊をその場で購入した。
気が付けば、待ち合わせの時間の三十分前になっている。どうやらディナー相手は少し遅れるらしく、迎えの車を寄越すと連絡がきていた。
別の本屋に移動し、軽く時間を潰してから迎えの車が来る駅に向かう。キョロキョロと辺りを探すと、黒塗りの高級車が路肩に停まるのが見えた。
男達が車から降りて辺りを見回し、千尋を見つけて綺麗なお辞儀をする。
その車に向かおうと千尋が足を一歩踏み出した瞬間、ドンッと背中に強い衝撃を受けた。千尋はそのまま前に倒れる。
途端に周りから悲鳴が上がった。
後ろを振り返ると、目を血走らせ拳を強く握り締めて怒りに体を震わせた女性が立っている。
「アンタのせいよ‼ アンタがいなければ……何がΩよ、何が運命の番よ‼」
ぼろぼろと涙を流し髪を振り乱しながら怒声を浴びせる女性に、あぁと千尋は納得した。
「早川様‼」
男達が事態に気が付き、バタバタ走ってくる。辺りは騒然とし、周りにいた人々は千尋と女性から距離を取った。
未だに喚き散らす女性を運転手が取り押さえ、すぐさま警察に連絡を入れる。
「早川様、すぐに救急車が参ります。痛いでしょうが、もう暫く我慢してください」
「……私の体はどうなってますか?」
その問いに、一瞬躊躇いを見せた運転手が答える。
「あまり深くはありませんが、背中を刺されてます。出血も多いですね、内臓に傷がついてないといいんですが」
「痛みがないので分からないんですが……刺されてるんですか? 運がいいのか悪いのか……桐ヶ谷先生に迷惑掛けちゃいますね」
遠くからけたたましいサイレンの音が聞こえてきた。
あっという間に警官があふれ、ブルーシートで周りから目隠しをする。取り押さえられていた女性は警官達に引き渡され、パトカーの後ろに押し込められた。
救急車に乗せられた千尋は、徐々に手足が冷たくなっていくのを感じる。
血が流れすぎたのか、はたまたやっと脳みそが状況を理解したのか。微かに痛みが出始め、額に脂汗が浮かぶ。
「桐ヶ谷先生に、ディナーごめんなさいって伝えてくれますか?」
運転手にそれだけ伝えると、ふっと意識が遠のいていった。
救急隊員が呼びかけてくるが、どうやっても重い瞼を開ける気にならない。千尋はそのまま意識を手放した。
『アンタのせいよ‼ アンタがいなければ……何がΩよ、何が運命の番よ‼』
直前にはっきりと聞こえたのは救急隊員の声ではなく、自分を刺した女性の悲痛な叫びだった。
◇ ◇ ◇
ふと意識が上昇する。目を開けると、千尋は広々とした室内のベッドの上にいた。
目だけで辺りを見回すと、体にベッドサイドモニターと点滴が付けられていた。
あれからどれくらい時間が経ったのか。体が鉛のように重く、目覚めたばかりだからか、頭もよく回らない。
目覚めたことを知らせなくてはとナースコールを押して暫く、外が騒がしくなる。
「目が覚めて良かったよ、千尋~‼」
ガラッと扉を開けて入ってきた白衣の壮年の男は、桐ヶ谷総一郎であった。千尋がディナーに行く約束をしていた相手だ。古くからの千尋のパトロンの一人であり、今入院している桐ヶ谷総合病院の病院長でもある。
「気分はどうだい? 傷は痛むかな? 痛むならすぐに痛み止めを出そうね」
医師というよりも祖父みたいな様子でオロオロと診察する桐ヶ谷に、千尋は思わず笑ってしまう。
「少し痛いです。あと起きたばかりなので、まだ頭がフラつく感じがしますね」
「ごめんよ、私がもっと早めに迎えに行かせたら、こんなことにはならなかったんだ。幸い内臓は傷ついてなかった。出血も思ったより少なかったしね。傷口も絶対に跡が残らないように縫合が上手いのにやらせたからね。君の綺麗な体に傷が残ってしまったら、後悔しても仕切れないよ」
申し訳なさそうに話す彼に、千尋も少しばかり後悔の念が募る。
「……桐ヶ谷先生、あの後どうなりましたか?」
「事件については、後から刑事さん達が来るからその時に聞きなさい。今は目覚めたばかりだから、千尋は休むことに専念しなさいね」
孫に接するように優しく言って頭を撫でてくる桐ヶ谷に、なんとも擽ったい気持ちになった。むず痒さに耐えている千尋に、すっと桐ヶ谷がスマホを渡す。
