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30章 勇者の紋章の行方

399. 恐怖の片道切符箱

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 リリスを抱いて執務室の机に落ち着いたルシファーは、大量に積まれた書類を指先で操って整理する。各部署や分類別に積み直すのが最初の作業だった。これを署名後に行うと、一定以上の魔力や魔法に反応する特殊インクが消えてしまう。サインも押印もやり直しになるのだ。

 3つに分けた書類の左側から崩し始めた。これは申請書関連だ。処理を急ぐ物には目を通してサインし、隣でリリスが押印していく。朱肉を扱うため、カーディガンを脱いで気合十分だった。

 執務関連の勉強という名目だが、アスタロト達側近も咎め立てする気はない。赤子還りしたり、リリスが急成長する原因が不明の今、ルシファーの側に置くことが一番の安全策なのだ。結局のところ、対応できる者がいないので、丸投げしたとも言う。

 ご機嫌で書類にサインをするルシファーが、時々押印済みの書類の印章を確認した。10年ほど前に任せた際は100枚余りにわたって印章が逆さに押され、すべてやり直しに陥ったことがある。今回はときどき確認作業を挟んだため、失敗は成功の母として立派に役立っていた。

「これは後回し」

 内容のおかしな申請書を見つけて、机の一番端にある箱に放り込む。この箱に入れた書類の行方は3つ、返却、修正、アスタロトという具合だ。返却や修正は一般的な手法だが、最後のアスタロトだけは恐い。彼行きになった申請書はを経て、処罰対象となる可能性があった。

 すでに数百人単位で、虚偽や謀略絡みの申請が潰されてきた実績があるため、この箱は『恐怖への片道切符』という不名誉にして的確な名称が与えられている。処理済みの書類を受け取るために顔を見せた文官が恐怖箱を覗き込み、青い顔色で書類を指さした。

「へ、陛下。お声がけの失礼をお許しください。この書類が、恐怖の片道切符……いえ、処分箱に入っておりますが」

「うん?」

 サインを終えてペンを置く。何を震えているのかと書類箱の中から1枚拾い上げ、「ああ、これか」と呟いた。単に数字の計算が間違っていたから避けたのだが、不正申請扱いされる可能性に卒倒しそうな文官へ首を横に振る。

「これは数字の計算のやり直しだ。分類は『修正』で『アスタロト』じゃないぞ」

「……あ、ありがとうございます」

 泣きながら両手で手を握られ、ぶんぶんと大きく振られてしまった。どうやら相当怖かったらしい。ハルピュイア出身の文官は羽の両耳をぺたんと倒して怯えている。よしよしと慰めるルシファーを見て、リリスが手を伸ばした。

「リリスも触っていい?」

「あ……はい。陛下に異存がなければ構いません」

「そっとだぞ」

「うん」

 リリスはぺたぺたと上から触ったあと、今度は手のひらで羽を撫でた。気持ちよさそうに目を細めるハルピュイアの様子から大丈夫そうだと判断し、再び手元の書類に目を通し始める。

「ありがとぉ」

 ちゃんとお礼も言えたリリスの黒髪を撫でようとしたルシファーは、ぴたりと動きを止めた。

「陛下、少しお話がございます」

 いつの間に入室していたのか。満面の笑みでアスタロトが近づいて一礼した。見た目は礼儀正しく装っているが、何か怒っているらしい。びくっと手が震えてペンが書類の上に落ちた。恐る恐る拾い上げて、逃げるように出ていく文官を見送る。
 
 くそっ、一緒に逃げたい。本音を押し殺して、「なんだ」と短く問いかけた。危険なのでペンを横のペン差しへ置いて、大切なリリスを引き寄せる。印章を朱肉の上に戻したリリスが、ぐるっと向きを変えて抱き着いた。

「パパ、ぎゅっとしてて」

「あ、ああ。大丈夫だぞ、絶対に守るからな」

 以前のように奪われる危険性を危惧して、魔法陣の準備も終えてから顔を上げた。手にした書類をにこにこと積み重ねた側近が、金髪をかき上げて身を乗り出す。その分だけ後ろへ仰け反ったルシファーが、リリスを抱く腕に力を込めた。

「この箱の分類に私の名前があったようですが……今の『守る』発言と合わせてご説明をお願いします」

 魔王の執務室から荒らげた声が聞こえることはなく、ただ訪れた文官達が入り口の衛兵の足元に書類を預け無言でUターンする光景が見られたという。
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