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第4章 無敵
無敵(4)
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チャコの話しによるとマナの家は王国でも古参の騎士の家系で父親だけでなく母親も騎士でマナはそこの家の一人娘であったらしい。
チャコの父親は、ピアノの調律師としてその家に出入りし、父親の仕事に興味を持っていたチャコはよく付き添ってマナの家に行き、父親の仕事を見て、そして幼い、まだ5歳か6歳くらいのマナの遊び相手になっていたと言う。
マナは、よく笑う子で月に一回、チャコがやってくるのをとても楽しみにしていて、訪れる度に「お姉ちゃん!」と言って懐いてきたそうだ。
チャコもマナに会うのがとても楽しみにしていた。
種類は違うがお互い獣人同士気があったと言うのもあるかもしれないがニ人は本当の姉妹のように仲が良かったとチャコは言って笑った。
しかし、その顔は曇る。
今からニ年前ほど前、マナの両親が戦場で亡くなったと言う知らせがチャコの家に届いた。
お得意さんでもあり、家族同士でも仲良くしていた人達の死にチャコの父親はショックを受けていた。
しかし、チャコはそれ以上にマナのことが心配になり、知らせを聞くや否や家を飛び出してマナの住む家に向かった。
「でも、家にはもう誰もいなかったにゃ」
家具もなければマナの姿もなく、近くの人に聞いても王国の役人が来て全てを持っていったとしか言わなかった。
その話しを聞いた時、他の三人は「ひどっ」と国に対して軽蔑の言葉を述べたが、マダムと私は何も言えなかった。
当主がおらず、後継になるものがいなければお取り潰しになるのは騎士の、貴族の家系においては常識であった。
戦えないものを、役に立たないものを養う余裕なんて国にはない。
私は貴族ではないがお取り潰しになった騎士の家の人間達がメドレーに流れてくることも多かったので何となくは知っていた。
しかし、まさかマナまでもがそのお取り潰しになった騎士の家の縁者であったなんて思いもしなかった。
二年前、それはマナがメドレーに私の従者として当てがわれた年と一致している。
そして二年前と言うともう一つのことが私の脳裏を過った。
二年前、私は・・・。
「もうすぐ着くぞ」
カゲロウの声に私は記憶の淵から昇る。
いつの間にか日差しが強く、温かくなり、草の匂いが風に乗って広がっている。
「どうしたぼおっとして?」
私の隣に座るカゲロウが心配そうに私の顔を覗き込んでくる。鳥の巣のような髪に隠れて目は見えないが視線が合った気がして私は頬が熱くなるのを感じながら目を反らす。
そんな私の様子にスーちゃんが首だけをこちらに向けて面白そうに赤い目を細める。
私は、頬を膨らませてスーちゃんを睨む。
スーちゃんは、素知らぬ顔をして前を向いて六本の脚で地面を蹴って風となって進む。
カゲロウは、スーちゃんに形だけつけた手綱を操作する。
私とカゲロウは、スーちゃんの引くキッチン馬車に乗って王都から離れた岩山を走っていた。
昨日の夜、カゲロウがマナに頼まれたクリームの材料を仕入れにいかないのといけないと声を掛けられた。
私は、一人で行くと言ったがそれを聞いていたマダムから大反対され、カゲロウと一緒に行くことになった。カゲロウもそのつもりだったようで特に何も言わなかった。
そして次の日の早朝、私とカゲロウは、スーちゃんの引くキッチン馬車で出発した。
キッチン馬車を純粋な馬車として乗るのは初めてだが車輪のバネがしっかりしているのか地の利の悪い道でもほとんど揺れない。私達の座る御者台に使われている生地もクッションもよくは分からないが質の良いものだ。
私は、横目でカゲロウを見る。
彼は、一体何者なのだろう?
今更ながらに思う。
希少な軍馬であるスレイプニルを飼い、豪奢なキッチン馬車を所有する。料理の腕は一流でぶっきらぼうだけどとても優しい。
私が知ってるのはそれだけだ。
それだけしか知らないのに私は彼と一緒にいる。
一緒に働いて、一緒に食材捜しに赴いている。
「知りたいなあ」
「何をだ?」
カゲロウがこちらを見て顎に皺を寄せる。
「ふえっ」
声に出てた?
