空白の世界とモノクローム

藤 光一

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序曲

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 十二月三十一日。
 私は、この広い世界でまだ小さいながらもその世界で、大きく私は泣き叫んだらしい。
苦しみながらも必死に我が子の為へと死力を尽くした母は、その産声が聴こえたのか。
まだ母の呼吸は荒いが、静かに安堵していたと私は聞いている。
母の手を握り締め、支えるように強く鼓舞していた父も泣き叫ぶ私の顔を瞳に映し、
何度も「ありがとう。」とその重い唇を開き、涙を浮かべながら感謝をしていた。

 世那セナ

 それが私の名。そして、私の最初の誕生日プレゼント。
産声を上げた分娩室に、朝日が昇る。また一つの命が産まれたのだと二人は喜んでいた。
照らされた陽の光は、少し肌寒い院内をほんの少し暖めてくれたという。


 一月二日

 母の容態が急変。元々、身体が弱かった母はそのまま集中治療室へと運ばれた。
どうやら、私を産んだ事で免疫が著しく低下し持病が発症したらしい。
体力も無く、産後間もない母の身体では対抗する手段が極めて厳しかったようだ。
忙しなく動き回る看護士とその目紛しい光景に泣き叫ぶ私。
運ばれて数時間後、治療室の赤い灯火が消える。室内から現れたのは治療を施した医者。
顔を上げる事なく、項垂れた形相でただただこうべを垂れていた。
父は悟ってしまった。あぁ、そういう事か。何ということか。
疲弊し緊張した筋肉が骨を失ったように崩れてしまい、思わず肘をついてしまう。
私の父と再会する事は無く、母の目も開ける事は無かった。
父の乾いた頬にまた塩辛い雫が流れ落ちていた。
生まれたばかりの私と父を置き去りにし、母はこの日を境に去ってしまった。

 それから六年後。十一月十九日。

 また肌寒い季節が巡り、秋風が強くなりつつあるそんな日だった。
肌が見える手や首に冷たい風が降り掛かり、冷たく纏おうとしている。
身体を屈めながら歩き、少しでも寒さを凌ごうとするそんな私に対して
自分が身に纏っていたマフラーを着けてくれた。
父の匂いは、温かくとても気持ちが落ち着いたと今でも覚えている。
そんな私たちに降り掛かったのは、一石の思いがけないものだった。
瞬間、私には理解する事も把握する事も出来なかった。
後に聞けば、道路をはみ出した車が勢い良く歩道へと乗り出したとの事だ。
咄嗟に父は、私を庇うように突き飛ばし勢いが止まらない車から距離を置いたらしい。
私を庇った事で、父は逃げる事は出来ずそのままスピードをつけた車にはねられた。
交通事故により父もまた、母を追うように私を残しこの世を去った。
まだ幼かった私にはこの時、父が死んだ事が理解出来なかったようだ。
けれど、私は直感していた。

私は、一人ぼっちになってしまった・・・と。

 それから私は、親戚たちの家に引き取られ生活を続けていた。
その時の記憶は、あまり覚えていない。目の前で父が死んでしまったのだ。
先程まであんなに楽しく話していたというのに。
私の中の何かがパズルのように引き裂かれ、粉々に砕け散った感触があった。
うつろとなった瞳は、きっとどこにも焦点は無かったのだろう。
親戚たちの投げかける言葉も、周りの大人も、当時の友達もフィルターが何層にも重なり
あの時の私には、鼓膜まで届く事すら無かった。
口数が減ってしまったのはその頃からで、乾いた口は重く声を震わせるのも一苦労だった。
一人は嫌だ。あなたじゃない。あなたでもない。母を、せめて父までは奪わないで欲しかった。
歳を重ねる度に、盲目な哀しみは増していくだけだった。
母を救えなかった医師を恨んだ時もあった。
父を跳ね飛ばした運転手を殺してやろうとも思った。
けれど、歳を重ねる度に思う。それであの二人は喜ぶのだろうか、と。
哀しみを原動力にし、あの医師を恨んだところで母は喜ばない。
怒りを振り下ろし、あの運転手を殺したところで父は戻ってはこない。
幼い頃に読んだ神も天使も、この世界には居ないのだろうと悟ってしまったのだ。
だから、やり場のない矛先が歯を食いしばり、時折口の中は鉄の味がした。


