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コウの目の前にあるのは三曲分の歌詞カード、光沢のある青いジャケットとベストとスラックス。まるで演歌歌手の衣装だ。彼はチェックのネクタイを手に取ると半目になった。
「……今年もか」
「今年もだよ。つーか毎年だよ」
隣では神崎が涼しい顔で楽譜に目を通している。”今年のは覚えやすそうだな”とつぶやいた。
長いタメの後、コウはため息をついた。神崎は他人事のようにケラケラと笑っている。他の教師も二人のような反応だったり、やけにはしゃいだりしてデスクの上を見つめている。
来月は藍栄高校の文化祭。その中に恒例行事がある。教師たちで何人かのグループを組み、バンド演奏だったりダンスや歌を披露するのだ。振り分けているのは緒方や校長たち。
コウは神崎と同じグループでバンド組になった。三年連続同じ現象が起きている。楽器経験のないコウは必然的にボーカル。神崎はベース担当だ。
「これでも高校ん時にバンド組んでたんだよ」
「へ~すごいね。俺も何かやればよかったな」
「コウちゃんはボーカルがいいって。コウちゃんが出てきた時の歓声、毎年すげーもん」
この学校での文化祭は三度目。一年目にステージに上がった時、地響きが起きたのかと辺りを見渡してしまったことがある。
ステージの縁にまで生徒が押し寄せた姿はまるでフェスだった。
「カオちゃんも来るといいな。来たら花束投げとけ」
「何その痛い行動」
それから約一ヵ月。生徒たちも文化祭の準備で忙しい中、教師たちもステージ発表の練習をひそかに重ねた。
文化祭当日。
平日開催なのは他校で行うような一般公開はしないからだ。特別に参加できるのは生徒の家族のみ。昔、他校の生徒とぶつかって乱闘騒ぎが起きたことがあるらしい。
午前中、薫子は中庭にいた。ここでは三年生による模擬店が行われている。どの店も呼び込みや発電機の音で賑やかだ。
彼女のクラスはたこ焼き屋。味はスタンダードなソースとしょうゆのみだが、絶対に焼き立てしか出さないというコンセプトで長い列ができている。
今日の薫子は制服のスカートにクリーム色のパーカーを合わせていた。パーカーにはたこ焼きのイラストが描かれ、同じテントの下にいる者全員がそれを着用している。
「ソースとしょうゆ、一パックずつで400円になります」
薫子は会計を任されていた。しっかりしてそうだから、と推薦されたのだ。
ミツヤはたこ焼きをひたすら焼き、アンはパックに詰めたたこ焼きにソースやしょうゆをかけてかつおぶしをふりかける係だ。他にも校内を練り歩いて宣伝したり、家庭科室で生地を作ったり、それを中庭に届けたり、たこ焼きを箸と一緒に渡す係もいる。
「薫子ちゃん来たよー!」
「やっほー薫子」
模擬店には他のクラスの友だちや同じ部活の仲間、授業を教えに来ている教師たちが買いに来てくれた。薫子はその度に笑顔を浮かべ、接客の緊張をほぐしていった。
「ありがとう」
「おまけは? 友だち割引でもいいよ」
財布を取り出す友人に、薫子はくすっと笑ってカゴを差し出した。
「アメちゃんどうぞ」
誰かが発言した”たこ焼きのおまけにアメちゃんあげようよ!”が採用され、会計時に渡すことになったのだ。カゴの中にはフルーツキャンディーが大量に入っている。これには小さな子どもが特に喜んでくれた。
コウも来るだろうか。時々中庭を見渡したが姿を現すことはなかった。教師は教師で文化祭でも仕事があるのかもしれない。
それでも期待が拭えず、他のクラスの模擬店から”先生買ってってよ!”と聞こえる度に顔を上げてしまった。
たくさんの客をさばいていたらあっという間に午後。薫子は係から解放され、一人で校内をフラついていた。アンもミツヤは部活や委員会の仕事があり、少しの間しか一緒に行動できなかった。
