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30章 勇者の紋章の行方

408. 名前を聞き忘れたな

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 ルキフェルに連れ帰られる勇者は不安そうだった。元居た世界に帰る方法は追々探してやるとして、とりあえず解散となったのだ。お茶会で満腹になった勇者に部屋を与えるらしい。ルキフェルと手を繋いだベールは、勇者に興味がなさそうだった。

「気づいたか?」

 ぐにゃりと猫のように崩れたリリスを抱き直したルシファーの言葉に、アスタロトの反応は一瞬遅れた。というのも、あまりに柔らかい幼子に、よく身体が痛くならないと感心していたのだ。しかし慣れたもので、何もなかったように立て直して答える。

「左手の紋章ですね」

 彼が勇者だと認められてすぐ、アスタロトは紋章の有無を確認した。異世界からの召喚だと知らなかったので、左手の甲に紋章や痣が浮かんでいるかどうか。それが外的な判断の対象となる。

「痣が薄かっただろ」

「召喚されてから現れた、という意味かもしれません」

 勇者であっても、数人に一人の割合で紋章が不鮮明な者がいる。個人差や持った魔力量の違いか。ぶつけた痣程度の不鮮明な赤い色のこともあるため、ルシファーの直感的な判断の方が正確なのだ。

 この世界で勇者の紋章は3歳の幼児に現れる。男女の比率は6:4ぐらいで、差はほとんどなかった。そして見出された紋章のある幼児は、厳しい訓練を経て一流の戦士となり、18歳前後で送り込まれてくる。

 人族の側から見れば、ほぼすべての勇者が殺されたことになっている。だが実際には逃げた者もいるし、手前で魔物の餌になった者や生きて戻った者も含まれた。そのため死亡率は4割前後で低いのだ。

「ところで、今回の勇者の名前って何だっけ?」

「誰も聞きませんでしたね」

 言外に興味がないと切り捨てる側近は、少し冷めた紅茶に口を付けた。口元まで運ぶ間に温め直すアスタロトが「興味があるなら呼び戻しましょうか?」と尋ねる。

「いや、聞き忘れたと思っただけだ」

 今じゃなくていいと首を横に振る。ルシファーの意識は、腕の中でごそごそ動き出した愛娘に向かっていた。こうなると、何があってもリリス優先である。

 目が覚めたリリスが手で擦ろうとした目元を、魔法で綺麗にしてから柔らかなガーゼで拭いた。ふぁっと欠伸したリリスはルシファーの首に手を回して抱き着く。

「まあ、本物も偽者も同じだ」

 どちらであっても、敵ならば殲滅するだけ。物騒な意味を込めた言葉だが、幼女は表面上の言葉だけを拾った。

「リリチュ、ほんもの!」

 万歳して主張するリリスが落ちないように支えながら、ルシファーは微笑んで同意した。

「そうだな。紋章に関係なく、リリスはオレに勝てる勇者だ」

 ルシファーのふいをつける立場で、いつもそばにいて、好きな時に命を狙える勇者だった。しかも魔王の結界を通過し、反撃される可能性はゼロという歴代最強である。万歳した手を、ルシファーの首に絡めて頬をすり寄せながら、リリスは無邪気に声をあげた。

「リリスはパパのお嫁さんだもん」

「お嫁さん、お茶とお菓子はいかがですか?」

「プリンがいい」

「すぐに用意させるよ」

 甘い会話を交わしながら、顔にかかる木漏れ日に目を細める。ヤンは眠ったのか動かないので、ふかふかの毛皮は居心地がよかった。

 よくできた侍女のアデーレが、追加のフルーツタルトとプリンを手に戻ってくる。手早く新しいカップとポットに交換して並べ始めた。

「お勉強が終わりましたので、ご一緒させていただきたいとルーシア嬢ら4人から申し出がありました」

「構わない。リリスも喜ぶからな」

 許可を出すと、アデーレは連絡用にコウモリを1羽だけ飛ばした。収納空間から椅子を追加で取り出して並べ、カップも用意していく。

 もそっと毛皮の一部が動き、ヤンが「ひっくちっ」とくしゃみをする。どうやら前足で押さえようとして失敗したらしく、両前足が口元を覆っていた。ずずぅと鼻を啜り「申し訳ありません」と失礼を詫びるフェンリルを、ぽんぽんと叩いて「気にするな」と伝える。

「ひくちぃ」

「リリス。変な言葉を覚えちゃダメだぞ」

「きゃぁ!」

 きょとんとした顔の幼女は、すぐに笑って仰け反った。ルシファーがヤンに目配せして手を離すと、毛皮の上を転がりまわって遊び始める。落ちないようにヤンが姿勢を変えた。

 そして、今日も世界は平和だった。
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