私は、頬から火が吹きそうになる。
「なっ何でもありません!」
私は、叩かれるように顔を背ける。
カゲロウは、怪訝そうに無精髭を摩るもそれ以上は何も言わずに前を向く。
私は、ゆっくりと顔と目を彼に向ける。
鳥の巣のような髪に隠れた彼の顔は、朝の日差しに照らされて輝いて見える。
まるで神殿に飾られた絵画のように見えた。
知りたいなあ。
今度こそ胸中で呟く。
彼のことをもっと知りたい。
そう思うだけで私の胸は小さく高鳴った。
岩山を登りきり、黄緑色の草原に出るとスーちゃんは足を止め、連動してキッチン馬車も車輪を止める。
カゲロウは、両腕を伸ばして大きな身体をぐっと伸ばすと御者台から降りて私に手を差し出す。
「高いから気をつけろ」
この程度の高さなんて何の問題もない。
なのに私は彼から差し伸べられた手を掴み、御者台から降りた。
彼の温かい手の温もりがじんわりと染み込んでいく。
御者台から降りた私は周りの光景に目を見開く。
黄緑色の草原、その上を地面にまで触れそうな黄金の長い体毛に覆われた大きな牛が何十匹も星屑のように闊歩していた。
こんな牛、見たことない。
「黄金牛だ」
私の疑問に答えるようにカゲロウが言う。
「黄金牛?」
私は、カゲロウの口にした名前を反芻してうっすらとした雲の流れる空を見る。
「黄金牛って星座の?」
私の質問にカゲロウは驚いたように口を丸くする。
「そうそう、よく知ってるじゃないかあ」
カゲロウは、驚きと喜びの混じり合った口調で言って私の頭を撫でる。
私は、恥ずかしさと気持ち良さから頬を熱くして目線を左に背ける。
「・・・マダムにこの前習ったんです。星にも名前があるのよって」
それを聞いた時は本当に驚いてマダムが用意してくれた星空の絵が描かれた本を食い入るように読んだ。
「星が方角を知るためだけにあるんじゃないって知って驚きました」
そう言うとカゲロウは、少し悲しげに唇を曲げ、私の頭をさらに優しく撫でた。
恥ずかしいからやめてほしい。
「黄金牛って言うのは空を司る神様が好きな娘を口説くために変身した牛の名前だよ」
カゲロウは、私の頭から手を離す。
その途端に寂しさが私の心を刺す。
そんな私の心境なんて気付くことなくカゲロウは、キッチン馬車の右側に回る。
「彼女達は、そんな伝説の牛の姿に似てるからその名前が付けられたって言われてる。まあ、ひょっとしたら彼女たちの名前の方が先で伝説の方が後から出来たのかもしれないけどな」
カゲロウは、キッチン馬車の側面にある小さな収納口の扉を開ける。そこには開店する時に使う円卓や椅子、傘が修能されている。しかし、カゲロウが、取り出すのは銀色の私の上半身くらい大きさのある鉄の樽だ。
前々からあるのは知っていたが出したのは初めて見た。
それからカゲロウは銀色のバケツを二つ取り出し、私に持ってくれとお願いしてくる。
カゲロウは、スーちゃんの首筋を撫でて「ちょっと待っててな」と優しく言うと銀色の樽を肩に担いで歩き出す。
かなり重そうな樽なのに傾くことも揺れることもなく、しっかりとした足取りで前に進む。タンクトップから覗く肩甲骨と筋肉が逞しく盛り上がっている。
私は、思わずじっと彼の大きな背中を見てしまう。
カゲロウが足を止めて振り返る。
「どした?」
彼は、怪訝そうに呟く。
私は、何故か恥ずかしくなって「何でもありません」と彼を抜かして前を歩き出す。
カゲロウは、首を傾げつつも私の後を付いてくる。
黄金牛は、私達が自分達の領域に足を踏み入れても特に騒ぐこともなく、草を喰み、ゆったりと歩き、寝そべった。
「俺らに敵意がないことがわかってるのさ」
私の疑問に答えるようにカゲロウは言う。
そして周りで自由にしている黄金牛の中から1匹に目を付けると近寄っていった。
カゲロウが目の前に来ても黄金牛は、狼狽える様子となく悠然と立っている。
カゲロウは、優しく黄金牛の首を撫でる。
「悪いが少し分けてくれるか?」
そう言ってカゲロウは、黄金期牛の首を擽る。
黄金牛は、気持ち良さそうに目を細め、首を振る。偶然だと思うが私はそれが頷いているように見えた。
「いいってよ」
カゲロウは、にっと唇を釣り上げると銀の樽を草の上に置き、私からバケツを一つ取ると黄金牛のお腹の下に置いた。そしてしゃがみ込むと黄金牛の毛に覆われたお腹の中に両手を入れる。
「あったあった」
そう言うとカゲロウは、リズムを取るようにゆっくりと両手を上下に動かす。
ビジャアアアアア!