「それと、無理がない範囲で皆に連絡してあげてね。でないと、ここに押し掛けてきて大変なんだよ。一応面会謝絶にしているのに、分かるだろ? 君のパトロンや周りの連中は聞く耳を持たないんだ」
彼は苦笑いをしているが、その顔には疲労の色が見える。ずっと対応に追われていたのだろう。
千尋のパトロン達は皆、雲の上の人ばかりだ。
下手な人間に対応を任せられる人々ではなく、間違えれば首が飛ぶどころか、この病院がなくなる恐れすらある。
千尋は確かにα達の女神ではあるが、それと同時に爆弾みたいなもの。α達は互いに互いを見極めながら千尋に接しなければならない。
千尋に粗相をしたら、パトロン達が全力をかけてその人間を潰すからだ。
千尋は手元のスマホに視線を落とす。
日付を見ると、刺された日から三日が経っていた。ディスプレイに表示されている恐ろしい数のメッセージの通知に一瞬眩暈がする。
三日も寝ていたのだから、そうなっていても仕方ない。
気の重さに溜息を吐き、お腹が減っていることに漸く気が付く。
「桐ヶ谷先生、ご飯って食べられますか? 流石に腹ぺこなんですが……」
「いいよ、病院食は美味しくないから、ホテルからデリバリーさせるよ。何がいい? 肉かな? 魚かな? 和洋中は?」
矢継ぎ早に聞かれて千尋は困惑する。
「え? 入院しているんですから、病院食で良いですよ」
「ふふふ、っていうのは冗談だけどね。今日は胃がびっくりしちゃうんで病院食で我慢してもらわないとなんだけど、様子を見て明日からは千尋のためにデリバリーを頼むね。リクエストがあったら看護師とかに言っといて?」
無邪気に笑う桐ヶ谷に釣られて、千尋もニコニコした。
「入院中は私と朝昼晩ご飯を食べてね? ほら、事件のおかげでディナーができなかっただろ? それに千尋のために色々頑張ったからね! 暫く千尋を独占しても問題ないはずさ! ふふふ、皆悔しがるだろうねぇ」
「分かりました、でも自慢しすぎちゃダメですよ? 後で大変なことになるのは桐ヶ谷先生なんですから」
くすくすとお互い笑い合った後、桐ヶ谷が病室をあとにする。
一人残った千尋はもう一度深い溜息を吐くと、気合を入れてメッセージを返していった。
◆ ◆ ◆
煩わしいアラームの音で目が覚めたレオ・デレンスは、一伸びしてベッドから降りると濃いめのコーヒーを飲み干し、まだ夜が明けきらぬ中、ルーティンであるランニングに向かった。
長期任務が終わり久々の纏まった休日ではあるが、職業柄、体を鈍らせるわけにはいかない。
太陽が完全に辺りを照らし始めた頃にランニングを終え、バスルームで汗を流す。途端、軍用のスマホが着信音を鳴らした。
「あと十分でそちらに着く。出る準備をしておけ」
ブツッと切れた電話を放り出し、レオは慌ただしく衣服を身につけ、必要なものが全て詰まっている鞄を肩に引っ掛けた。
遠くからバラバラとプロペラのけたたましい音が聞こえてきたのを確認し、玄関の外に出る。
ホバリングするヘリコプターから目の前にロープが下ろされ、それに片足を引っ掛けるとすぐさま上に引き上げられた。開いたドアから素早く乗り込むのと同時にヘリコプターは機体を上昇させ、来た道を引き返す。
「緊急事態ですか?」
「俺は何も聞かされていない。着いたら国防長官から話を聞け」
「了解しました」
それ以上の言葉を交わすことなく、暫くして目的地である基地に着く。太陽はすっかり昇り、頭上で輝いていた。
ヘリコプターから降り、基地の中を上官の後について歩く。
一体何が起きているのかと、レオはアレやコレやと考えを巡らせた。
自分が呼ばれるということは、極秘かつ特殊な任務ということだ。少し前に終わったばかりの仕事も、国を狙うテロ組織を秘密裏に解体するというものだった。
短い休暇だったなと遠い目をしたくなるが、仕事自体は嫌いじゃない。
分厚いドアをくぐり抜けると、円卓の一番奥にこの国の大統領ブライアン・ミラーが椅子に深く腰を掛けてコーヒーを飲んでいた。
その横には国防長官と、何故か下院議長までいて、その二人もブライアン同様ゆったりとコーヒーを飲んでいる。
緊急事態にしてはこの緊張感のなさはなんだ?