とりあえず模擬店で焼きおにぎりとフルーツあめを買って食べ、部活の作品展示や発表を見て回った。途中で隣のクラスの友だちに会い、グループに混ぜてもらってお化け屋敷に入ったりもした。
今年で最後の文化祭。薫子は来年から会社員なので人生最後でもある。
いつかこの景色を懐かしく思う時が来るだろうか。薫子の歩調は自然と亀のようになり、あちこちに貼られた文化祭のポスターやはしゃぐ生徒たちの姿を目に焼き付けた。耳には流行りの曲が入ってくる。
「あ、やば。もうこんな時間?」
「あたしも行かなきゃ。この後ステージで踊り狂ってくる!」
「頑張ってね」
一緒に歩いていた友だちと解散して講堂前にやってきた。ここは日当たりがよく、保護者たちが集まって談笑していた。講堂ではステージ発表が行われているので音楽や歓声が漏れ聴こえる。
二階からは中庭の様子がよく見える。窓際に立つと、テントの前で集まって自撮りをしているクラスが見えた。教師も混ざっている。
今日は日中のスマホ使用を許可されているので、何かある度にスマホを掲げる生徒が多い。薫子もパーカーを着た時にアンとミツヤと写真を撮った。
(……先生と写真、撮れたらな……)
薫子はパーカーのポケットに入れたスマホを握りしめた。
今日は一度もコウとすれ違っていない。会えたところで一緒に写真を撮りたい、なんて言える勇気を出せるかも分からない。
今年も教師のステージ発表を遠くから見つめ、コウの姿を目で追うことしかできなさそうだ。薫子は一年生の時からこれを観て文化祭のフィナーレを迎えている。
今年のコウはどんな姿で現れるのだろう。去年は白いスーツをまとい、細身の体型も相まって某お笑い芸人が思い浮かんでしまったがかっこよかった。
「カオちゃーん」
早めに講堂に入ろうとしたら、後ろから呼び止める声がした。
願いが通じたのかと思った。振り向くとコウが笑顔で手を振りながら駆け寄ってきた。その笑顔はいつもより無邪気だ。
「先生……! 今日はジャージなんですね?」
「うん。まぁちょっとね」
コウは大きめの黒いジャージを羽織っていた。細身の彼にはぶかぶかだ。スラックスは真っ青で、いかにもなステージ衣装というべきか。
薫子の視線に気づいたのか、コウはジャージの裾を引っ張った。
「さっきまで神崎君と一緒にいたんだけどバンドの準備に駆り出されちゃったんだよ」
「神崎先生、毎年ベース弾いてますもんね」
「カオちゃんは? 一人なの?」
「アンもミツヤも係の仕事で忙しくて。さっきまで他のクラスの友だちといたんですけど、そのコもステージに上がるって行っちゃいました」
「そっか。これからどうするの?」
「ん……。ステージ発表を観に来ました。先生も出ますよね」
こんなことを言ったら彼目当てであることを悟られてしまいそうだ。薫子はつい食い気味になった気持ちを落ち着かせ、再び窓の外を見つめた。
カップルで歩いている生徒を見つけた。周りから冷やかされているようだが、本人たちは動じずにぴったりとくっついている。笑いあった顔は誰よりも幸せそうだ。
「まぁね……。もうすぐ歌わされるわ……」
コウは薫子の隣に並んだ。苦笑いで頭をかく。
人でごった返し始めた講堂前。教師のステージ目当てで生徒たちが集まってきたのだろう。隣にいるコウに向かって黄色い声を上げる女子生徒も現れてきた。
それまでは通常の声量で会話を交わせたが、次第に周りからの声が大きくなってきた。
「この後、楽しみにしてます。……コレを見なきゃ文化祭を終われないから」
普段だったら言えないようなことを口にしていた。この際言ってしまえ、という気持ちを拭えなくて。