バケツの底を叩きつけるような勢いで濃厚な白色の液体がバケツに流れ込む。
私は、思わず目を丸くする。
「それは・・・」
「母乳だよ。黄金牛のミルクは濃厚でクリームに最適なんだ」
カゲロウは、嬉しそうに言ってミルクを絞っていく。
ミルクが勢いよく飛び出して白い水面を泡立たせる。その度に黄金牛の口からため息とともに声が漏れる。
「痛がってないですか?」
「気持ち良いんだよ。子どもが早く乳離れすると胸が張って痛いからな」
「何でこの牛が雌だと?」
「黄金牛は、一夫多妻だからな。馬鹿でかい雄以外は皆んな雌さ」
私は、どこかに雄がいるのかと見回すもどれも同じ大きさの黄金牛ばかりだ。
「乳離れした子どもでも連れてどこかに出かけてるんだろう。この種の雄は子煩悩だからな」
子煩悩?
私は、聞いたことのない単語に首を傾げる。
「過保護ってことだよ。マダムみたいなもんさ」
朗らかに笑うマダムの顔が浮かび、私は妙に納得が出来た。
そうこう話しているうちにバケツ一杯にミルクが溜まる。
カゲロウは、黄金牛の乳から手を離すと鳥の巣のような髪に隠れた目で私を見上げる。
「やってみるか?」
「えっ?」
「まだ張ってるからな。もう少し搾ってやった方がいい」
そう言うやカゲロウは、立ち上がるとバケツを交換する。
私は、促されるままに大鉈を外してカゲロウのいた場所に座ると恐る恐る黄金の長毛の中に手を入れる。
乳房は直ぐに見つかった。
指先が2つの生温かい突起物を感知し、そのまま握る。
こうかな?
カゲロウの見様見真似で乳房を握り、両手を上下に動かすもミルクは一向に出る気配がない。
黄金牛が不満そうに鳴く。
私は、焦って何度も動かすもミルクは一向に出ない。
どうしよう。
私は、不安になってカゲロウに助けを求めようか悩んでいる、と。
黄金牛の生温い感触とは違う優しい温もりが私の両手を包む。
そして首筋に熱い吐息が吹きかかる。
背筋が震える。
いつの間にかカゲロウが私の背後に回って身体を密着させ、逞しい両腕を私の手に重ねたのだ。
私の心臓が弾けるのではないかと思うほどに高鳴る。
「強すぎだ」
彼の声が耳朶を打つ。
「こんなんじゃ出るもんも出ないぞ」
そう言うと彼は私の指に自らの指を重ねて黄金牛の乳房をゆっくり動かし始める。
柔らかな動きに黄金牛の表情が緩む。
しばらくすると突起物の先がジワリと滲んでいき、ミルクがバケツを打った。
「やったな」
彼は、嬉しそうに言い、さらに手を動かしていく。
私は、羞恥と彼の吐息、そして温もりに顔を上げることが出来ない。
ミルクは、どんどん溜まっていき、バケツ半分まで量を埋める。
「・・・あの子のこと・・気になるのか?」
カゲロウの言葉に私は息を飲み込む。
熱くなった身体が急速に冷めていく。
あの子・・それがマナのことを指しているのは聞かなくても分かった。
「私・・あの子のことを何も知りませんでした」
いつも側にいて、身の回りのことが何も出来ない私の世話を焼き、エガオ様と可愛らしく微笑んでくれていたあの子のことを私は何も知らなかった。
「あんなに側にいたのに、あんなに慕ってくれてたのに私は自分のこと、戦いのことばかり考えてあの子のこと何も見てませんでした」
私は、マナの気持ちを思う。
両親を失い、住み慣れた家を奪われて、知らない人間達の所で働く、幼い彼女にとってそれはどれだけの不安だっただろう、恐怖だっただろう。
笑顔がなく、感情も乏しい私でさえ、メドレーを離れ、新しい環境に置かれた時、切り刻まれるような不安に駆られたと言うのに・・。
「それに私・・あの子の両親のこと、知ってたかもしれないんです」
その言葉に私の手に添えるカゲロウの手が一瞬固くなる。
