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37章 翡翠竜が運んだ嫉妬

506. なぜ殴られたか、おわかりですね?

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 軽く頭を叩いたあと、アスタロトはぐっと握った拳で勢いよく頬を殴りつけた。常時展開している結界をルシファーが消したのに気づき、全力で殴る。口の端を切ったルシファーが倒れかけ、とっさに右手で身体を支えた。

 左腕で抱いたリリスが「アシュタ、痛いでしょ」と文句をつける。口の端を伝う血を、リリスの小さな手が拭った。

「なぜ殴られたか、おわかりですね?」

「ああ」

 素直に頷いたルシファーの様子に、本当に落ち着いたのだと安堵の息をついた。あのまま暴走してアムドゥスキアスを殺したら、彼は自責の念に堪え切れなかっただろう。今ですらこれほど後悔しているのだから。大公が止めた時は、一度立ち止まって考える理性を求めるしかない。

 取り出したハンカチでリリスの手を拭い、彼女が強請るままにハンカチを渡す。切れた口元を手で撫でているリリスが「痛いの、飛んでけ~」と幼いおまじないをした後で振り返った。じっと見つめてくる大きな赤い瞳がぱちりと瞬きして、小さな白い手が伸ばされる。

 強く握った拳は、手のひらに爪を食い込ませていた。そのまま殴ったのだから、爪が突き刺さる手は血を滲ませる。ルシファーの治癒魔法陣より後で負った傷へ、リリスが温かな魔力を注いだ。魔法陣も作らずに治癒を施し、にっこり笑う。

「アシュタもいいこ」

 殴ったまま握っていた拳を撫でたリリスは、ずりずりと膝の上から下りようとする。咄嗟に押さえて抱き締めたルシファーの手が震えた。愛想を尽かされたのでは? そんな恐怖がルシファーの表情を曇らせる。

「どこへ……っ」

「パパも行く?」

 どうやら離れるつもりではない。彼女の言葉からどこかに行きたいのだと察して頷けば、無邪気に指さした先はベルゼビュート達が座り込んだ方角だった。

 手が届く手前の距離で止まり、首に抱き着いたリリスごと頭を下げる。

「悪かった、お前達まで傷つけてしまった」

「あたくしは構わないわ。数万年前までよくあったことですもの」

 意見が対立した大公と魔王の間で実力によるが何度もあった。懐かしいくらいだと苦笑いしたベルゼビュートは、あっさりした態度で許す。自らの剣先をルシファーに向けたこともあったし、逆に叩きのめされた経験もある。

 命がけで互いの意見をぶつけた経緯があるから、大公達は魔王の本質をよく理解していた。暴走は誰にでも起こるが、ルシファーの場合は止められる実力者が限られる。それ故に何度も本気で戦ったベルゼビュートは「またか」程度の感想しかなかった。

「そなた達にも苦しめたことを謝ろう。すまなかった」

 何らかの償いを申し出るが、少女達は一斉に首を横に振った。魔王の妻となるリリスに侍る覚悟は、彼女達も持っている。多少の危険があったとしても、それは自ら選んだ道だった。

 やっと顔を見せたヤンは元の大きさに戻り、鼻先を撫でられるとほっとした表情を見せる。本能的な恐怖を感じることはあっても、名付け親であり庇護者であるルシファーを嫌うことはない。怖かった分を取り戻そうと甘えるフェンリルの鼻や顎を何度も撫でた。

「……ん、ぁ」

 身を起こしたアムドゥスキアスが、ぼんやりとした顔で座る。広げようとした翼が木の枝に引っ掛かり、不思議そうに小型化した。彼の中で記憶が繋がっていないのは、見ればわかる。少女達にもう一度頭を下げて詫びてから、小型犬サイズの翡翠の竜に近づいて膝をついた。

「すまなかった。そなたを傷つけた」

「え? 傷……ですか? え、あれ」

 慌てて自分の身体を確認し、ミニチュアドラゴンは首をかしげた。特にどこも痛くないし、最後の記憶は唐揚げを頬張って……黒髪の幼女に……。そこでようやく自分の発言とその後の展開を思い出した。ぶるりと身体が震える。本能的な恐怖に顔が引きつった。

「陛下の番だなんて知らなくて、ごめんなさい」

 ぺこりと頭を下げる。ドラゴン種にとって『番』は特別な存在だった。唯一絶対の存在で、他者に奪われることを極端に嫌う。寝ていて世間の噂に疎いとはいえ、魔王の番に手を出そうとしたなら生きている現状の方が不思議だった。

 だから素直に首をかしげて尋ねる。

「殺さなくていいんですか?」

「いや。きちんと説明する前に暴走したオレが悪い」

 言い訳をせず頭を下げる。純白の髪が地面についているのだが、まったく気にしていなかった。それどころか上質な服も土で汚れている。痛みや傷がないので謝られても実感が薄いアムドゥスキアスは、困ったようにアスタロトやベルゼビュートへ視線を向けた。

 なんとかして欲しい。

 居心地の悪さから必死な金の瞳に、くすりと笑ったアスタロトが仲裁に入る。

「ルシファー様は彼にきちんと説明してください。アムドゥスキアスにはお詫びを用意しましょう」

 誤解と無知から生じた騒動が鎮静化しかけたとき、頭上から雷が落ちた。
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