 時が経ち、親戚の家から離れ孤児院に居た私が十九歳になった年。私にも恋人が出来た。
恋人の名は、冬真トウマ。私よりも二つ上歳が上の人。
優しくて、面倒見が良くて一緒に笑い合ったり怒ったり。
何よりも一緒に居られるのが、他の何物とも比べられない幸せが溢れていた。
孤独という閉鎖された私という世界には、あまりにも眩し過ぎた。
そう、ずっと一人だった私の隣には今、トウマがいる。
空白だった想いというキャンパスにトウマというパレットが何色にも塗り替えてくれた。
彼が笑えば、喜べば暖かい色。彼が泣けば、悲しめば少し寒い色。
けれど共感すればまた明るい色へと塗り替える。空にも似た素敵なキャンパス。
あの日が来るまでは・・・。

「待って。」静寂を決め込んでいた部屋に私の声が震える。
それは、似た感覚。昔、幼い心を蝕んだあの感覚。息苦しさすら掻き立てる。
呼吸が重くすら感じる孤独感を戦慄させる。

「どこに・・・、行くの?」

 恐る恐る言葉を発した私は、突然出て行こうとするトウマに問いかける。
その背中は、どこか私に似た感覚があった。閉じ籠り、耳を塞いでしまった私に。
だからこそ、感じてしまったのだろう。いつものトウマではない。
そんな気がした・・・。

「なんで、振り向いてくれないの?」

 続けて声を投げかけても、彼が振り向く事は無かった。瞳に映るのは彼の後ろ姿だけ。
一歩二歩踏み込めば手が届く距離なのに、何かに引き裂かれたかのように遠く感じてしまう。
手が届かない、足が前へと進まない。それは一種の恐怖心なのかも知れない。
この空間に亀裂を入れられて、目の前にいるトウマが別次元にでも居るかのようだ。

「ごめん・・・。」

 ようやく発してくれたトウマはこちらを振り向く事は無く、小さな声で謝るだけだった。
か細く掠れた声は、余計に伸ばしたい腕を払い退けてしまう。
喉の奥で言葉が詰まり、声道がつっかえる。その度に心臓が一鳴りずつ私の中で響く。
余計に強く大きく。瞳もまた共鳴するように震えていた。網膜が何かで溺れそうだ。

「巻き込みたくないんだ。」

 続けてトウマは、そう言う。やはり私から遠ざけるように距離を置く。
そのプレッシャーに押し出され、まだ近付ける事が出来ないでいた。
今、近付けば無数の刃で手を切り刺されてしまうのではないか。
そんな殺気すら感じてしまった。

「ト、トウマ?」

 そう言って、彼は私とこの部屋を残し去ってしまった。
ガチャリと無機質な扉の音が部屋に響き渡る。その頃になってようやく身体が反応してくれた。


「待って、お願い!」

 そう言葉に発した時には彼が居た温もりだけ。
彼に届く事はなく、そのまま声が跳ね返ってきた。
巻き込みたくない。その意味は何だったのか。私には見当も付かなかった。
だから、私は・・・。前に進む事を決めた。痺れた身体を前に出し、走り出す。

 真実を確かめたい。私はトウマを追いかける事に決心した。
ドアに手を伸ばし、フックに掴み掛かる。いつもより重く感じる。
けれどこれ以上、躊躇してはいけない。そんな気がしていた。
この時の私は、思いもしなかった。追いかける事に必死だったからだ。
ドアを開けた先が、まるで小説のような世界だったのは夢にも思わなかったから。


 扉を開けると暗く染まった空間だった。明らかに普段見る景色では無かった。
いつもの街並みも、いつもの空模様も、通り行く人影すらもそこには無かった。
明らかな別次元。星無き夜空のように広がるこの空間は、沸々と不気味さを演出していた。

「ここは、どこ?」
 思わず私は口に出してしまった。誰かに返事を求めるわけではない。
自分に言い聞かせる為だ。少しでもこの不気味な空間の中で冷静でいる為だ。
何よりもトウマを探すのが目的だ。ここにトウマがいるのだろうか。
周りは暗闇。しかし、全く見えないわけでは無い。
光が無い部屋であれば自分の身体すらも見えないだろう。
不思議にも自分の身体だけは、まるでスポットライトを当てたかのようによく見える。

