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本編

35.はしたないお願いでも構いませんか?

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 優しく触れる兄の手が、気づかわし気に右腕の上を撫でた。整った顔に怒りと悲しみが浮かぶ。

「シルお兄様、ごめんなさい」

「お前が謝ることはないよ、ティナ。駆け付けるのが間に合わなくてすまなかった」

 大きくテラスが庭へ向けて開いた部屋は、かつて母が好んでお茶会に使用した。懐かしい思い出に浸りながら長椅子に座った私の隣で、兄は謝罪する。あの日、シルお兄様は途中で騒動に気づいたと聞いた。婚約者のアドリーヌ嬢を残して、駆け付けたと。

 でも間に合わなかった。私の首はその前に落ちたのでしょう。シル兄様やお父様の顔を見た覚えはなく、今回に繋がらなければ二度と会えなかった。巻き戻った13歳の誕生日以来、私のそばには常に父か兄が寄り添う。仕事でお父様が出掛けたので、今日はお兄様と一緒だった。

「子どもではありませんから、お兄様も自由になさってください」

「なら自由にさせてもらうよ」

 そう言って、私の額にキスをする。そちらの自由ですか? 読書をしたり体を鍛えたり、することはあると思うのに離れない。子ども扱いなのに、嬉しかった。恥ずかしいとか子どもじゃないと怒るより、触れる時間の多さに頬が緩む。ほんの僅か、その変化を見逃さない兄は嬉しそうだ。

「ここ数日で表情が柔らかくなったね。母上がいらした頃のように、もっと笑って泣いて構わないよ。ここはティナを守る人しかいないのだから」

 侍女や執事も含めて、誰も私に危害を加えない。武器となる刃物すら近づけなかった。この部屋でのお茶会で果物は丸ごと運ばれ、目の前で美しく加工されるのが日常だ。それを変更した。廊下で剥いてから、美しく盛り付けて室内へ運ばれる。私に刃物を見せない配慮だろう。

 過保護なのでは? と尋ねたら、執事のクリスチャンも揃って首を横に振った。これでいいのだと。私は王家に接する必要はなく、王妃教育も二度としなくていい。淑女としての教育も終わっているし、自分の望みを口にして構わないと聞いた。

 私の望みは、お友達が欲しい。いろんなことを話して相談できる友人……心配性のお父様やお兄様が許してくれないと思う。家族に愛されたい願いは十分すぎるほど、叶えられた。私を見ると微笑む兄や、難しい顔から一転して優しく手を伸ばす父。宰相のジョゼフおじ様も最近は表情が明るくなって、前回のように眉間に皺を寄せなくなった。

 王太子殿下との婚約は記憶にないくらい幼い頃の約束で、解消する手筈を整えているらしい。前回の騒ぎを知る貴族がこぞって味方をするため、間もなく準備が整う。それも嬉しかった。

 もう王妃殿下に叱られなくていい。出来ない子だと溜め息を吐かれるのは辛かった。国王陛下も。王太子殿下の失敗を私のせいにするから。止められなかった私が悪いと何度も叱責された。

 王家に向かう馬車の中で、このまま王宮に着かなければいいのに、と何度願ったことか。

「シルお兄様、はしたないお願いでも構いませんか?」

 自由になるために、震える唇で小さく願いを口にした。この屋敷の庭だけでいいの、芝の上を走ってみたい。素足で、転がって汚れてもいい服で。街で母親の後を追いかける少女みたいに。貴族令嬢としては失格の望みを……お兄様は目を見開いたあと、否定せずに頷いた。

「いいよ。じゃあ俺も付きあおう」

 幼い頃、追いかけっこをしたみたいに。笑った兄の顔を見ながら、ぎこちなくも頬を笑みに近づける。気づいて喜ぶ兄や執事達に促され、侍女に手を引かれて。庭で走り回るために絹のワンピースを着替えるの。どきどきするわ。
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