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55.存在しない家名と婚約者

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「わっ、わたくしにそのような口を!? グラセスを馬鹿にしているの?」

 きょとんとしてしまい、反論ができない。グラセス公爵家はもう存在しなかった。許されているのは、伯爵家であること。帝国民の皆さんは知らなくても、貴族なら全員知っているでしょう。少なくとも、夜会に呼ばれた方々から聞いたはず。

「ほう? グラセス家に君のような下品な女はいなかったが?」

「公爵閣下の未来の義妹で、オスカル様の婚約者よ」

 どうしましょう。ツッコミどころが多すぎて、私は声が出なかった。まずグラセス家は伯爵ですよ、から始めるべきかしら。オスカル様の婚約者と仰ったけれど、彼は知らなかったみたい。それに、オスカル様の籍は、すでにアルムニア大公家に移っているはず。

 困惑した顔でオスカル様を見上げた時、店の人が声をかけた。

「お待たせしました。お次の方、どうぞ」

「失礼するわね」

 私達の沈黙をどう取ったのか、彼女は割り込もうとした。オスカル様が動いて、店の入り口を体で覆った。離れて警護していた騎士が取り囲み、女性を拘束した。一応女性なので、腕を掴む程度だ。

「な、何をするの!?」

「それはこちらの言葉だ。自称、私の婚約者殿」

「え?」

 驚いたように目を見開く彼女は、そのまま引き摺られていった。護衛の方々は最初から見ていたので、きちんと説明してくれるでしょう。私は促すオスカル様と店内へ足を踏み入れた。

 道路に面した側と、裏の厨房側以外は日が入らない。そのため薄暗い店内は、昼間なのに間接照明を点けていた。アンティークな家具や照明器具が落ち着く。

 オスカル様は店員へ、表を騒がせた詫びを告げた。それから騎士達の分を持ち帰りで注文する。私は初めてのことなので、オスカル様の質問に頷くだけ。注文はオスカル様がしてくれた。

 運ばれた紅茶は、ポットごと。目の前でカップに注がれ、お代わりは自分達で注ぐらしい。周囲のお客様をそれとなく確認している間に、お皿に盛られた果物が運ばれた。

 果物はフルーツソースやクリームが掛かっており、下に平べったいパンのようなものが敷かれている。フォークとナイフを用意されたので、そちらを両手に持って固まった。これ、普通に果物を切って食べていいのかしら。

「クレープです。本当は巻いて食べ歩きするスイーツですが、店内ではこうして提供するのですよ。下のクレープ生地を切って、クリームや果物と一緒にどうぞ」

 丁寧に説明してもらった上、彼が先に手をつけた。オスカル様は音もなくすっと切り分け、クレープ生地で果物を巻いてフォークで突き刺す。すごく器用です。真似てみるものの、クリームがこぼれ落ちそうだった。

 気をつけながら口に運ぶ。途中で心配になり、少し前屈みで迎えに行ってしまった。お母様に叱られそうだけど、落とすよりいいわよね。

「美味しい!」

「それはよかった。嫌でなければ、こちらも味見してください」

 オスカル様の前は、チョコレート。果物はバナナやイチゴだった。私のクレープはイチゴやキウイ、その上にマーマレードが掛かっている。全く違う味に興味はあるけど……どうしよう。

 困惑して視線を泳がせれば、店内では半分食べて交換する人も見受けられる。マナー違反ではないのね。安心した私は厚意に甘えることにした。
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