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展示会当日。
ゆいなはいつもの出勤時間よりも早く家を出た。
向かったのはオーサカ。いつもと反対方向の電車に乗り、オーサカ駅で乗り換える。
さらに乗り換え、高い位置にある線路を走りながら窓の外を眺めた。
会場がある駅から一つ前で、観覧車が見えた。駅のホームには水族館へは〇番出口、と書かれた看板がある。再び動き出した電車の中からは、観覧車の近くに派手な色合いをした大きな建物があった。
いよいよ会場の最寄り駅に到着すると、ゆいなは座席から立ち上がった。
改札を出るとセミの鳴き声に包まれる。あまりにもうるさくて全身が耳になったような気さえした。夏に入ってから毎日聴かされる大合唱にうんざりしながら、日傘を差す。
展示会の会場は陸の孤島のような場所にあった。何回、川だか海の上を走るのを眺めたことだろう。駅からさらに歩くようだ。”会場はあちら”と書かれた看板を持った人が何人も立っている。
ゆいなは前日に瀬津から渡された許可証をバッグから取り出し、首から提げた。
「弊社ではこのような商品を扱っております。販促品もおまかせください。弊社では専属のデザイナーがおります。商品のイメージにぴったりな販促品をご用意できます」
ゆいなは新商品のお菓子やお茶、コーヒー豆を手にしながら、立ち止まる人に積極的に声をかけた。時々試食も配る。
ここへやってくるのは飲食店を経営する人や問屋など。そういう知り合いから入場券をもらった一般の人もいる。
実はゆいなは、富橋支店にいた頃にも展示会に参加したことがある。その時は試食配り要員として重宝された。
しかし、今回はそれが難しかった。会場の規模も入場者数もまるで違う。手にしている試食やチラシがあっという間に無くなってしまう。
試食のお菓子の追加を取りにブースの中に入ろうとしたら声をかけられた。
「すみません」
「はい!」
様々なブースでの掛け声や入場者同士の話声で会場はざわついていた。その中でもよく響く野太い声だ。
ゆいなはスイッチが入ったのか喉がよく開き、いつも以上の笑顔を浮かべることができた。これはおそらく、最近カフェ部門で働かせてもらったおかげでもあるだろう。
振り向くとそこには、ニヤニヤとした表情のスーツ姿の男が立っていた。半袖のワイシャツは盛り上がった二の腕にぴっちりと張り付いている。精悍な顔つきの男は歯をニッと見せると片手を上げた。
「お疲れ様、中野さん」
「あーっ! 筋肉部長! 誰かと思ったじゃないですか」
接客モードに入りかけていたゆいなは、彼の横に並ぶと肩をたたいた。しかし筋肉の塊はビクともしない。
筋肉部長は騒がしい会場でも聞き取りやすい声でブースを指さした。
「どうだい、お客さんの方は」
「たくさんいらして驚いてます。ウチで立ち止まってくれる人も多いですよ」
彼はよしよしとうなずき、スーツ姿の男性に商品説明をしている瀬津のことを見た。
「瀬津君も張り切っていたからな。絶対に残業しない彼が残って作業していただろう」
「そうなんです! 誰よりも早く帰ろうとする課長なのに……真夏に雪が降るかと思いましたよ」
ゆいなの言葉に彼は、会場のざわめきを打ち消すような大声で笑った。すぐ隣にいたゆいなは鼓膜が破けたんじゃないかと震えた。周りを歩いていた人たちも驚いて足を止めかけていた。
「いやいや、本当にそうだよ。ところで西は?」
「休憩に行ってます」
「じゃあ西の顔も見てくるかな」
筋肉部長はゆいなにひらひらと手を振ると、出場者の休憩室へ向かった。闊歩する後ろ姿は誰よりもたくましい。
その後もコーベ支店の営業の社員たちが時々、ブースを訪れた。他の会社のブースを回ったり、名刺交換をしているらしい。
彼らは筋肉部長と同じように他人を装ってゆいなに話しかけた。そのたびにゆいなは引っかかるのだが、心の底で木野も来ないだろうかと期待していた。
お昼が過ぎ、試食やチラシが半分の量を過ぎた。
「瀬津さん、〇〇会社さんがお裾分けをくださいましたよ」
「え、ホントー? 何もらったのー?」
瀬津はチェーンのカフェの営業マンと話をしていた。その人を見送ったタイミングでゆいなは瀬津に声をかけた。
