便箋小町

藤 光一

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第1章 人形師編

35双子の想いでおまかせを

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「終わった・・・のか?」

「みてぇだな。」

 荒々しい大海原のようだった書斎は、今や落ち着いた凪が波を撫でるような静けさを残していた。
クロユリの花は完全に焼け焦げ、少女の背中を絡め繋いでいた蔦も原型を失う程に灰へと期す。
僅かに残った火の粉がはらはらと小さな木の葉のように舞う。まるで悪い物を浄化させた炎を目にしたような。
そんな神聖さすら感じられる程の光景に、僕は妙な既視感を覚えさせていた。それが具体的に何なのかは分からない。
けれど間違いなく云えるのは、ずっと蠢いていたドス黒くて重い瘴気が炎と共に燃え尽きた事。
その極端に変化した異様な静けさに、僕は戸惑っていたのかも知れない。
これで終わりなのかと、妙なノスタルジーが僕の心情を包み込む。夕陽が沈み切る僅かな時間に生まれる最も濃厚なオレンジ。
橙に染まった書斎はピシリと整頓されていた本たちが散らばり、衝撃で千切れたページの切れ端が散りばめられていた。
そんなページの切れ端の絨毯には、四肢を失ったリリィがピクリとも動かずに床に横たわっている。
どうやら感情を寄生する悪魔エンヴィを含め、暴走する自動人形オートマタを漸く倒せたようだ。
そう僕が認識出来たのは、ずっと逆立てていたメルの頭頂部の毛も旗を下ろすように垂れ下がっていたからだ。
メルは“ギフト”が放つマナに反応し、青白い毛を逆立てる。それが今無いという事は、リリィ諸共エンヴィを倒した証拠。
僕はそう、思っていた。

「ごほっ・・・ごほっ。ねぇ・・・?」

 それは突然の咳払い。むせ返る粒を何とか押し返そうと身体を震わせる少女。
四肢を失ったリリィがこちらに振り向き、声をかけてきた。

「お、お願いが、・・・あるの。」

 少女の声は、今にも消えそうな灯火。立つのもやっとな程に蝋を使い切り、数刻待たずして倒れてしまいそうだった。
リリィの瞳は開き切っておらず、焼け焦げて片目は潰れてしまっていた。残る目を薄らと開けながら、こちらを見ている。
少女はまだ生きていた。といっても生きているのが不思議なくらいで、これを生きているというべきか。
ただ先程と明らかに違うのは、彼女の声色。そこには殺意は感じられず、むしろ淑やかさすら感じられる。
何よりもずっと燻んでいた青い瞳は宝石のように輝きを取り戻しており、まるで空から見下ろす海のようだった。
彼女が本来の、本当のリリィなのだろうか。ずっと感情を支配され、雁字搦めにされた鎖から解放された少女。

「驚いたな、マチコのあの攻撃を受けてまだ息をしているなんて。これも宝石魔法の加護か。」

 メルは少女の容態を見て、目を大きく丸めながら驚いていた。
恐らく社長が放った最後の攻撃は、中に寄生していたエンヴィごと焼き払う勢いで放ったもの。
エンヴィは消え去ってもその宝石魔法の加護のお陰か、少女の意識は瀕死ながらも生きながらえた。
社長はその光景を見て、少しほっとしたようにも見えていた。僕は思わず、少女へ駆け寄った。
もう自力では立ち上がる事も出来ないリリィを抱き抱える。少女の身体はまだ、仄かに熱を帯びていた。
リリィの身体は想像以上に軽かった。子供ほどの大きさがある筈なのに、片手でも充分な程に軽い。
まるで厚手のトレンチコートだけを持ち上げているみたいだ。優しく持ち上げたつもりが、脚の先端から形が崩れてしまう。
砕けた破片は散り散りになり、砂のように消えていく。彼女は今こうして話す事も、身体を維持するのも限界に近いのだろう。
宝石魔法だって永久機関ではない。限られた力だ。あれだけのマナを操られながら消費されたのだ。
リリィと目を合わせて、淀みの無い海のような視線が映り込む。とても澄んだ瞳は既視感を覚えさせる。
それは双子の自動人形オートマタ、メリィの存在。彼女と似たブルーサファイア本来の輝きを持った瞳だ。

「安心してください、ご、ご覧の通り。もうあたしには、あなた方を、攻撃する力は残ってません。」

 その瞳に倣って、とても澄んでいた。殺伐とした怒声混じりの音は、もう何処にも無かった。
緩やかな風で青葉を優しく撫でるような声。僕は確信した。

「君が、本当のリリィなんだね。」

 リリィは、無言で頷く。そう訊いてくれたのが嬉しかったのか目を瞑りながら、ゆっくりと頷いた。
少女は静かに笑みを溢す。それは真紅に咲くユリのように、純粋で無垢な落ち着いた笑みだった。

「・・・それで、お願いって?」

「あたしを・・・、奥の部屋に、あたし達の父・・・、都月ジュウゴの部屋へ運んで、ください。」

 そう云うと少女は、ちょうど僕の真後ろにあった扉へと目を向ける。
書斎の扉とは違って、ごく一般的で質素な木製の扉だった。そこは、彼女らを造った人形師の部屋。
少女は、そこに連れて行って欲しいと懇願していた。リリィは、自力で歩く事はもう出来ない。
それはきっと彼女なりの懺悔をしたいからなのだろうか。感情を乗っ取られていたとはいえ、報いずには要られない。
リリィがこうして話が出来るだけでも不思議なくらいだ。彼女は自分が死ぬ前までに、しっかりと伝えたい。
それだけの強い想いがあってこその懇願。時折咳払いを溢しながら思いを告げている事から、ある予感が生まれる。
脳裏に過ぎってしまったその予感は、やはりというべきだろうか。恐らく、リリィの命も残り僅かなのだろう。
かろうじて回る心臓の歯車は、瞳に宿された宝石魔法のお陰でまさに首の皮一枚の状態だ。
その光景に感化されたのか、床を甲高く弾ませながら駆け寄る足音が一つ。焦る呼吸がリズムを乱す。
躓きながらもリリィへと向かう少女。駆け足で跳ねた心拍が、メリィの小さな背を上下させていた。
リリィの焼け焦げて、すっかり燻んでしまった赤いワンピースを鷲掴む。