チャコの父親は、ピアノの調律師としてその家に出入りし、父親の仕事に興味を持っていたチャコはよく付き添ってマナの家に行き、父親の仕事を見て、そして幼い、まだ5歳か6歳くらいのマナの遊び相手になっていたと言う。
マナは、よく笑う子で月に一回、チャコがやってくるのをとても楽しみにしていて、訪れる度に「お姉ちゃん!」と言って懐いてきたそうだ。
チャコもマナに会うのがとても楽しみにしていた。
種類は違うがお互い獣人同士気があったと言うのもあるかもしれないがニ人は本当の姉妹のように仲が良かったとチャコは言って笑った。
しかし、その顔は曇る。
今からニ年前ほど前、マナの両親が戦場で亡くなったと言う知らせがチャコの家に届いた。
お得意さんでもあり、家族同士でも仲良くしていた人達の死にチャコの父親はショックを受けていた。
しかし、チャコはそれ以上にマナのことが心配になり、知らせを聞くや否や家を飛び出してマナの住む家に向かった。
「でも、家にはもう誰もいなかったにゃ」
家具もなければマナの姿もなく、近くの人に聞いても王国の役人が来て全てを持っていったとしか言わなかった。
その話しを聞いた時、他の三人は「ひどっ」と国に対して軽蔑の言葉を述べたが、マダムと私は何も言えなかった。
当主がおらず、後継になるものがいなければお取り潰しになるのは騎士の、貴族の家系においては常識であった。
戦えないものを、役に立たないものを養う余裕なんて国にはない。
私は貴族ではないがお取り潰しになった騎士の家の人間達がメドレーに流れてくることも多かったので何となくは知っていた。
しかし、まさかマナまでもがそのお取り潰しになった騎士の家の縁者であったなんて思いもしなかった。
二年前、それはマナがメドレーに私の従者として当てがわれた年と一致している。
そして二年前と言うともう一つのことが私の脳裏を過った。
二年前、私は・・・。
「もうすぐ着くぞ」
カゲロウの声に私は記憶の淵から昇る。
いつの間にか日差しが強く、温かくなり、草の匂いが風に乗って広がっている。
「どうしたぼおっとして?」
私の隣に座るカゲロウが心配そうに私の顔を覗き込んでくる。鳥の巣のような髪に隠れて目は見えないが視線が合った気がして私は頬が熱くなるのを感じながら目を反らす。
そんな私の様子にスーちゃんが首だけをこちらに向けて面白そうに赤い目を細める。
私は、頬を膨らませてスーちゃんを睨む。
スーちゃんは、素知らぬ顔をして前を向いて六本の脚で地面を蹴って風となって進む。
カゲロウは、スーちゃんに形だけつけた手綱を操作する。
私とカゲロウは、スーちゃんの引くキッチン馬車に乗って王都から離れた岩山を走っていた。
昨日の夜、カゲロウがマナに頼まれたクリームの材料を仕入れにいかないのといけないと声を掛けられた。
私は、一人で行くと言ったがそれを聞いていたマダムから大反対され、カゲロウと一緒に行くことになった。カゲロウもそのつもりだったようで特に何も言わなかった。
そして次の日の早朝、私とカゲロウは、スーちゃんの引くキッチン馬車で出発した。
キッチン馬車を純粋な馬車として乗るのは初めてだが車輪のバネがしっかりしているのか地の利の悪い道でもほとんど揺れない。私達の座る御者台に使われている生地もクッションもよくは分からないが質の良いものだ。
私は、横目でカゲロウを見る。
彼は、一体何者なのだろう?
今更ながらに思う。
希少な軍馬であるスレイプニルを飼い、豪奢なキッチン馬車を所有する。料理の腕は一流でぶっきらぼうだけどとても優しい。
私が知ってるのはそれだけだ。
それだけしか知らないのに私は彼と一緒にいる。
一緒に働いて、一緒に食材捜しに赴いている。
「知りたいなあ」
「何をだ?」
カゲロウがこちらを見て顎に皺を寄せる。
「ふえっ」
声に出てた?