会場には巨大で強力なエアコンが効いているが、彼の熱意には負けているらしい。額にじんわりと汗を浮かべていた。
「ナポリタンです。お三方でどうぞって」
「おぉーうまそう!」
「CMでよく見るあの会社ですよ! 後ね、ウチのアーモンドプードルのクッキーが気になるから後でお話を聞かせてくださいって」
ゆいなはフードパックに入ったナポリタンを三つ差し出した。試食です、と渡されたがどう見ても試食の量じゃない。
この後、彼以外の会社からもお裾分けと称してお菓子などをもらった。
「オレンジのエプロンがお似合いの方でした」
これをくれたのはふくよかでメガネをかけた男性で、瀬津に負けないほど汗をかいていた。ゆいなからもよかったら、と試食のクッキーを差し出した。
その後に彼は再びゆいなの元を訪れ、彼女が瀬津に伝えたことを話した。
「ウチみたいに会社と同じ建物とかすぐ近くに、直営のカフェを作りたいんですって。そこで麺類のランチを提供するだけでなく、お茶とお菓子でティータイムを過ごせるようにしたいそうです」
「すごいなぁ。是非ともウチの商品を扱って頂きたいよ。僕から直接伺おうかな」
瀬津はブースの内側に置いてあるペットボトルを手に取ると、水を一気に飲み干した。
「中野さん、お昼も食べずに働いてくれてありがとね……! おかげで取引が何社も決まりそうだよ!」
「いえいえ。ていうか瀬津さんだって休憩してないじゃないですか」
「展示会ではこんなもんだから。でもこのナポリタン食べたい……」
そこで西がブースの中に戻ってきた。彼はチラシを配って入場者にブースを紹介していた。
「西もありがとう。使える筋肉だ」
「今日のためにちょっと仕上げてきたんで!」
「筋肉部長がいらしてからめっちゃ張り切ってますね」
「まぁな」
筋肉部長と同じような服装の西は得意げだった。
ここで瀬津が、ナポリタンのお礼を言ってくると言って外に出た。
西もブースの内側でナポリタンを吸い込むように食べると、再びチラシ配りに専念した。以前は筋肉部長の直属で働いていただけのことはある。声をかけられたら流れるような口ぶりで商品の説明をする。
中には西のいい体つきに惹かれて声をかける女性もいた。彼の説明を聞くと商品に惹かれ、発注単位や単価などを質問した。
ゆいなも負けてられない、とブースをのぞき込む人に試食を配りまわった。
おやつの時間を過ぎると、途端に入場者が減った。ゆいなたちのブースの前を通る人たちも少なくなった。
「中野さん。もっかい休憩に行っておいでよ」
ずっと話し続けていた瀬津の声もガラガラだ。西は相変わらず笑顔でチラシ配りを続けている。筋肉バカなだけあって体力はあるようだ。
「いいんですか?」
「うん。朝から動き回って大変だったろ? さっき休憩に行った時もすぐに戻ってきてくれたじゃん。今なら心おきなくゆっくりできるよ」
瀬津は試飲用のアイスティーを入れたプラスチックカップにフタをした。”ゆっくり飲んでおいでよ”と、見送られてゆいなはブースを離れた。
実は午前中ほど動き回ることがなくなったので、エアコンの風を冷たく感じていた。
冷えてしまった体を解凍するべく、あえて暑い外に出ることにした。
ほかのブースも訪れる人が少なくなり、ブース内で社員同士でゆっくりと話しているようだ。
ナポリタンをくれた会社の前を通ると、先ほどの男性が会釈をしてくれた。手元にはフライパン。彼自ら作ったナポリタンを振舞っていたようだ。ゆいなも会釈を返してほほえんだ。
外に出ると、朝は不快だった気温が今はちょうどいい。
壁に寄りかかると、まぶしい日差しに目を細めながらアイスティーを飲んだ。落ち着く味だ。実は会社に入社する前からこのアイスティーが好きで、よく飲んでいた。
ポケットに入れていたスマホを取り出すと時刻は16時近く。
今日は時間が過ぎるのがあっという間だ。今日までの準備は大変だったが、本番は思いのほか楽しかった。
体の冷えも取れたし、休憩室に行くことにした。瀬津の言う通り、座ってゆっくりしようと思った。
不意に煙草のにおいがした。近くに喫煙所でもあるのか、と顔を上げる。
「……ゆいな?」
濃い煙草のにおいと共に男の声がした。
こちらに来てからゆいなのことを呼び捨てに、どころか名前で呼ぶ男はいない。
