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56章 海という新たな世界

796. 言い争いに甘い仲裁を

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 リリスのお昼寝の邪魔をする気はないので、そのままソファのヤンを眺めながら様々な可能性を考えていく。ピヨが幼いから影響された可能性は、ルキフェルも影響されたことから除外できる。年齢が原因でなければ、精神的な幼さか? しかしアスタロトやベールはともかく、アンナの存在が引っかかった。

 アラエルがあまり影響を受けていないのは、背にピヨを乗せていた為だろう。翡翠竜が当初は影響されなかったのと同じ理由だ。婚約者や番が近くにいれば防げる。

 そもそもの問題として……なぜ不安なのか。魔の森が原因かも知れないとリリスは口にしたが、毒に関して分解や浄化が進んでいるなら、不安になる要素はないはずだ。首をかしげたルシファーの髪がさらさらとリリスの頬を撫でる。気づいて髪を持ち上げようとしたら、彼女の手がきゅっと毛先を掴んでいた。

 漠然と広がる不安――見えない敵と戦うような状況は、ルシファーにとって苛立ちを募らせる。人族の勇者のように、姿をもって戦いを挑んでくれたら楽なのだが。

「ルシファー様」

 入室したアスタロトの呼びかけに顔を上げると、大量の書類を手にしていた。即位記念祭の間は決裁関係の書類は動かない。終わった翌日から大騒ぎで処理するのが通例だった。それは側近のアスタロトが一番よく知っているはず。

 手渡された書類は、様々な報告書だった。新しいものから、古くて覚えていないようなものまで。大量の書類は分類されているらしい。ルキフェルに持たされたのだろうと判断し、ひとまずガラステーブルに置いた。

「何かわかったか?」

「いえ……」

 それが答えだ。不安を実体験したルキフェルでさえ、あの感情の理由がわからないという。本人は突然、大切な存在が失われたような感覚に襲われて確かめに動いただけ。無事を確認した途端、なぜ不安になったか不思議で首を傾げたらしい。つまり理由や根拠になる現象に心当たりがない。

 報告書の束の端をちらりとめくって、ルシファーは頭を抱えた。

「なんだろう、天変地異が多発するのは王の治世が悪いからってことで、オレはもう隠居したい」

 全部丸投げして現実逃避したい。どこか森の片隅で小さな屋敷を立てて、リリスと仲良く暮らすんだ。子供が生まれたら一緒に湖に魚を取りに行く。娘だったら絶対に嫁になんか出さないぞ。そんな内容をぶつぶつ呟いたところで、リリスが白い手を伸ばしてルシファーの頬を撫でた。

「どうしたの? ルシファー」

 寝起きのお姫様は目元を擦ろうとして、その手を止める。ルシファーや側近、侍女から何度も注意されたためだ。代わりにルシファーの手が、優しく目元を拭いてくれた。湿らせたハンカチの冷たさに首を竦めたリリスは「あふっ」と欠伸を手で押さえる。

「リリス様、ルシファー様は疲れから取り乱しているのですよ」

 仕方のない方です。そんな大人びた口調で窘められると、ものすごく大人げない我が侭を振りかざした気分になる。ルシファーは「オレが悪いのか?」とぼやいた。表面上はにこにこと笑顔だが、アスタロトも「いい加減に騒動が落ち着かないと、数十年単位で不貞寝しますよ」と内心で呟く。

 ここ数年の騒動を思い出すと、あまりに多くの事件が起きすぎた。半分ほどはルシファーのリリスに関する溺愛で、残りのさらに半分は人族の所為だ。絶対数が多いだけで、内容的には通常状態だった。もともとルシファーが勘違いしたり、誤解を招いて引き起こす騒動は多かったのだから。

「リリス様を拾う前は500年ほど大きな事件もなかったので、通常周期の繁忙期です」

 そんな単語で誤魔化し、何とかルシファーの尻を叩いてやる気を出させようと画策する側近。騙されると思うなよ、と睨みつける魔王。その膝の上で2人の顔を交互に見比べて、お姫様は飴の瓶を取り出した。

 子供の頃にルシファーにもらって以来、何度も振っているが飴が途切れずに出てくる魔法の小瓶なのだ。自慢の瓶を数回振って、大きな飴をひとつルシファーの口に押し込んだ。アスタロトは届かないので、風の魔法で口を開いた瞬間に投げ込む。

「げほっ……今、なに……」

 牙をすり抜けて口に飛び込んだ大きな物体を、咄嗟に手の上に吐き出して確認する。手のひらに落ちた赤い飴玉と、口に残る甘い味に溜め息をついた。説教案件が増えた。

「リリス様、人の口に食べ物を押し込んではいけません。窒息したりケガをすることもあるのですよ」

 危険性を懇々と説明する間、リリスはにこにこと聞いていた。大きな飴に口をふさがれたルシファーは抗議も出来ずに無言を貫く。窒息の危険性を説いているが、そもそも吸血鬼なんだから窒息しないと心の中で反論した。

「わかりましたか?」

 30分にわたる説教を締め括るアスタロトへ、リリスは頷きながら「ごめんなさいね」と謝る。それから彼を絶句させる一言を放った。

「でも、飴のおかげでケンカは終わったでしょう?」

 ……この方はそのために? 好意的に受け止めたアスタロトは苦笑して「はい」と同意した。
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