後悔は生まれなかったが、顔がカァッと熱を帯びた。模擬店で焼き台の前に立った時よりも熱いし、ゆでだこより赤くなっている自信がある。
まごついている薫子に、コウはきょとんとした顔で”え? 何?”と身をかがめた。
突然の急接近に心臓がうるさくなる。薫子はコウの耳元で先ほどの言葉を口にした。後半部分は省略して。
”歌わされる”と言っていた割にはノリノリでステージに上がってきたコウ。いつの間にか青いスリーピースに変わっている。ジャージの下にずっと着こんでいたのだろう。
(かっこい……)
「コウちゃーん!!」
コウの登場に女子たちが色めきたった。歓声は黄色を通り越して金色な気がする。さすがはこの学校で一番モテる男性教師だ。
薫子はステージ前の観客のかたまりに混ざって見上げていた。最後の年くらい、ぎゅうぎゅうにもまれながら楽しむのもありだと思った。
周りには学年も性別もバラバラの生徒たち。中には様々な形のペンライトやサイリウムを振っている者もいて、さながらコンサートのようだった。
マイクを握った教師たちはバンドの演奏に合わせて歌っている。三人で歌っていることと大歓声で、残念ながらコウの歌声を聴き分けることはできなかった。
そんな彼はファンサを欠かさなかった。時折、客席に向かって手を振る。その度に歓声で講堂が揺れる錯覚に陥った。
(コウちゃん……先生)
そっと手を振り返したらコウと目が合った気がした。その瞬間に神崎の指笛が空気を切り裂いた。
見上げたコウの横顔はいつも以上に綺麗で、それだけでもいい収穫だと思えた。勝手にスマホを向けるのははばかれるので、彼の姿を心に焼き付けた。
途中、日本史の教師が生徒によってステージからひきずり下ろされ、一緒に観客になっていた。それを見て教師も生徒も笑っていた。もちろんコウも。スポットライトに照らされた明るい笑顔は、見たことない少年時代の彼を彷彿とさせた。
ステージ発表が終わると文化祭はお開きだ。教室に戻るよう、校内放送が流れている。
薫子も人の波に紛れて教室に戻ろうとした。が、突然後ろから押されてつんのめってしまった。
「わっ!?」
「ごめんなさい!」
後ろから謝る声が聞こえた。しかし、それに答えることはできなかった。急に手を引かれて講堂へ引き戻されたからだ。
「大丈夫?」
コウだ。薫子が転びそうになったのを救ってくれたらしい。彼はジャケットを脱いで手に持っていた。
「ありがとうございます……」
掴まれた手から彼の体温が伝わってくる。心臓がどくんと跳ねると、コウが慌てて離した。
「とは言え他にやり方あったよね、ごめん」
きまり悪そうな彼に弁解したい。首を振ろうとしたら再び指笛が響いた。がらんとした講堂に勢いよく響く。
「神崎君!」
「すまん、口が滑っただけだ」
神崎がゆっくりと歩いてきた。片頬を上げた彼はいつものスーツ姿でギターケースを背負い、首には一眼レフを提げていた。
「壱善さん、急で悪いんだが……。広報用にコウちゃんとの写真を撮らせてもらってもいいか」
「私、ですか?」
願ってもないチャンスがきた。
高校のパンフレットやアルバム、ホームページ用に写真を撮影しているところは見たことはあるが、こうしてわざわざ声をかけられたことはない。
彼はカメラのキャップを外し、電源を入れながら首をかしげた。
「外部向けに先生と生徒との写真がほしいわけよ。でもちょうど皆帰っちゃっただろ? 顔は隠すし、よかったら頼まれてくれないか」
「いいですよ。……ちなみに私のスマホでも撮ってもらっていいですか」
「「え??」」
二人にとって意外過ぎる言葉だっただろうか。教師二人は素っ頓狂な声を上げ、顔を見合わせた。そして神崎は見たことないとびきりの笑顔を浮かべた。
「お安い御用だ! 何枚でも撮ってやるよ!」