ゆいなは人違いかと思ったが、反射で振り返ってしまった。
「やっぱりゆいなじゃん! なんでこんなとこにいるんだよ」
「……ッ!」
半袖にハーフパンツ。ラフな格好をした男がいた。彼はくわえ煙草で箱をポケットにしまい、駆け寄ってきた。
「ジュンヤ……」
横で煙草をふかし始めた男にゆいなは顔をしかめた。距離を取って日差しがある方を指さした。
「喫煙所はあっち」
「知ってるよ、冷てぇな。お前のこと見つけたから来てやったのに」
「来なくていい! あんた、よく平気な顔をして声をかけてきたね。このだァホ!」
「おーおー。すっかりこっちの人じゃん。いつの間にこっちにいたんだよ」
嫌がるそぶりを隠そうとしないゆいなに、ジュンヤは顔を寄せる。吐く息は白い。
「ジュンヤ~? なんでこっちにおるの?」
「お、サリナ。ユッコも」
彼と同じように煙草をふかした女が歩いてくる。帽子をかぶり、体の前に抱っこ紐で子どもを抱えている。子どもはぐっすり眠っているようだった。 ゆいなはアイスティーを胸の前で抱えて顔を背けた。
「ゆいな。こいつは嫁さんと子ども。サリナ、こいつは元カノのゆいな」
ジュンヤが親指でさし示す。サリナは半笑いで”あぁ”と声を上げた。
「お前、なんでここにいるんだ? 俺は嫁の実家が喫茶店で、将来継ぐために修行してんだ。今日はなんかいいもんがないか見てこいって言われてはるばるこっちまで走らせてきたんだよ」
ゆいなは無視するとキッと目を細めた。
ジュンヤはゆいなが高校生の終わりから大学生になりたての頃まで付き合っていた元カレ。それぞれ違う大学に入学したことで遠距離恋愛になり、浮気をされてあっさり終わってしまった。
今でこそこんなナリでマナーも悪いが、高校生の時は模範的で爽やかで明るかった。
月日というのは残酷だ。好青年が残念な大人に変わり果ててしまうのだから。
ジュンヤは煙草をふかしながらゆいなを目で見下ろした。
「こいつ、勉強ばっかで全然かまってくれなかったんだよ」
「ガリ勉ぽい~。真面目ちゃんって感じ」
「サリナだってそうじゃん。二人だった頃は俺のことしか目になかったのに、ユッコが生まれてからは子育てのことばっか勉強してるよな」
「だってママだもーん」
ジュンヤは文句を言っている割には嫁と手をつなぎ、眠っている子どもの頬を愛おしそうになでている。
ゆいなは眉の間を押さえた。しかめっ面を浮かべているせいで目頭が痛くなってきた。同時に頭も痛くなってくる。日差しのせいもあるだろう。
ジュンヤは顔色が悪くなってきたゆいなの顔をのぞきこむと、下卑た笑みを浮かべた。
「なぁゆいな。サリナが構ってくれない時に会ってくれよ」
「……はぁ?」
「あの時浮気した分を埋めてやるからさぁ」
「いるかボケェ!」
肩に腕を回されそうになり、腕をはらいのけた。
ジュンヤが肩をすくめる様子に罵声を浴びせようとしたら、隣に気配を感じた。それはまるで支えるように横に並んでくれたような。
あの時のようだった。小田の凶刃から救ってくれた────。
「中野さん。知り合い?」
聞きなれた優しく柔らかい声。
暑い日差しとロクでもない男から守るようにゆいなのことを包み込んだ。
「だ、だれ……」
「かっこよ……」
ジュンヤは震え、サリナは頬を染めている。どちらもゆいなの目線よりも高い位置に目を向けていた。
サリナのおなかの前で子どもが目を覚ましたようだ。寝ぼけ眼を小さな手でこすっている。
ゆいなの肩に大きな手が置かれ、彼女は横を見上げた。
「中野さんの上司の木野です。本日は展示会をご覧に?」
「あ、まぁ……そんなとこっス……」
木野だった。入場者パスを首から提げ、いつものほほえみを浮かべている。彼はゆいなに目を向けると首をかしげた。
「知り合い?」
驚きで声を上げられなかった。同時に安心感が胸に広がる。危うくアイスティーを取り落とすところだった。
「……同じ高校でした」
「あぁ、富橋にいた頃の。彼女、真面目でなんでもそつなくこなすんですよ。高校生の時からさぞ優秀だったでしょう」
「そっすね……」
木野に見下ろされたジュンヤは目が泳ぎ回っている。その横でサリナはずっと長身の男に見とれていた。