私は、頬から火が吹きそうになる。
「なっ何でもありません!」
私は、叩かれるように顔を背ける。
カゲロウは、怪訝そうに無精髭を摩るもそれ以上は何も言わずに前を向く。
私は、ゆっくりと顔と目を彼に向ける。
鳥の巣のような髪に隠れた彼の顔は、朝の日差しに照らされて輝いて見える。
まるで神殿に飾られた絵画のように見えた。
知りたいなあ。
今度こそ胸中で呟く。
彼のことをもっと知りたい。
そう思うだけで私の胸は小さく高鳴った。
岩山を登りきり、黄緑色の草原に出るとスーちゃんは足を止め、連動してキッチン馬車も車輪を止める。
カゲロウは、両腕を伸ばして大きな身体をぐっと伸ばすと御者台から降りて私に手を差し出す。
「高いから気をつけろ」
この程度の高さなんて何の問題もない。
なのに私は彼から差し伸べられた手を掴み、御者台から降りた。
彼の温かい手の温もりがじんわりと染み込んでいく。
御者台から降りた私は周りの光景に目を見開く。
黄緑色の草原、その上を地面にまで触れそうな黄金の長い体毛に覆われた大きな牛が何十匹も星屑のように闊歩していた。
こんな牛、見たことない。
「黄金牛だ」
私の疑問に答えるようにカゲロウが言う。
「黄金牛?」
私は、カゲロウの口にした名前を反芻してうっすらとした雲の流れる空を見る。
「黄金牛って星座の?」
私の質問にカゲロウは驚いたように口を丸くする。
「そうそう、よく知ってるじゃないかあ」
カゲロウは、驚きと喜びの混じり合った口調で言って私の頭を撫でる。
私は、恥ずかしさと気持ち良さから頬を熱くして目線を左に背ける。
「・・・マダムにこの前習ったんです。星にも名前があるのよって」
それを聞いた時は本当に驚いてマダムが用意してくれた星空の絵が描かれた本を食い入るように読んだ。
「星が方角を知るためだけにあるんじゃないって知って驚きました」
そう言うとカゲロウは、少し悲しげに唇を曲げ、私の頭をさらに優しく撫でた。
恥ずかしいからやめてほしい。
「黄金牛って言うのは空を司る神様が好きな娘を口説くために変身した牛の名前だよ」
カゲロウは、私の頭から手を離す。
その途端に寂しさが私の心を刺す。
そんな私の心境なんて気付くことなくカゲロウは、キッチン馬車の右側に回る。
「彼女達は、そんな伝説の牛の姿に似てるからその名前が付けられたって言われてる。まあ、ひょっとしたら彼女たちの名前の方が先で伝説の方が後から出来たのかもしれないけどな」
カゲロウは、キッチン馬車の側面にある小さな収納口の扉を開ける。そこには開店する時に使う円卓や椅子、傘が修能されている。しかし、カゲロウが、取り出すのは銀色の私の上半身くらい大きさのある鉄の樽だ。
前々からあるのは知っていたが出したのは初めて見た。
それからカゲロウは銀色のバケツを二つ取り出し、私に持ってくれとお願いしてくる。
カゲロウは、スーちゃんの首筋を撫でて「ちょっと待っててな」と優しく言うと銀色の樽を肩に担いで歩き出す。
かなり重そうな樽なのに傾くことも揺れることもなく、しっかりとした足取りで前に進む。タンクトップから覗く肩甲骨と筋肉が逞しく盛り上がっている。
私は、思わずじっと彼の大きな背中を見てしまう。
カゲロウが足を止めて振り返る。
「どした?」
彼は、怪訝そうに呟く。
私は、何故か恥ずかしくなって「何でもありません」と彼を抜かして前を歩き出す。
カゲロウは、首を傾げつつも私の後を付いてくる。
黄金牛は、私達が自分達の領域に足を踏み入れても特に騒ぐこともなく、草を喰み、ゆったりと歩き、寝そべった。
「俺らに敵意がないことがわかってるのさ」
私の疑問に答えるようにカゲロウは言う。
そして周りで自由にしている黄金牛の中から1匹に目を付けると近寄っていった。
カゲロウが目の前に来ても黄金牛は、狼狽える様子となく悠然と立っている。
カゲロウは、優しく黄金牛の首を撫でる。
「悪いが少し分けてくれるか?」
そう言ってカゲロウは、黄金期牛の首を擽る。
黄金牛は、気持ち良さそうに目を細め、首を振る。偶然だと思うが私はそれが頷いているように見えた。
「いいってよ」
カゲロウは、にっと唇を釣り上げると銀の樽を草の上に置き、私からバケツを一つ取ると黄金牛のお腹の下に置いた。そしてしゃがみ込むと黄金牛の毛に覆われたお腹の中に両手を入れる。
「あったあった」
そう言うとカゲロウは、リズムを取るようにゆっくりと両手を上下に動かす。
ビジャアアアアア!
