上 下
32 / 173

32.飛び立てない蝶の羽

しおりを挟む
 邪魔な書類を片付けながら、僕の頭の中はトリシャの過去で一杯だった。

 ベアトリス・カルネウス。その家名に聞き覚えがあった。でもすぐに思い出せなかったのは、その名が称号だったからだ。大賢者として名を馳せた男に与えられた、家名ではない称号――彼を貴族待遇で扱うために用意された。

 ステンマルク国に生まれた大賢者は、類稀なる才能の持ち主として知られる。魔法かと思うほど鮮やかに問題を解決する知識、実行力、人を配置し動かす才能、下手な王族より結果を残した。水害を防ぎ、火災への予防措置を講じ、疫病に対処する。そこに職業や人種による差別はなかった。

 素晴らしい人格者だ。だが、彼の才能は自分を守ることに向かなかった。功績を挙げれば挙げるほど、権力者に疎まれる。王族にしたら自分より人気のある能力者など、恐怖の対象でしかなかった。多才な大賢者に欠けていたのは――保身力だ。

 貴族でも平民でも同じように治療する。それは人して見れば素晴らしいことだ。だが、平民は感謝しても貴族は違う。常に優遇されて生きてきた彼らは、平民と同等に扱われたと不満を募らせた。しかし国の発展に貢献している間は、手を出せない。彼を処罰すれば、国が貧しくなるのは目に見えていたからだ。

 フォルシウス帝国が、ステンマルク王国にすぐ手を出さなかった理由も大賢者だ。軽い小競り合いを仕掛けても、大賢者によって防がれた。騒動が大きくならなければ、戦を仕掛ける理由がない。その上でこちらの弱点を突いて、動きを封じた。その手並みは先代皇帝を焦れさせたと同時に、満足させる。

 僕もこの地位に就いて理解したが、一番処理に困るのは退屈だ。どの国も簡単に征服できるから、興味が湧かない。攻めることにより受け取るものも、さほど多くない。帝国の規模からしたら微々たる物を得るため、軍を動かす命令を出すことすら億劫だった。

 そんな皇帝の興味を引いたのだから、大賢者は有能さに於いて比する者がない。珍獣を飼う気分で、先代皇帝はステンマルク国を放置した。

 いや、皇帝は誰よりも知っていたはずだ。守られた王族は己の地位を脅かす大賢者を、自ら処分すると。愚かにも守護者を排除し、その愚行を以て帝国に滅ぼされる未来を選ぶ。知っていたから、じっくり待った。ただ傍観する帝国の思惑を訝しく思っても、大賢者に保身の意識はない。獅子身中の虫に食い荒らされるまで、大賢者は王国の忠実なる臣下だった。

 大賢者に野心はなかった。王になどなりたくない。彼の心を知っていても、あの王族は愚かにも牙を剥いただろうけど。

 手元の資料を綴じて、新たな封印を施す。誰かの目に触れていい資料ではない。最愛のトリシャの出生に関する話は、極秘事項として封印すべきだった。

 ただ無力なトリシャでいい。彼女は僕の鳥籠で微笑み、柔らかく僕を包む羽をもつ蝶でいてくれたら。それ以上は誰も知らなくていいんだ。だから、この情報は葬らせてもらうよ。

 明けていく空が、眩しい光を放つ。心得たようにカーテンを引くニルスに、封印し直した報告書を渡した。彼ならば問題なく保管する。一礼して受け取った執事はすぐに行動を起こした。

 1人になった部屋で、疲れた目を手で覆いながら溜め息を吐いた。

「お願いだ、僕だけのトリシャで……何も出来ない君でいて」

 守られるだけの、愛しい人でいてくれたら僕が幸せにするから。何も持たない君のままで、僕に微笑んでくれないか。そうしたら君は僕の鳥籠から逃げ出せないだろう?
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

王太子エンドを迎えたはずのヒロインが今更私の婚約者を攻略しようとしているけどさせません

黒木メイ
恋愛
日本人だった頃の記憶があるクロエ。 でも、この世界が乙女ゲームに似た世界だとは知らなかった。 知ったのはヒロインらしき人物が落とした『攻略ノート』のおかげ。 学園も卒業して、ヒロインは王太子エンドを無事に迎えたはずなんだけど……何故か今になってヒロインが私の婚約者に近づいてきた。 いったい、何を考えているの?! 仕方ない。現実を見せてあげましょう。 と、いうわけでクロエは婚約者であるダニエルに告げた。 「しばらくの間、実家に帰らせていただきます」 突然告げられたクロエ至上主義なダニエルは顔面蒼白。 普段使わない頭を使ってクロエに戻ってきてもらう為に奮闘する。 ※わりと見切り発車です。すみません。 ※小説家になろう様にも掲載。(7/21異世界転生恋愛日間1位)