木野はゆっくりと背中を丸めて子どもと目を合わせる。小さな手をつつくと子どもは小さく声を上げた。木野の長い指を握り、うれしそうに笑った。その笑顔は寝顔よりさらに可愛らしかった。
「気遣いのできる子だ……ご両親のヤニ摂取タイムを邪魔しないなんて。でも、綺麗な肺を汚すもんじゃないよ」
子どもに語りかけているようだが、確実に親に向かって言葉の刃をチラつかせている。再び二人のことを見た時の目は笑っていなかった。
「では、我々はこれで。まだまだ仕事がありますので」
”ね?”と、笑いかけられ、ゆいなはその場から連れ出された。
「木野さん……ありがとうございました」
「全然。君の上司だって嘘ついちゃった。それにしても変なヤツだったね。中野ちゃんととても同い年には見えないよ」
「そうかもしれませんけど……結婚して親になってますよ?」
「あんなの子どもが子どもを育ててるだけだよ」
木野はいつもの穏やかな表情に戻っていた。
しかし、先ほどの夫婦のことを話す口調と声はとげとげしい。
何も言い返せなくなったゆいなの代わりに怒ってくれているようだった。
木野とゆいなは会場を出て駐車場に向かっていた。
あの後、木野は瀬津に電話をして『一緒に帰ろうか』と車の鍵を取り出して見せた。
『ずっと張り切って準備していたもんね。瀬津さんも早く帰って休んで、だって』
気を遣ってくれたのだと分かった。自分でも意気消沈した様子が顔に出ているのが分かる。鏡で見なくても分かるほど。
心が重く、けだるい。木野の歩く速度についていくのがやっとだった。
歩きながらジュンヤに言われたことを心の中で反芻していた。そんなことをしても落ち込みがひどくなるだけだと分かっているのに。
『こいつは勉強ばっかで全然かまってくれねぇんだよ』
『なぁゆいな。サリナが構ってくれない時に会ってくれよ。あの時浮気した分を埋めてやるからさぁ』
ダメ出しされ、バカにされた。
『俺は嫁の実家が喫茶店で、将来継ぐために修行してんだ。今日はなんかいいもんがないか見てこいって言われてはるばるこっちまで走らせてきたんだよ』
最低なヤツなのに約束された将来がある。ゆいなは地道に頑張って、今の充実した生活を手に入れたのに。
ジュンヤとサリナの下品な笑い声と言葉が頭の中でぐるぐると回る。そのせいでめまいがしてくるようだった。
次第に足取りが重くなり、足を鉛で固められたような気がした。
「……中野ちゃん?」
離れていきそうな木野の背中。行ってほしくなくて、無意識にシャツをつまんでいた。
ゆいなはうつむいたまま、顔を上げることができなかった。
引き留めた理由を聞かれたくない。でも何か答えなければ。
「……すみません…………」
ゆいなは口の中でつぶやくと、指をそっと離そうとした。
「中野ちゃん」
明るい声と共に木野に肩を抱かれた。
彼とくっついた部分が生んだ熱は気温よりも熱いのに、ホッとする心地よさがあった。
今度は恥ずかしさで顔を上げられない。落ち込んでおとなしくしていた心臓が、火をつけられたように暴れだす。夕方になっても生ぬるい風が涼しく感じた。
肩に回された腕に力がこめられる。
大きな手で前髪を梳かれ、ワックスでまとめた横髪を耳にかけられた。指先はゆいなの肌にふれないように、力を抜いてそっと。
思わず顔を上げると、ほほえんだ木野が太陽に照らされていた。
「木野さん……」
呼ばれた彼は糸目になると、駐車場の向こう側を指さした。
「今度、あそこの水族館に行こうか」
指の先を見つめたが何も見えない。しかし。その方向に水族館があるのを知っている。
ゆいなは戸惑いながらうなずいた。木野はうれしそうに”楽しみにしてる”と、彼女の頭をなでた。
会社の営業車に乗ると、木野に住所を聞かれた。家まで直接送ってくれるらしい。
自宅を知られるのが嫌だったら最寄り駅までにする、と言われたが首を振った。
助手席に座るといつの間にか眠ってしまっていた。途中で起きた時、目元はぬれていた。
「ここでいいかな」
「はい……ありがとうございました」
自宅であるマンションの前に着くと、たまたま庭先に出ていたあけこに会った。
「あ、ゆいな。おかえり。ん?」
彼女はゆいなが随分疲れた顔をしているのに驚いていたが、すぐに興味は木野に移った。
「どうも、こんにちは。木野と申します」
「きの……あ! あぁ! アシヤの兄ちゃんか!」