「リリィ!私は、私は・・・!あの時、ちゃんと私があなたに目を傾けていれば、リリィがこんな目には・・・ッ!」

 メリィの青い瞳は珊瑚礁の浮かぶアクアブルーにも似た色を滲ませ、双子の姉へと抱きつく。
彼女もまた真実を知った事により、懺悔の想いが暴発してしまう。何から話すべきか、落ち着いていられずに焦りが加速。
云うべき事が整理出来ず、想い想いのままについ言葉がそのまま溢れ出してしまっていた。
堰き止められた言葉のダムが崩壊し、漸く落ち着いてまともに話せるようになった自分の姉に思いの丈をぶつけていく。
それはきっと嬉しさも入り混じっていたのだろう。目尻から溢れ落ちるほんのりと酸味を帯びた雫が物語っていた。

「メリィ、そんなに叫ばないで。あの部屋でゆっくり話を聞くから。今度はちゃんと、話を聞くから、・・・ね?」

 春風のような純粋で無垢な嵐を抑え込むようにリリィは、妹の言葉を呑み込んだ。
受け取ったリリィに嫌気は無かった。むしろ今にも泣き崩れそうなメリィを慰めるように、優しく包み込む。
限られた時間で漸く本来の、自分の感情で妹と話す事が出来る。リリィもまた、それが何よりも嬉しかったのだろう。
今や秒針の奏でる音さえも聞こえてしまう程、しんと静まり返る書斎。余計にリリィの落ち着いた抑揚が際立って見えた。
秒針は正確に一定の間隔で刻まれているのに、リリィの身体の中で回る歯車の音はぎこちなかった。
少女を抱き抱える事で漸く気付ける程のぎこちなさ。その間隔は早まったり、時に遅れたり。
不規則に刻むその速度は、無情にも異音を掻き鳴らす。この少女にはもう時間が無い証拠の一つだった。
経験則だとかそんな物ではない、そう悟れる程の直感。その直感に至った頃には、僕はリリィを抱えながら立ち上がっていた。

「わかった、僕が運ぶ。チップ!社長に肩を貸してあげてくれ!」

 少女の呼吸は荒い。恐らくもって日没くらいまでだろう。そんな直感が僕を騒ぎ掻き立てる。
僕は顎で合図し、丁度社長の傍らに居たチップに指示をする。

「おう、任せとけイサム!おいっしょおおおおおおおお⁉︎お、重ぉぉ⁉︎」

 二つ返事で呑み込んだチップはサムズアップを掲げた後に、直様社長の右腕を潜り手繰り寄せる。
床に踏ん張りを見せて気張らせるが、だらしない腑抜けた声を漏らしながら社長を持ち上げる。
そういえば幼女もリミッターを外し、力を使い切ったんだっけか。
ご覧の通りくしゃくしゃの髪は依然として、力を使った代償として尖った耳が丸々見えるほど短くなっているのだ。
今のチップには、容姿見た目そのままの力しか持ち合わせていない。
その為か思うように社長の身体は持ち上がらず、プルプルと幼女は震えていた。

「おい、チップ。レディに対して重いは失礼だぞ。全くデリカシー無い悪魔だ。」

 その様子と不意に出た幼女の愚痴が社長に留まり、ムッと表情を歪ませていた。
いつもならゲンコツの一つ飛んできても可笑しく無いところだが、彼女も彼女で既に満身創痍だ。
社長も戦うどころかゲンコツで制裁し喝を入れる余裕も無いのだろう。
幼女には肩を貸すよう伝えたが、流石に社長と幼女では身長差があり過ぎたようで社長はチップを杖代わりにしていた。
疲弊した身体を引き摺りながら彼女らは進み出し、僕達は扉の方へと歩む。
この屋敷で見たどの扉よりも質素で何の変哲も無い扉。メリィがその扉のフックに手を掛け、ゆっくりと開かれる。
書斎の時とは違って重々しさは無く、キィィと一声の金具を軋ませる音を奏でながらその扉は開かれた。


・・・。


・・・・・・。


「こ、ここは・・・。」

 質素な扉の奥に待ち構えていたその部屋は、味気も無くやはり質素だった。
人一人が眠れる程のベットが一つ。部屋の隅に置かれた小さな机。机の上には数枚の紙がピシリと整えられている。
何かの研究レポートなのか、様々な数式や図形が所狭しと書かれている。壁は白を基調とした質素な模様。
壁の色が白だと認識出来たのは、壁に立て付けられていた子供がギリギリ通り抜けられるくらいの小窓があったからだ。
自重させないくらいの日差しが差し込み、この六畳間ほどの小さく質素な部屋を照らしていた。
元は魔術研究者である都月家の当主は、その性分からか研究するところは広く、代わりに身体を休めるところは必要最低限に。
余程、研究においては熱心であり、純粋な探究心を持ち合わせた人だったのだろう。
この部屋の物たちがそう物語っているかのようにも聞こえてきたのは、恐らく気のせいではなく真実に程近い。
そして、最も注目しなければならないのが一つ。