「出口が・・・、ない?」

 改めて周りを見渡してわかった。後ろから入ってきたはずなのにその出入り口は無かった。
まるで初めからそこには無かったと言わんばかりである。
後ろへ振り向き掌をかざしてわかった事もある。
数歩下がった先は、見えない壁のようなモノがあった事。どうやら戻る事は出来ないようだ。

「前に進めってことなの?それしか無いみたいね。」

 そう思い、元の場所に戻りたいという後ろめたさが無いと言えば嘘になる。
だとすれば、進むしかない。後ろでもない。右でも左でもない。
進むなら前へ、奥へ進むしか無いのだろう。
暗闇へと一歩、前へと一歩踏み出す。恐怖を振り払う第一歩でもある。
一度踏み出せば怖くは無い。そう思わなければ、不安で圧死してしまう。
だから、少しでも平常心を。少しでも強く見せなければ。
仮面を被るように、マスクするように、フードを被るように。
弱い自分を見せては駄目だ。相手に付け入れさせるな。そう言い聞かせ、前へと進む。
 
 しばらく奥へ進むと、光が見えた。丁度、人一人が入れる程の開け放たれた光の空間。
出口だろうか、いやまだこれは入口なのかも知れない。

「何かの入り口かしら?」
 
 私はそう良い聞かせ、声に出し認識させる。なぜかそこで足が止まってしまった。
進めないわけではない。止まらなければならない、そうせざるを得ない。
そんな気がしていた。

〈進むのか?〉

 どこからかはわからない。ノイズ混じりの声がこの空間に響き渡る。
上でもすぐ横でもない。でも確かに私の耳に不思議な声が聞こえてきた。
男性とも女性とも似つかないこの声は、やはり不気味だった。

「・・・誰?」

〈ここは。〉

 その声の主は、そう答えた。空白の・・・、世界?
やはりここは、私の世界とは違うのか。当然、見たことも聞いた事もない。

〈お前が求めるもの、手にしたいもの、探したいもの。全てはお前次第だ。
だが、求めるものに対し代償は払って貰う。〉

 声の主は、一貫して淡白で機械的だった。それが不気味の理由でもある。
だが、恐怖に圧倒されては駄目だ。
私は胸に手を当て、恐怖を搾り取るように拳を握りしめる。

〈その覚悟があるならば、進むが良い。〉

 言われるまでもない。私は前に一歩踏み出した時から決めていた。
トウマを、真実を確かめたい。その一心だけだ。
ならば、進むしかない。光の向こうに答えがあるのなら。
あなたに会えるのなら、どうなったっていい。


・矛盾の輪廻

 そこは、先ほどの空間とは異なっていた。
暗闇だった空間とは違い、鮮明に奥まで良く見える。
空は、紫、青、赤、緑とパレットに無理くり捩じ込ませたような色合いだった。
その色たちは、互いに混ざる事はなく常に自分たちの存在を誇張していた。
さっきの部屋とは違い、床も見える。半透明な紫色の床。
下を覗けば、半透明の床の奥に見えるのはどこまでも広がる空と同じ色の空。
ここに私の世界の常識は存在しないのだろう。上も下も空。落ちたらどうなるのだろうか。
私の生命線でもあるこの床は、枝分かれた草木のように入り組んでいた。
奥まで目を凝らせば、行き止まりもある。階段もある。
迷宮とは言い難いが導くようにというわけではないようだ。
その証拠に、異様なモノはもう一つ。いや複数と言うべきか。

「何か・・・、いる?」
 私は、声を殺すように呟く。本能がそう言い聞かせたのか、声を殺した。
この空間のあちこちに点在するように黒い生き物が静かにじっと構えていた。
何かを待つように、今か今かとその時を待つように。
手足はなく、黄土色の眼が虚に何かを見ている。

「気をつけて進もう。」

 状況に合わせて、歩いたり走ったりすれば何とかなるかな。
直感的にそう思った。今の私に対抗する手段は何もない。
あるとすれば恐怖を捨て、奴らから逃げる事。

 どうやら奴らは、案外鈍いと云うのがわかった。
奴らの正面でなければ、ある程度近づいても気付かれない。
やはり数歩の距離となると私に気付き、その身体を勢いよく伸ばし飛び掛かってくる。
口を身体以上に大きく広げ、私目掛けて噛みつこうとし追いかけてくる。
ただ、勢いはあるがそんなにスピードがあるわけではない。私の足と体力でも離す事が出来る。
それに枝分かれた床の経路のおかげで上手く奴らを誘引する事が出来れば、
見つかっても床と障害物を利用し、上手く回避する事が出来た。

