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90.もっと早く奪ってくれたらよかった

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「時間軸はひとつじゃない」

 ヴィルはそう切り出した。精霊はアンネに見えない。うろうろ動き回る姿は気になるけど、ヴィルへ視線を合わせた。向き合ってソファに座る彼は、何度も両手を組み直す。

 落ち着きのない所作が、言い出しにくい話なのだと伝えてきた。それでも誤魔化す気はないみたいね。嘘をつくなら、そんなに気まずい顔をしなくても良いんだもの。

「ローザの最初の死は、毒殺が発端の餓死だった」

 私の記憶は正しかった。ヴィルはまるで書類を読み起こすように、淡々と言葉を紡ぎ始める。そこに感情の色が入っていないことは、私にとって救いだった。同情や憐れみがあったら、反発して最後まで聞けないだろうから。

 あの女、浮気相手だったユリアーナは私の子を取り上げた。実際の浮気の有無は、ヴィルも知らないという。噂では聞いたのだと。一目惚れした女性が嫁いだ先で苦労している。その話で動いた時は、もう遅かった。調べて離婚へ持ち込めるよう手を打つ間に、私は毒の後遺症から餓死している。

 やり直しは婚約者時代に戻った。そこで私はアンネの記憶通り、離れに火を放たれて逃げ惑う。消火は間に合わず、崩れた瓦礫に潰されて死んだ。この時期、やはり流行り病が領地を襲ったらしい。これが2回目の結末だった。

 どうしても私を幸せにしたいと、ヴィルは危険を冒して再び時間を戻した。何度も戻すたびに歴史や人格、人間関係はずれていくらしい。それでも諦めきれず、彼はまた巻き戻しを決行した。その結果が、先日閃くように蘇った死の記憶だ。

 流行り病に前もって手を打ったヴィルのおかげで、レオナルドは領地に戻らなかった。それまでの前世では参加できなかった夜会に顔を出し、翌朝私の部屋から出てきた男との浮気を疑う。その後すぐに私を殺したのだ。奪われるくらいなら、自らの手で壊すのだと叫んで。

「君が苦しんだ記憶は全て、僕の愚かさの所為だった。もっと早く……」

「どうして? もっと早く、私を奪ってくれたらよかったのに」

 あなたが犯した一番の罪は、それよ。なぜもっと早く、私をあの男から奪ってくれなかったの? 好きとそう言って手を差し伸べられたら、一緒に逃げたわ。

 ぽろりと口をついた本音が、色を滲ませる。溢れた感情は、涙になって頬を伝った。なぜ向かいに座るの? 私の横に来て、この涙を拭って。あなたの所為だと言うのなら……お願い。

 訴える瞳に気づいたのか、ヴィルは目を見開いた。間のテーブルを乱暴に退け、私を抱きしめる。その形で崩れるように座り込んだ。ソファに座る私の腹に顔を押し付け、強く抱いたまま動かなくなる。

「対価の話が抜けてるよ」

 ぼそっと精霊が付け足した言葉に、私は視線を向ける。後頭部しか見えないけれど、乱れた黒髪を優しく梳いた。隣にいたアンネが声を我慢しながら、そっと立ち上がる。何か言いたいこともあるでしょうけれど、明日にしてくれると助かるわ。

 アンネはきゅっと唇を噛んで退室した。扉の閉まる音が、大きく響く気がする。精霊が告げた対価の単語が、妙に耳に残った。
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