「はい、彼の部屋です。加えて・・・。」

 僕に抱えられていたリリィがそれを見つめながら、口を開く。彼の部屋、つまりそう云う事なのだろう。
は机から少し離れた椅子に、静かに鎮座していた。

「彼が亡くなった部屋でもあります・・・。」

 真っ黒なローブを身に包み、今やすっかり白骨と化してしまった都月ジュウゴの遺体が椅子に座っていた。
死体とは思えない程に綺麗な白骨で、彼を覆ったローブに汚れや傷は無かった。
何よりも放置されていた遺体だったにも関わらず、腐臭は無く、彼自体の骨も腐食しているようには見えなかった。
まるで死んだ後もずっと、そのままの状態で維持させ、腐食しないように手入れを欠かさず施してきたように。
彼を埋葬させず、死んだ時のままにさせたのはエンヴィの仕業だろう。憶測だが、それが一番効率良くマナを循環出来る。
都月ジュウゴを埋葬しない事でリリィの感情を負のスパイラルに陥れさせ、やがて増幅し勝手に溢れ出す。
エンヴィはただ膨れ上がったマナを吸い上げ、悪魔のエネルギーとして循環させる。実に効率的で、残酷でもある。

「お父様・・・。やはり、そうでしたのね。」

 意外な事に、メリィはその光景に余り驚きはしなかった。
彼女なりに“やはり”と付け加えるだけあって、大方の予想は立っていたようだった。
口寄せで彼がはっきりと現れたくらいなのだ。それ故に、少女はこうなってしまっているという事は覚悟していた。
己の目で見て、漸くの確信を得る。声を静かに殺し、心を抑え込むように握っていた紙袋をクシャリと鳴らす。
わかっていた事でも、その事実を受け止めるには相当の重圧が掛かる。鈍く、重く、いつだってそれは冷たいものだ。
一瞬空が落ちてきたのではないかとさえ錯覚させる衝撃は、華奢な少女に襲い掛かり心を揺さぶる。
それでもメリィは、じっと瞳を潤ませながら噛み締める。一口ずつ事実を噛み締めながら、目の前の光景を受け止めていく。
静かに見届けよう。そう彼女は、都月ジュウゴに会う時に決めていたのかも知れない。
そして供養してあげようと、整えた決意を基にグッと心を抑えながら彼を見ていた。

「便箋小町さん、ここで大丈夫です。ここで、降ろしてください。」

 か細い声が僕の耳を通り抜けていく。
歩く程の速度で少女は落ち着いた口調を走らせた。けれど、その声は既に弱々しく繊細だった。
少女の身体は抱き抱えるには軽過ぎた。まるで本物のベスクドールを抱えているようで。
カタカタと異音を漏らしながら壊れかけた身体をゆっくりとベットへと降ろした。
リリィは呼吸をする為に瞳を閉じ、秒針を無視した間隔の長い深呼吸を取る。ほんの少しだけ浮き上がった身体。
息を長く吐き、それと同時に身体はまたベットに吸い込まれるように沈み込んでいく。
先の戦闘のせいで首も殆ど回らない。か細くも少女は「メリィ、こっち。」と小さく呟き、メリィを呼ぶ。
それに気付いたメリィは、急いで彼女の元へと寄り添う。リリィは微笑んだ。しかし同時にそれは、何処か歯痒さもあった。
もしまだ腕があるならば、メリィを抱き寄せたかったのかも知れない。リリィは、微笑む事しか出来なかった。
焼けてしまった唇を動かし、最初に出た声は掠れ混じり。数回の咳払いをし、リリィはその想いを声に乗せ絞り出す。

「ごめんなさい、メリィ・・・。全部、あたしのせいなの。あたしのせいであなたも、パパも・・・。」

「いいえ、あなたのせいではありませんわ!全ての元凶はあなたに取り憑いた悪魔、エンヴィのせいなのよ。」

 自分の行いに悔やむリリィ。その悔やむ表情に、僕は幾許かの矛盾が生じていた。
リリィは今し方まで感情を支配され、エンヴィに操られていた筈。
それなのに、まるでエンヴィがやってきたこれまでの事を知っているような口振りだ。
メリィはそんな姉に対し、弁明を促す。発端となった感情のスイッチを入れたのはリリィ自身かも知れない。
けれど、感情を寄生され身体を支配させた悪魔がその拍車を掛けている。
今回の出来事は、彼女であって彼女ではないのだ。そんなリリィは、虚空を眺めるように天井を見つめていた。

「確かにあたしは感情を支配されて、自分ではどうにも出来なくて、身体も声も感情も自分のものじゃ無いみたいになって。
・・・でも、悪魔って酷いのね。この視界に映る光景と音だけは、しっかりと見えて聞こえるの。
だから自分が何をしてきたかもはっきり分かってるの。どれだけ、やめてと叫んでも届かなかったわ・・・。
どれだけ頭を下げても償い切れない。これはその代償・・・、漸くその罰が下されたのよ。」

「リリィ・・・。」

 少女は懺悔を吐露する。途中目を瞑りながらも、乾いた唇を震わせていた。
もし彼女にまだ腕があれば、今すぐにでも虚になったその瞳を覆い隠したかっただろう。
リリィは首を左右に一度振るい、失った腕の代わりに瞼で視界を覆っていた。
そうか、だから彼女は理解していたのか。感情や身体を奪われても、視界に映る意識だけは残っていたのか。
暴走する自分の身体を止める事が出来ない恐怖や焦り、どれだけ抑止させようと意識を働き掛けても云う事を聞かない体躯。
想像するだけでもそれは残酷であり、自分の体に縛り付けられたような状況は彼女の心に苦痛を与えるには充分過ぎる。
そのストレスを受けた分だけ感情の悪魔はそれを餌としてまた活性化し、負のスパイラルは円滑に循環される。
数時間の話ではない。彼女は数年間もそんな状態で縛り付けられていたのだ。
恐らく彼女がまたこうして表に立って話せるようになったのも、意識も辛うじて維持出来たのも宝石魔法の加護か。
宝石魔法と彼女の意識がリンクされた期間が長かったからこそ、常人では成し得ない意識の帰還が実現出来たのかも知れない。
ふと、リリィはメリィへと振り向き目線を落とす。