そう思いながらも、レオは踵を揃えて敬礼する。
「おはようレオ、いい朝だな」
「おはようございます大統領。緊急の呼び出しのようですが、次の作戦でしょうか?」
「その通りだ。これは極めて重大かつ世界的にとても大事な案件だよ」
緊張を孕むブライアンの言葉にレオはごくりと息を呑む。
よく見れば彼らの顔は一様に疲労の色を滲ませている。呑気に休日の心配をしている場合ではなかったのだ。
ブライアンが深く息を吐き、レオを見つめて口を開いた。
「千尋が刺されたんだ」
「は?」
レオはブライアン達の深刻さが理解できず、気の抜けた返事をする。
誰が刺されたって? 千尋とは一体誰だ? 確かに人が刺されるということは小さなことではないが、それが世界を揺るがすほどのことなのだろうか。予想から大きく外れた話を、脳が上手く処理できない。
普段どんなことにも動揺しないレオが返答に困っていると、国防長官がブライアンに言う。
「ちょっと待って、ブライアン。彼に千尋と言っても分からないのではないの?」
「あれ? レオは千尋のこと知らなかったっけ?」
「申し訳ございません、千尋? というお名前を伺ったことがありません」
大袈裟に天を仰いだブライアンに、レオは居た堪れなくなった。
「情報規制しているから、それもそうか……」
ショックから立ち直ったブライアンは、国防長官に指示を出し資料を出させる。パッとモニターに映し出されたのは、αともΩとも判別しづらい、色の白い肌に黒の髪がとても映える美しい男性だった。
「彼が早川千尋だよ。この国、ひいてはこの世界の至宝。我々αの女神さ」
ブライアンの言葉に、思わずレオは目を見開く。下院議長と国防長官もその通りだとばかりに頷いていた。言い知れぬ気味の悪さがレオの肌をゾワゾワとなぞる。
千尋というその人物はΩでありながら、十年ほど前から各国のトップクラスのα達を相手に一人で仕事をしているらしい。
その仕事というのが「αの運命の番」を見つけるというものだった。
あまりに荒唐無稽な話だと、レオは感じずにはいられなかった。
運命の番は都市伝説みたいなものだ。それこそその存在が見つかれば、世間を騒がすニュースになる。決して生業にできるようなものではない。
全人類の半分はβと呼ばれる人々で、αとΩの割合は残りの人口の二分の一ずつである。
αというバース性は知能や芸術性に優れ、ありとあらゆる面で突出した能力を持つ。各国のトップや、上流階級にαが多いのはこのためだ。
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もう二度と同じ轍は踏まない。
そう決心したアリスの戦いが始まる。
ふしだらオメガ王子の嫁入り
金剛@キット
BL
初恋の騎士の気を引くために、ふしだらなフリをして、嫁ぎ先が無くなったペルデルセ王子Ωは、10番目の側妃として、隣国へ嫁ぐコトが決まった。孤独が染みる冷たい後宮で、王子は何を思い生きるのか?
お話に都合の良い、ユルユル設定のオメガバースです。

初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。
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