彼が自己紹介をしてゆいなの推しだと分かると、想像以上の男前だとはしゃいた。
ゆいなはいつもの出勤時間よりも早く家を出た。
向かったのはオーサカ。いつもと反対方向の電車に乗り、オーサカ駅で乗り換える。
さらに乗り換え、高い位置にある線路を走りながら窓の外を眺めた。
会場がある駅から一つ前で、観覧車が見えた。駅のホームには水族館へは〇番出口、と書かれた看板がある。再び動き出した電車の中からは、観覧車の近くに派手な色合いをした大きな建物があった。
いよいよ会場の最寄り駅に到着すると、ゆいなは座席から立ち上がった。
改札を出るとセミの鳴き声に包まれる。あまりにもうるさくて全身が耳になったような気さえした。夏に入ってから毎日聴かされる大合唱にうんざりしながら、日傘を差す。
展示会の会場は陸の孤島のような場所にあった。何回、川だか海の上を走るのを眺めたことだろう。駅からさらに歩くようだ。”会場はあちら”と書かれた看板を持った人が何人も立っている。
ゆいなは前日に瀬津から渡された許可証をバッグから取り出し、首から提げた。
「弊社ではこのような商品を扱っております。販促品もおまかせください。弊社では専属のデザイナーがおります。商品のイメージにぴったりな販促品をご用意できます」
ゆいなは新商品のお菓子やお茶、コーヒー豆を手にしながら、立ち止まる人に積極的に声をかけた。時々試食も配る。
ここへやってくるのは飲食店を経営する人や問屋など。そういう知り合いから入場券をもらった一般の人もいる。
実はゆいなは、富橋支店にいた頃にも展示会に参加したことがある。その時は試食配り要員として重宝された。
しかし、今回はそれが難しかった。会場の規模も入場者数もまるで違う。手にしている試食やチラシがあっという間に無くなってしまう。
試食のお菓子の追加を取りにブースの中に入ろうとしたら声をかけられた。
「すみません」
「はい!」
様々なブースでの掛け声や入場者同士の話声で会場はざわついていた。その中でもよく響く野太い声だ。
ゆいなはスイッチが入ったのか喉がよく開き、いつも以上の笑顔を浮かべることができた。これはおそらく、最近カフェ部門で働かせてもらったおかげでもあるだろう。
振り向くとそこには、ニヤニヤとした表情のスーツ姿の男が立っていた。半袖のワイシャツは盛り上がった二の腕にぴっちりと張り付いている。精悍な顔つきの男は歯をニッと見せると片手を上げた。
「お疲れ様、中野さん」
「あーっ! 筋肉部長! 誰かと思ったじゃないですか」
接客モードに入りかけていたゆいなは、彼の横に並ぶと肩をたたいた。しかし筋肉の塊はビクともしない。
筋肉部長は騒がしい会場でも聞き取りやすい声でブースを指さした。
「どうだい、お客さんの方は」
「たくさんいらして驚いてます。ウチで立ち止まってくれる人も多いですよ」
彼はよしよしとうなずき、スーツ姿の男性に商品説明をしている瀬津のことを見た。
「瀬津君も張り切っていたからな。絶対に残業しない彼が残って作業していただろう」
「そうなんです! 誰よりも早く帰ろうとする課長なのに……真夏に雪が降るかと思いましたよ」
ゆいなの言葉に彼は、会場のざわめきを打ち消すような大声で笑った。すぐ隣にいたゆいなは鼓膜が破けたんじゃないかと震えた。周りを歩いていた人たちも驚いて足を止めかけていた。
「いやいや、本当にそうだよ。ところで西は?」
「休憩に行ってます」
「じゃあ西の顔も見てくるかな」
筋肉部長はゆいなにひらひらと手を振ると、出場者の休憩室へ向かった。闊歩する後ろ姿は誰よりもたくましい。
その後もコーベ支店の営業の社員たちが時々、ブースを訪れた。他の会社のブースを回ったり、名刺交換をしているらしい。
彼らは筋肉部長と同じように他人を装ってゆいなに話しかけた。そのたびにゆいなは引っかかるのだが、心の底で木野も来ないだろうかと期待していた。
お昼が過ぎ、試食やチラシが半分の量を過ぎた。
「瀬津さん、〇〇会社さんがお裾分けをくださいましたよ」
「え、ホントー? 何もらったのー?」
瀬津はチェーンのカフェの営業マンと話をしていた。その人を見送ったタイミングでゆいなは瀬津に声をかけた。