「そういえば、あなた。ずっと、大事そうに持っているそれは・・・、どうしたの?」

 少女が目線を落として見つめていたのは紙袋。
メリィの両手で優しく包み込むように抱えていた紙袋だった。先程の戦闘で、少しひしゃげてしまっていた。
そう聞かれたメリィは、紙袋に入っていた物を取り出す。

「ブルーベリーパイよ、少し潰れて形は崩れてしまったけれど・・・。」

 メリィの瞳は少し残念そうに哀しみを堪えながら告げた。
取り出したのは、紙袋と同様にひしゃげてしまったブルーベリーパイを一つ。
所々パイ生地は崩れてしまい、綺麗に飾られていたブルーベリーも潰れていた。
一人用に作られたホールパイは丁度手のひらサイズだったが、今はディスプレイにあったものとは程遠く見窄らしい。
メリィと彼女の父、そして自分の姉であるリリィに用意された三つのブルーベリーパイ。
残念ながら落としてしまった衝撃で袋の中でぶつかり合ってしまったのか、それも形を崩してしまっていた。
それを見たリリィは、虚だった瞳を大きく見開く。けれどそれは、一瞬の出来事。

「そう・・・。そういえば、そんなお願いをしていたわね。パパの大好物だった・・・。」

 リリィは再び天井を見上げながら、哀れむように吐露する。
あの時だ、自分が。自分の身体がメリィに向けて放った槍のせいで・・・。自分は、また家族を傷付けてしまったのだと。
そう思い返すようにリリィは、もう決して戻す事もやり直す事の出来ない過去を瞼の裏に浮かばせていた。
けれど、メリィはそんな姉に対し怒る仕草を見せなかった。むしろ、彼女の表情はその真逆。
暗く嘆く双子の姉に対し、メリィは優しく包み込むような微笑みで言葉を返す。

「えぇ、それとあなたも大好きな筈でもありますわ。」

 そう手を添えるように差し出したのは、型崩れしたブルーベリーパイ。
デコレーションされたブルーベリーの実は潰れてしまい、薄紫色の染みが淡く広がっていた。
メリィが優しく手に取っただけでも、パイ生地はボロボロと溢れ落ちていた。

「それを渡す為に、あたし達に会いに来てくれたの?」

「はい、私はあの時からずっと祝えていなかったから。」

 それは、あの時渡す事が出来なかった数年前の誕生日を祝う為に用意したもの。
あの日から帰る事が出来なくなってしまった分。数年というメリィにとっては、とても長い期間。
渡す事も出来なかった祝いのブルーベリーパイ。彼女は漸く、その念願を叶える事が出来た。
リリィに返したその微笑みを作り出せたのは、純粋にその想いが強かったからだろう。

「ごめんね、メリィ。ごめんなさい、パパ。あたしは、あなた達をこんなにも傷付けてしまって・・・。」

 ベットに横たわるリリィは震えていた。
こんなにも妹は健気に自分達を探してくれて、それだけでなく数年前に云い渡した物まで用意して。
それなのに自分は操られていたとはいえ、何をやっていたのだとリリィは自らを叱咤するようだった。
自分に叱咤するリリィを少女は手を差し伸べる。リリィの失った腕を掴み取るように空っぽになったシーツに触れた。
ベットのシーツをなぞるように、ゆっくりとリリィの顔へと自分の指を近付けていった。
焼けてすっかり縮れてしまった金髪にパサリと触れる。毛先も焼け焦げており、もうその髪に煌びやかさは無かった。
メリィは横たわる姉の頬を摩る。咲いたばかりの花弁を撫でるように優しく。一頻りの後、漸くにして首を左右に振るった。
もう、あなたを咎める気は無いという現れでもあった。

「漸く本当のリリィと会えたのです。それだけで私は・・・。」

「やっぱりあなたは特別なのね、メリィ。人形はね、心は泣いても、涙を流さないものなのよ?」

 リリィが云い放ったその一言で、メリィの堪え続けていた何かが一気に溢れ出してしまった。
ブルーサファイアの宝石で施された瞳からは、果汁を絞り出すようにはらはらと溢れ落ちていく。
人肌に限りなく近い温もりを帯びた涙は、数滴だけリリィの頬にも降り注ぎ、大粒の水滴が頬に浮かぶ。
人形は涙を流さない。それはあくまで自動人形オートマタは造り物であるからして、機械に感情を乗せるようなもの。
ブルーサファイアを動力源に回路を走り、身体中の歯車を回す器。そこに魂を宿し、心を持っても造り物に変わりはない。
どれだけ悲しくても、どれだけ哀しくても、感情を通して無意識に人間のようにその瞳から涙を流さない。
けれど、リリィを介抱するこの少女はその固定概念から外れていた。理屈は分からない。
これはあくまで憶測ではあるが、宝石魔法とのリンクがメリィの深層まで繋がっているからこそ成し得る事象なのか。
人のように誰かの為に涙を流し、震える瞳孔、僅かに小さな体躯を小刻みに震わせる仕草は、まさに人そのものだった。