 半透明の床を歩み、奥に奥へと進む。枝分かれた道を進む中、一種の余裕が生じた時だった。
障害物から奇襲かのように横目から飛び出してきたのは、奴らだった。
咄嗟の出来事に、一歩退いてしまう。
人の本能とは面白いもので、自分への危害が突然降り掛かって来ても頭と心臓は守ろうとする。
それは、私にも例外では無かった。奴らの襲撃を回避するには最早手遅れだった。
ならば、本能的に防ごうとする急所を守り、受け身を取るしかない。

ガリッ。

 私の右腕に噛み付いたこの黒い生物は、虚いだ眼でこちらを見ていた。
不思議となぜか痛みは無かった。代わりに心臓、いや心にナイフが刺さった感触があった。
物理的な痛いとは少し違い、何か鋭利なもので感情を刺され吸い取られる感覚。
いずれにせよ好感が持てるものではない。
私は悲痛と似た叫びに合わせ、噛み付いたこの黒い生物を振り回し払い除ける。
振り回す刹那、奴もただで放そうとはしなかった。
抵抗を見せるように再び、牙を剥き出して私の腕をもう一度喰らい付く。
先程よりも深く刃が心の奥に侵食した感覚が走った。
反射的に痛いよりも気持ち悪さが露呈していた。
右腕を抑え、この黒い生物から距離を置く為に走り出す。
近くに構えていた別の奴もこちらに気付き、追いかけてくる。
こいつらは、ある程度の距離を離せれば追うのを諦めてくれる。

 それならば、今は走り抜くだけ。もうすぐこの空間の奥で捉えていた光の原点に辿り着く。
呼吸が乱れても構わない。足が動くうちに一歩でも多く、速く。
この空間の光に触れれば、また別の空間に移動するのだろうか。
でも今は奥に進む以外、方法は見つかっていない。ここで奴らに食い殺されるよりはマシだ。
そう思い、私は光り輝く床に一歩足を踏み入れる。






・億千万分の一

 広がりを見せていた空間は、そこにはなく一室のホールのような空間だった。
いや、空間と云うよりは部屋として捉えた方が都合が良さそうだ。
声が反響しそうで、現に歩く度に私の足音は木霊するように反響していた。
部屋の中央に誰かいる。
グレイに染まったローブを見に纏い、顔はそのフードで覆い隠されていた。
この世界に来て、どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
いずれにしてもようやく人のような存在と対峙できた。
敵か味方かはわからない。ならば、聞くしかない。

「・・・人、・・・なの?」

 私の声は思ったよりも、か細くなっており震えていた。
それでもこの部屋のおかげで上手く反響されていた。

「・・・ん?」

 私の声に反応したそのローブを纏う者は、ゆっくりと振り向いた。
その者は、正面に立っても深く被ったフードのせいでやはり顔は見えない。

「君もここに来たのかい?」

 ローブを纏う者はどうやら男性のようだ。低く優しい声だった。
どこか温もりを感じさせ、この世界に来て初めて肉声を聞いたのだ。
余計に、ほっとして心が安堵したようだ。 

「あなたは?」

 だから私は、この人が何者かを知りたかった。
名乗ってくれるのならば、少なくとも敵意は無いはず。そう考えた。

「私は、モノリス。そう・・・、そう呼ばれている。」

 彼は考える事も無く、すんなりと回答してくれた。どうやら敵意は無いのだろう。
は、どこか引っ掛かる。
モノリスと名乗るこの人は、あたかも自分の名前がわからないかのように答えた。
けれど、それは当然で必然でもある。そう捉えれるように答えていた。