会場には巨大で強力なエアコンが効いているが、彼の熱意には負けているらしい。額にじんわりと汗を浮かべていた。
「ナポリタンです。お三方でどうぞって」
「おぉーうまそう!」
「CMでよく見るあの会社ですよ! 後ね、ウチのアーモンドプードルのクッキーが気になるから後でお話を聞かせてくださいって」
ゆいなはフードパックに入ったナポリタンを三つ差し出した。試食です、と渡されたがどう見ても試食の量じゃない。
この後、彼以外の会社からもお裾分けと称してお菓子などをもらった。
「オレンジのエプロンがお似合いの方でした」
これをくれたのはふくよかでメガネをかけた男性で、瀬津に負けないほど汗をかいていた。ゆいなからもよかったら、と試食のクッキーを差し出した。
その後に彼は再びゆいなの元を訪れ、彼女が瀬津に伝えたことを話した。
「ウチみたいに会社と同じ建物とかすぐ近くに、直営のカフェを作りたいんですって。そこで麺類のランチを提供するだけでなく、お茶とお菓子でティータイムを過ごせるようにしたいそうです」
「すごいなぁ。是非ともウチの商品を扱って頂きたいよ。僕から直接伺おうかな」
瀬津はブースの内側に置いてあるペットボトルを手に取ると、水を一気に飲み干した。
「中野さん、お昼も食べずに働いてくれてありがとね……! おかげで取引が何社も決まりそうだよ!」
「いえいえ。ていうか瀬津さんだって休憩してないじゃないですか」
「展示会ではこんなもんだから。でもこのナポリタン食べたい……」
そこで西がブースの中に戻ってきた。彼はチラシを配って入場者にブースを紹介していた。
「西もありがとう。使える筋肉だ」
「今日のためにちょっと仕上げてきたんで!」
「筋肉部長がいらしてからめっちゃ張り切ってますね」
「まぁな」
筋肉部長と同じような服装の西は得意げだった。
ここで瀬津が、ナポリタンのお礼を言ってくると言って外に出た。
西もブースの内側でナポリタンを吸い込むように食べると、再びチラシ配りに専念した。以前は筋肉部長の直属で働いていただけのことはある。声をかけられたら流れるような口ぶりで商品の説明をする。
中には西のいい体つきに惹かれて声をかける女性もいた。彼の説明を聞くと商品に惹かれ、発注単位や単価などを質問した。
ゆいなも負けてられない、とブースをのぞき込む人に試食を配りまわった。
おやつの時間を過ぎると、途端に入場者が減った。ゆいなたちのブースの前を通る人たちも少なくなった。
「中野さん。もっかい休憩に行っておいでよ」
ずっと話し続けていた瀬津の声もガラガラだ。西は相変わらず笑顔でチラシ配りを続けている。筋肉バカなだけあって体力はあるようだ。
「いいんですか?」
「うん。朝から動き回って大変だったろ? さっき休憩に行った時もすぐに戻ってきてくれたじゃん。今なら心おきなくゆっくりできるよ」
瀬津は試飲用のアイスティーを入れたプラスチックカップにフタをした。”ゆっくり飲んでおいでよ”と、見送られてゆいなはブースを離れた。
実は午前中ほど動き回ることがなくなったので、エアコンの風を冷たく感じていた。
冷えてしまった体を解凍するべく、あえて暑い外に出ることにした。
ほかのブースも訪れる人が少なくなり、ブース内で社員同士でゆっくりと話しているようだ。
ナポリタンをくれた会社の前を通ると、先ほどの男性が会釈をしてくれた。手元にはフライパン。彼自ら作ったナポリタンを振舞っていたようだ。ゆいなも会釈を返してほほえんだ。
外に出ると、朝は不快だった気温が今はちょうどいい。
壁に寄りかかると、まぶしい日差しに目を細めながらアイスティーを飲んだ。落ち着く味だ。実は会社に入社する前からこのアイスティーが好きで、よく飲んでいた。
ポケットに入れていたスマホを取り出すと時刻は16時近く。
今日は時間が過ぎるのがあっという間だ。今日までの準備は大変だったが、本番は思いのほか楽しかった。
体の冷えも取れたし、休憩室に行くことにした。瀬津の言う通り、座ってゆっくりしようと思った。
不意に煙草のにおいがした。近くに喫煙所でもあるのか、と顔を上げる。
「……ゆいな?」
濃い煙草のにおいと共に男の声がした。
こちらに来てからゆいなのことを呼び捨てに、どころか名前で呼ぶ男はいない。
ゆいなは人違いかと思ったが、反射で振り返ってしまった。
