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「生気がない」

「は?」

 ユリがいなくなって三日目。配達から帰ってきた柏木は松嶋に出迎えられ、薄い目でじっと見られた。

「なんだ……。生気がないって」

 柏木は立ち止まると怪訝な顔で見つめ返す。

「しばらくの柏木さんは不思議なほど楽しそうにしてたというか。あんまり見たことない顔をしていたのに、人が変わったようにおとなしくなりましたね。なんかありました?」

「なんかって……。別にねぇよ」

 彼は視線をそらして頭をかいた。これ以上余計な詮索をされないよう、事務所に向かうことにする。

 松嶋はひよこのように後をついてきて首をかしげた。

「はあ……。気のせいじゃないと思ったんだけどな……。猫じゃなくて女が────」

「意味分かんないこと言ってんな。全トラックの荷物、一人で載せてもらうぞ」

「それは勘弁!」

 松嶋はくるりと背を向けると走り去った。その逃げ足の速いこと。

 ”ったく仕方ないヤツだ……”と、柏木はため息をついた。

 改めて事務所に入ると長谷川しかいなかった。今日は表向きは会社の休業日なので全体的に人は少ない。

「ご苦労さま」

「ただいま戻ってきまーした~」

 ゆるく答え、柏木は隣のデスクに伝票の束を放った。途中で買ってきた缶コーヒーを長谷川の手元に置く。

「はー。今日は気持ちすこーしあったかいな」

 缶コーヒーを開けて椅子に座ると、長谷川は静かに顔を向けた。

「そうだね。柏木さんの心は寒そうだけど」

「なんだそれ。お母ちゃんまで何言ってんだ」

「だからお母ちゃん呼ぶなや」

 いつものくだりに鼻で笑い、柏木は伝票の整理を始めた。

 シワシワになった伝票を輪ゴムでまとめてある。取引番号順にそろえ、長谷川のデスクの隅に置くと明日の配送ルート表を渡された。

 彼女は椅子の上で背筋を伸ばした。ついでに大あくび。

「私まで、って何……。他の誰かにも言われた?」

「松嶋。生気がないとかなんとか」

「あの子、あんたのこと大好きだからね。よく見てんだよ」

「やめろ気持ち悪い」

「心配してくれてるんだからそういうこと言うんじゃない」

 長谷川はデスクの引き出しからお菓子を出し、一つを柏木の前に置いた。

 彼女は開封する前に眉を落とし、柏木の顔をのぞきこんだ。

「……なんかあったの。急に元気なくなったじゃない」

「別に。あんたらの考えすぎだ」

「最近は妙に生き生きとして見えたけどな。奥さんがいた頃みたいに」

 柏木は缶コーヒーを持った手を止めた。長谷川はそれに気づかずお菓子の袋を開ける。

「柏木君だからあからさまにオーラが違うとかはないけど、ちょっとるんるんしてたよね。最近は幸せそうだった。松嶋君みたいに気づいてる人は気づいてるんじゃない」

「……変な思い込みじゃね」

「そっちこそ。何かをなかったことにしてるように見えるよ。……まぁ、無理には聞かないし早く元気になれとも言わないけど、しんどい時は言いなさいよ。私も松嶋君もあんたのことを嫌ってないんだから。ちっとは頼ってよ」