「モノリス・・・。ここは、・・・ここはどこなの?」

「君は質問が多いな。あぁ、勘違いしないでくれ、良い意味なんだ。
質問が多いことは良い事だ。物事に対しての好奇心、興味の強さ。実に人間らしい。」

 モノリスは、悠長に答えた。けれど私の質問には答えなかった。
はぐらかしているとは違い、どこか話を避けるようだった。
それでも、彼は続けてこう告げる。

「知識欲あってこその人間。私はそう思う。そんな人間が私は大好きだ。」

 私に対し手を差し伸べ、優しく語りかける。
彼の人間に対するイマジネーションは、少し癖があったがわからないわけではない。
ただでさえ、異質な空間に迷い込んだと云うのに思想深い考えを持っていた。

「見かけの割によく喋るのね。」

「ふふふ、そうかな。今日は客人が多いから、気分が良いのかも知れない。」

 フードの陰から口角が上がり、口元が笑みを浮かべていたのが見えた。
しかし、気付いたのはそこだけではない。〈客人〉と云うワードにだ。
少しピリつくような電流が私の肌を走り抜ける。

「客人・・・?ねぇ、私以外にも誰か来たってこと?」

「・・・そうだな、確かに来た。丁度、君と歳の近い男が来たな。」

「本当⁉︎トウマもここに来たのね‼︎」

 モノリスの言葉に歓喜し、つい前のめりになってしまう。
自然と歩幅が広がり、前へ一歩踏み出していた。
感情に乗ったその一歩は、真実を知りたい一歩。他の誰でもない私が知りたい一歩。

「トウマ・・・、すまないな。生憎、名前には興味が無いんだ。
それに私は、彼自身に興味を唆られなかった。」

 それでも彼が返してくれたのは、虚しい回答だった。
モノリスにとって、トウマはどうでも良かったのか。
舞い落ちる枯葉を見るかのように通り過ぎてしまったのか。
けれど、私が求めている回答はそんなことではない。

「あなたが興味があるかなんてどうでもいいわ!
私は、にいたのかを知りたいだけ。」

「・・・そう。知りたいのだね。」

 モノリスは、私の知りたい欲望に駆られたのか優しく包むように受け止める。

「なら、進むしかない。そこに答えがあるのだろうから。」

 そう言うと、再び後ろを振り向き仰々しく閉ざされた扉へ指を差す。

「この扉の向こうに・・・。」

 全ての答えは、そこにある。
その奥、そして知るためには君がその足を前に出さなければならない。
簡素だが、そう悟らせるようにモノリスは告げた。
私は一呼吸のため息を漏らした。落ち着かせるために手に腰を当てて。

「・・・わかったわ。礼を言うわね。」

「そう、・・・では次は私の番だ。」

 そう言って、人差し指を突き上げ提案をしてきた。

「あなたの番?・・・どういう事?」

「簡単な事さ。君は情報という知識を手に入れた。
今度は、私に君の情報という知識を分けて欲しい。」

 詰まるところの交換条件だろうか。彼の提案も理に適っている。

「・・・いいわ。」

 要求する内容は不確かだが、私は潔く承諾した。
きっとこのモノリスは、危害を加えるような者ではないのだろう。
この声を聞いて、直感的ではあったがそう考えてしまった。