「やっぱりゆいなじゃん! なんでこんなとこにいるんだよ」
「……ッ!」
半袖にハーフパンツ。ラフな格好をした男がいた。彼はくわえ煙草で箱をポケットにしまい、駆け寄ってきた。
「ジュンヤ……」
横で煙草をふかし始めた男にゆいなは顔をしかめた。距離を取って日差しがある方を指さした。
「喫煙所はあっち」
「知ってるよ、冷てぇな。お前のこと見つけたから来てやったのに」
「来なくていい! あんた、よく平気な顔をして声をかけてきたね。このだァホ!」
「おーおー。すっかりこっちの人じゃん。いつの間にこっちにいたんだよ」
嫌がるそぶりを隠そうとしないゆいなに、ジュンヤは顔を寄せる。吐く息は白い。
「ジュンヤ~? なんでこっちにおるの?」
「お、サリナ。ユッコも」
彼と同じように煙草をふかした女が歩いてくる。帽子をかぶり、体の前に抱っこ紐で子どもを抱えている。子どもはぐっすり眠っているようだった。 ゆいなはアイスティーを胸の前で抱えて顔を背けた。
「ゆいな。こいつは嫁さんと子ども。サリナ、こいつは元カノのゆいな」
ジュンヤが親指でさし示す。サリナは半笑いで”あぁ”と声を上げた。
「お前、なんでここにいるんだ? 俺は嫁の実家が喫茶店で、将来継ぐために修行してんだ。今日はなんかいいもんがないか見てこいって言われてはるばるこっちまで走らせてきたんだよ」
ゆいなは無視するとキッと目を細めた。
ジュンヤはゆいなが高校生の終わりから大学生になりたての頃まで付き合っていた元カレ。それぞれ違う大学に入学したことで遠距離恋愛になり、浮気をされてあっさり終わってしまった。
今でこそこんなナリでマナーも悪いが、高校生の時は模範的で爽やかで明るかった。
月日というのは残酷だ。好青年が残念な大人に変わり果ててしまうのだから。
ジュンヤは煙草をふかしながらゆいなを目で見下ろした。
「こいつ、勉強ばっかで全然かまってくれなかったんだよ」
「ガリ勉ぽい~。真面目ちゃんって感じ」
「サリナだってそうじゃん。二人だった頃は俺のことしか目になかったのに、ユッコが生まれてからは子育てのことばっか勉強してるよな」
「だってママだもーん」
ジュンヤは文句を言っている割には嫁と手をつなぎ、眠っている子どもの頬を愛おしそうになでている。
ゆいなは眉の間を押さえた。しかめっ面を浮かべているせいで目頭が痛くなってきた。同時に頭も痛くなってくる。日差しのせいもあるだろう。
ジュンヤは顔色が悪くなってきたゆいなの顔をのぞきこむと、下卑た笑みを浮かべた。
「なぁゆいな。サリナが構ってくれない時に会ってくれよ」
「……はぁ?」
「あの時浮気した分を埋めてやるからさぁ」
「いるかボケェ!」
肩に腕を回されそうになり、腕をはらいのけた。
ジュンヤが肩をすくめる様子に罵声を浴びせようとしたら、隣に気配を感じた。それはまるで支えるように横に並んでくれたような。
あの時のようだった。小田の凶刃から救ってくれた────。
「中野さん。知り合い?」
聞きなれた優しく柔らかい声。
暑い日差しとロクでもない男から守るようにゆいなのことを包み込んだ。
「だ、だれ……」
「かっこよ……」
ジュンヤは震え、サリナは頬を染めている。どちらもゆいなの目線よりも高い位置に目を向けていた。
サリナのおなかの前で子どもが目を覚ましたようだ。寝ぼけ眼を小さな手でこすっている。
ゆいなの肩に大きな手が置かれ、彼女は横を見上げた。
「中野さんの上司の木野です。本日は展示会をご覧に?」
「あ、まぁ……そんなとこっス……」
木野だった。入場者パスを首から提げ、いつものほほえみを浮かべている。彼はゆいなに目を向けると首をかしげた。
「知り合い?」
驚きで声を上げられなかった。同時に安心感が胸に広がる。危うくアイスティーを取り落とすところだった。
「……同じ高校でした」
「あぁ、富橋にいた頃の。彼女、真面目でなんでもそつなくこなすんですよ。高校生の時からさぞ優秀だったでしょう」
「そっすね……」
木野に見下ろされたジュンヤは目が泳ぎ回っている。その横でサリナはずっと長身の男に見とれていた。
木野はゆっくりと背中を丸めて子どもと目を合わせる。小さな手をつつくと子どもは小さく声を上げた。木野の長い指を握り、うれしそうに笑った。その笑顔は寝顔よりさらに可愛らしかった。