 長谷川は宣言した通りそれ以上聞くことはなかった。柏木は浮かぬ顔でコーヒーを傾け、お菓子をかじった。

 最近はどれだけ甘いお菓子を差し入れされても味が分からない。無機質なかたまりをむさぼってるようだった。

 その後もなんでもない顔でトラックへ荷物を載せる作業に入った。

 積んでいる途中で松嶋はスマホを持ってきては居酒屋を紹介する動画を見せ、”今度ここで呑みましょう! バズってるんですよ!”と誘ってくれた。

 周りの配送員たちも一緒に行くと申し出たり、”たまには喫煙所に顔出せよ”と肩を叩かれた。










 ユリが作ってくれたガトーショコラを食べることはできなかった。というか彼女に包んで持たせた。元妻が置いていったタッパーの中から大きなものに入れて。

 ユリは戸惑っていると言うか、不服そうな表情で受け取ろうとしなかった。

「いいんですか、これ。柏木さん食べたがってたじゃないですか」

「持って帰って二人で食べな。俺一人じゃ時間かかりそうだしな……。それに、婚約者の手作りお菓子を知らんおっさんが食べるとなったら悔しいだろ」

「別に気にしませ────」

 肝心の雅史はやはりと言うべきか。柏木はみぞおちに拳をかざしてにらみつけ、だまらせた。まだまだ勉強してもらわなければいけない。

「明日はバレンタインだろ。これ渡して仲直りしな」

 半ば無理やりユリに持たせた。

 本当は惜しくて、渡した時の笑顔はぎこちなかったと思う。今日はユリのガトーショコラを楽しみに仕事をしていたから。

 元妻も時々お菓子を作ってくれた。クッキーでもプリンでも杏仁豆腐でも。苦手な甘い物はなかったし、珍しいお菓子を食べられることは楽しかった。

『今度はケーキ作ろっかな~。中途半端に材料が残っているのよねぇ』

『お。じゃあさ、俺チョコ系が食いてぇ。この前のチーズケーキもおいしかったけど』

『チョコね~。普通にチョコケーキ?』

『あれ、なんとかショコラがいい』





(ガトーショコラの執着はそれか…)

 あの後、妻にガトーショコラを作ってもらうことはなかった。あれはちょうど子どものことで言い合いを始める直前だった。

 自宅へ帰ってきて一人。柏木は作業着から着替えることなく、ソファに座ってうなだれた。

 いつもユリが遠慮なく座れるようにソファの片側に寄っていたのだが、その習慣は今でも続いていた。

 買い物から帰ってきたり台所から現れたりするんじゃないかと思って。

 だが、それは虚しい願望。頭で分かってはいるが、心はユリがいなくなったことを受け入れてくれなかった。

 朝起きると、朝食を用意してくれているんじゃないか。

 リビングはカーテンがしまったままで寒い。

 出勤前に見送ってくれるんじゃないか。

 行ってらっしゃいの声は返ってこない。

 昼間、晩御飯に食べたい物はあるかと連絡がくるんじゃないか。

 トークルームも連絡先も消した。

 帰ってきても、おかえりなさいの声はもちろんないし食事をしながら仕事の話を聞いてくれる人もいない。休みの日に昼過ぎまで眠っていても怒る人もいない。お忍びのように一緒に出掛ける人も。

 これだけ毎日ぐるぐると元同居人のことを考えていたら、そりゃあ人から勘繰られるだろう。

 柏木は半開きになった口元を閉じると奥歯を噛みしめた。

 彼女の名前を口に出したら、”帰ってきてくれ”と続けそうだ。出て行った者のことを考えるのは虚しく、意味がないと分かっているのにやめられない。

 一時的に一緒に生活するだけ。家事をやってもらえてラッキー、とのんきに過ごしていた頃に戻りたかった。

 こいつはいつまでここにいるんだ、とげんなりしていた頃に戻りたかった。

 もしも雅史の気が変わらなければ彼女を────

 柏木は両手で顔を覆った。

『それって娘として?』

 あの時、ユリの瞳が少しだけ期待を持った気がした。

 そんな彼女のことを抱きしめ返せなかった。そうでもしたら雅史から強引に奪ってしまっていたかもしれないから。

 それだけ自分は。

────お前さえよければ俺の奥さんとして。俺はあのアホ婚約者よりお嬢の……いや。ユリのことを大切にする。

『奥さんがいた時みたいね。幸せそうで』

 長谷川がつぶやいた言葉を思い出した時、顔を覆った手のひらのすき間からしずくが滑り落ちた。

 誰にも見られることはないと分かっているのに、柏木は手を離すことなくずっと肩を震わせた。
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