「有難う。・・・では、私も連れて行ってくれ。」

 確かに危害は加えるような話では無かったが、予想打にしない内容ではあった。

「構わないわ。けど・・・、何故?」

「待つより動く方が知識が増え、効率が良い。シンプルだろう?
それに君の結末を知りたい。いや、これが第一優先かな。」

「どっちでもいいわ。私はトウマを探し出すまで進むわ。」

「益々、興味が唆るよ。では最後に・・・。」

 モノリスは、呼吸を整えるように掌を広げ私にこう告げた。

「君の名前を教えてくれないか?」

世那セナよ。」

 この世界に来て、初めて人らしい者に名乗った。
それを聞いた彼もフード越しではあったが、笑みを溢しているように見えた。

「セナ・・・。知識欲が湧く素晴らしい響き、そして何より良い名だ。」

 流暢に彼は私の名前を褒めちぎった。不思議な感覚だった。
先の空間で侵食された心に穴を埋めるような感覚、心臓の鼓動が一打だけ強くなる。

「そこまで褒められたのは初めてよ。でも、名前には興味が無いんじゃなかったの?」

 自分の名前を褒められるのは初めてだった。
だから少し照れ臭かったし、頬が少し火照っていた。

「何故だろうな、聞きたくなったのだ。」

 噛み締めるようにモノリスは、三度みたび後ろを振り向き、少し考え込む。
そういえば、と思い出したかのように宙に顔を上げ、どこかホッとした表情で言葉を続ける。

「あぁ、・・・そうか。今日は客人が多いから気分が良いのだろう。」

 私と同行する事になったモノリスは、部屋の奥にある扉を開けた。
一体どれだけの時間を彼はこの部屋で過ごしていたのだろう。
それでも彼はこの部屋を惜しむ事なく前へと進む。そうか、惜しみより欲が勝っているのか。
知識欲という欲望に。
知りたいという事に駆られる彼の原動力は、新たな歯車を見つけたように歓喜していた。
フード越しでしっかりとは見えなかったが、そう思えた。
私たちは、重々しく開いた扉を潜り、この部屋から抜け出した。


・選択の方程式

 そこは、白い迷路のような空間。今までと違って閉鎖されたようなところだった。
辺りは壁で囲まれており、すぐ突き当たりには左右に道が分かれていた。
恐らくはどちらかが正解で、その一方は誤り。間違った道は想像したくはない。

「あら、・・・分かれ道ね。どっちに行ったら良いのかしら・・・。」

 今は一人ではない。一緒に行動してくれる者が居てくれているからだ。
この不気味な世界で敵意が無い者と行動できるのは、やはり安心する。
一人で行動するよりは、遥かにその存在は大きい。

「ふむ、選択か。ところでセナ、心理学の『選択理論』は知っているか?」

 モノリスは、目の前の分かれ道と私の台詞に反応し、そう質問を投げ掛けた。
まさか、ここで心理学についてなんて聞かれるとは思っても見なかった。

「あなたが心理学を出すなんて驚きだわ。
『全ての選択は、自分の選択である』とは聞いてるわ。」

 私も心理学を学ぶ学生だ。それぐらいの事は知っている。
曰く、行動を選択出来るのは自分だけだ。他人に行動を直接選択させる事など出来ない。
行動は常にが選択された結果だと考えられているようだ。

「そうだ。だから君が右を選んだ運命も、左を選んだ運命も甘んじて受け入れよう。」

 モノリスは私の返答に対し僅かに口角を上げていた。
分かれ道に沿うように両腕を広げ、与えられた選択を私に委ねた。

「面倒ね・・・。小難しい話はやめましょう?行き先のどちらかを選ぶだけ。
答えはいつだってシンプルよ。」

「確かにシンプルな問題ほど、シンプルに考えるのがベストな結果を引き出せるだろうな。」

 最初の分かれ道は、左。ガコンっと床から壁が聳え立つ。
これは正解だったのだろうか。立ち塞がる壁により来た道を振り返ってみても、もう術はない。
私は、単に左の法則を使ってしまった。
行動学から無意識に左を選んだが、無理に考える事はないと判断したからだ。
左の法則を知っている者ほど、右を選びやすい。
きっとここは、そんな捻くれ者を排除する場所でもあるんだ。そう、私は直感した。
モノリスは何も言わない。先程の通り、私の言葉や意見に否定する事なく静かに後を追う。
壁に沿って一本道の通路を抜けると、再び分かれ道だ。
それぞれの分かれ道の奥に見えるのは、右は広間のように開けている。
一方の左の道は、一見すると行き止まりのようにも見える。
だから、私は左へと帆を進めた。壁に囲まれた広間など怪しすぎるからだ。
入り組んだ細い一本道。二人分の道幅になったり、身体を横に傾けなければ通れない程狭い道。
サイズは様々だったが、結局のところ一本道だ。
そして、三度目の分かれ道。ここは特に不気味だった。そう感じてしまった。
なぜなら、どちらの道の先も先程のような開けた広間が見える。
かといって、どちらも安全だとは正解だとは思えなかった。

「セナ・・・。」

 モノリスは、何か後ろめたさを残すように呼びかけた。
詰まるところどちらも危険。罠なのであろう。道を踏み間違えたか・・・。
いや、そうではない。選択をする上でのポイントはもう一つ。
である。与えられたものに対し、それだけを選ぶ必要はない。
どちらかを選ぶのではなく、時には作る必要もある。

