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 仕事から帰ってきた雅史は、スーツから着替えることなくベッドの上に倒れこんだ。

 昨夜ユリに別れようと告げたが、すぐに新たな文章を送ってしまった。

 決心したのになぜ、こんな未練を彼女に伝えたのか。雅史はシーツの冷たい感触に身震いした。

(簡単に別れようなんて言えないよ……。あっさり別れられるほど、安い思い出ばかり作った記憶はないよ……)

 突然ユリから拒絶され、何も言わずに家出をされてショックだった。ただでさえ二月のもぬけの殻の家は寒いというのに、その日は心まで冷たく痛く感じた。

 彼女が出て行ってすぐに連絡を入れたが、反応はなかった。

 電話をかけても出てくれることはなく。その日もやっぱりダメか、とスマホを下ろしかけた時。

『君は婚約者さん?』

 ユリに連絡を入れたはずだが、聞き覚えのない男の声が返ってきた。電話をかける相手を間違えていたのか。スマホから耳を離して画面を見たが、そこにはユリの名前。

 この電話の相手は自分たちの関係を知っているらしい。果たして何者なのか。雅史は警戒心を露わにし、声を硬くした。

『どちらさまですか?』

 まさかユリが誘拐されたのでは。事件に巻き込まれたのでは。心臓がバクバクと激しく脈打ち始めたが、相手の男の声が優しくなった。

『急にごめんな。今、お宅の婚約者がウチに押しかけて居座っていてな……。俺は熊谷ユリが働いていた会社に勤めている者だ。彼女がウチの場所を覚えていて、家出場所にしやがったんだ。俺もすぐ帰れとは言ってるんだが、なかなかガンコで……。しばらく帰る気はないらしい。手を焼いているところだ』

「そうだったんですか……」

 荒っぽい口調だが、声を聞いている限り誠実な人だろうと見受けた。ユリのことを仕方なさそうに語る様子は兄のような、父親のようなあたたかさがにじんでいる。

 雅史が安堵すると男は、”改めて話そう”と自分のスマホの電話番号を伝えた。

 その時から柏木にユリの様子を聞いていた。柏木自らメールしてくることもある。まるでユリの観察日記だ。

 その日、ユリはもう寝たと電話口で伝えられた。

 体調はよくなったが、早く眠る日が多くなったらしい。自宅では雅史と同じく遅い時間に寝て、朝も早い。柏木の家でも同じように過ごしているようだ。

『心配で心配で、とかはないのか。男女が一つ屋根の下で生活しているのに』

『えぇ。ユリのことは信用していますから』

『君なぁ……そこだぞ』

『えっ?』

 柏木が呆れたようにため息をついた。それにはつい、妙な威圧感を感じてしまう。

『そういうところに寂しがっているぞ。もうちょっと彼女のことを気にかけてやれ』

『今でも気にかけてるつもりなんですが……。家事は無理しなくていいって』

『彼女の負担を減らすとかそういうんじゃない。彼女への気持ちだよ。好きとか言ってやってるか? 花に水やるのと同じで、好きとか綺麗だよとか言ってやらねぇと機嫌損ねるぞ』

 まだ顔を見たことはないが、絶対にそんな言葉が似合う見た目ではないだろう。雅史は笑いとあくびをかみ殺した。

『柏木さんでもそんなこと言うんですね』

『君がそんなんだからな。君の婚約者はウチの会社の大事な娘だ。あんまり雑に扱うから代表として怒ってる』

 自分が怒られることになるとは、露ほども思わなかった。

 いつしかユリが友人の雪華を紹介してくれた時、雪華は時々にらむように鋭い口調になっていた。ユリは隣で"やめてよ"とたしなめていた。

 その時の雪華には、ユリのことを大切にしていないというニュアンスが言葉の端々に含まれていた。

『言わなくても分かるとか、伝わっているなんてのは絵空事だぞ。言うことは言ってあげないと』

『なんか……ユリがそちらでお世話になっている理由がわかります。柏木さんがユリに気遣ってくれているおかげですね』

『そんな悠長なこと言ってんじゃないよ。君がやらなきゃいけないことだからな』

『うっ……』

『そういうところは婚約者に似てんな』

 柏木は咳をしながら笑った。

 電話を終えるとリビングで一人、柏木に言われたことを思い出しながらうなだれた。

 好きとか愛してるとか言った覚えはない。ここ数ヵ月は特に。

 対するユリはくっついて”好きだよ”と頬ずりをする。

 特別言わなくてもなんでも伝わると思っていた。好きも、その時の気分も、何をしたいのかも。

 柏木に言われたことはどれも図星だった。
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