バケツの底を叩きつけるような勢いで濃厚な白色の液体がバケツに流れ込む。
私は、思わず目を丸くする。
「それは・・・」
「母乳だよ。黄金牛のミルクは濃厚でクリームに最適なんだ」
カゲロウは、嬉しそうに言ってミルクを絞っていく。
ミルクが勢いよく飛び出して白い水面を泡立たせる。その度に黄金牛の口からため息とともに声が漏れる。
「痛がってないですか?」
「気持ち良いんだよ。子どもが早く乳離れすると胸が張って痛いからな」
「何でこの牛が雌だと?」
「黄金牛は、一夫多妻だからな。馬鹿でかい雄以外は皆んな雌さ」
私は、どこかに雄がいるのかと見回すもどれも同じ大きさの黄金牛ばかりだ。
「乳離れした子どもでも連れてどこかに出かけてるんだろう。この種の雄は子煩悩だからな」
子煩悩?
私は、聞いたことのない単語に首を傾げる。
「過保護ってことだよ。マダムみたいなもんさ」
朗らかに笑うマダムの顔が浮かび、私は妙に納得が出来た。
そうこう話しているうちにバケツ一杯にミルクが溜まる。
カゲロウは、黄金牛の乳から手を離すと鳥の巣のような髪に隠れた目で私を見上げる。
「やってみるか?」
「えっ?」
「まだ張ってるからな。もう少し搾ってやった方がいい」
そう言うやカゲロウは、立ち上がるとバケツを交換する。
私は、促されるままに大鉈を外してカゲロウのいた場所に座ると恐る恐る黄金の長毛の中に手を入れる。
乳房は直ぐに見つかった。
指先が2つの生温かい突起物を感知し、そのまま握る。
こうかな?
カゲロウの見様見真似で乳房を握り、両手を上下に動かすもミルクは一向に出る気配がない。
黄金牛が不満そうに鳴く。
私は、焦って何度も動かすもミルクは一向に出ない。
どうしよう。
私は、不安になってカゲロウに助けを求めようか悩んでいる、と。
黄金牛の生温い感触とは違う優しい温もりが私の両手を包む。
そして首筋に熱い吐息が吹きかかる。
背筋が震える。
いつの間にかカゲロウが私の背後に回って身体を密着させ、逞しい両腕を私の手に重ねたのだ。
私の心臓が弾けるのではないかと思うほどに高鳴る。
「強すぎだ」
彼の声が耳朶を打つ。
「こんなんじゃ出るもんも出ないぞ」
そう言うと彼は私の指に自らの指を重ねて黄金牛の乳房をゆっくり動かし始める。
柔らかな動きに黄金牛の表情が緩む。
しばらくすると突起物の先がジワリと滲んでいき、ミルクがバケツを打った。
「やったな」
彼は、嬉しそうに言い、さらに手を動かしていく。
私は、羞恥と彼の吐息、そして温もりに顔を上げることが出来ない。
ミルクは、どんどん溜まっていき、バケツ半分まで量を埋める。
「・・・あの子のこと・・気になるのか?」
カゲロウの言葉に私は息を飲み込む。
熱くなった身体が急速に冷めていく。
あの子・・それがマナのことを指しているのは聞かなくても分かった。
「私・・あの子のことを何も知りませんでした」
いつも側にいて、身の回りのことが何も出来ない私の世話を焼き、エガオ様と可愛らしく微笑んでくれていたあの子のことを私は何も知らなかった。
「あんなに側にいたのに、あんなに慕ってくれてたのに私は自分のこと、戦いのことばかり考えてあの子のこと何も見てませんでした」
私は、マナの気持ちを思う。
両親を失い、住み慣れた家を奪われて、知らない人間達の所で働く、幼い彼女にとってそれはどれだけの不安だっただろう、恐怖だっただろう。
笑顔がなく、感情も乏しい私でさえ、メドレーを離れ、新しい環境に置かれた時、切り刻まれるような不安に駆られたと言うのに・・。
「それに私・・あの子の両親のこと、知ってたかもしれないんです」
その言葉に私の手に添えるカゲロウの手が一瞬固くなる。
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