「わかっているわ。」

 私は、壁に手を添えてゆっくりと歩み出す。そう右でも左でもない。進むなら前だ。
私の予想は的中していた。手は壁を擦り抜け、手首、腕と徐々に飲み込まれ、
前へ進む毎に壁に吸い寄せられるようだ。
そう、やはり正解は前なのだ。壁だと思っていたものはカモフラージュ。
固定概念を逆手に取ったフェイク。壁の中も同様の一本道だった。
しばらく歩くと壁から抜け、先程のような通路に戻ってきた。
その先には、また扉が聳え立つ。今度は簡易的な木製の扉。
異質なのは変わらない。まるでワンダーランドのようだ。
ここには、秩序も私が経験した常識は通用しない。不気味さの本質と云えよう。
ドアノブを捻り、ゆっくりとドアを開ける。木の軋む音が呼吸を斬るように鳴る。
今は、ここから抜け出した事に一服の安堵を溢して。
私たちは、次の空間に繋がるであろうドアの奥へと足を踏み入れる。


・臆病者たちの野心

 そこは、紫の床があった空間があったところと少しだけ似ていた。そんな感覚。
けど違う点もいくつかある。床は半透明なのは変わりないが、黄色く輝いていた。
空は、暁光ぎょうこうとも呼べる程、明けたばかりの日の光が空を橙に染めていた。
時折穏やかに吹く風は、春の訪れさえ感じさせてしまう。新しい一日を気付かせてくれる。
今までの不気味な雰囲気とは打って変わって、そこは幻想的であり神秘的でもあるから思わず、
〈美しい〉と声に出してしまいそうだ。ただ、もちろんそれだけでは無かった。
あちこちに点在するように部屋が用意されており、ほとんどの部屋は扉のようなもので
遠目のため、近くで見ない事には判断できないが硬く閉ざされているように見える。
ゆっくりと探索はしたいがそう云うわけにも行かない。
ここにも、あの黒い生き物があちこちに待ち構えていた。

「ねぇ、モノリス。聞いても良い?」

 もしかしたら、彼なら奴らの存在が分かるかも知れない。
そう思い、モノリスに尋ねてみた。

「・・・どうした?」

「あの生き物は、一体何なの?」

「あれは、『シャドウ』。彼らもまた、元は君と同じ人間だったんだ。」

「え・・・?」

 やはり、彼は知っていた。あの黒い生き物はシャドウ。
ただ、それ以上に驚いたのはシャドウの正体。その驚きは隠せなかった。
続けてモノリスは、こう告げた。

「彼らも、君と同じくここに迷い込んだ。
もしくは作為的に入り込み、目的を果たせなかった者達。あのような姿になっては、
もはや人の記憶など抹消され、この世界をただ幽遠に彷徨い続ける。」

「私を・・・襲うのは?」

「君が憎いんだ、本能的にね。人の姿をして、目的を果たそうといている君がね。」

 ようやくシャドウの目的がわかった気がする。そして私を襲う理由も。
私に噛みついた事も。私の何かが欲しかったのだろう。その何かがまではわからないが。
この世界の人の成れの果て。それがシャドウ。本来の自分の陰なる存在。
けれど人間だった頃の自我はそこにはもう無く、本能に赴くまま何かを求めている。
それはきっと、何か救いの手を差し伸べているのではないのだろうか。
余計にシャドウに対して感傷的になってしまう自分がいた。

「そう・・・、可哀想な存在なのね。」

「同情も良いが心を揺らす必要は無い。近付けば喰われ、やがて君もあの姿になる。
もっとも、それが君の結末なら私はそう認識しよう。」

 やはり彼もシャドウに対しては、否定的だった。彼らは成る可くしてなってしまった。
そう言いたげな表情をフード越しでモノリスは語った。
けれど、それで私がシャドウに喰い殺されるのは別の話だ。
私の目的は、あくまでも真実を知りたいだけ。

「なら、その時は極上のBGMでエンドロールを流してね。」

 だから、私はモノリスに冗談を溢す。
当然、彼は私の言葉に疑問を持っていた。理解が出来ない。そう言いたげな表情で。

「・・・なぜだ?そんな願いは、不可能だな。」

「だからよ。」

 そう、私はここで『私を殺す』わけにはいかない。

「私はトウマを見つけるまで、こんなところであの姿になるなんて譲歩してもゴメンよ。」

 これから起こる事も、待ち受けている事も。
時には受け止めて、時には振り払い。あなたを見つける為に奥へと進まなければならないんだ。

この空白の世界では・・・。
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