「あたしも特別で居たかった。居たかったなぁ、なんで、なんでこうなっちゃったんだろうね。」

 リリィは再び、目を瞑り懺悔を漏らす。
特別で居たかった・・・。それは様々な意味が交差しての言葉をまとめたものだろう。
妹が他の人形とは違う人のように感情を持ち、それに左右され涙を流すという仕草。
自分にあったのは妬みや怒りといった負の感情、その僅かに生まれた感情を悪魔に操られ暴走しただけだ。
しかし、メリィの場合は違う。人の為に流すそれは、彼女自身の意志から生まれたものだ。
また別の“特別”という存在は、自分たちの父に愛されている事を指しているのだろう。
どちらもリリィには持ち合わせる事が出来なかったもの、それがリリィにとってメリィが特別と謳った真意。

「もう良いのです、リリィは私にとって、とても・・・特別なのです。」

 再びメリィは首を横に振った。
多くは語らなかったが、リリィもまた特別であると言葉を返す。
それはきっと、言葉が出なかった訳で無いのだろう。少女の表情は、波風を立てない穏やかな白波のようだった。
感極まり意図せずに彼女の唇は口篭ってしまい、その先の言葉を呑み込んでいた。

「そっか・・・、あたしも意固地だったのね。メリィもあたしに負けじと意固地なとこ、ごめんね、やっぱり好きだわ。」

 リリィは、空白にぽっかりと空いたその言葉を掬い上げていた。
はぁ、と溜め息を吐くリリィはほんのりと頬を赤らめていた。何処か小恥ずかしそうに眉を歪める。
それは自分の云い放ったその言葉こそ真意を込めてだったから。もう後悔が無いように云い残す為に。
彼女自身だからこそ、気付いている筈。自分がもうすぐ動かなくなってしまう事が。
そうなってしまう前に、リリィは少しでも長く、少しでも思いの丈を妹へとぶつけたいのだ。

「私もです、リリィ。ごめんなさいなのです・・・。」

「なんで、あなたが謝るのよ。全部あたしのせいなんだから、ね?
泣かなーいのっ!本当、何年経っても相変わらず泣き虫なのは変わらないのね。ほら・・・、顔見せて?」

 本当なら、もう一度抱き締めたかっただろう。
両腕を広げ、小刻みに震えながら涙を流す妹を包み込み、出来る限りの介抱をしてやりたかったのだろう。
失った両の腕の代わりにリリィは僅かに残った力で、自分の服から解れた糸を伸ばす。
もう攻撃する程の力は残っていない、だから彼女に警戒する事は誰もしなかった。
糸を伸ばした先は、メリィの額。前髪を髪留めで横に流すように払い、少女の瞳をよりくっきり浮き立たせる。
それはまるで、仲慎ましくこれから散髪し合う姉妹のような既視感があった。双子の瞳は、見つめ合う。
海と空、いや二つの海が重なり合う方が表現は近いのかも知れない。
窓辺から差し込む橙の陽に触れたプリズムは、二つの海を美しくハーモニーにさせていく。

「本当に綺麗な瞳ね。」

「リリィも綺麗ですよ。」

 ずっとすれ違っていた瞳は、漸くにして寄り添い合う。
緩やかに流れる白波も、中で足を揃えて舞うエメラルドグリーンも、それらを支える藍よりも青いその深みも。
二つの海は、まるで鏡合わせをしたかのようにお互いの視界を埋め尽くしていく。
宝石魔法という魔力を帯びたその瞳たちは、淡く青い光を纏いながら幻想的とも云える不思議な安らぎを与える。
互いを癒し、互いを慈しみ、やがてそのハーモニーは徐々に折り重なり、ユニゾンとなって同じ音階を登り始める。
少女たちの朗らかな表情は、長い時間を経て手に入れる事が出来た短くも暖かい時間から生まれたもの。
メリィの前髪を抑えていた糸がはらりと落ちていく。力を失った糸は、静かに縮こまり淡い光を灯しながら消えていく。
どうやら、もう彼女には僅か数センチにも満たない糸ですら操る力も使い果たしてしまったようだった。
そんなリリィはカサついた唇を振るわせ、僅かに生まれていた沈黙の糸を切った。

「これはね、あたしの最後のワガママね。次も妹を持つなら、あなたが良いなぁって思ってるの。
もし、生まれ変わったらね、一緒にお出かけして、可愛い服着て、駅前のアイス食べたり・・・。」

「はい・・・。」

 メリィは横たわる少女の声を聞いて、啜り泣く音が加速し始めていた。
震える背筋は堪え切れない感情が今にも爆発しそうだから。見せてはいけない。
こんな哀しい顔を、姉に見せてはいけないのだと必死に歯を食い縛りながら堪える。
けれど、どれだけ食い縛っても少女の頬を伝うそれは許さなかった。発作のように啜り、裏返る吐息が邪魔をする。
すっかりシワになったシーツを力の限り掴み取り、これ以上流させまいと堪えながら姉の話を聞く事しか出来なかった。

「お家では、お母さんに叱られるまで遊んで、お互いを励まし合うの。
夜遅くに帰ってきたお父さんに笑顔でお出迎えする為に。今日はこんな事があったよって家族みんなで話してさ。
明日も元気に居ようねって、おやすみは忘れずにね。・・・あ、そうそう!二段ベッドの上はあたしだからね。
それで、それでね・・・。」

「・・・はい。」

 メリィの視界は溢れ出る涙で滲んでしまい、ぼんやりと水面に浮かぶ月のように朧げだった。
あと、どれだけこの溢れる水を流し切れば止まってくれるのか。本人にも理解出来ない程、その勢いは止まらない。
大粒のそれは彼女の思いと反比例していき、瞳から絶え間なく離れていく。
ふぅっ、と一呼吸を置いたリリィは啜り泣く妹から視界を外し、再び質素で無機質な天井を見上げる。
どれだけ声をかけても返事を返してくれそうもない天井に。けれど、今は違う。聞いてくれる者がそこにいる。
だからこそ、遠く離れた雲を眺めるように天井へ視界を移しても、少女に寂しさは感じられなかった。
むしろ、ほっと今は安心しているのだろうか。朗らかに見つめていたその瞳は、もう少しだけ力を振り絞る。

