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第5章 凶獣病

凶獣病(3)

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凶獣病ライカンスロープ
 突然、湧き出した聞き覚えのある声に私の意識は現実へと戻る。
「ほんの百年ほど前まで獣人の子どもの間で流行っていた感染症の一種だ。感染すると先祖帰りを起こして巨大な獣へと変貌する」
 私は、声のする方へと振り返る。
 鳥の巣のように盛り上がった黒髪、整った顔に生えた無精髭、黒いタンクトップから除く逞しい腕、均整の取れた身体に黒いズボンを履いた長い足・・。
「カゲロウ・・」
 私は、驚きのあまり声が裏返りそうになる。
 鳥の巣のような髪の男、カゲロウは執務室の扉の横の壁に寄りかかり、髪に隠れて見えない目でこちらを見ていた。
 イーグルがソファから立ち上がり、腰に差した剣の柄を握る。
 その表情は幽鬼でも見たかのように青ざめている。
「貴様・・・」
 グリフィン卿は、突如現れたカゲロウに動揺しつつも鋭い眼に怒りを灯して睨みつける。
「どうやってここに侵入した」
「ちゃんと正面口から入りましたよ」
 カゲロウは、壁から離れてゆっくりと近寄り、私の後ろに立つ。
 私は、カゲロウを見上げる。
 カゲロウは、小さく唇を釣り上げ、私の頭に手を置く。
 その瞬間、グリフィン卿の目に怒りが宿った気がする。
 彼の手からじんわりと優しい温もりが広がっていく。
 それだけで動揺と不安に揺れていた心が落ち着いていく。
「大丈夫か?」
 カゲロウが優しく囁くように訊いてくる。
「はいっ」
 私は、涙ぐみそうになるのを堪えて返事する。
「カゲロウ・・・何でここに?」
「スーやんが教えてくれた。一頭だけで戻ってきた時は何事かと思ったぜ」
 スーちゃんのことは教会に残したままにしてしまっていた。頭の良いスーちゃんのことだから私が戻ってこないと思ったらケーキを置いて自分だけで帰れると思っていたから。
 しかし、まさかカゲロウを呼んできてくれるなんて。
「お店は?」
「四人組が授業が早く終わったとかで来てくれてな。店番お願いしてきた」
 そう言ってカゲロウは、少し不安そうに頬を引き攣らせる。
「早く戻らないと貯蔵のお菓子が無くなりそうだ」
 確かにそれは急いで戻らないといけない。
 カゲロウは、顔を上げてグリフィン卿とイーグルの方を向く。
 イーグルは、変わらずに怯えた表情で、グリフィン卿は、何故か顔を溶岩のように赤くして憎々しげにカゲロウを睨んでいる。
「うちの店員を口説くのは止めてくださいってお願いしましたよね?」
「貴様・・・っ」
 グリフィン卿は、奥歯を砕くのではないかと思うほどに噛みしめる。
 しかし、カゲロウに動揺も怯えもなく、ただ呆れたようにため息を吐く。
「エガオに戻ってきて欲しいからって弱い部分をついて誘導するのはどうかと思いますよ」
 カゲロウの言葉にグリフィン卿は、動揺する。
「こいつはもうあんたの部下でもなければ子どもでもありません。自分の道は自分で決めます」
 そう言うとカゲロウは、拳大に膨らんだ革袋をテーブルの上に放り投げる。
 革袋は、ガチャンっと音を立ててテーブルの上で破け、大量の山羊のレリーフの彫られた銀貨が溢れ出る。
 グリフィン卿とイーグルは、驚きに目を剥く。
「マナがうちにケーキを買いにきた時に置いてったものです。俺もエガオも革袋ごしにしか触ってない。魔法騎士が触れた物なら指紋が出てくるはずです、それを取り出して帝国に照合してもらえば素性も明らかになるのでは?」
 確かにマナがこれを一人で生み出したわけではない。誰かから貰ったものなら当然、その痕跡があるはずだ。
凶獣病ライカンスロープについても医師や歴史学者にでも聞けば必ず分かります。その対処方法も。犠牲者が出る前にさっさと動いた方がよいかと」
 私は、じっとカゲロウを見る。
 この人は本当にカゲロウなのだろうか?