彼は”おら並んだ並んだ”とレンズを支え、手を振って二人を寄せた。
薫子はおずおずとコウに近づき、ぎこちなくピースをする。コウはジャケットを羽織ると、わずかにかがんで彼女と同じポーズを撮った。静かになった講堂にシャッターを切る音が響く。
「……俺でいいの? 中井先生とかじゃなくて」
フラッシュを浴びながらコウが口を開く。薫子が横を向くと神崎が、”ここは冗談でも俺の名前挙げろよ”と半目になった。
「小野寺先生との写真、記念に欲しいです」
コウが目を見開いた。その反応に全身から汗が吹き出す。
もしかしたらコウは嫌かもしれない、というのを少しも疑ってなかった。他の生徒より親しいかもしれない、というのは自分の思い違いかもしれないのに。
「おーい、そろそろ教室に戻りなさいよ」
「大先生!? すみません!」
彼の返事が怖くて前言撤回しようとしたら、緒方の声がステージから聞こえた。いつの間に現れたのだろう。三人同時に肩を跳ね上げた。神崎は勢いでシャッターを切ってしまったようだ。
「カオちゃんスマホ! はよ」
神崎にそう呼ばれたのは初めてだ。まるで以前から呼び慣れているような口ぶりだった。
それについて深く考えることはせず、言われるがままパーカーのポケットの手を突っ込んだ。
「コウちゃん……」
「ありがとう、神崎君」
「あ? 広報ってのは本当だからな? それよりもさぁ……」
文化祭が終わり、それに伴う片付けや掃除も完了。いつもより遅くに帰路についたコウと神崎は、真っ暗な道を歩いていた。
「カオちゃん脈ありじゃねぇか?」
「俺もちょっと期待しちゃったんだけど……」
薫子の方から写真を撮りたいなんて言われる日が来るとは思わなかった。
あわよくばコウもその写真がほしいところだが、その辺りの線引きはきっちりしなければいけない。
しかしその日は、好きな人と急接近したと浮かれる男子高校生のような気分で眠りについた。
「……今年もか」
「今年もだよ。つーか毎年だよ」
隣では神崎が涼しい顔で楽譜に目を通している。”今年のは覚えやすそうだな”とつぶやいた。
長いタメの後、コウはため息をついた。神崎は他人事のようにケラケラと笑っている。他の教師も二人のような反応だったり、やけにはしゃいだりしてデスクの上を見つめている。
来月は藍栄高校の文化祭。その中に恒例行事がある。教師たちで何人かのグループを組み、バンド演奏だったりダンスや歌を披露するのだ。振り分けているのは緒方や校長たち。
コウは神崎と同じグループでバンド組になった。三年連続同じ現象が起きている。楽器経験のないコウは必然的にボーカル。神崎はベース担当だ。
「これでも高校ん時にバンド組んでたんだよ」
「へ~すごいね。俺も何かやればよかったな」
「コウちゃんはボーカルがいいって。コウちゃんが出てきた時の歓声、毎年すげーもん」
この学校での文化祭は三度目。一年目にステージに上がった時、地響きが起きたのかと辺りを見渡してしまったことがある。
ステージの縁にまで生徒が押し寄せた姿はまるでフェスだった。
「カオちゃんも来るといいな。来たら花束投げとけ」
「何その痛い行動」
それから約一ヵ月。生徒たちも文化祭の準備で忙しい中、教師たちもステージ発表の練習をひそかに重ねた。
文化祭当日。
平日開催なのは他校で行うような一般公開はしないからだ。特別に参加できるのは生徒の家族のみ。昔、他校の生徒とぶつかって乱闘騒ぎが起きたことがあるらしい。
午前中、薫子は中庭にいた。ここでは三年生による模擬店が行われている。どの店も呼び込みや発電機の音で賑やかだ。
彼女のクラスはたこ焼き屋。味はスタンダードなソースとしょうゆのみだが、絶対に焼き立てしか出さないというコンセプトで長い列ができている。