旦那様の様子がおかしいのでそろそろ離婚を切り出されるみたいです。

バナナマヨネーズ
恋愛
 とある王国の北部を治める公爵夫婦は、すべての領民に愛されていた。  しかし、公爵夫人である、ギネヴィアは、旦那様であるアルトラーディの様子がおかしいことに気が付く。  最近、旦那様の様子がおかしい気がする……。  わたしの顔を見て、何か言いたそうにするけれど、結局何も言わない旦那様。  旦那様と結婚して十年の月日が経過したわ。  当時、十歳になったばかりの幼い旦那様と、見た目十歳くらいのわたし。  とある事情で荒れ果てた北部を治めることとなった旦那様を支える為、結婚と同時に北部へ住処を移した。    それから十年。  なるほど、とうとうその時が来たのね。  大丈夫よ。旦那様。ちゃんと離婚してあげますから、安心してください。  一人の女性を心から愛する旦那様(超絶妻ラブ)と幼い旦那様を立派な紳士へと育て上げた一人の女性(合法ロリ)の二人が紡ぐ、勘違いから始まり、運命的な恋に気が付き、真実の愛に至るまでの物語。 全36話

婚約破棄でみんな幸せ!~嫌われ令嬢の円満婚約解消術~

春野こもも
恋愛
わたくしの名前はエルザ=フォーゲル、16才でございます。 6才の時に初めて顔をあわせた婚約者のレオンハルト殿下に「こんな醜女と結婚するなんて嫌だ! 僕は大きくなったら好きな人と結婚したい!」と言われてしまいました。そんな殿下に憤慨する家族と使用人。 14歳の春、学園に転入してきた男爵令嬢と2人で、人目もはばからず仲良く歩くレオンハルト殿下。再び憤慨するわたくしの愛する家族や使用人の心の安寧のために、エルザは円満な婚約解消を目指します。そのために作成したのは「婚約破棄承諾書」。殿下と男爵令嬢、お二人に愛を育んでいただくためにも、後はレオンハルト殿下の署名さえいただければみんな幸せ婚約破棄が成立します! 前編・後編の全2話です。残酷描写は保険です。 【小説家になろうデイリーランキング1位いただきました――2019/6/17】

本日、私の大好きな幼馴染が大切な姉と結婚式を挙げます

結城芙由奈 
恋愛
本日、私は大切な人達を2人同時に失います <子供の頃から大好きだった幼馴染が恋する女性は私の5歳年上の姉でした。> 両親を亡くし、私を養ってくれた大切な姉に幸せになって貰いたい・・・そう願っていたのに姉は結婚を約束していた彼を事故で失ってしまった。悲しみに打ちひしがれる姉に寄り添う私の大好きな幼馴染。彼は決して私に振り向いてくれる事は無い。だから私は彼と姉が結ばれる事を願い、ついに2人は恋人同士になり、本日姉と幼馴染は結婚する。そしてそれは私が大切な2人を同時に失う日でもあった―。 ※ 本編完結済。他視点での話、継続中。 ※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています ※ 河口直人偏から少し大人向けの内容になります

【完結】転生したので悪役令嬢かと思ったらヒロインの妹でした

果実果音
恋愛
まあ、ラノベとかでよくある話、転生ですね。 そういう類のものは結構読んでたから嬉しいなーと思ったけど、 あれあれ??私ってもしかしても物語にあまり関係の無いというか、全くないモブでは??だって、一度もこんな子出てこなかったもの。 じゃあ、気楽にいきますか。 *『小説家になろう』様でも公開を始めましたが、修正してから公開しているため、こちらよりも遅いです。また、こちらでも、『小説家になろう』様の方で完結しましたら修正していこうと考えています。

間違った方法で幸せになろうとする人の犠牲になるのはお断りします。

ひづき
恋愛
濡れ衣を着せられて婚約破棄されるという未来を見た公爵令嬢ユーリエ。 ───王子との婚約そのものを回避すれば婚約破棄など起こらない。 ───冤罪も継母も嫌なので家出しよう。 婚約を回避したのに、何故か家出した先で王子に懐かれました。 今度は異母妹の様子がおかしい? 助けてというなら助けましょう! ※2021年5月15日 完結 ※2021年5月16日  お気に入り100超えΣ(゚ロ゚;)  ありがとうございます! ※残酷な表現を含みます、ご注意ください

政略結婚した夫の愛人は私の専属メイドだったので離婚しようと思います

結城芙由奈 
恋愛
浮気ですか?どうぞご自由にして下さい。私はここを去りますので 結婚式の前日、政略結婚相手は言った。「お前に永遠の愛は誓わない。何故ならそこに愛など存在しないのだから。」そして迎えた驚くべき結婚式と驚愕の事実。いいでしょう、それほど不本意な結婚ならば離婚してあげましょう。その代わり・・後で後悔しても知りませんよ? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載中

取り巻き令嬢Aは覚醒いたしましたので

モンドール
恋愛
揶揄うような微笑みで少女を見つめる貴公子。それに向き合うのは、可憐さの中に少々気の強さを秘めた美少女。 貴公子の周りに集う取り巻きの令嬢たち。 ──まるでロマンス小説のワンシーンのようだわ。 ……え、もしかして、わたくしはかませ犬にもなれない取り巻き!? 公爵令嬢アリシアは、初恋の人の取り巻きA卒業を決意した。 (『小説家になろう』にも同一名義で投稿しています。)

処理中です...