 何でこんなに色々な事を知ってるの?
 それに気づいてカゲロウは、にっと口の端を釣りあげてさらに優しく私の頭を撫でる。
「こう見えても読書家でね。雑学は人より多いんだ」
 そういうものなのか?
 そう言えばマダムにも本はたくさん読みなさいって言われたな。
「・・・犠牲者とはなんだ?」
 グリフィン卿は、悔しげに奥歯を噛み締めながらもカゲロウに訊く。
凶獣病ライカンスロープは、感染症です。獣人特有の。もし騎士崩れどもがこの病気を利用して何か企んでるなら黒い獣だけで済むはずがありません」
 グリフィン卿とイーグルの顔が青ざめる。
 カゲロウは、私の頭から手を離す。
 その途端に喪失感が私を襲う。
「協力はしました」
 カゲロウは、手を伸ばして私の手をきゅっと握るとそのまま私をソファから立たせる。
「店があるのでこれで失礼します」
 そう言うとカゲロウは、私の手を引っ張って扉に向かう。私は慌てて大鉈を拾い上げる。
「待て」
 出ていこうとする私達にイーグルの声が飛ぶ。
 カゲロウが不機嫌そうに振り返る。
「お前は隊長を子どもではない、自分のことは自分で決めると言ったな」
「ええっ言いました」
 カゲロウが肯定するとイーグルは虎の首を取ったと言わんばかりに嘲笑を浮かべる。
「じゃあ何故、彼女の意思も確認せずにお前が勝手に決める?隊長は我々に協力しようとしてたかもしれないのに」
 イーグルの言葉に私は、動揺し、カゲロウの手を強く握る。
 確かに私は躊躇った。
 グリフィン卿の言葉に、マナの事を思い、メドレーに戻ると言う選択が頭をよぎった。
 そしてそれは今も私の中で燻っている。
 イーグルは、そんな私の心情を読み取ったのか、口元に笑みを浮かべる。
「隊長はどうなのです?メドレーに戻ってあの娘を救いたいのではないですか?」
 私は、動揺と迷いに心臓が痛いくらいに高鳴る。
 しかし、カゲロウはまったく狼狽えた様子を見せず空いた手で顎を擦る。
「ダメだ」
「はあっ?」
 イーグルの口調が明らかに苛立つ。
「何の権利があって言ってる。お前は隊長の身内かなにかか!」
 しかし、そんなイーグルの言葉をカゲロウは、あっさりと返す。
「権利ならある」
 私は。怪訝な表情を浮かべる。
 権利?何の?
 そして,私は次の瞬間、破裂するような衝撃を受ける。
「夫が妻のことで口出して何が悪い」
 ・・・・えっ?
 私は、目と口をぽかんっと開ける。
 心臓が高鳴り過ぎて逆に止まりそうだ。
 イーグルも、そしてグリフィン卿も目が点になって動きが止まる。
 私は、驚きに思考が停止する私を見て頬を掻く。
「何を驚いてんだ?」
「えっなに?えっ?」
 私は、言語を忘れてしまったように声を漏らすことしかできない。
「忘れたのか?初めてあった日に言われたろ?結婚しなさいって・・・」
 私の脳裏に蘇る。
"それじゃあ結婚しなさい!"
 マダムの叫び声が耳と頭に響く。
 えっ?嘘?でもあれって・・。
 動揺する私を他所にカゲロウは、私の手をぐいっと引っ張る。
 私の身体は、すっぽりと彼の胸に収まる。
「そう言う事なので妻は連れて帰ります」
 カゲロウは、にっと口元を釣り上げる。
「捜査頑張ってください。妻のためにも解決してくれる事を心よりお祈りしてます」
 そう言い残して彼は私を抱きしめたまま扉を潜り抜けた。
 グリフィン卿とイーグルは、表情と身体を固めたまま一歩も動くことが出来なかった。
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