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3章

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 翼は秋の雨が嫌いではない。

 色づき始めた木々をしっとり濡らし、物憂げな秋の匂いを濃くする。その切ない香りでノスタルジーになるのが好きだ。

 今日も秋雨の中で散歩をしようと家を出た。しかし、帰ってきたアヤトによって押し戻されてしまった。

 彼はおもむろにジャケットとネクタイをとると、二階へ上がった。

 なんだかいつもと様子が違う。翼は上着を脱いで彼の後を追った。

 自室で寝たかと思いきや、彼は翼の部屋のカーペットで寝ていた。

 彼を無理やり起こすのは忍びないが、風邪を引くかもしれない。悪魔なら人間の病気とは無縁だろうが。

 翼はそっとアヤトのそばに腰を下ろし、彼の背中を叩いた。

「自分の部屋で寝たら? 床じゃ体痛くなるわよ」

「んー……?」

「ぎゃあぁぁ────っ!!!!」

 寝ぼけているとは思えない力で腰に腕を回された。抵抗する間もなく引き寄せられ、翼は彼の腕の中におさまる形になった。

 まるで悪魔の罠にかかった愚かな人間だ。

「……君ってば本当に免疫が無いな。イケメンに抱きしめられたんだよ? 奇声じゃなくて可愛い声を上げてくれ」

 アヤトは先ほどまで寝こけていたとは思えないほど、ぱっちり目を開けている。声はガラガラだが、そのノイズがくすぐったい。

「自分でイケメンとか言うな……」

 彼は翼の髪を耳にかけると、艶を帯びた笑みを見せた。

「だって真実だから♡」

「コイツ……!」

 顔の良さは否定できない。むしろ良すぎるくらいだ。しかし自分で称賛するのは腹が立つ。

 翼はしかめっ面で彼の胸を押した。

「買い物に行ってくるから」

「え~……出かけるの?」

「今日は卵が安い日なの。早く行かなきゃ無くなっちゃう」

「それが買えなきゃ死ぬってことはないだろ」

「きゃっ!?」

 体を起こしたが、腕を強く引っ張られた。予想していなかった動きに反応できず、翼はアヤトの上に覆いかぶさってしまった。

 いつもより近い顔と顔。翼が罵倒することもできずドギマギしていると、アヤトが碧眼を細めた。背中に腕を回し、抱き寄せようとしている。その手には乗らないと、翼は彼の顔の横についた手で踏ん張った。

 アヤトは身を起こすと、彼女の耳に口を寄せて唇を薄く開いた。

「……俺が何千年も若さを保っていられる秘密が分かる?」

 耳にふれる彼の吐息がくすぐったい。翼は身をよじりながら首を振った。

「人間の女と交わるのさ」

 アヤトは翼の耳を柔らかく食むと、今度こそ彼女を抱きしめた。

「やめて……っ!」

 アヤトの胸板に手を置いたがビクともしない。彼の胸板は思っていたよりも厚い。

 このまま流れで彼に、悪魔に抱かれるのだろうか。抱きしめる腕の強さに熱い吐息がこぼれそうなのをこらえ、目をぎゅっと閉じた。

 それなりに人を好きになってきた。誰かと体を重ねたのは一度や二度のことではない。もしアヤトが服の中へ手を滑り入れても、強く拒絶できないかもしれない。

 身を縮みこませて震えていると、不意にアヤトが力をゆるめた。翼の頭にぽん、と手を置いて子どもに言い聞かせるような優しい声になった。

「……ごめん」

「え……?」

 顔を上げると、アヤトはきまり悪そうな顔で彼女の頭をなで始めた。

「なんで……」

「君が寂しそうに見えたから。慰められるんなら関係を変えてしまおうかと思ったんだ」

 アヤトは翼の目元を人差し指でぬぐい、尚も頭をなで続ける。

 されるがまま彼の胸の中で丸まり、窓を打ち付ける雨の音をぼんやりと聴いていた。










「うぅっ……。う~ん……」

「二村さん起きたぁ~?」

 目を開けると、クリーム色のカーテンが目に飛び込んできた。ベッドの上でうめき声を上げると、様子を伺うようにカーテンが開けられた。

 現れたのは、一見キツそうな印象の眼鏡をかけた女性。白衣にパンツスーツを合わせた姿はかっこよく、結いあげた髪は凛とした彼女によく似合っている。

「女王……?」

 女王というのは通称で、彼女は翼の高校の養護教諭だ。

「あれ……理科の授業……」

「廊下で倒れたのよ。体調よくなかったんでしょ?」

「はい……」

 体が重くてだるい。起き上がりたくない。翼はかすれた声でうなずいた。

 今朝からずっとそうで、授業中にめまいがひどくなったので保健室に行こうと思ったのだ。しかし、廊下に出た記憶はない。それほどまでに悪化してたらしい。

「ユメ先生が運んできた時はびっくりしたわよ。頭が痛いとか、どっか変なところはない?」

「ユメ先生……」

 子ども園にありそうな先生のニックネーム。翼は口の中でつぶやき、口元に力を入れた。

 ”ユメ先生”というのは翼が恋心を抱いている教師だ。

 ぼんやりしているが、どこも痛がっている様子のない翼に安心したらしい。女王はほほえんだ。

「二村さ~ん……大丈夫?」

「ちょっとノック!」

 ガラガラという引き戸の音と共に現れたのは優男。ヒョロっとしており、女王のしかめっ面に小さく悲鳴を上げた。

 彼は眉尻を下げて引き戸の影に隠れた。

「ふぁっ! すみません。つい……」

「自分んじゃないでしょーがここは」

 ワイシャツに白衣をまとった男性教師は、遠慮がちに保健室に足を踏み入れた。

 天然パーマに丸メガネ。閉じた目の端に涙を浮かべている。

紅林くればやし先生怖いです……」

「弱っちぃわね……。さっき二村さんをお姫様抱っこした力はどこから出て来たのかしら」

「ユメ先生が……」

 ユメ先生こと夢原ゆめはら。彼は翼のクラスの理科担当の教師だ。

(お姫様抱っこ!?)

 聞き捨てならない単語が聞こえ、翼は布団の中の手を握った。力強く握ったせいか震えてくる。

 気絶していたせいで記憶が無いのが惜しい。もしかしたら重かったのではないか……と、恥ずかしくなってきた。

 それにしても女王こと紅林の言う通り、彼にそんな力があるなんて意外だった。

 身長はあるものの、棒のように細くて風でどこかへ飛ばされそうな見た目。だが、よく見ると肩幅が広い。

 ワイシャツを脱いだら端正な筋肉質の肉体が現れたりして……と翼は一人妄想し、ベッドの上で赤面した。

 その様子に気づいたのか、紅林は体をかがめて翼のベッドに寄った。

「あら。二村さん、熱ある? 顔が赤いわね」

「本当だ……。突然倒れたくらいだから今日は帰った方がいいよ」

「だ……大丈夫ですから! なんにもないです……」

 夢原もベッドの端に手をつき、顔をのぞきこんでいた。手を伸ばせば、ふわふわとした彼の髪にふれられる距離だ。

 翼はこれ以上は見られまいと顔をそらし、掛け布団の端を掴んだ。

(もっと他のコみたいに積極的だったらよかったのに……)

 他の女子だったら可愛く反応できるだろう。残念ながら翼は好きな人を前にすると、ロボットのようにぎこちない動きでひきつった表情しか浮かべなくなる。そして帰ってから後悔する。あの時あぁしていればよかった、こう返せばよかったのに……と。

 きっと今夜も、布団の中で浮かない表情をして眠りにつくことになるだろう。
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