今日の薫子は制服のスカートにクリーム色のパーカーを合わせていた。パーカーにはたこ焼きのイラストが描かれ、同じテントの下にいる者全員がそれを着用している。
「ソースとしょうゆ、一パックずつで400円になります」
薫子は会計を任されていた。しっかりしてそうだから、と推薦されたのだ。
ミツヤはたこ焼きをひたすら焼き、アンはパックに詰めたたこ焼きにソースやしょうゆをかけてかつおぶしをふりかける係だ。他にも校内を練り歩いて宣伝したり、家庭科室で生地を作ったり、それを中庭に届けたり、たこ焼きを箸と一緒に渡す係もいる。
「薫子ちゃん来たよー!」
「やっほー薫子」
模擬店には他のクラスの友だちや同じ部活の仲間、授業を教えに来ている教師たちが買いに来てくれた。薫子はその度に笑顔を浮かべ、接客の緊張をほぐしていった。
「ありがとう」
「おまけは? 友だち割引でもいいよ」
財布を取り出す友人に、薫子はくすっと笑ってカゴを差し出した。
「アメちゃんどうぞ」
誰かが発言した”たこ焼きのおまけにアメちゃんあげようよ!”が採用され、会計時に渡すことになったのだ。カゴの中にはフルーツキャンディーが大量に入っている。これには小さな子どもが特に喜んでくれた。
コウも来るだろうか。時々中庭を見渡したが姿を現すことはなかった。教師は教師で文化祭でも仕事があるのかもしれない。
それでも期待が拭えず、他のクラスの模擬店から”先生買ってってよ!”と聞こえる度に顔を上げてしまった。
たくさんの客をさばいていたらあっという間に午後。薫子は係から解放され、一人で校内をフラついていた。アンもミツヤは部活や委員会の仕事があり、少しの間しか一緒に行動できなかった。
とりあえず模擬店で焼きおにぎりとフルーツあめを買って食べ、部活の作品展示や発表を見て回った。途中で隣のクラスの友だちに会い、グループに混ぜてもらってお化け屋敷に入ったりもした。
今年で最後の文化祭。薫子は来年から会社員なので人生最後でもある。
いつかこの景色を懐かしく思う時が来るだろうか。薫子の歩調は自然と亀のようになり、あちこちに貼られた文化祭のポスターやはしゃぐ生徒たちの姿を目に焼き付けた。耳には流行りの曲が入ってくる。
「あ、やば。もうこんな時間?」
「あたしも行かなきゃ。この後ステージで踊り狂ってくる!」
「頑張ってね」
一緒に歩いていた友だちと解散して講堂前にやってきた。ここは日当たりがよく、保護者たちが集まって談笑していた。講堂ではステージ発表が行われているので音楽や歓声が漏れ聴こえる。
二階からは中庭の様子がよく見える。窓際に立つと、テントの前で集まって自撮りをしているクラスが見えた。教師も混ざっている。
今日は日中のスマホ使用を許可されているので、何かある度にスマホを掲げる生徒が多い。薫子もパーカーを着た時にアンとミツヤと写真を撮った。
(……先生と写真、撮れたらな……)
薫子はパーカーのポケットに入れたスマホを握りしめた。
今日は一度もコウとすれ違っていない。会えたところで一緒に写真を撮りたい、なんて言える勇気を出せるかも分からない。
今年も教師のステージ発表を遠くから見つめ、コウの姿を目で追うことしかできなさそうだ。薫子は一年生の時からこれを観て文化祭のフィナーレを迎えている。
今年のコウはどんな姿で現れるのだろう。去年は白いスーツをまとい、細身の体型も相まって某お笑い芸人が思い浮かんでしまったがかっこよかった。
「カオちゃーん」
早めに講堂に入ろうとしたら、後ろから呼び止める声がした。
願いが通じたのかと思った。振り向くとコウが笑顔で手を振りながら駆け寄ってきた。その笑顔はいつもより無邪気だ。
「先生……! 今日はジャージなんですね?」
「うん。まぁちょっとね」
