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32章 怯える聖女、追う幼女

428. 立派すぎる非公式名称

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 鮮やかな手並みに、茫然とする勇者アベルは悟った。怒らせてはいけない相手は実力者ルシファーではなく、裏で彼らを操るアスタロトなのだと。裏の権力者ほど恐い存在はいない。胸にしっかり刻んだ言葉を、あの少女にも伝えなくては……奇妙な使命感が芽生えた。

 この使命感は、のちに人族にとって大きな楔となる。

 泣き疲れて眠ったリリスを抱いたまま、ルシファーは立ち尽くしていた。何が起こったのか、思い浮かべようとすると頭が痛くなる。思い出したくないと拒絶する中で、リリスに嫌われたような……ぼんやりした記憶の断片がチクチクした痛みをもたらし、ルシファーは考えを放棄した。

 辛い言葉を投げかけられたが、子供の癇癪に過ぎない。事実、この子はまた腕の中で眠っているのだから、それでいい――安堵の息をついたルシファーの隣で、アスタロトとルキフェルが胸を撫でおろす。大きな騒動にならずに収まったことで、顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。

「いきなり呼ばれたので驚きました」

「他に思いつかなかった」

「いえ、助かりましたよ。魔王陛下の危機ですからね」

 魔法や物理での攻撃ならば、これほど心配しなかった。しかし初めて大切にする存在が出来たルシファーは、精神的に打たれ弱い。17人の妻を見送ったアスタロトや、番を喪っても死ねなかったベールでなければ、この場は収まらなかっただろう。

 そう考えるなら、誰かを失った経験のないルキフェルが助けを求めるのは、正しい行動だった。幸いにして、この場の魔族の大半は『魔王妃の言葉の暴力により魔王陛下が崩壊未遂事件(非公式名称)』を認識していない。

「留守役なので私は戻ります。机や椅子も持ち帰りましょう」

 笑いながら絨毯を含めた家具を転送し、アスタロトはルシファーに向き直った。

「陛下、ご武運を」

「ああ。留守を頼む」

 まともなやり取りに、エドモンドは鱗の生えた手で胸を撫でおろした。また竜体に戻る予定だったので、中途半端に人型を取っている。オレリアに至っては、安心しすぎて腰が抜けていた。立てない彼女を心配する同族が手を貸す。

「この事件については、くれぐれも…くれぐれも他言無用、わかりますね?」

 口調は丁寧だが「口外したら楽に死ねると思うな」と圧を掛けられ、勇者アベルを含めた真相を知る一同は無言で頷いた。何しろ二度繰り返された。逆らえば命はない。

 足元に魔法陣を展開して城へ戻るアスタロトの姿が消えると、アベルはよろめいて座り込む。酒盛りをしていたドワーフが1人駆け寄り、背を撫でてくれた。

「なんだ、情けない。この程度の酒で酔うなんざ、嫁の一人も貰えんぞ」

「嫁は一人で十分じゃ」

 がははっと大声で笑う別のドワーフが、アベルの手を掴んで引っ張った。小人族とはいえ、大人の胸辺りまである。がっしりした腕は力こぶが浮かぶ、太いものだった。

「まあ、新人は酔い潰されんのが仕事だあ」

「ほらほら。早くせえ」

「え? いや、僕は人族なので……あれ、ちょっと?!」

 あっという間にドワーフの集団へ取り込まれる。浴びるように酒を飲むという表現を通り越し、本当に酒が浴びせられた。咳き込みながら酒臭い空気を吸い込む。途端にくらりとして後ろに倒れた。

「アベル殿は飲酒できたのか?」

 エルフの1人が心配そうに呟く。ドラゴンの背で酔う子供が、酒など口にして平気なわけがない。そんなニュアンスに、慌ててエドモンドが救出に向かう。たどり着いた先で酒浸しになった勇者を回収し、ドワーフ達に飲みすぎ注意を言い渡して戻った。

「ん? なんだ。アベルは酒を飲むほど回復したのか」

 見当違いの感想を述べるルシファーに「飲んだんじゃなく、掛けられたんだと思う」とルキフェルが訂正を入れる。なるほどと頷いたルシファーの前に、ひらりと蝶が1羽舞った。季節外れの蝶は、一瞬でベルゼビュートの姿を映し出す。

「陛下、早く来ていただかないと魔獣達が襲ってしまいますわ」

 人族の都が迫る魔の森は、周囲の木を伐り倒した跡が残っていた。そこに立つベルゼビュートは己の姿だけでなく、風景や魔獣の群れも一緒に投影する。

 ぎゅっとしがみ付いて眠るリリスの背をリズムよく叩きながら、宴会状態のドワーフや魔物狩りを始めたドラゴン達を見回した。まさに子供の遠足状態だ。それぞれに好き勝手なことを始めた魔族を纏めるべく、ルシファーは出立の指示を出した。
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