「ははは・・・、もう、あたしは動かなくなるんだ・・・。まぁ、もう腕も足も無いんだけどね。
何となくわかるの、私の瞳が、宝石の力がどんどん弱くなっていくのが。中の回路だって、なんだかぎこちないし。
うん・・・、やっぱりちょっと怖いよ・・・。怖いよ、メリィ・・・。」

 けれど現実は、刻々と歩み寄る。ほっと天井を見つめるも束の間。
虚に変わりつつある少女の瞳や心は、同時に彼女の身体中を駆け巡る血液と示唆されたマナが薄れてきている証拠。
その動力源である宝石魔法も、少しずつ瞳を通してその輝きを淡く弱めていく。
今、僕は魂を宿した者の死に直面しようとしている・・・。ただ、この拳を握り締める他、術を知らない僕がいる。
何故、僕はこれ以上の事が出来ないのか。彼女たちを救う手立てが無いのかと、胸懐を潜り抜け、そして駆け巡る。
続いていた道は瓦礫が崩れるように落ちていき、やがて気付けば足の踏み場も無い程に四方は真っ暗な底。
一歩、道を踏み外せば自分を支えていた周りの床は崩れていく。何も出来ない自分が居た。
彼女らに声を掛ける余地も無い。いや、正確にはどう声をかけるべきか迷っていたのだ。それが何よりも不甲斐無かった。
自分はここまで情けない存在なのかと、叱咤したくなる程に。
社長はそんな僕を見兼ねたのか、握り締めていた僕の拳を包むように触れ、静かにそっと降ろさせた。
彼女も口にはしなかったが、何となく伝えたい事が何なのかはわかってしまった。
踠いても僕らに出来る事は無い。まさに最後の晩餐を迎えるこの双子の自動人形オートマタが望み、決めなければならない。
所詮は運び屋である僕らが口出し出来る範囲は限られる。何とも云えない歯痒さが煙のように撒かれてしまう。
じっと姉を見つめていたメリィは、すぅーっと息を丁寧に吸い、唇を振るわせた。

「リリィ・・・、あなたも、特別なのです。だって・・・。」

「どうしたのメリィ?本当に、泣き虫な子ね・・・。」

「だって・・・、あなたも人形なのに、涙を流しているのです。」

 そう気付かせた妹は、その事実を伝えた。
リリィの頬には、確かに流れる大粒の涙がまだ碧い青葉が風にでも吹かれるように零れ落ちていた。
少しずつ虚になっていく少女の瞳は、ほんの一瞬だけ目を輝かせ、大きく丸みを与えた。
心は持っても、人形は感情に左右されながら涙を流す事は無い。
どれだけ人のように話しても、どれだけ人のように自らの意思で行動しても、感情で身体は動かない。
その不可能を実現させたのはメリィのように宝石魔法との長いリンクから生まれたもの。
彼女は、それを知ったリリィの瞳からは止めどなく大粒の涙を流していた。自分ではもう、どうしようも出来ない程に。
無意識にとどめていた栓は、もう止める術を持ち合わせてはいなかった。なすがままに震え、なすがままに啜る。

「ねぇ・・・?また・・・、また逢える、かな?あたし達。」

「きっと逢えます。私達は双子なのですから。私も・・・、すぐに行きますから。」

 それを聞いてリリィは、ほっと安堵したようだった。
ニッコリと淡く微笑みを見せ、焼けてカサついた唇からは真っ白な歯を覗かせていた。

「ありがとう・・・、メリィ。大好きなメ、リ・・・ィ・・・・・・。」

 そうして、また静かに瞳を閉じた。
不規則ながら歪に動いていた彼女の体躯もついにパタリと歯車が回る事を止め、しんとなった無音を奏でる。
その五線譜に音階はもう無く、代わりに聞こえるのは動揺を押し殺そうと呼吸するメリィの息遣いと僅かに聞こえる秒針の音。
言葉ではわかっていた。少女は理解していた。エンヴィを倒す程の負荷は、いくら宝石魔法でも運命は退けないと。
むしろ、こうして話せた事自体が奇跡に近いのだ。ぎゅっと両手を握り締めながら、少女は抑え込む。
メリィが泣き叫ばなかったのは、姉に安堵して欲しかったからだろう。
リリィの身体を強く抱き締めなかったのは、中途半端な未練を残したくなかったからだろう。
今はただ、ぐっと堪えながら震える両手を握り締める事だけ。彼女がそうしたのは、たった一つの理由。
もう目覚める事の無い眠りに入ったリリィの顔は、碧い草原に凛々しく佇む赤いユリのように朗らかだったからだ。


 花弁を閉じた真紅のユリを見つめる少女は、呼吸を整えていた。
自分のテンポへと戻すように、少しずつ調節して背筋を伸ばす。メリィはもう一度、無言の別れを告げた後に立ち上がった。
平静を装ってはいるが、まだ小さくも震える握り締めていた拳は少女の心情を折り目を付けるように物語っていた。
そうして少女は、漸くこちらへと振り向く。静かに時計の秒針を回すように、ゆっくりと一秒を刻むように。
目が合った時には既に、少女のいつも見せていた微笑みを覗かせていたが、振り向くその瞬間の表情は見逃せなかった。
それは見る者が思わず肩を竦ませてしまう程に、波を失った海を見ているようだった。
彼女の中で決意が固まったような、それは酷く研ぎ澄まされた刃物のように。瞳に乗せた決意は、言葉に添えて音となる。