コウは大きめの黒いジャージを羽織っていた。細身の彼にはぶかぶかだ。スラックスは真っ青で、いかにもなステージ衣装というべきか。
薫子の視線に気づいたのか、コウはジャージの裾を引っ張った。
「さっきまで神崎君と一緒にいたんだけどバンドの準備に駆り出されちゃったんだよ」
「神崎先生、毎年ベース弾いてますもんね」
「カオちゃんは? 一人なの?」
「アンもミツヤも係の仕事で忙しくて。さっきまで他のクラスの友だちといたんですけど、そのコもステージに上がるって行っちゃいました」
「そっか。これからどうするの?」
「ん……。ステージ発表を観に来ました。先生も出ますよね」
こんなことを言ったら彼目当てであることを悟られてしまいそうだ。薫子はつい食い気味になった気持ちを落ち着かせ、再び窓の外を見つめた。
カップルで歩いている生徒を見つけた。周りから冷やかされているようだが、本人たちは動じずにぴったりとくっついている。笑いあった顔は誰よりも幸せそうだ。
「まぁね……。もうすぐ歌わされるわ……」
コウは薫子の隣に並んだ。苦笑いで頭をかく。
人でごった返し始めた講堂前。教師のステージ目当てで生徒たちが集まってきたのだろう。隣にいるコウに向かって黄色い声を上げる女子生徒も現れてきた。
それまでは通常の声量で会話を交わせたが、次第に周りからの声が大きくなってきた。
「この後、楽しみにしてます。……コレを見なきゃ文化祭を終われないから」
普段だったら言えないようなことを口にしていた。この際言ってしまえ、という気持ちを拭えなくて。
後悔は生まれなかったが、顔がカァッと熱を帯びた。模擬店で焼き台の前に立った時よりも熱いし、ゆでだこより赤くなっている自信がある。
まごついている薫子に、コウはきょとんとした顔で”え? 何?”と身をかがめた。
突然の急接近に心臓がうるさくなる。薫子はコウの耳元で先ほどの言葉を口にした。後半部分は省略して。
”歌わされる”と言っていた割にはノリノリでステージに上がってきたコウ。いつの間にか青いスリーピースに変わっている。ジャージの下にずっと着こんでいたのだろう。
(かっこい……)
「コウちゃーん!!」
コウの登場に女子たちが色めきたった。歓声は黄色を通り越して金色な気がする。さすがはこの学校で一番モテる男性教師だ。
薫子はステージ前の観客のかたまりに混ざって見上げていた。最後の年くらい、ぎゅうぎゅうにもまれながら楽しむのもありだと思った。
周りには学年も性別もバラバラの生徒たち。中には様々な形のペンライトやサイリウムを振っている者もいて、さながらコンサートのようだった。
マイクを握った教師たちはバンドの演奏に合わせて歌っている。三人で歌っていることと大歓声で、残念ながらコウの歌声を聴き分けることはできなかった。
そんな彼はファンサを欠かさなかった。時折、客席に向かって手を振る。その度に歓声で講堂が揺れる錯覚に陥った。
(コウちゃん……先生)
そっと手を振り返したらコウと目が合った気がした。その瞬間に神崎の指笛が空気を切り裂いた。
見上げたコウの横顔はいつも以上に綺麗で、それだけでもいい収穫だと思えた。勝手にスマホを向けるのははばかれるので、彼の姿を心に焼き付けた。
途中、日本史の教師が生徒によってステージからひきずり下ろされ、一緒に観客になっていた。それを見て教師も生徒も笑っていた。もちろんコウも。スポットライトに照らされた明るい笑顔は、見たことない少年時代の彼を彷彿とさせた。
ステージ発表が終わると文化祭はお開きだ。教室に戻るよう、校内放送が流れている。
薫子も人の波に紛れて教室に戻ろうとした。が、突然後ろから押されてつんのめってしまった。
「わっ!?」
「ごめんなさい!」
