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6章

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 未遂だったり事故だったり。

 こうして本気で抱きしめられたのは初めてだった。

「香椎さん……?」

「チナがおとなしくしてるのは珍しいな。ずっと辛かったんだろ、よしよし」

 岳はポンポンと千波の頭をなでる。

 異性にこんなことをされるのは初めてだった。

 抱きしめられ、優しくされたせいか千波の瞳から涙がこぼれた。雫はあっという間に頬を伝っていく。

 あ、でも。

 千波はやんわりと突き放そうとした。

「ファンデ、スーツにつくかも……」

「いいよ。ファンデーションでも鼻水でもつけていいからとりあえず泣け。泣きそうで泣かないの、見てるこっちが辛いわ」

 鼻水はさすがにつけんわ……とツッコミたかっが、涙がボロボロとこぼれる方が早かった。

 千波が初めて会社で泣いた瞬間だった。しかも人前で。

 自分がもし、会社で泣くなら陰でひっそりと、だと思っていた。みじめな気持ちで。

 誰かに泣きつくのは久しぶりだった。ななとゆき相手にでさえ、こんな風に泣いたことはなかった。

 さすがに声は上げなかったが、肩が震える。知らず内に岳のスーツを握りしめていた。

 それに気づいて手を離すと岳は千波の頭を片手で引き寄せ、彼女の耳元でささやいた。

「……俺のことしか考えられなくなった?」

 ……。

 千波は無言で首を振る。

「今ので恋に堕ちる所じゃね!?」

「……バカ」

 千波はゆっくり離れ、岳に背中を向けてティッシュで目元を軽く押さえた。

 岳はふぅ、と息をついてポケットに手を突っ込んで近くのデスクにもたれかけた。

「俺ならチナにあんな思いさせないよ?」

 不覚にも動きが止まってしまった。振り返ろうとしたら岳がいつの間にか真後ろに来て、千波の肩にあごを乗せる。

 彼女は驚きで声も上げることができなかった。

 とりあえずティッシュを丸め、ゴミ箱に投げ捨てた。バッグを引っ掴んで彼の横を走り去る。

「……お先に失礼します!」

「あたっ」

 千波は逃げるように岳から離れ、荷物を引っつかんで出入り口へ走った。

「チナ」

 部屋を出る直前に呼ばれ、肩をビクつかせて振り向いた。

「気を付けて帰れよ」

 岳は片手を上げてひらひらとさせている。

 優しい表情。それには見覚えが。つい最近も見た────

 千波は勢いよく頭を下げて部屋から走り去り、会社を出る直前で立ち止まった。

 近くの壁にもたれ、ずるずると座り込む。

(ずるいよあんなの……)

 最後に見た岳の表情。

 それは、空人が恋人に向けていたものと全く同じだった。

(あたし彼女じゃないのに……)

 それでも。あの表情を浮かべていた理由ならわかる。岳がいつも言ってることだから。

 岳の千波への"好き"は本気だ。

 自分がいつも受け入れようとしなかっただけ。

 それでも。さっき気づいてしまった。

 帰り際の岳の姿を見て。

(あぁ……好き。やっぱ好きだよ……。いつの間にこんなんなっちゃったんだろ…)

 とうとう自覚した思い。

 きっかけは空人のことが大きいだろうが、他にもないわけではない。

 ななとゆきの太鼓判、同じレイヤーの黒鷹────黒瀬貴義のレイヤー同士の結婚の話、千秋や横溝からの合コンの誘い、大草との会話。

 最近は何かと恋愛とは、結婚とは、と考えさせられる機会が多かった。

 今回のはしばらくの影響だろうか。

 いや────

 本当は以前から持っていた感情だ。とうとう爆発してしまっただけ。





 岳は一人、取り残されるように千波に振り切られた。

(あちゃー……。刺激が強かったか?)

 頭をかいて千波が消えた方向を見つめていたが、コートを腕にかけてバッグを持ち、やがて彼も部屋を出た。

 ただし、向かったのは会社の出入り口ではない。

 コツンコツン、と廊下に革靴のヒールの音が響く。

 階段を上がって向かったのは、社長室の隣にある部屋。彼はスーツの内ポケットから黒いカードを取り出し、ドアの横にあるカードリーダーに当てた。

 五秒ほどカウントする電子音が響き、鳴り終わると同時にドアからロックが外れるカチャッという音がした。

 岳は黒いカードを内ポケットに戻して、ドアノブに手をかけ────

「しゃ……社長!?」

「一足遅かったね、香椎君」

 いくつものモニターが壁に並んでいる部屋。

 その中央でノートパソコンを開いている男────社長は、部屋の入り口でドアを開ける格好でかたまっている岳のことを見て、不敵に笑った。
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