「コマチさん・・・、お願い・・・出来ますか?」

「あぁ。」

 その決意の現れは、何故か社長に向けられていた。
社長は彼女の提示したその真意を理解しているようだった。応えるように掌を広げながら差し伸ばす。
まさか・・・と得体の知れない何かが僕の脳裏を過っていた。それはよりにもよって最も残酷で、とても冷たい事。

「社長!何をする気ですか⁉︎」

「報酬の回収だ。」

 彼女の視線は僕にはくれなかった。ただ、真っ直ぐに少女を見つめている。
いや、正確に云えば彼女をではなく、彼女の青く輝く瞳を。ブルーサファイアの宝石を施した彼女の瞳を見つめていた。
直接見つめられなくとも何となく分かるその冷たい眼差しは、“まさか”という嫌な予感として的中してしまう。
報酬の回収・・・、つまり彼女の心臓にも等しい瞳に施された約束の品であるブルーサファイアだ。

「そんな事をしたら、彼女だって!メリィだって、魔力回路が途切れて・・・!」

「気付かなかったのか、垂くん。彼女は、最初からそうするつもりだったのだよ。」

 確かに、何故今の今まで気付かなかったのか。ここに至るまでに色々の事が起こり過ぎただけに余計悔やまれる。
少女の動力源である宝石魔法、ブルーサファイアが要であるとわかった時点で何故気付かなかったんだ。
ここに覚悟を決めて立ち竦む少女は、最初から決めていたんだ。こうなる事をわかっていて・・・。
社長は一目会った時から、恐らくメリィの瞳が宝石魔法である事を理解していたのだろう。
だったら、何故止めないんだ。この自動人形オートマタだって、魂を持った存在だ。生きとし生けるものに相違はない。
彼女ならメリィのその考えを止め、別の方法だって提示していた筈だ。それなのに何故、何故彼女は報酬を優先した?
沸々と湧き上がる疑念は、自分でも分かるくらいに瞳の鋭さを増していた。

「お兄様、これは約束なのです。私が・・・、望んた事です。」

「君まで逝く必要は無いだろ!まだこれからの事だって・・・!」

 僕の想いとは裏腹に、メリィは僕を抑止した。
僕は、それがどうにも理解出来なかった。それが自分勝手だというのかも知れないが、腑に落ちなかった。

「良いのです。私は充分に楽しく過ごせました。お兄様との一日、とても楽しかったのです。」

 メリィは反論する代わりに、首を横に振るった。
そうだ、まだ一日だ。たったの一日どころかこの少女との思い出は、ほんの数時間にしか満たない。
それなのにどうしてこの少女は、こんなにも朗らかな表情を僕に見せてくれるんだ。
どうして僕は、たった数時間しか時を共に過ごせなかったこの少女に辛く悲しい想いを持ち合わせてしまうんだ。
楽しく過ごせました・・・?違う、そうじゃない!これからもだ!
これじゃあ、そんな楽しさなんてこの悲しみに比べたら簡単に塗り潰されてしまう。
まだ君との思い出はパレットに線を引いたばかりだ。何を描こうかと思い悩む中で、色も何も塗れてないじゃないか。
それなのにどうして君は、そんなにも朗らかで全てを受け入れるように微笑む事が出来るんだ。

「では、行くぞ。」

「行くな、メリィ!君はまだ・・・ッ!」

 社長の翳した掌からは、青白い光が淡く輝き出していた。
咄嗟に僕は二人の間に割り込み、少女に覆い被さるように両腕を広げ庇っていた。
こんな事をしてもどうしようもないとは理解しているつもりだ。けれど、もう見て見ぬフリは出来なかった。
メリィには、まだ時間がある。こんな方法で手放す事じゃない。この少女を救わなければという思いの一心だった。
それでも青白く光る社長の手は、構えを緩めなかった。むしろ、そこを退けと云わんばかりに冷たい視線を浴びせる。
高鳴る鼓動は緊張が拍車をかけてくる。社長の無言に発する叱咤は、プレッシャーとなって襲いかかる。
退かない、退く訳にはいかなかった。そうしないとメリィは、メリィも動かなくなってしまう。
すると、パサっと背中から感じる違和感が一つ。小さく柔らかい感触が、僕の背中を優しく抱き締めるものがあった。
視線を下に落とすとそこにはメリィの細く白く透き通った腕が、僕の体を抱き締めていた。

「お兄様、今度どこかでお会いした時には、姉と一緒に、お散歩してくれますか?」

 僕の影から聞こえてきたのは、優しくも奏でる福音にも等しいもの。
どうして君は、この状況でそんな言葉が出てくるんだ。僕は君を助ける為に庇っているというのに。
どうしてそんなに優しい言葉を投げかけてくるんだ。そう思うと、塩辛い雫が頬を伝っている事に漸く気付かされた。
両腕を広げ塞いでいた壁も次第に上げる事を忘れてしまい、項垂れるように肩を落としてしまった。
今なら鏡を見なくても分かる。僕は、大粒の涙を溢しながら顔をくしゃくしゃにし泣いていたのだ。
僕は言葉が出なかった。喉の奥で何かがつっかえて上手く発声出来ない。声が出なかった僕は咄嗟に頷いた。
何度も、何度も馬鹿みたいに首を縦に振った。

「ありがとう、ございます。それだけで、メリィは幸せ者です。」

 優しい福音は、僕の瞳から溢れるものを更に加速させていった。
もうこのまま身体中の水分が溢れてしまうんじゃないかと錯覚させてしまう程に。
抱き締めていた少女の腕は、ぎゅっと少し強く締め付けていく。背中に感じるのは少女の長く伸びた髪と小さな頬。
仄かに温かく、限りなくそれは人肌に近い優しい温もりだった。