後ろから謝る声が聞こえた。しかし、それに答えることはできなかった。急に手を引かれて講堂へ引き戻されたからだ。
「大丈夫?」
コウだ。薫子が転びそうになったのを救ってくれたらしい。彼はジャケットを脱いで手に持っていた。
「ありがとうございます……」
掴まれた手から彼の体温が伝わってくる。心臓がどくんと跳ねると、コウが慌てて離した。
「とは言え他にやり方あったよね、ごめん」
きまり悪そうな彼に弁解したい。首を振ろうとしたら再び指笛が響いた。がらんとした講堂に勢いよく響く。
「神崎君!」
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神崎がゆっくりと歩いてきた。片頬を上げた彼はいつものスーツ姿でギターケースを背負い、首には一眼レフを提げていた。
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「私、ですか?」
願ってもないチャンスがきた。
高校のパンフレットやアルバム、ホームページ用に写真を撮影しているところは見たことはあるが、こうしてわざわざ声をかけられたことはない。
彼はカメラのキャップを外し、電源を入れながら首をかしげた。
「外部向けに先生と生徒との写真がほしいわけよ。でもちょうど皆帰っちゃっただろ? 顔は隠すし、よかったら頼まれてくれないか」
「いいですよ。……ちなみに私のスマホでも撮ってもらっていいですか」
「「え??」」
二人にとって意外過ぎる言葉だっただろうか。教師二人は素っ頓狂な声を上げ、顔を見合わせた。そして神崎は見たことないとびきりの笑顔を浮かべた。
「お安い御用だ! 何枚でも撮ってやるよ!」
彼は”おら並んだ並んだ”とレンズを支え、手を振って二人を寄せた。
薫子はおずおずとコウに近づき、ぎこちなくピースをする。コウはジャケットを羽織ると、わずかにかがんで彼女と同じポーズを撮った。静かになった講堂にシャッターを切る音が響く。
「……俺でいいの? 中井先生とかじゃなくて」
フラッシュを浴びながらコウが口を開く。薫子が横を向くと神崎が、”ここは冗談でも俺の名前挙げろよ”と半目になった。
「小野寺先生との写真、記念に欲しいです」
コウが目を見開いた。その反応に全身から汗が吹き出す。
もしかしたらコウは嫌かもしれない、というのを少しも疑ってなかった。他の生徒より親しいかもしれない、というのは自分の思い違いかもしれないのに。
「おーい、そろそろ教室に戻りなさいよ」
「大先生!? すみません!」
彼の返事が怖くて前言撤回しようとしたら、緒方の声がステージから聞こえた。いつの間に現れたのだろう。三人同時に肩を跳ね上げた。神崎は勢いでシャッターを切ってしまったようだ。
「カオちゃんスマホ! はよ」
神崎にそう呼ばれたのは初めてだ。まるで以前から呼び慣れているような口ぶりだった。
それについて深く考えることはせず、言われるがままパーカーのポケットの手を突っ込んだ。
「コウちゃん……」
「ありがとう、神崎君」
「あ? 広報ってのは本当だからな? それよりもさぁ……」
文化祭が終わり、それに伴う片付けや掃除も完了。いつもより遅くに帰路についたコウと神崎は、真っ暗な道を歩いていた。
「カオちゃん脈ありじゃねぇか?」
「俺もちょっと期待しちゃったんだけど……」
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※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
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