「気遣いのできる子だ……ご両親のヤニ摂取タイムを邪魔しないなんて。でも、綺麗な肺を汚すもんじゃないよ」
子どもに語りかけているようだが、確実に親に向かって言葉の刃をチラつかせている。再び二人のことを見た時の目は笑っていなかった。
「では、我々はこれで。まだまだ仕事がありますので」
”ね?”と、笑いかけられ、ゆいなはその場から連れ出された。
「木野さん……ありがとうございました」
「全然。君の上司だって嘘ついちゃった。それにしても変なヤツだったね。中野ちゃんととても同い年には見えないよ」
「そうかもしれませんけど……結婚して親になってますよ?」
「あんなの子どもが子どもを育ててるだけだよ」
木野はいつもの穏やかな表情に戻っていた。
しかし、先ほどの夫婦のことを話す口調と声はとげとげしい。
何も言い返せなくなったゆいなの代わりに怒ってくれているようだった。
木野とゆいなは会場を出て駐車場に向かっていた。
あの後、木野は瀬津に電話をして『一緒に帰ろうか』と車の鍵を取り出して見せた。
『ずっと張り切って準備していたもんね。瀬津さんも早く帰って休んで、だって』
気を遣ってくれたのだと分かった。自分でも意気消沈した様子が顔に出ているのが分かる。鏡で見なくても分かるほど。
心が重く、けだるい。木野の歩く速度についていくのがやっとだった。
歩きながらジュンヤに言われたことを心の中で反芻していた。そんなことをしても落ち込みがひどくなるだけだと分かっているのに。
『こいつは勉強ばっかで全然かまってくれねぇんだよ』
『なぁゆいな。サリナが構ってくれない時に会ってくれよ。あの時浮気した分を埋めてやるからさぁ』
ダメ出しされ、バカにされた。
『俺は嫁の実家が喫茶店で、将来継ぐために修行してんだ。今日はなんかいいもんがないか見てこいって言われてはるばるこっちまで走らせてきたんだよ』
最低なヤツなのに約束された将来がある。ゆいなは地道に頑張って、今の充実した生活を手に入れたのに。
ジュンヤとサリナの下品な笑い声と言葉が頭の中でぐるぐると回る。そのせいでめまいがしてくるようだった。
次第に足取りが重くなり、足を鉛で固められたような気がした。
「……中野ちゃん?」
離れていきそうな木野の背中。行ってほしくなくて、無意識にシャツをつまんでいた。
ゆいなはうつむいたまま、顔を上げることができなかった。
引き留めた理由を聞かれたくない。でも何か答えなければ。
「……すみません…………」
ゆいなは口の中でつぶやくと、指をそっと離そうとした。
「中野ちゃん」
明るい声と共に木野に肩を抱かれた。
彼とくっついた部分が生んだ熱は気温よりも熱いのに、ホッとする心地よさがあった。
今度は恥ずかしさで顔を上げられない。落ち込んでおとなしくしていた心臓が、火をつけられたように暴れだす。夕方になっても生ぬるい風が涼しく感じた。
肩に回された腕に力がこめられる。
大きな手で前髪を梳かれ、ワックスでまとめた横髪を耳にかけられた。指先はゆいなの肌にふれないように、力を抜いてそっと。
思わず顔を上げると、ほほえんだ木野が太陽に照らされていた。
「木野さん……」
呼ばれた彼は糸目になると、駐車場の向こう側を指さした。
「今度、あそこの水族館に行こうか」
指の先を見つめたが何も見えない。しかし。その方向に水族館があるのを知っている。
ゆいなは戸惑いながらうなずいた。木野はうれしそうに”楽しみにしてる”と、彼女の頭をなでた。
会社の営業車に乗ると、木野に住所を聞かれた。家まで直接送ってくれるらしい。
自宅を知られるのが嫌だったら最寄り駅までにする、と言われたが首を振った。
助手席に座るといつの間にか眠ってしまっていた。途中で起きた時、目元はぬれていた。
「ここでいいかな」
「はい……ありがとうございました」
自宅であるマンションの前に着くと、たまたま庭先に出ていたあけこに会った。
「あ、ゆいな。おかえり。ん?」
彼女はゆいなが随分疲れた顔をしているのに驚いていたが、すぐに興味は木野に移った。
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