「お兄様、泣かないでください。」

 少女の声は遠のくように小さく霞んでいた。
泣いてる最中の人間にそんな事云うなよ。止められたら、この涙はとっくに止めているさ。
でも止まらないんだ、その零れ落ちる涙を拭く余裕も無いくらい、腕は何故か上がらないんだ。
手を翳した社長の青白い光は、先程よりも強く発光していた。このまま全てを包み込むんじゃないかと思いたくもなる。
あぁ、社長は本当にやってしまうのか、止めることはもう出来ないのか。けれど、それはメリィも望んでいる事。
柳を仰ぐような優しい風がふわりと舞う。

「私は、メリィ。ずっと、あなたの後ろに居ます。」

 ーカラン、カラカラカラカラ・・・ァン。

 床に転がり落ちたのは、二つの宝石。深みのある青色の宝石が、差し込む陽の光を反射させていた。
背中にあった温もりは徐々に薄れていく。僕を抱き締めていたこの細い腕にも、優しく包んでくれた腕に力は無かった。
小枝から枯葉がすとんと落ちていくように、その細い腕は離れていき少女だった身体も離れ、重力を逆らわずに倒れていった。
身体を通して聞こえていたカラカラと回る歯車も静止しており、元の動かない人形が僕のすぐ後ろに倒れていた。
あまりにも呆気なさ過ぎる。まるで空でも落ちてきた気分だ。瞳を失ったメリィの頬にはまだ、涙を伝った痕が残っていた。
それに対して、僕は何も言葉が出なかった。何故、救う事が出来なかったのだろうと自分を叱咤するばかりで頭が一杯だ。
メリィから離れ落ちた宝石を社長は、何も云わずに摘み取る。メリィの瞳だったブルーサファイアの宝石を。
光に当てるよう眺め終えると、スーツパンツのポケットへと忍ばせた。これで、依頼は完了・・・。
けれど、僕は腑に落ちなかった。彼女の行動に納得出来なかった。その湧き上がる疑念が拳に力が入る。

「なんで・・・、なんで止めなかったんですか・・・。なんで止めなかったんですか、社長!」

「私情を挟むな、垂くん。」

 彼女は決してこちらに振り向かなかった。
ただ、冷たくあしらうだけで人の温もりや情を感じられなかった。
何故この人はこんなにも冷淡で澄ました顔が出来るんだ、少女の、メリィの魂を奪っておきながら。
それが依頼の報酬だから?違う、生きる魂を犠牲にした報酬なんてあまりにも冷酷過ぎるじゃないか。
その怒りが動力源なのか、僕は再び立ち上がった。彼女の目線に合わせる為に。

「社長なら、何か出来た筈じゃないですか。」

「・・・撤収するぞ。」

 社長は僕の言葉を退け、振り向き帰路へと向かい始める。
まるで互いの言葉が一方通行のように通り過ぎていく。交わる事も重なる事も無く、磁石のように反発し離れる。
それなのに、この胸の中に突き刺さる槍は軋むようにヒビを与え蝕む。
こんなに近くに居るというのに、彼女は遠くに居ながら突き放すみたいだ。

「それで、良いんですか!」

「聞こえなかったのか?撤収だ。」

「自分がやった事が・・・、人でなしとは思わないんですかッ⁉︎」

「生憎、私は半妖だ・・・。人では無い。」

 それが沸点に到達する一言だった。
耐えられなかったのかもしれない。彼女の態度に、その傲慢さに、その身勝手さに。
僕は彼女の胸ぐらに掴み掛かり、荒い鼻息を当てながら飛びかかった。

「だったら‼︎あなたなら!あの子たちを救う手段だってあった筈でしょう!あの子達は人形だったかも知れない、けど!
もっと、まだ生きても、もっとこれからも彼女たちにとって楽しい思い出を作る事だって!
彼女たちは人形だけれども、ちゃんと魂を持った一つの命の筈です!生きて、生きて、良かったじゃないですか!!」

 彼女に取っ組みがかっていると云うのに、目と鼻ほどの距離だと云うのに視線は合わなかった。
社長は顔を逸らし、細い眼差しを滲ませていた。震えるように彼女は、淡い薄紅色の唇を開く。

「いいか垂くん、私情は挟むなと云った筈だ・・・。」

 社長もまた涙をその瞳に浮かべていた。
その涙を瞳から零れ落ちまいと隠すように塞ぎ込み、顔を逸らしていた。
半妖といえど、それでも人の血は彼女にも流れている。隠すその情は、冷徹という欠落した感情で隠していたというのか。

「しゃ、社長・・・。」

「・・・。」

 僕は、彼女の表情に呆気に取られてしまい掴んだこの手を離してしまった。
それと同時に我に返り、僕は気付かされる。彼女にもどうする事も出来なかったという事に。
彼女が抱える知識や知恵、経験があってしても双子の自動人形オートマタを救う手立てが無かった。
こうする以外の方法が無かった。だから、彼女は依頼に従った。人の情を押し殺して、その決意を下した。

「す、すみません・・・。」

「君の気持ちは解る。これが、我々の仕事なんだ・・・。」

 漸く社長と目が合う。滲ませた瞳がこちらを見つめている。
自分の未熟さに、悔やみを交えながらに歯を食い縛らせていた。けれど、この事実は変わらない。
彼女がどんな思いで賽を投げたとしても、双子の少女たちを救えなかったその事実は揺らいではいない。

「それでも・・・、それでも僕は、・・・今回の件、納得出来ません・・・。」

 だから、僕は抑えきれなかった。それは自分の未熟さもあった。
彼女だけのせいではない事は理解している。それなのに、頭の中で歪むそれは許さなかった。
僕は社長を突き飛ばし、部屋を出た。部屋にあったものたちを全て置き去りにし、背中を振り向く事は無かった。



 これが小説であるならば、なんて後味の悪い話なのだろうと思いながら。
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